ブロッキング騒動とはなんだったのか?
トランプ大統領のツイッターアカウントが永久BANされたというニュースが飛び込んでいた。ざっとみたところ、ネット世論ではわりと肯定的な意見も多いようだ。予想通りではあるが、残念ながら、世の中は言論のブロッキングは許容する方向に進んでいる。
漫画村の急激な拡大にはじまる海賊版サイトのブロッキングの大騒動から、もう、3年ほどたった。
多少はネットのみなさんも冷静な議論はできる・・・とはまったく思えないが、あらためてアリバイ活動の一環として、ぼくの主張をぼく自身の手によって書き留めておこうと思う。
3年前も最初に書いた、そしてみんなにはあまり注目してもらえなかった点だが、今後、ネットでの言論の自由を守るために重要なのは日本における「通信の秘密」を守ることではなく、ネット上の巨大プラットフォームをどうやって規制するか、ということだ。そっちが社会問題としては、はるかに大きなテーマだ。
「通信の秘密」というのは、もうちょっと分かりやすく正確に言い換えると、「通信の秘密という自然言語でのアナログ通信での概念を、(自然言語ではなく)機械にしか解釈できないものも含めたデジタル通信にも拡大解釈したもの」ということだろう。
もちろん、その拡大解釈にはそれなりの理由も議論の歴史もあるのだけれども、結果としては、海賊版サイトへのアクセスをブロッキングすると言論の自由が侵害されるという、よく分からない結論の根拠になっている。
どろぼうしても国を含めて第三者が罰するのは不当だと主張することも、ネットでは海賊版コンテンツでも自由にアクセスできるべきだと主張することも、言論の自由の範囲内では当然あるべきだろうが、実際にどろぼうしたり、海賊版コンテンツをダウンロードしたりしたら罰せられてもしょうがないだろう。
ところが、3年前は違法行為を取り締まることすら、「通信の秘密(の拡大解釈)」を守るためにはやってはいけない、という意見が溢れた。
その理由は、アリの一穴のように少しでも通信の秘密という大原則が破られると、ネットの自由が侵され、言論の自由がなくなり、中国のようなネット上の監視社会となるということらしい。
はっきりいって、それは宗教のようなもので想像力豊かですね、という感想になるが、それでも褒める点を無理矢理さがすとすれば、言論の自由だったり、ネットの自由をそれほどまでにして守ろうとしている気概は素晴らしいですね、ということに尽きるだろう。
そういうひとたちの多くが、今回のトランプ大統領の言論の自由に対するネットのプラットフォームによるブロッキングには賛成をしているようだから、人間というものは面白い。
守るべき「ネットの自由」があるとすればなにか?それは自分の意見を自由に発言すること、そしてだれかに強制されずに自分の意志で自由に行動できることだろう。このどちらもが、いま、目に見える形で危機に瀕している。
海賊版サイトをブロッキングすると、ぐるぐるまわりまわってネットで言論の自由がなくなったりすべてを監視社会になると想像できるひとが、なぜ、一国のトップであるトランプ大統領が自分の意見をいえなくなることをネットのプラットフォームを牛耳っている企業が束になっておこなっているのをみて、自分たちもそうなるかもしれないと想像できないのか?
当然、大統領の意見だってネットのプラットフォームの決めたルールに従わなければいけないのであれば、1ユーザーのあなただって同じだというのに。想像力を羽ばたかせる必要もないぐらいの当然の帰結だ。
5年前に岩波から出版した本にも書いたことだが、現代のグローバル社会においては、ローカル国家にとっての多国籍企業は、中世の荘園領主に例えられるだろう。中世の国家が、自分たちの支配が及ばない荘園の拡大につれて衰退したように、現代のローカル国家は、治外法権となっているネットのグローバルプラットフォームたちの支配力が増せば増すほど、ネットがリアル社会に占める割合が増えれば増えるほど、衰退する運命にある。
従って、国家権力とグローバルプラットフォームは必然的に競合関係にある。どちらが勝つかは共産主義国家においては明白だ。いずれ国家が自国のプラットフォームは接収し、国家がネットのプラットフォームを支配するかたちで一体化する。
民主主義国家の場合はどうか?国営化という可能性もあるが、逆にネットのプラットフォームが国家を飲み込みシナリオもありうる。そのための鍵となるのは、ネットのプラットフォームが世論操作をできる力を手に入れるかどうかだ。
民主主義とは国民の意見を反映させるための政体ではない。なぜなら個人個人の意見というのは、ひとりひとりの個人に与えられる情報で確率的に予測が可能であり、情報をコントロールすることで世論も選挙も結果が決まるからだ。
だから、民主主義とはある程度均質化した国民をつくれば、あとは情報を操作できる人間が支配できるという政体といえる。だから、メディアは第4の権力といわれるわけだが、ただ、従来のマスメディアはそれでも情報の一部をコントロールしていたにすぎない。一般的な人間の生活においては、よっぽどテレビと新聞が好きな人間であっても、口コミを代表とするマスメディアの外側にある情報に接している時間のほうが1日の中で長かったからだ。
ネットのプラットフォームは、この点で人間の情報をさらにコントロールできる能力をもつ。およそ1日に人間がやるコミュニケーションの大半をネットは補足し、コントロールできる能力を潜在的に持っている。
ネットのプラットフォームがメディア化することを完全に許されるのであれば、民主主義とは、ほぼ完全にメディアを支配するひとたちが世界を寡占するシステムとなるだろう。
いったいどういう理由でトランプ大統領の発言を封殺してもいいなんてことになるのか?トランプ大統領のいっていることが気に入らないから?そんなのは論外だろう。トランプ大統領はフェイクニュースを流して世の中を混乱させているから?それをだれが判断するのか?ネットのプラットフォームが判断していいなら、それはプラットフォームに情報コントロールする権限を認めるということだ。だいたいトランプぐらいになれば、フェイクニュースを流したんだとしても、そのことも含めて重要なニュースじゃないのか?
トランプは民主主義を破壊したという非難もある。トランプはなにかのルール違反を侵していて、無茶苦茶やっているということだ。それが無茶苦茶であると、みんなが信じている根拠はなにかというと、それは結局メディアが流している情報にもとづいて世の中の常識になっていることを基準にすると、無茶苦茶であるというにすぎない。実際、無茶苦茶かもしれないが、民主主義において、無茶苦茶な行動を否定するということはどういう意味を持つか?それはメディアによって流されている情報に対して適切な反応以外は許さないということでもある。
民主主義といいながらも、結局は予測できる大衆として振る舞え、それ以外は認めないということだ。
そういう世界のリーダーは自由な個人ではなく、たんなるアルゴリズムとして振る舞うことを要求されるということだろう。将来的にはAIがやったほうがいい、ということになる。
トランプ大統領の登場に、ぼくは安心したことがある。どうやら、まだ、ぼくたちの住む世界の一番偉いひとはアルゴリズムではなく、人間だということだ。習近平もプーチンも、まだまだ人間のリーダーは、人間らしく振る舞っている。
しかし、ひょっとすると最後の人間のあがきなのかもしれない。オバマとかはかなりアルゴリズムに近かった。正論を語るひとというのは、アルゴリズムになるということだ。語ることが予測できるということでもある。
予測できないことをやるトランプ大統領を異分子として排除が許される世界は、同じように、予測できない異分子を排除するだろう。情報をコントロールして、ビッグデータで予測可能な人間だけが住む世界、それがグローバルプラットフォームがメディアとして支配する世界における民主主義の終着駅になる。
そういう世界では人々が正しい判断力をもっているか否かはあまり関係ない。個人の反応が予測できることだけが重要だからだ。個人の反応が予測さえできれば、その反応を生みだした個人の判断が正しいか間違っているかに関係なく、メディアが望む結果になる方向に情報をコントロールすればいいからだ。
ちなみに海賊版サイトのブロッキングにあれだけ日本のネットは反対したのに、なぜ、トランプの言論の封殺に対しての反対がそんなに強くないのか?というのも民主主義のシステムで説明できる。反対だという情報を組織的にメディアに流そうという勢力がいないからだ。通信の秘密という宗教的な大教義を変えるのが許せないひとたちがいないからだ。
理屈で考えれば、トランプの件のほうがよっぽどネットの自由の大危機だ。いま、住んでいる社会の危機でもある。
じゃあ、どうすればいいのか?
これについては、よく妻とも喧嘩になるのだが、勝手にみなさんで考えて欲しい。ぼくの知ったことではない。
ぼくは政府の立場ではこうだろう。コンテンツホルダーの立場ではこうだろう、ネットの自由を守りたいひとの立場ではこうだろうということを考えた理屈を書いているだけで、ぼくの興味はそこまでだ。そして主張していることとやっていることが、全然、間違っているひとたちを目にすると、下手くそさに腹が立つだけだ。
あなたが本当にネットの自由を守りたいなら、いまが戦う時だろう。
ぼくは人類の未来に興味がある。この人類最後かもしれない歴史の転換点になにがあるのかを見届けたい。とだけ思っている。
これからの歴史の中でローカル国家がグローバルプラットフォームに駆逐されようが、生き残ろうがどっちだってかまわないが、どっちかは過程もふくめて知りたい。
ただ、自分やまわりの人間が不幸になるのはいやなので、多少、希望も述べさせてもらうと、歴史を参考にすると革命とか政体が大きく変わるときに同時代の人間はたいてい不幸になる。フランス革命とか最悪だったし、近年でもアラブの春とか現地は悲惨なことになっている。なので、ぼくが生きている間はローカル国家にもまだまだ頑張って貰ったほうがいいかなぐらいに思っている。逆にグローバルプラットフォームが世界を統一するならできるだけさっさとやっていただきたい。
さて、これだけ書いても、ぼくのことをポジショントークだ。ブロッキングをまだ狙っているのだろうとかいいたいひとがいるだろう。
今回はぼくの利害関係ではなく、ネットユーザーとしての意見を書きたかったので、ブロッキングの話題に触れてはいるが個人名を出したブログではなく、ここで書くことにした。
それでも文句をいうひとのために、よく見かけるいくつかの視点からみたぼくの立場を整理しておきたい。
(1)ぼくがブロッキングの法制化が実現しなかったことを悔しがっていて、なんとかブロッキングを実現しようとしていると思いたがっているひとに対して。
まず、政府の知財まわりの有識者として委員に名前は残ってはいるものの、現時点では、もはやぼくは出版業界の利害を代表する立場ではなくなっていると、(少なくとも)ぼくは考えている。で、3年前のブロッキング騒動の時の立場はどうだったかというと、当時のコンテンツ業界にとっては、ブロッキング法制化の議論がはじまる時点で問題となる大手海賊版サイトが世論に注目されたことでびびって自主的に閉鎖をしたので、すでに万々歳状態。しかも当時の最大の悲願だった、いっこうに進まないリーチサイト規制の法制化が一挙に具体化し、しかも予定外のダウンロード違法化の対象に書籍も含めた全著作物が加わった(今月からやっとですが)ので完勝。
ブロッキングに関しては法制化まで本当にいけば大ラッキーだけど、総務省等がまったく協力する気配がないのでたぶん無理じゃないか、と思っていたのが、(ぼくも含めて)コンテンツ業界の大体の空気だったと思う。
ちなみにフィルタリングの議論が最近あがっているが、コンテンツ業界はなんでもいいから、海賊版対策をしてくれと要望しているだけでフィルタリングをしてくれといっているわけではない。自分たちがやりたいフィルタリングに誘導しようとしているのは総務省だ。ちなみにネットの自由を守る派のひとたちは、法制化によるブロッキングにくらべて、法律の改正なしに総務省の判断でいくらでも範囲を拡大できるフィルタリングのほうがよっぽど危険なのでがんばれ。でも、とにかく憲法守りたいだけ派は、ちゃんと(たぶん読まない)規約書に書いてあってユーザーの同意をとっているから憲法違反にはならないので安心してほしい。
(2)ぼくが中国型の監視ネット社会をつくりたくて発言しているんだと思いたい人へ
そもそもそんなのをつくってなんのメリットがぼくに??ぼくは以前から中国のネット規制は国家としては合理的だと書いている。正義であるといっているわけではない。
国家にとっては合理的、つまりはある種の得をする判断だといっているにすぎないわけだが、だからといって、そうするべきといっていると解釈するひとというのは、ようするに得なことはするべきであるという価値観をもっているひとだということだろう。
そういうひとの価値観はとても危険でむしろネットの自由の敵であるとすら、ぼくは思っている。そういうひとはいったんネットの自由が国家のたとえば国際競争力が低下するという事実があったのだとしたら、きっとネットの自由を規制する側にまわるのだろう。
自由とは得をするから選ぶ選択肢ではなく、たとえ損だとしても受け入れて手に入れるものではないのか?
(3)国家と癒着して政商でも目指しているのか?
だったら、もっと目立たないようにやる。政府じゃなくて民間企業のほうが信用できると思っているひとが多いが、それが本当だったら独占禁止法なんてものはいらない。民間企業の本質は利益を上げることだ。そして国家と違い国民を養う義務はない。儲けさせてくれるユーザーだけを相手にして構わないのが民間企業だ。さらには選挙とかでユーザーの意思による経営陣を決めるような仕組みはない。ちなみにアカウントBANや、コンテンツを削除する場合に説明責任もない。そう利用規約に書いてあり、あなたは承諾していることになっている。そういう民間企業のほうが政府よりも信頼できると本気で主張するひとがいるというのは悲しい社会でもあり、悲しいおつむでもある。
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というあたりで今回の記事を終わろうと思ったが、そうだ、最後にポジショントークという批判が大好きなみなさんに、本当のポジショントークを紹介する。
今回、独仏の大統領がトランプ大統領の発言を封殺したネット企業を批判した。これはポジショントークとしては極めて正しい。なぜなら、ローカル国家とグローバルプラットフォームの対決において、グローバルプラットフォームのメディア化による影響をもっとも受けるのが、米国以外のすべての国家、つまり覇権国ではないローカル国家だからだ。どの民主主義国家も海外メディアに自国が占拠されるのは望まない。民主主義国家が自国の世論を他国にコントロールされるのは最悪だからだ。ネットのグローバルプラットフォームがトランプ大統領を含めて言論を支配してもいいということになると、同じことは米国以外の国に対しても可能になるということだ。外国メディアの巨大な抜け道が突然国内に誕生することになる。
なので独仏の大統領がトランプ大統領の言論の封殺に(おそらくトランプ大統領自体は嫌いだったろうに)反対したということは、ローカル国家の行動としてはきわめて正しい。そしてポジショントーク=嘘という単純な連想をする馬鹿が多いが、ポジショントークだということと言っていることが正しいかどうかはまったく関係がない。独仏大統領の発言はポジショントークとしても正しいし、内容もまったく真っ当な主張だ。そして短期間に国のトップがこの発言をする判断を下せたということに、独仏の知識層のレベルの高さ、層の厚さを感じる。日本においては国家が治外法権のネットに国権を取り戻せるチャンスが3年前に突然来たのに、おそらくは自称愛国者たち?が、よってたかって潰したのとえらい違いだ。
まあ、でも、どちらでもいい。とりあえず3年前も5年前も、そして今日も、ぼくは書いたというところまでが、ぼくのやりたいことだ。