罪を犯した人間をどこまで許すべきか

 最近、起こったいくつかの事件について思うところを書く。ひとつはHagexさんが亡くなられた事件。もうひとつは、松本智津夫の死刑執行の件。そして結愛ちゃんが亡くなった事件だ。

 

 最初のふたつの事件には共通項がある。それは加害者である、いわゆる「低脳先生」こと松本英光容疑者にしろ、麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚にしろ、彼らの行動に弁護の余地がほとんどないことだ。

 そして、両事件とも被害者には、ほとんど落ち度がなく、理不尽な犠牲者でしかなかった。殺された被害者のまわりに残された人たちの悲しさ、悔しさは、どれほどなのかを考えると、胸が苦しくなる。

 

 このふたつの出来事のあと、ネットでいろいろ議論が起こった。ぼくも若干巻き込まれた。

 

 簡単にいうと、「松本英光」にしても「松本智津夫」にしても、彼らが凶行に及んだことには理由があるという指摘がいくつか現れたことと、それに対する大反発である。

 

 「低脳先生」については、彼は正義の名の下にネットから、集団いじめに遭っていたという指摘である。彼は実際に恨みから殺人まで犯したわけだから、少なくとも彼本人の主観の上ではそうだったのは間違いない。しかし、この事実をどう受け止めるからでネットの意見は大きく割れた。

 

 ひとつは悪いのは「低脳先生」だけで、それ以外はまったく悪くないという主張。もうひとつは正義の名の下にいくらでも他人を攻撃してもいいというネットの風潮がそもそもの事件の原因だとする派だ。興味深いのはネットで前者の主張をするひとは概して攻撃的であり、そうでないひとの存在そのものを否定する行動をおこなったことだ。

 

 似たような現象は松本智津夫の死刑執行のときにもあり、朝日新聞の丹治吉順記者がツイートで、松本智津夫が過去に虐待をされていたなどの過去があったことが、その後の事件の背景にあることを書いた。そして、そのツイートには猛烈に反発するコメントが集まった。そのようなツイートをした記者への人格攻撃にはじまり、虐待の事実そのものへの疑念、あるいはそれを事件に関連づけることを否定するものが多く見られた。

 

 あれほどの理不尽な凶行をおこなった「低脳先生」と「麻原彰晃」の過去になんらかの原因があるとするのはむしろ自然だが、そのことを認めることを拒否するひとたちが大量に発生した。

 

 なぜか。

 

 どんな理由があろうが、ふたりの殺人が免罪されること、同情されること、なんて絶対に許されないという気持ちからだろう。たとえ過去にいじめや虐待があったとしてもだ。

 

 だとしても、いじめや虐待があったという事実そのものまで否定しなければいけないのはなぜか。それはもちろん、一般的には過去にいじめや虐待があったということは、同情の対象となってしかるべきという、社会的通念が存在しているからだ。でも、絶対に許したくない。

 

 この矛盾が解決できなくて、ネットの議論は無駄に加熱した。

 

 しかし社会のルールということで考えた場合は、どんな過去があろうとも、罪を犯した二人とも許されるべきではない。つらい過去は原因の説明にはなっても、言い訳にはならない。罪に対して罰することで、罪を犯してはならないという社会のルールが維持されるからだ。過去の原因が言い訳、そして免罪符になるのだとしたら、全部が環境のせいにできて、人間に罪なんてものはなにもなくなる。

 公の場で擁護することですら、社会のルールを乱す行為として糾弾されてもしょうがないことだろう。やっていけないことはやっていけないのだ。

 

 だが、社会のルールとしても、なぜ罪を犯すひとが生まれたのか。その原因を探ることなしには、類似の事件は今後も防げないということはいえるだろう。それについては議論すべきであるが、それが罪を犯したひとへの免罪符になってはいけないということだと思う。

 

 じゃあ、一方で罪を犯した人間の気持ちによりそうことは社会のルールとして許されないのか、同情したり共感したりする気持ちを持ってはいけないのかということを問いたい。

 

 ぼくはこれは社会のルールとしては、宗教だったり、小説やドラマとかの物語がテーマとすべき問題であり、究極的には個人の心のありかたについての問題だと思う。ようするに、ひとそれぞれでいいということだ。

 

 結愛ちゃんがなくなった事件でぼくが思ったことがある。おそらくは、ぼく以外にも全国で何人のひとが思わず考えてしまったことだ。どうして自分になにもできなかったのか。時計の針をもどせるなら、親を叱り飛ばして目を覚まさせたい、なんなら自分が引き取って育てたい。そんないまさら思ってもしょうがない妄想を思わずしてしまうぐらいに悲しい事件だった。

 

 少し冷静になって考えた。たぶん結愛ちゃんみたいな境遇の子どもはたくさんいる。ぼく個人では救えないぐらいにたくさんいる。その中には同様に亡くなった子どももいれば、死なずには済んでそのまま大きくなる子どもいるだろう。いや、さすがに死にはしないで大きくなる子どものほうが数は多いに決まっている。

 

 そういう子どもたちはどんな大人になるか。多くは性格が悪いんじゃないだろうか。そして、性格が悪いのは、彼らの責任なのだろうか。ぼくが人生の中で当然のように攻撃し、罵ってきた相手の中に、未来の結愛ちゃんがいたんじゃないだろうか。いや、なにかしらの意味で全員がそうなんじゃないだろうか。

 

 ぼくは、とどのつまり、すべての人間には罪はなく、許されるべきだと思っている。正義の名の下に人間に他人を見下す資格なんて本当はない。たんに社会のルールとして罪は裁かれるべきものだと思う。

 

 じゃあ、正義をふりかざすとはなにか、というと、しょせんは自己満足であり、リスクを負うという覚悟のもとにやる行為だと思う。いま、ぼくが書いているこの記事も同じだ。

 

 おそらくネットの多くは正義をふりかざすという行為を、安全な選択だと思ってやっている。それは幻想だ。正義をふりかざすという行為は、なにかしら自分とは違う他人になにかを強制しようとする攻撃であり、攻撃には常にリスクがともなう。だから賢いひとはなにも発言しない。

 

 リスクをとってまで他人を攻撃するのはなぜか。それは底流には相手に対する共感と、相手をよりよく変えたいという願望(まったくの余計なお世話!)がなければならないんじゃないかと思っている。

 

 Hagexさんのことはなにもしらない。だから、ぼくのまったくの無責任な想像だが、Hagexさんはだれもが無視していた「低脳先生」の相手をしてあげてたつもりだったんじゃないかと思う。低脳先生に自分のしているは間違っていることを分からせてあげたいという気持ちがあったんじゃなかったか。そして逆恨みをされた。

 

 リスクをとったという意味で賢くはなかった行動かもしれませんが、ぼくは立派だったと思います。

 

 Hagexさん、結愛ちゃんをはじめ、今回の記事で言及した事件において、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。