本日、勝訴した山本一郎氏との裁判について
本日、東京地裁において山本一郎氏から訴えられていた裁判の判決があり、無事、私が全面的に勝訴しました。
山本一郎氏との裁判は、そもそも私が情報法制研究所に対して、山本一郎氏のような他人に誹謗中傷をし、常習的に嘘をつく人間を、ネットの世論誘導のために上席研究員にしていることについて抗議をおこなったことがきっかけです。
この抗議に回答をしたくないために山本一郎氏が起こしたのが、本日、判決が下りた裁判であり、山本一郎氏との一連の訴訟はすべてここから始まりました。
情報法制研究所は山本一郎氏の言動は個人的なことであるとして関わりを否定している一方、今回の裁判においても補助参加という形で山本一郎氏側に加わっています。
私は山本一郎氏のような人物は好ましいとは思っていませんが、彼のような人間にも言論の自由はあり、存在を否定してはいけないとも思っています。
しかしながら、情報法制研究所のような政府の政策にも関与する団体が、山本一郎氏のような人物を利用してネットの世論誘導をおこなうようなことは決して許されるべきではないと考えます。
本日の裁判の勝訴を受けて、情報法制研究所には山本一郎氏をネット言論誘導における武力的存在として利用していることについて、あらためて抗議をしていく予定です。
ブロッキング騒動とはなんだったのか?
トランプ大統領のツイッターアカウントが永久BANされたというニュースが飛び込んでいた。ざっとみたところ、ネット世論ではわりと肯定的な意見も多いようだ。予想通りではあるが、残念ながら、世の中は言論のブロッキングは許容する方向に進んでいる。
漫画村の急激な拡大にはじまる海賊版サイトのブロッキングの大騒動から、もう、3年ほどたった。
多少はネットのみなさんも冷静な議論はできる・・・とはまったく思えないが、あらためてアリバイ活動の一環として、ぼくの主張をぼく自身の手によって書き留めておこうと思う。
3年前も最初に書いた、そしてみんなにはあまり注目してもらえなかった点だが、今後、ネットでの言論の自由を守るために重要なのは日本における「通信の秘密」を守ることではなく、ネット上の巨大プラットフォームをどうやって規制するか、ということだ。そっちが社会問題としては、はるかに大きなテーマだ。
「通信の秘密」というのは、もうちょっと分かりやすく正確に言い換えると、「通信の秘密という自然言語でのアナログ通信での概念を、(自然言語ではなく)機械にしか解釈できないものも含めたデジタル通信にも拡大解釈したもの」ということだろう。
もちろん、その拡大解釈にはそれなりの理由も議論の歴史もあるのだけれども、結果としては、海賊版サイトへのアクセスをブロッキングすると言論の自由が侵害されるという、よく分からない結論の根拠になっている。
どろぼうしても国を含めて第三者が罰するのは不当だと主張することも、ネットでは海賊版コンテンツでも自由にアクセスできるべきだと主張することも、言論の自由の範囲内では当然あるべきだろうが、実際にどろぼうしたり、海賊版コンテンツをダウンロードしたりしたら罰せられてもしょうがないだろう。
ところが、3年前は違法行為を取り締まることすら、「通信の秘密(の拡大解釈)」を守るためにはやってはいけない、という意見が溢れた。
その理由は、アリの一穴のように少しでも通信の秘密という大原則が破られると、ネットの自由が侵され、言論の自由がなくなり、中国のようなネット上の監視社会となるということらしい。
はっきりいって、それは宗教のようなもので想像力豊かですね、という感想になるが、それでも褒める点を無理矢理さがすとすれば、言論の自由だったり、ネットの自由をそれほどまでにして守ろうとしている気概は素晴らしいですね、ということに尽きるだろう。
そういうひとたちの多くが、今回のトランプ大統領の言論の自由に対するネットのプラットフォームによるブロッキングには賛成をしているようだから、人間というものは面白い。
守るべき「ネットの自由」があるとすればなにか?それは自分の意見を自由に発言すること、そしてだれかに強制されずに自分の意志で自由に行動できることだろう。このどちらもが、いま、目に見える形で危機に瀕している。
海賊版サイトをブロッキングすると、ぐるぐるまわりまわってネットで言論の自由がなくなったりすべてを監視社会になると想像できるひとが、なぜ、一国のトップであるトランプ大統領が自分の意見をいえなくなることをネットのプラットフォームを牛耳っている企業が束になっておこなっているのをみて、自分たちもそうなるかもしれないと想像できないのか?
当然、大統領の意見だってネットのプラットフォームの決めたルールに従わなければいけないのであれば、1ユーザーのあなただって同じだというのに。想像力を羽ばたかせる必要もないぐらいの当然の帰結だ。
5年前に岩波から出版した本にも書いたことだが、現代のグローバル社会においては、ローカル国家にとっての多国籍企業は、中世の荘園領主に例えられるだろう。中世の国家が、自分たちの支配が及ばない荘園の拡大につれて衰退したように、現代のローカル国家は、治外法権となっているネットのグローバルプラットフォームたちの支配力が増せば増すほど、ネットがリアル社会に占める割合が増えれば増えるほど、衰退する運命にある。
従って、国家権力とグローバルプラットフォームは必然的に競合関係にある。どちらが勝つかは共産主義国家においては明白だ。いずれ国家が自国のプラットフォームは接収し、国家がネットのプラットフォームを支配するかたちで一体化する。
民主主義国家の場合はどうか?国営化という可能性もあるが、逆にネットのプラットフォームが国家を飲み込みシナリオもありうる。そのための鍵となるのは、ネットのプラットフォームが世論操作をできる力を手に入れるかどうかだ。
民主主義とは国民の意見を反映させるための政体ではない。なぜなら個人個人の意見というのは、ひとりひとりの個人に与えられる情報で確率的に予測が可能であり、情報をコントロールすることで世論も選挙も結果が決まるからだ。
だから、民主主義とはある程度均質化した国民をつくれば、あとは情報を操作できる人間が支配できるという政体といえる。だから、メディアは第4の権力といわれるわけだが、ただ、従来のマスメディアはそれでも情報の一部をコントロールしていたにすぎない。一般的な人間の生活においては、よっぽどテレビと新聞が好きな人間であっても、口コミを代表とするマスメディアの外側にある情報に接している時間のほうが1日の中で長かったからだ。
ネットのプラットフォームは、この点で人間の情報をさらにコントロールできる能力をもつ。およそ1日に人間がやるコミュニケーションの大半をネットは補足し、コントロールできる能力を潜在的に持っている。
ネットのプラットフォームがメディア化することを完全に許されるのであれば、民主主義とは、ほぼ完全にメディアを支配するひとたちが世界を寡占するシステムとなるだろう。
いったいどういう理由でトランプ大統領の発言を封殺してもいいなんてことになるのか?トランプ大統領のいっていることが気に入らないから?そんなのは論外だろう。トランプ大統領はフェイクニュースを流して世の中を混乱させているから?それをだれが判断するのか?ネットのプラットフォームが判断していいなら、それはプラットフォームに情報コントロールする権限を認めるということだ。だいたいトランプぐらいになれば、フェイクニュースを流したんだとしても、そのことも含めて重要なニュースじゃないのか?
トランプは民主主義を破壊したという非難もある。トランプはなにかのルール違反を侵していて、無茶苦茶やっているということだ。それが無茶苦茶であると、みんなが信じている根拠はなにかというと、それは結局メディアが流している情報にもとづいて世の中の常識になっていることを基準にすると、無茶苦茶であるというにすぎない。実際、無茶苦茶かもしれないが、民主主義において、無茶苦茶な行動を否定するということはどういう意味を持つか?それはメディアによって流されている情報に対して適切な反応以外は許さないということでもある。
民主主義といいながらも、結局は予測できる大衆として振る舞え、それ以外は認めないということだ。
そういう世界のリーダーは自由な個人ではなく、たんなるアルゴリズムとして振る舞うことを要求されるということだろう。将来的にはAIがやったほうがいい、ということになる。
トランプ大統領の登場に、ぼくは安心したことがある。どうやら、まだ、ぼくたちの住む世界の一番偉いひとはアルゴリズムではなく、人間だということだ。習近平もプーチンも、まだまだ人間のリーダーは、人間らしく振る舞っている。
しかし、ひょっとすると最後の人間のあがきなのかもしれない。オバマとかはかなりアルゴリズムに近かった。正論を語るひとというのは、アルゴリズムになるということだ。語ることが予測できるということでもある。
予測できないことをやるトランプ大統領を異分子として排除が許される世界は、同じように、予測できない異分子を排除するだろう。情報をコントロールして、ビッグデータで予測可能な人間だけが住む世界、それがグローバルプラットフォームがメディアとして支配する世界における民主主義の終着駅になる。
そういう世界では人々が正しい判断力をもっているか否かはあまり関係ない。個人の反応が予測できることだけが重要だからだ。個人の反応が予測さえできれば、その反応を生みだした個人の判断が正しいか間違っているかに関係なく、メディアが望む結果になる方向に情報をコントロールすればいいからだ。
ちなみに海賊版サイトのブロッキングにあれだけ日本のネットは反対したのに、なぜ、トランプの言論の封殺に対しての反対がそんなに強くないのか?というのも民主主義のシステムで説明できる。反対だという情報を組織的にメディアに流そうという勢力がいないからだ。通信の秘密という宗教的な大教義を変えるのが許せないひとたちがいないからだ。
理屈で考えれば、トランプの件のほうがよっぽどネットの自由の大危機だ。いま、住んでいる社会の危機でもある。
じゃあ、どうすればいいのか?
これについては、よく妻とも喧嘩になるのだが、勝手にみなさんで考えて欲しい。ぼくの知ったことではない。
ぼくは政府の立場ではこうだろう。コンテンツホルダーの立場ではこうだろう、ネットの自由を守りたいひとの立場ではこうだろうということを考えた理屈を書いているだけで、ぼくの興味はそこまでだ。そして主張していることとやっていることが、全然、間違っているひとたちを目にすると、下手くそさに腹が立つだけだ。
あなたが本当にネットの自由を守りたいなら、いまが戦う時だろう。
ぼくは人類の未来に興味がある。この人類最後かもしれない歴史の転換点になにがあるのかを見届けたい。とだけ思っている。
これからの歴史の中でローカル国家がグローバルプラットフォームに駆逐されようが、生き残ろうがどっちだってかまわないが、どっちかは過程もふくめて知りたい。
ただ、自分やまわりの人間が不幸になるのはいやなので、多少、希望も述べさせてもらうと、歴史を参考にすると革命とか政体が大きく変わるときに同時代の人間はたいてい不幸になる。フランス革命とか最悪だったし、近年でもアラブの春とか現地は悲惨なことになっている。なので、ぼくが生きている間はローカル国家にもまだまだ頑張って貰ったほうがいいかなぐらいに思っている。逆にグローバルプラットフォームが世界を統一するならできるだけさっさとやっていただきたい。
さて、これだけ書いても、ぼくのことをポジショントークだ。ブロッキングをまだ狙っているのだろうとかいいたいひとがいるだろう。
今回はぼくの利害関係ではなく、ネットユーザーとしての意見を書きたかったので、ブロッキングの話題に触れてはいるが個人名を出したブログではなく、ここで書くことにした。
それでも文句をいうひとのために、よく見かけるいくつかの視点からみたぼくの立場を整理しておきたい。
(1)ぼくがブロッキングの法制化が実現しなかったことを悔しがっていて、なんとかブロッキングを実現しようとしていると思いたがっているひとに対して。
まず、政府の知財まわりの有識者として委員に名前は残ってはいるものの、現時点では、もはやぼくは出版業界の利害を代表する立場ではなくなっていると、(少なくとも)ぼくは考えている。で、3年前のブロッキング騒動の時の立場はどうだったかというと、当時のコンテンツ業界にとっては、ブロッキング法制化の議論がはじまる時点で問題となる大手海賊版サイトが世論に注目されたことでびびって自主的に閉鎖をしたので、すでに万々歳状態。しかも当時の最大の悲願だった、いっこうに進まないリーチサイト規制の法制化が一挙に具体化し、しかも予定外のダウンロード違法化の対象に書籍も含めた全著作物が加わった(今月からやっとですが)ので完勝。
ブロッキングに関しては法制化まで本当にいけば大ラッキーだけど、総務省等がまったく協力する気配がないのでたぶん無理じゃないか、と思っていたのが、(ぼくも含めて)コンテンツ業界の大体の空気だったと思う。
ちなみにフィルタリングの議論が最近あがっているが、コンテンツ業界はなんでもいいから、海賊版対策をしてくれと要望しているだけでフィルタリングをしてくれといっているわけではない。自分たちがやりたいフィルタリングに誘導しようとしているのは総務省だ。ちなみにネットの自由を守る派のひとたちは、法制化によるブロッキングにくらべて、法律の改正なしに総務省の判断でいくらでも範囲を拡大できるフィルタリングのほうがよっぽど危険なのでがんばれ。でも、とにかく憲法守りたいだけ派は、ちゃんと(たぶん読まない)規約書に書いてあってユーザーの同意をとっているから憲法違反にはならないので安心してほしい。
(2)ぼくが中国型の監視ネット社会をつくりたくて発言しているんだと思いたい人へ
そもそもそんなのをつくってなんのメリットがぼくに??ぼくは以前から中国のネット規制は国家としては合理的だと書いている。正義であるといっているわけではない。
国家にとっては合理的、つまりはある種の得をする判断だといっているにすぎないわけだが、だからといって、そうするべきといっていると解釈するひとというのは、ようするに得なことはするべきであるという価値観をもっているひとだということだろう。
そういうひとの価値観はとても危険でむしろネットの自由の敵であるとすら、ぼくは思っている。そういうひとはいったんネットの自由が国家のたとえば国際競争力が低下するという事実があったのだとしたら、きっとネットの自由を規制する側にまわるのだろう。
自由とは得をするから選ぶ選択肢ではなく、たとえ損だとしても受け入れて手に入れるものではないのか?
(3)国家と癒着して政商でも目指しているのか?
だったら、もっと目立たないようにやる。政府じゃなくて民間企業のほうが信用できると思っているひとが多いが、それが本当だったら独占禁止法なんてものはいらない。民間企業の本質は利益を上げることだ。そして国家と違い国民を養う義務はない。儲けさせてくれるユーザーだけを相手にして構わないのが民間企業だ。さらには選挙とかでユーザーの意思による経営陣を決めるような仕組みはない。ちなみにアカウントBANや、コンテンツを削除する場合に説明責任もない。そう利用規約に書いてあり、あなたは承諾していることになっている。そういう民間企業のほうが政府よりも信頼できると本気で主張するひとがいるというのは悲しい社会でもあり、悲しいおつむでもある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というあたりで今回の記事を終わろうと思ったが、そうだ、最後にポジショントークという批判が大好きなみなさんに、本当のポジショントークを紹介する。
今回、独仏の大統領がトランプ大統領の発言を封殺したネット企業を批判した。これはポジショントークとしては極めて正しい。なぜなら、ローカル国家とグローバルプラットフォームの対決において、グローバルプラットフォームのメディア化による影響をもっとも受けるのが、米国以外のすべての国家、つまり覇権国ではないローカル国家だからだ。どの民主主義国家も海外メディアに自国が占拠されるのは望まない。民主主義国家が自国の世論を他国にコントロールされるのは最悪だからだ。ネットのグローバルプラットフォームがトランプ大統領を含めて言論を支配してもいいということになると、同じことは米国以外の国に対しても可能になるということだ。外国メディアの巨大な抜け道が突然国内に誕生することになる。
なので独仏の大統領がトランプ大統領の言論の封殺に(おそらくトランプ大統領自体は嫌いだったろうに)反対したということは、ローカル国家の行動としてはきわめて正しい。そしてポジショントーク=嘘という単純な連想をする馬鹿が多いが、ポジショントークだということと言っていることが正しいかどうかはまったく関係がない。独仏大統領の発言はポジショントークとしても正しいし、内容もまったく真っ当な主張だ。そして短期間に国のトップがこの発言をする判断を下せたということに、独仏の知識層のレベルの高さ、層の厚さを感じる。日本においては国家が治外法権のネットに国権を取り戻せるチャンスが3年前に突然来たのに、おそらくは自称愛国者たち?が、よってたかって潰したのとえらい違いだ。
まあ、でも、どちらでもいい。とりあえず3年前も5年前も、そして今日も、ぼくは書いたというところまでが、ぼくのやりたいことだ。
業界人のための次世代ゲーム機ファーストインプレッション
最初にことわっておきますが、この記事はタイトルに「業界人のための」と書いてありますが、専門的で高度な内容はまったく含んでいません。業界向けの記事ではなく、業界人向けの記事です。
ゲーム業界じゃなくても、PS5のような時代の節目となるような新製品については、とりあえずちゃんと情報押さえてますよ、というスタンスで振る舞いたいという”業界”はたくさんあると思います。
この厳しいデジタル社会をサバイブするためには、PS5を買わなくても、もしくは買ってるけどやる時間なんかなくても、なにかもっともらしいことを語れることが必要とされます。そして、もっともらしいことを、まわりのだれよりも、いちはやく語ることが大切です。
私は、幸いなことにamazonとかオンラインショップの予約はすべて乗り遅れましたが、公式ページでの予約抽選には当選しましたので、昨日届きました。ざっと触ってみた結果、業界人としては、だいたいこんなことを言っていれば、いいんじゃないか、ということで感想をまとめてみました。ひとつの参考になれば幸いです。
そもそも業界人はPS5について、なにを語るべきか?
忙しい業界人としては、具体的なゲームの中身に踏み込んだ発言は控えるべきです。ろくに遊んでないことがばれてしまいます。ひまな学生ゲーマーよりも意味あることをゲームについて語るのは難易度が高いし、そもそも本記事はPS5を本当は触ってないひとが、うんちくを語ることを目的としています。
あたかも本当に触ったひとしか語れないような、簡単なことはなにか?
(1)「デカさ」について
最初は人間の五感にうったえかけるものでしょう。
そうすると、今回のPS5で最初に言及すべきポイントは、「デカさ」です。本当にでかい。ここを押さえないと、本当に持っているのかよと疑われるぐらいにインパクトのある特徴です。
といってもデカいことは前評判でも話題になっていましたから、ここでは実感のこもっている表現として成立しそうなものを以下に列挙したいと思います。
・ ゲーム機と比較する表現。
「初代プレイステーションを横に2台並べて、そのうえにさらに2台重ねたぐらいの大きさ」
「初代XBOXよりもでかいんじゃないか」
↑正確さという意味では少しオーバーな部分がありますが、購入者の実感をこめた表現ということでは、わりと的確に聞こえると思います。
・ PCと比較する表現
「ミニタワーPCよりは小さいけど。スリムPCとはいい勝負」
XBOXの参入以降、ゲーム機の内部のハードウェアのアーキテクチャーがPCと変わらなくなってきているという状況が実際にあります。
「だって、中身はほとんどPCと変わらないから、しょうがないよねえ」「PCと思ったらあれだけの性能で、あのサイズは小さいよね」みたいな会話をするとちゃんとそういう背景も押さえた会話に聞こえることでしょう。ちなみにNintendo Switchの中身はスマホとかなり似ています。
・ 家庭用AV機器と比較する表現
「BD付きHDD録画機とか、AVアンプと同じぐらい」←「もはや家庭用のAV機器のサイズだねえ」とかいうと、なんかゲーム機の家電化みたいな文脈を語ってるぽいかも。
(2) ○ボタンと×ボタンの意味が逆になったこと
おそらく日本のユーザーにとってのPS5の最大の特徴は、画質でもストレージの早さでもなく、これです。PS2もPS3もPS4も、とりあえず新機種の購入者は、「絵がちょー綺麗になった」とか言ってればよくて、実際にそれがもっとも強烈な印象に残るポイントだったと思いますが、PS5については違います。PS5の購入者の最大の共通体験は、(日本においてはですが)○ボタンと×ボタンが逆になって大混乱しちゃったよ、です。
これは背景を説明すると、日本のプレイステーションでは、なにかメニューに選択肢があったときに、決定ボタンが○で、キャンセルボタンが×になっていたのですが、もともと日本以外の海外のプレイステーションでは、その意味がずっと逆になっていたのを、PS5では日本も世界に合わせて統一したということです。
日本人的にはなんでやねん???と、さっぱり分かりませんが、海外では×のほうが押したくなるようなんですね。ぼくも大昔だれかに聞いたところによると、×というとたとえば銃での照準かなんかに見えるらしくって、撃つべし撃つべし撃つべし、というようなことらしいのです。逆に○は日本だと肯定的なイメージですが、海外では空白を意味する否定的なイメージがあるようです。
こういう○とか△とか×とかって、言語の壁を越えたシンボルみたいなイメージがありますが、そのシンボルのもつ意味が、じつは世界共通になっていなかったというのは面白いですね。「記号によるアフォーダンスが、国によって実は違っているってことなんだよ」とかいうと、ちょっとそれっぽく聞こえるんじゃないでしょうか。
とにかく、これは大変な苦痛で、最初のPS5の初期設定のときに警告してくれるのはとても親切なのですが、最初だけなので、2回目にPS5を起動するときに、ログインしようとして○ボタンを教えたら、PSボタンをおしてくださいというメッセージがでてPSボタンを押すと、また、ログイン画面がでてきて、以下、無限ループで、どうしてもログインすらできないという状況に昨日は陥って慌てました。たぶん、みんな1回はやると思います。
(3) 騒音がうるさい
PS4 Proも、やかんが沸騰したかのようなすごい音をたてます。事前の記事では、PS5ではデカイかわりにそこまでは騒音はうるさくなくて済んだというのを読んだ気がするのですが、ぜったいに嘘です。ひょっとすると測定するとPS4Proほどはでかくないという数値がでるのかもしれませんが、体感的には、まったく変わらないぐらいのけたたましいファンの音がします。しかも頻度が高い。基本、CPUとかGPUの処理が重くなると発熱してファンがまわるという構造のはずなんですが、PS5リメイク版のデモンズソウルを起動したら、最初のオープニングムービーがはじまって、すぐにファン音が最大になりました。なんでやねん。ムービー流しているだけだろ、と思いましたが、あ、ひょっとするとふつうのムービーじゃなくてリアルタイムレンダリングやってんのかな?
まあ、とにかくムービーみているときはひまだし、一応、ムービーで登場人物がしゃべっている台詞とか聞こうとするのですが、騒音がじゃましてうるさいです。
これまでのプレイステーションでは縦置きの場合用のスタンドが付属しました。PS5でもついているのですが、なんと横置きの場合でもスタンドを使えと説明賞に書いています。しかもPS5を横置きするときには、光ディスク付きバージョンの場合は光ディスクのせいで出っ張っている側を下にして置けとか直感に反することを書いています。それだと平におけないじゃん、となるわけですが、それをスタンドつけてなんとかするようです。
たぶん、そんなのがめんどくさくて直感通りに光ディスク側を上にして置いちゃうユーザー多いとおもうんですけど、PS5の騒音聞いていると、それだと熱暴走するリスクがあるのかもなと思いました。
(11/14追記)
※ 爆音ですが、そのあと再現しないので、ゲームを大量にダウンロード中にゲームを起動していたことが原因だったかもしれません。
(4) 画質についてなにを語るか
次世代機というとやはり画質がどれぐらいすごくなったかということが興味の対象です。これについては、まず、画質がすごくなったといいたいのか、それほどでもないよね、と言いたいのか、どっちのスタンスをとりたいのかを決めたほうがいいでしょう。
やっぱり、これまでみたいにPS5は画質すげえ、っっていいたいひとは、うんちくとして押さえておきたいポイントは3点です。4Kでゲームがぬるぬる動くようになったこと。リアルタイムレイトレーシングに対応できるようになった。8Kとか120fpsとかすげえけど表示できるテレビもってねえよ。この3つでしょう。
レイトレーシングだけ解説すると、これまでゲームのムービーは綺麗だけど、ゲームがはじまって操作できるようになると急に画質が落ちることはあったと思います。とくに出来のいいCGムービーは、まるで実写みたいにリアルに見えますが、実際のゲーム画面のCGが実写みたいにみえることはこれまではなかった。その質感の差を生みだす一番の大きなポイントは、レイトレーシングをやっているかどうかなのですが、大変に重い計算処理が必要なので、これまではリアルタイムでおこなうのが難しかったわけです。このリアルタイムレイトレーシングが、やっとゲーム機でできるようになったというのがPS5のCG進化の最大のポイントです。まあ、なんで、「まるで実写みたいにゲームができるなんて幸せ。しかも4K」とかなんとかを肯定派は言っていればいいです。
否定派がいうべきは、PS5とPS4って、画質の差ってそんなに分からないよね、とかですね。実際、AAAのゲームタイトルをやっても、そこまでの差はでない。4Kテレビ用プレイステーションとHDテレビ用プレイステーションぐらいの差だと思っても、そんなに違わないと思います。4Kテレビないと意味ないよねー。みたいなことをいうのも、それっぽいんじゃないでしょうか?
(5) 従来の機種との互換性について
業界人としては大所高所からPS5とはなにかということについて語りたいものです。ゲーム機の歴史の中でどう位置付けするか。そういうことでいうと、今回のゲーム機の世代交代の特徴は、前世代の機種とのシームレスな移行というのがもはや確立してしまったなということでしょう。
もともと任天堂がはじめたゲーム機の世代交代では、新しいゲーム機では新しい遊びの体験をさせる、というコンセプトがあったように思えて、基本、互換性とかそういうものは考慮されていませんでした。ゲームのハードウェアアーキテクチャーは一から変わるので、当然ソフトの互換性はない。それどころかコントローラまで全然違うのが任天堂のゲーム機の世代交代です。
プレイステーションの世代交代ではコントローラについてはあまり変わらない。でも、新しいハードウェアによる新しい体験を重視するということでは、SONYも似たようなもので、PS3までは、そもそもCPUから自前で設計していました。
それがマイクロソフトがXBOXでゲーム機市場に参入したことをきっかけで、PCのハードウェアアーキテクチャーの上にゲーム機を設計するようになりました。これはコスト面だけでなく、GPUの性能面、ソフトウェア開発の容易さという面で優位性がありました。
結果、PS4からほぼ内部のアーキテクチャーはPCと似たようなものになったわけで、PS5はその2代目です。つまり次世代機とはいっても、PS5はいってみれば、PCゲーマーが自分のゲームPCを最新のものに買い換えるのと、大きく違わないわけで、PS4のゲームもだいたいそのまま動くし、PS5のほうが性能がいいのでグラフィックも綺麗なだけ、という状態になりかねない危うさの上で、いまのゲーム機ビジネスはなりたっています。
今回、PS5起動したら、起動直後のメニュー画面のUIも、あんまりたいして変わっていないんですよね。
PS4の外部SSDドライブもケーブルつなぎかえればそのまま認識しました。
いままで、ゲーム機がふえるたびにテレビにつながるゲーム機は増えていたものですが、今回のPS5については、いまあるPS4は押し入れにしまったも、たいして問題なさそうです。また、今後はマイナーバージョンアップが増えるかもしれません。だってほとんどPCなんだから、ちょっと性能が向上したハードウェアも発売しやすいわけです。
このままPCの世界にどんどんゲーム機もさらに近づいていくのかもしれません。みたいな適当なことをいっていればいいでしょう。
(6) XBOXとの戦いはどうなるのか。
業界人ならグローバルな視野を持たなければなりません。XBOXもPS5のライバルとしてSeries XとSeries Sを日本でも出しています。日本においては今回もPS5にボロ負けは確実ですが、世界での戦いはどうでしょう?
まあ、今回もXBOXは日本じゃ全然ダメだよねーと、一刀両断に切り捨てるのは簡単ですので、ここはXBOXの台頭に日本のゲーム業界の未来を案じる憂国の士としては、なにをいえばいいのかを考えてみましょう。
日本ではたぶんPS5の10分の1でもXBOX Series X/Sが売れたら大事件だと思います。ぼくのまわりもだれもXBOXをやっていません。XBOXではプレイステーションの「トロフィー」に相当する仕組みとして、「実績」という点数制度があります。自分のフレンドの中で、今月だれが一番たくさん実績を稼いだか、ベスト3が表示されるのですが、ぼくは、ほとんど毎月1位をとっています。2位も3位もそれ以下もみんな0点で並んでいます。ひろゆきもフレンドに入っていますが、もう何年もXBOXを起動している様子はありません。
ですが、PS4とXBOXの両方を持っている僕からすると、XBOXも常に名機ですし、世代毎に完成度があがっているのを感じます。
海外でも下馬評では今回もPS5がXBOXよりも優位という予想が多いようですが、序盤はともかく今回はPS5はPS4の時よりも、だいぶ苦戦するんじゃないかと思いました。
今回もSeries XとPS5を比較して、ちょっとやばいなと思ったことがふたつあります。
ひとつめは、デザインの洗練度において、今回、はじめてプレイステーションが負けたなと思ったことです。プレイステーションがダメというよりはXBOXのデザインセンスが上がりました。とくに思ったのが梱包です。XBOXが入っている紙の箱は小さくてエレガント。プレイステーションは箱はだめですね。昔ながら感がもはやあります。
やっぱり世界の家電製品のデザインのハードルをあげたのはアップル製品だと思うのですが、マイクロソフトはその流れにキャッチアップしているのに、SONYはもちろん昔から悪くないのですが、とりのこされつつあるのかもしれない。そういう印象を持ちました。少なくともかっこいい家電製品といえば全部SONYみたいな状況ではない。
まあ、Series Xもそこまで格好良くはないのでPS5に勝ってるとしても、たいした差ではないですが、危機感を覚えました。
さらに、やばいと思ったのが騒音です。Series Xは相当に静かです。いまのゲームを映画並に世界観を映像で表現するものが多いわけですが、CGでゴリゴリに力のはいった映像が流れるとやかんが湧いたようなファンの効果音が入るというのは没入感を大きく妨げます。これだとPS5とXBOXを持っているユーザーはマルチタイトルはXBOXでプレイすることを選ぶんじゃないのかなあ。
あ、ひょっとすると、だから、なんかヘッドフォンを同時発売したのかな?騒音対策で。
なのでPS5は、はやくファンレスのマイナーチェンジ機を出すべきだと思いました。
最後に任天堂について思ったことを書きます。我が道を行き続ける任天堂ですが、このPCのように互換性を最優先というモデルはそれなりに強力です。影の次世代機のOculus Quest 2も、同じ路線ですよね。
だから、任天堂がまた新機種でうまくいかないと、MSやSONYと同じ戦略をするべきだと騒ぐひとたちがたくさんでるでしょう。ちょうどWindows全盛期でMacがシェアを毎年、落としていた時期にMac OSをWindowsみたいにラインセスするオープン戦略にしないからだと主張するひとが大量発生したように。
そういう雑音にまどわされることは、任天堂に限っては、よもやないとは思いますが、任天堂らしく独自に信じる道を突き進みつづけてほしいなと、それをひとりのファンとして応援していきたいと思いました。
おわり。
シン・セカイ系への誘い
「セカイ系」とよばれる物語の分類がある。おおまかにいうと主人公とヒロインの恋愛っぽいエピソードを中心にしながら、彼ら2人の行動が、なぜか世界の存亡にかかわる問題に直結するというようなッタイプの物語のことだ。まあ、わりと有名な言葉だ。
セカイ系に対して、「新世界系」なる物語が近年誕生し、影響力を増してきたと主張する集団が、ネット上に存在する。
集団といっても、新世界系でググってもらえば分かるが、でてくるのは、ペトロニウス、LD、海燕という3人ぐらいだ。彼らはAzukiaraiAkademiaというサークルを3人でつくっていて、ようするに彼らだけが、「新世界系」なるジャンルの存在を主張しているといっていい。
ぼくは彼らの中のひとりである海燕さんのブログをずっとウォッチしているのだが、結論をいうと彼らの主張はめちゃくちゃ正しくて、ここ10年ぐらいの日本の世の中で支持されるアニメの類型とその移り変わりを見事に説明していると思っている。
彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。
彼らは進撃の巨人の「壁」とはなにか?という考察から、ざっとまとめると以下のことを結論した。
① 壁の外とは「現実世界」を象徴している。
② 「現実世界」とは言い換えると、「主人公が保護されていない世界」である。
③ 「壁」とは「主人公が保護されている世界」と「主人公が保護されていない世界」を隔てている。なぜ、「壁」が必要なのかというと、「主人公が保護されていない世界」では定義上、主人公がすぐ死んでしまうので、物語を成立させるための仕掛けとして存在している。
④ 進撃の巨人だけでなく、当時、新編がスタートしたワンピースの「新世界」、トリコの「グルメ界」、HUNTERxHUNTERの「暗黒大陸」すべて同じ構造をもっており、「現実世界」=「主人公が保護されていない世界」である。
⑤ 上記の「新世界」の物語と「セカイ系」の物語とは、まったく異なるものである。
①と②の「主人公が保護されていない世界」が「現実世界」であるというのはどういうことか?
逆にいうと、通常の物語では主人公が保護されているということを指摘している。敵があらわれるにしても、ちょうど主人公がギリギリ倒せるぐらいの敵が順番にあらわれるし、仮にどうみても倒せなさそうな敵がでてきたとしても、なんらかの不思議な力の働きで勝ててしまうというのが、「主人公が保護されている世界」だ。
まあ、物語の都合としてはあたりまえだともいえる。そんなに簡単に主人公が死んだら、物語にならない。
しかし、そういう主人公が必ず勝つような都合のいい世界は、現実の世界とは大きく違う。ふと我に返るとリアリティがない世界だといえる。
もっとリアリティのある、本当に主人公だって、簡単に死んでしまいそうな世界というのが、「主人公が保護されない世界」である。
ただ、「主人公が保護されていない世界」においては、なにしろ主人公がすぐに死んでしまうわけだから、そのままだと物語が成立しない。すぐに最終回になってしまう。そこで③にあるように「壁」のようなものを用意する必要がある。
しかも、これは進撃の巨人だけでなく、ワンピースの「新世界」をはじめとして、同時代の人気作品に共通してあらわれている特徴であるというのが④の彼らの指摘である。
そして、これはたんに作劇上のテクニックのひとつで最近、流行っているとかなんかじゃなくて、もっと大きい、世の中の状況の変化を反映させた消費者の嗜好の変化なんだというのが、⑤でいう彼らの結論となる主張だ。やがて、彼らは新世界の物語を「新世界系」と呼び始める。つまり、「セカイ系」のブームというのも、ある時期の世の中の大きな流れとなる空気を投影させたものであり、「新世界系」もまた同じであり、世の中は「セカイ系」の望む空気から、「新世界系」を望む空気に変わってきているんだ、ということだ。そして、「新世界系」を表現するための物語の演出方法とはどうあるべきか。
彼らは2014年から、今日に至るまで、ずっと、このテーマを議論しつづけている。
さて、ここで、ではセカイ系と新世界系を求める世の中の空気とはどのようなものだったか?ということを考えたいのだが、その前に、基本的なことではあるが、世の中の空気なるものが物語に本当に決定的な影響を与えるなんてことがあるのか、ということについて確認したい。
どんな時代であれ、面白いものは面白いんじゃないか?流行はあるのかもしれないが、時代なんてものがそれを決めているのか?多少はあるかもしれないが、それが決定的な要因なのか?
具体的な例として、ぼくの身近に帰国子女の子がいる。ずっと海外にいたので、日本に戻ってきても、頭はいいのだが、日本語でのコミュニケーションは慣れていなくて、ほぼ不登校になってしまった。彼女が好むのがゾンビ映画のようなグロテスクな物語だ。なぜ、そうなのか?
ぼくが想像するのは、彼女には現実社会が、ゾンビ映画のようなグロテスクなものに見えているんじゃないか?なにを考えているか分からないし、自分の意志もまったく伝えられない、そういう怪物たちの住む世界が、自分に襲いかかってくるように見えているんじゃないかということである。
そして、そのことが彼女の抱える悩みの核心なんだろう、だからこそ、似た構造があるように見える物語に大きく反応してしまう、興味をもってしまう、ということだろう、ということだ。けっしてグロテスクな現実世界なんて好きじゃないはずなのに惹きつけられてしまうのだろう。
ヒットするコンテンツに与える時代の空気の影響というのも、基本、同じ構造だろう。だとすると時代の空気なんてものは、空気という言葉の持つ軽いイメージとは裏腹に、もっと切実な同時代の人々の最大の悩みを反映したものだろうというのが、ぼくの云いたいことだ。それぐらい切実な空気しか、ある人がどうしても惹きつけられるコンテンツなんてものは生みださないし、そういうひとが大量にいることでしか、コンテンツの大ヒットを生みだすほどの影響は与えられないと、ぼくは思う。
では、「セカイ系」と「新世界系」が基盤としていた時代の切実な空気とはいったいなんだろうか?
「セカイ系」の物語に対して、現実がどう見えている人たちが惹きつけられたのか?それは社会が同調圧力でもって自分を利用して生き方を支配しようとしていると反発しているひとたちだろう。端的な例でいえば、いい大学へ入って、いい会社に入るために、勉強しなさい。出世するためには、もっと仕事しなさい、一人前の大人としてきちんとしなさいなど、社会が持っている価値観を押しつけられて、それが自分の幸せにつながるかどうかがはっきりしない、もっというと自分を騙して利用しようとしているだけなんじゃないか。
そういう現実のモデルを、コンテンツの消費者が物語として受け入れやすい、じつは本当に自分が重要な人間であり世界の命運を握っている、そしてまわりはそれを利用しようとしているという舞台設定として提示したのが、セカイ系の物語ではないか。
そしてセカイ系の物語が通用しなくなるということはどういうことか。
セカイ系とは世界の危機を救うより、目の前の恋愛が大切なんだというメッセージに帰着することが定番であり、そのことによって視聴者はカタルシスを感じる構造になっていることが多いのだが、これは要するに、自分を利用しようとする現実を拒否してやるということの気持ち良さである。これが成立するのは拒否したあとの逃げ場所が保証されていることが前提だ。逃げ場所がないのに拒否するというのは、ほぼ手首切ったりする自傷行為に近い。
社会から押しつけられる価値観を拒否したとしても、案外、人生は楽しく暮らせるという余裕が社会にあることが、セカイ系の価値観を普遍的なものにすることを可能にする。別に勉強をして、いい大学にいかなくても、一生懸命働かなくても、オタクとしてコンテンツ消費者として楽しく暮らせるじゃないか、そう思える余裕があることが、当事者たちにとっての「最大の人生の悩みが社会からの価値観の押しつけである」というひとたちの大量発生を可能にする。
それが長引く日本の低迷の中で、難しくなってきた。現実がいかに厳しくてもそれから逃避することができなくなってきた。厳しい現実の中で自分たちはどうやって生き延びていけばいいのかいいか、それがまったく分からないことが最大の悩みであり、ストレスになった。そういう現実認識が世の中の多数派になってきたときには、セカイ系が生ぬるいものになり、新世界系が台頭することになった。
上記の説明は、だいぶ、ぼく風のアレンジはしているが、海燕氏たちが考える新世界系が登場してくる時代の背景とは、あまり未来に希望を持てない厳しい現実に向き合う同世代の”われわれ”という世界観が浮かび上がってくる。
彼らの新世界系にかかわる議論には、いろいろ面白い話が多いのだが、まあ、多すぎてまとめるのは大変なので、直近の話題を2点ほどだけ紹介する。
海燕氏の最近のブログでは、セカイ系とネオリベ(新自由主義)が相性がいいというトピックについて議論されていて、なるほどと思った。ようするに社会がなにかを強制するのを嫌悪して、自分たちで勝手にやっていくよ、というスタンスにおいてほぼ同じであるということだ。(海燕氏自身のアイデアというよりは、彼が紹介した記事の中で指摘されていたことについての議論)
もうひとつはペトロニウス氏のブログで、新世界系の特徴として、世界の秘密はどうでもよくて、そのなかで主人公たちがどう生きたのか、その生き様と仲間達のキズナを描くのが重要であるという推測が、連載を終了した鬼滅の刃でも実際、そのとおりになっていて、正しさが裏付けられた、という主張だ。
詳しくは彼らのブログを見て欲しい。
↓海燕氏のブログ
↓ペトロニウス氏のブログ
というわけで今回の記事を終わるが、最後に今回の記事のタイトルについて説明する。セカイ系と呼ばれる作品はたくさんあるが、セカイ系の成功を世の中に印象づけたのは、なんといっても、エヴァンゲリオンの大ヒットだろう。当時、ぼくのまわりにも、何人もの「シンジ君とはぼくのことだ」という友達がいたことを覚えている。当時のエヴァンゲリオンは社会から逃げるシンジ君を肯定する物語として、世の中に受け止められていたということだろう。
当の庵野監督はというとエヴァンゲリオンのそういう解釈のされかたには、必ずしも本意ではなかったように見える。実際のところ、いまになってエヴァンゲリオンを思い返してみると、海燕氏らが主張する新世界系の特徴の多くは、すでにテレビ版のエヴァンゲリオンの中に存在しているように思える。
海燕氏らはセカイ系と新世界系はまったく違うものとして捉えているが、実際のところ変わったのは消費者側のマインドであって、作品そのものとしては、同じエヴァンゲリオンで庵野監督が描いたものが、2,30年をかけて、違ったかたちで(おそらくは、より作者の意図に近いかたちで)世の中に受容されただけじゃないか、そんなこと考えて、あえて海燕氏たちが呼ぶ「新世界系」を、カタカナで「シン・セカイ系」と書いてみることにした。
というわけで正しいのは「新世界系」だ。
人間自身が知財になる時代が来る
ずっと考えているテーマがある。
ぼくは結論として人間の時代は終わり、AIが世の中を支配する時代が来ると信じているのだが、問題は、それがいつごろに起こるか、どのような過程を経て、そうなるのか、AIの時代が来るとして、そこで人間の影響はどこまで残せるか、といったところである。
人間がAIにのっとられる前段階として、決定的に重要なイベントはなにかというと、それはわりとはっきりしている。人間同士のコミュニケーションがデジタル化されることだ。
人間同士がリアルに出会って対面するという行為がなくなった時代は、モニターに映っている本人の映像や、スピーカーから聞こえてくる音声が、本物である必要はなくなる。AIで合成できるからだ。まして、メールやチャットなどの文字によるコミュニケーションはなおさらだ。
したがって人間からAIへの歴史の主導権の移行は、
① 人間同士のコミュニケーションがデジタル化
② 人間のデジタルコミュニケーションをAIがアシスト
③ 実質的なコミュニケーションの主体がAIになってくる。
④ 人間ってなんだっけ?
という分かりやすいプロセスを経る。ここまでは容易に想像がつく。
とはいえ、人間同士のコミュニケーション形式の主流がデジタル化されるというのは、あまりにも大きな変化であり、まだまだ社会全体がそうなるには20年ぐらいはかかるだろう、と思っていたのだが、状況が変わった。
もちろん、理由はコロナだ。
コロナで仕事も一挙にリモートワークが進み、打ち合わせもネットで済むようになった。本来はデジタル移行を拒む年長者の層まで、そうなった。人間が知識を得る手段も対面授業からオンライン学習に切り替わった。この流れは、もう、止まらない。
というわけで、人間のコミュニケーションのデジタル化が一挙に進み、AIと人間が置き換わる前段階としてのAIと人間の融合が開始できる素地が一挙に整うことになったのを記念して、ぼくが考えていた人間とAIとの融合のプロセスについて、もう少し書いてみようと思う。
人間のコミュニケーションにAIが介在すると、いいことはたくさんあるのだが、実現するには経済的な合理性が必要だ。儲かるかというよりは、継続的な開発費の出し手が存在しそうかどうかだ。
AI、あるいはその前段階としてのIT技術によってコミュニケーションをアシストしてもらうのに、直接的な恩恵を受けるのは、社会のリーダー層の人間だ。社会のリーダー層の仕事の大半は外部の人間、あるいは部下とのコミュニケーションが占めている。このコミュニケーションをIT技術に支援してもらうことで、より多くこなせるようになることは、そのまま自分の能力の拡大になる。さらにAIによってさらに強力な支援、どころか仕事を代替してもらうことができれば、仕事ができるといわれているひとが、きっと一度は考えたことがあるだろう「自分がもうひとり欲しい」がいくらでも実現するようになる。組織の力を代弁できるような強力な個人は、そういう自分の能力の拡張に費用は惜しみなく出すだろう。
また、AIにアシストしてもらうコミュニケーションをリーダー層の場合は、多忙と力関係を理由にして相手に応じてもらえやすいことも大きなポイントだ。社会のリーダー層がコミュニケーションをAIを使ってでも拡張する合理性は経済的にも社会的にもあるということになる。
したがって、人間のコミュニケーションをAIに代行させる動きが、最初におこなわれるのは社会のリーダー層になる。一般社会にまで、コミュニケーションのAIへの代行が広がるのは、それよりは後だ。
なので、いつ社会のリーダー層がコミュニケーションをAIにアシストさせるかが、人間の時代からAIの時代への変遷過程において、重要なメルクマールになるわけだが、その前に必要なキーステップはなにかということも気になる。
それも書いてしまうと、組織のメンバーのデジタル化されたコミュニケーションをモニターする機能をもった業界標準となる人事システムが普及すること、で十分だ。
このような業界標準となった人事システムは、AI時代において、AIビジネスにおけるOSのような役割を果たす。ビジネスにおけるAIの本質は人件費の削減にあるのだから、人事システムがOSになるのは極めて自然だ。業務の目的に応じてカスタマイズされたAIをOSにプラグインで組み込んで使うことになるだろう。
人事システムが有望なキーステップとなるもうひとつの理由は、別にAIがなくても成立するからだ。仕事がリモート化されてデジタル化された時代に、それを管理できるというだけで十分に実用的だ。将来的にはそこにAIが組み込まれる。
なんか、話が脱線してきたので、人事システムがAIビジネスの大本命だというのはどっか別に書くことにして、表題の「人間自身が知財になる時代がくる」について話す。
人間がAIを通じてコミュニケーションをおこなう時代とはなんなのか?ということを知財という観点から説明する。
知財の歴史をおおざっぱに考えると、最初に知的財産となったのは、人間がつくりだしたもの、そのものに対する権利だ。これが著作権だ。その次に知的財産となったのは、人間がどうやってつくりだしたのかというノウハウだ。特許権がそうだ。
AI時代になにが起こるか、AIがつくったものの著作権、特許権が認められるか、という議論があるのが、これは最終的にはAIの創作物が爆発的に増大しすぎて、そういう権利の保護、運用がそもそも不可能になるという結末しかみえない。そのときに残る知財は商標だけだ。自分が自分であるということを主張できる権利だ。人間がコミュニケーションをAIに委ねる未来には、自分とはなにかをどう決めるかというのが大事になる。
それは人間に最後まで残る権利だろう。人間自身が最後の知財となる。
人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観
AIとはなにかということを、真剣に考え始めたのは、6年前からだ。AIとはなにかというテーマを突き詰めていくと、そもそも人間の知性とはなにか、という疑問にぶちあたる。
人間の知性を将来はコンピュータに搭載された人工知能が超えてしまうという想像はコンピュータの登場とともに誕生していて、なにも新しいことではない。事実、コンピュータは発明された瞬間に、計算能力においては人間を軽く超えていた。
計算能力で劣っているにも関わらず知性において人間がコンピュータに負けてないと思うのは少し奇妙なことでもある。人間の脳の機能の進化において、数字を扱って、計算できるようになったのはかなり最近のことのようだ。人間の脳にとっては、足し算とかかけ算は、最新のバージョンアップで、やっと可能になった最先端の高度な情報処理能力であって、それでコンピュータに負けてしまったということだ。
人間がコンピュータには直感はないとか、心はないとか、意識はないとか、感情はないとかいって、コンピュータに知性では負けてないというのは、生物の進化として考えた場合に、より原始的な能力においては、まだ、負けてないと主張することを意味する。
そもそも知性とはなんなのか?人間が漠然と考えている知性にたいして持っているイメージが、そもそも正しくないのじゃないだろうか。
いろいろはしょって、ぼくが考えたひとつの結論を書くと、世間一般で思われている知性というものの実体のかなりの部分は、個々の人間は持っていなくて、社会が持っているものであるということだ。とくに人間が高度な知性の証だと考えるものほど、実体は社会にあって、ひとりひとりの人間は持っていない。
多くの人間が考えている知性なるものの実体は、ほぼ社会側にあり、個々の人間は、(たとえ優秀な人間であったとしても)そのほんの一部分をコピーしているだけで、なんとなく自分の脳が本当にもっているより、はるかに大きな知性があると思い込んでいるのが人間という存在だ。そう考えるべきだとぼくは思う。
そして、近年の機械学習の研究の爆発的な発展を眺めていて、(ここは専門の研究者でも異論があるひとは多いだろうが)、人間の直感や創造性、感情や意識にいたるまで、そこまで複雑なものではなく、どうやら、意外と簡単な原理でモデル化できそうだという予想を、ぼくは持っている。
このあたりの詳細や、知性と肉体としての人間との関係をどう考えるべきかとかについて書きたいことは、山ほどあるのだが長くなるのでやめて、今回は、今日書いた人間の知性は社会の知性の部分的なコピーであるという考え方が、近未来の社会に与える影響について書こうと思う。(社会の知性とはなにか。便宜上、そう呼ぶが、なにを指すかはこのあとの文章から適当に想像してほしい)
まず、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像は、今後、かなり一般的なものになると予想する。
理由の第一は、まず、事実として、より正しい見方であるだろうことだ。人間は個人としての人間全体の知性の集合が社会の知性であると思いたがる傾向があるが、社会の知性の起源がかりにすべて人間であったとしても、かなりの人間はすでに過去に死んでいる。また、個々の人間というよりは集団としての人間とそのときの社会の知性との相互作用によって、社会の知性は進化しているので、社会の知性は単純な人間の知性の合算ではありえない。さらに現在においては社会の知性のかなりの割合が、人間そのものではなく人間がつくった道具、コンピュータなどから生成されていると考えたほうが適当だろう。社会の知性というものを人間とは独立した存在として認識するのは正しい方向性であると考える。
理由の第二は、今後のAIによっておこなわれるだろう教育の発展だ。社会の知性のごく小さなコピーが人間の知性だというなら、コピーする手段の代表的な手法は教育だ。今後発展するだろうAIとさらにはVRの組み合わせは、人間になにかを教えた時に、相手が本当に理解しているか、どこまで理解しているかを正確に判断できる教育システムの開発を可能にする。そうなると、あるレベルの人間に何時間の教育をほどこせば、なにを覚えられるかが、およそシミュレートできるようになる。まさに知性を人間にインストールする時代がやってくる。もちろんAI+VR教育システムの進化は段階的にしか進まないだろうが、そういう世の中になっていく流れが明確になってくるなかで知性の本体の発明者が人間であるという考え方を維持するのは多くの人間にとっては次第に難しくなるだろう。
理由の第三は、人間の知性の外部化が、今後、なし崩し的に進むことだ。すでに知識は暗記するよりも検索したほうが早いと考える人間が増えている。ネットを通じて取得する情報は事前にAIによってフィルタリングされ、リコメンドされ、”外部の知性”によって加工されている。今後、その”外部の知性”の能力は拡大する一方だろう。もちろん人間はそういった外部の知性も自分の能力であると思い込む能力を発達させるだろうが、一方で自分の知性が自分の肉体と脳に完全に紐付いたものであるという認識は、やはり次第に難しくなっていくだろう。
理由の第四は、人間の遺伝子組み換え技術の普及だ。おそらく病気や障害の除去という大義名分をきっかけに自分の子どもの遺伝子をカスタマイズすることはあたりまえになる。はじまってしまえば、ついでに頭をよくしたりとか、プラスの遺伝子を追加することが容認されるようになるまでは一瞬だ。自由に子どもの遺伝子をカスタマイズできる世の中で、子どもは自分の遺伝子を受け継いだ生物であるという概念自体が成立しにくくなってくる。そうなると人間にとって生物学的な肉体は、たんなる知性の乗り物であるという見方が優勢になってくると予想する。じゃあ、知性はどこからうけつがれるかというと
さて、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像が社会の中で一般化すると、なにが起こるのか。
ぼくはこれが人間社会の根本的な変化をもたらす原動力になる、ないしは変化の下地をつくることになる決定的な価値観の変化だと思っている。
人類という種が次に進化をするとすれば、生物学的な進化ではなく、工学的な進化である可能性が高い。主な可能性はつぎの3つぐらいであり、おそらくすべて実現する。
・遺伝子の組み替え。
・人体のサイボーグ化。
・脳の機能をコンピュータに置き換える
どれもやるメリットがあり、障害となるのはおもに人間の倫理と生理的嫌悪感だ。
遺伝子の組み換えははじまってしまえばあっというまに普及する。まずは遺伝病や奇形などの遺伝子の欠陥を修正するためという大義名分ではじまる。そうなるとついでにちょっと頭をよくしたりとか、体の歪みを直した結果として体形が良くなったり、顔がよくなったりとか、とめどがなくなるのは目に見えている。
人体のサイボーグ化を後押しするのは高齢化社会だ。技術的な問題が解決すれば、老化した体を置き換える心理的な抵抗はそれほど大きくはならないだろう。むしろ技術がどこまで発達するかのほうが重要なポイントになる。
3つのうち人間が最後まで決断ができないのは脳の機能をコンピュータに置き換えるということだろう。はたして、それは人間なのか、自分自身なのかについては、さすがに乗り越えるのは大きすぎる心理的ハードルだ。しかしながら、いきなり脳をすべてコンピュータに置き換えるような技術はどうせ不可能だ。したがって、脳の機能の置換は、段階的に進むことになる。それは確実に起こる。段階的といったって、脳に電極を差したり、チップを埋め込んだりするのは嫌だろうと思うかもしれないが、実はそれは必要がない。まず、上に書いたように脳に電極を差すまでもなく、人間の知性の外部化はインターネット上のクラウドサービスを通じて、現在でもすでに進行中だ。そして次の決定的な変化の段階でも実は脳に電極を差す必要はない。次の段階とは人間社会の仮想化、つまりVR社会の到来だ。人間がVR社会でのアバター化をしたときに、事実上、脳の機能をAIに代行させることが容易になる。人間の分身であるアバターの操作をAIに自動運転させるわけだ。本人と見分けがつかない声で喋らせることも現状で完成している技術の延長線上で十分に可能だ。人間はVR社会では人間同士のコミュニケーションもAIに代行・媒介させることが可能になる。それは需要も実用性もあるので確実に技術が発展する。そして、それは実質的には人間の脳の機能をAIで置換することに他ならない。
最終的に人間が脳も含めた肉体を捨てる決断を可能にするのは、自分の肉体、とくに脳と自分自身の意識が別に一体不可分のものではないと思えるかどうかにかかっている。自分自身の意識とは、たまたま人間の脳に寄生した情報的な生物であり、自分たちは遺伝子ではなくミームで繁殖している存在だ。自分たちの本体は社会にある知性だ。そう思えるかどうかだ。そういう価値観、認識の変化が起こりえるかどうか。それは現在の常識ではなさそうにみえるが、おそらく今世紀中には確実に起こるだろうというのが、ぼくの予想だ。
ここに書いたことは歴史的な必然として起こると思っている。そして、それは不可逆な変化になる。しかしながら、人間が脳を捨てたら、それはもはや現在の意味での人間とは別の存在だろう。ある意味での人類の歴史の終わりだ。
そういう未来が避けられないものだとしても、それは未来の人類にとっての幸せを意味するものだとしても、なにも生き急がなくてもいいんじゃないかとぼくは思っている。
人類にとって、いちどしかない”人類生”なんだから、途中の風景を楽しみながら、もっとのんびり歩いたほうがいい。
ボヘミアンラプソディーを観て考えたこと
話題の映画を観てきた。平日の夜8時半からの回は満席だった。いろいろ思うところがあったが、ひとことでいうなら、いい映画だった。
映画業界のひとにも話を聞いてみた。現時点での興収予想は30億円。当然、業界でも予想外のヒットのようだが、みんな喜んでいるらしい。元気が出た。こういう映画がヒットするなら、まだ、世の中も捨てたもんじゃない。そういう風に受け止められているそうだ。
いい映画とはなにか。映画が世の中に果たす役割とは何か。
映画に限らず、あるアーティストが表現した作品が、観客にあたえる作用とはなんなのか。
あらためてそういったことを考えさせられた。
自分がなんで映画に感動しているのか、理由がよく分からないけど、でも、とにかく感動している。ぼくもそう感じたし、事前に観に行ったまわりの人たちも、似たようなことを言っていた。
「音楽が良すぎてずるい。ストーリーがいいとかじゃなくて、とにかく音楽で感動した」
そんな声も聞いたし、正直な感想なのだろうが、それはちょっと違うはずだ。
音楽だけでヒットするなら、いい音楽PVを映画にすればヒットするという理屈になる。そんな簡単なもんじゃない。たとえQUEENの音楽がいいにしろ、映画のなかで音楽がいいと思わせる仕掛けは映画自体になんかあったに違いない。
それはいったいなんだろうか。とくに明確な答えがあるわけではないが、いろいろ考えたことを書きたい。
(以下ネタバレ注意)
人が、なにか作品に対して、心を動かされるということはどういうことか、感動してしまうとはどういうことか。素晴らしい技巧に感心するということではなく、感動となると、そこにはなんらかの感情移入が働いているように思う。
つまり、なにか自分と重ねてしまっているということだ。
この映画には観客がフレディ・マーキュリーとそれを取り巻くひとたちに自分たちを重ねてしまう仕掛けが、いろいろ施されている。
少年向けの冒険物語の主人公のように、ごくふつうのどこにでもいる若者としてフレディは登場する。貧しく、容姿にも恵まれず、才能も世の中にも家族にさえも認められていないが、しかし、大きな夢と希望を抱いている。
そしてちょっとしたきっかけによる偶然のチャンスを掴み、潜在している才能を認められ、フレディはQUEENのメンバーがやっていた学生バンドにボーカルとして所属することになる。観客の最大公約数に感情移入を促すような、ある種、典型的な成長物語の主人公としての人物描写がされている。
伝説のバンドとしてスターダムを駆け上がっていく過程でも、近づきがたいカリスマではなく、むしろ実際はこうだったんだろうなと思えるような人間味が強調されている。家族の問題。恋人との関係。
映画の題名にもなっているボヘミアンラプソディーは名曲だが、今の時代に聴いても、なお新鮮であり、その独創性はオリジナリティあふれすぎていて、いまだに他の追随を許さない。言い方を変えると、聴いたことないメチャクチャな構成の曲だ。CMで使われたり、あちこちで流れるので、フレーズはみんななんとなく知っているが、ぼくはかなり年を取るまで、自分の聴いたことがあるふたつの曲の有名そうなフレーズが、じつは同一の曲のものだったということを知らなかった。
映画ではボヘミアンラプソディーのレコーディングをしているときの描写で、曲の中で連呼されている意味不明の叫びについて、叫んでいるメンバー自身に「ガリレオっていったいなんの意味?」と言わせている。映画の笑いどころのひとつだ。たぶん、ボヘミアンラプソディーを聴いたことのあるひとのだれもが思った疑問を、メンバー自身に言わせることによって、伝説の名曲の舞台裏を見せて、自分がまるでその同時代にフレディたちと居合わせているような錯覚を与えている。
映画の前半部分では、神秘的なQUEENの名曲の裏側が、じつは、たんに、だれもやったことのないことをやりたい、世の中を驚かせたいという若者たちの必死の努力の結果であったという描写がされている。これが、後半逆転する。
メンバーの不和。恋人との破局。高額の契約金によるフレディのソロデビューで、ついにQUEENは分解する。
映画のフィナーレはLIVE AIDでのQUEENの伝説的なパフォーマンスの再現だ。HIVの発覚にはじまり、フレディはメンバーは家族だと思い直し、謝罪をする。メンバーは果たしてフレディの謝罪を受け入れるのか。映画の見せどころのひとつだが、そのとき、ギターのブライアン・メイは、いったん席を外してくれとフレディに告げる。フレディが部屋の外に出たあと、どうしてフレディに席を外させたのかを聞かれると、ブライアンメイは、「なんとなく」と答える。この映画のもうひとつの笑いどころだ。
ここは家族とはいくらいいつつも、結局は血は繋がっておらず仕事の関係でもあるという微妙な人間関係を、やはりそれでも彼らは心の繋がった仲間だと信じてもいいと観客に印象付ける説得力のあるエピソードだ。
ライブの直前、病の症状で調子がでない中、他のメンバーにAIDS感染を告白する。世間には病気のことを伏せたまま、LIVE AIDの舞台に立つフレディ・マーキュリー。舞台の背後に映り込むLIVE AIDのロゴはAIDSを連想させる。
ライブの始まりは、ボヘミアン・ラプソディーだ。ここで観客は気付かされる。前半、奇をてらった曲、とくに意味のない歌詞の連なり、として描写されていた同じ曲の同じ歌詞が、フレディの魂の叫びであったこと。真実そのものであったこと。
レジェンドのはずのフレディが観客の側に戻ってきた瞬間だ。いや、最初から観客のそばにいたんだと気づくのだ。思わず目頭が熱くなる。
そしておそらくは20分間の伝説のライブを完全再現したのだろう。観客に追体験させることで映画は終わる。
観客が感情移入できるのは、フレディ・マーキュリーだけではない。まわりの人物のすべてが本当にいそうなひとたちだ。よくあるファンの代表みたいな登場人物がいないのもいい。そういうつくられたファンは、むしろ自分とはちがうことを意識させるので感情移入の邪魔だ。ファンが映画に登場するのは客席の中と、それとフレディがHIVを告げられる病院の待合室での短いやりとりだけだ。いかにもありそうな情景だ。
もうひとつの感情移入の入り口は身近な自分が好きなアーティストとQUEENを重ねることだ。映画を見ていて思ったのは、たんにQUEENと自分の好きなアーティストを重ねるのもあるだろうが、それ以上にアーティストに憧れて育ったファンが次の世代のアーティストになるという連鎖を想像させたことじゃないかと思う。
自分が好きなバンド。こんなバンドは他にないと思っていたユニークなバンドが、おそらくは相当にQUEENの影響を受けていたんだなということに映画を見ていて気づいた。彼らも彼らのファンと同じようにQUEENに憧れた時代があり、それが彼らの表現の根本にあったんだと思ったことだ。突然現れたようにみえる天才アーティストも、じつはその前の世代のバトンを受け継いでいるんだという事実を感じた。
そう考えると、たんに自分の好きなアーティストとQUEENを重ねるだけでなく、QUEENの前では自分にとってのカリスマも、自分と同じ立場のファンだったのかもしれないという、そういう親しみが沸き起こってくる。
何重にもいろんな登場人物に、いろんな立場から共感の連鎖が重なり合う、そんな映画だった。
映画とはなんのためにあるのか。
人間はなんのために映画を見るのか、あまり意味のない、答えが何通りもあるだろう問いだが、ぼくが思っていることを書く。
映画に限らず、すべての表現のもっとも大事であり、もっとも尊い目的は、自分はひとりじゃないということを観客に伝えることにある、と思っている。
この映画でそういうメッセージを受け取ったひとは多いんじゃないか。
そう思う。