ネットに木霊する叫び

 どんな音楽が好きと他人に訊かれる経験はだれにでもあるだろう。ぼくはその場合に絶対に自分の好きな音楽を言わない。だいたい、なんでも聴く、とか、そのとき周りの友達とかが聴いている音楽を聴いているとか答える。まあ、嘘ではない。でも、周りの趣味とかに関係なく、いつも、ぼくが猛烈に惹かれてしまう、あるタイプの音楽もあるのだが、それについては滅多に口を開かない。 なぜかというと、大昔、好きだった子に馬鹿にされた経験があるからだ。どういう風にいわれたかというと、「汗くさい」「なんか貧乏くさい」というような形容詞のひとことで切り捨てられたのである。これはきつかった。

 具体的に名前を出してしまうと、そのときはTUBEというバンドだった。同じように猛烈に惹かれてしまうバンドにはACIDMANなんかもある。単発の曲とかでいうとD-51のサヴァイバーとかいう曲はとても好きだった。JAM Projectとかもぼくの中では同系統だ。

 別にぼくの音楽の趣味の話を今回したいわけではないし、だれかに共感してもらったり、薦めたいわけでもない。なぜ、これらの音楽に特別に自分が惹かれるかの理由を考えたのだ。

 ぼくが惹かれるポイントはなにかというと、ボーカルがとにかく叫んでいるということである。押さえきれないなにかを込めて叫ぶように歌っているのである。ここらへんが汗くさいイメージがつく理由だろう。ただし、ただ、絶叫すればいいってもんでもなく、ヘビメタなんかは、ぼくは嫌いだ。メロディがちゃんとある。メロディにのせて叫んでいるのである。

 これはぼくなりの表現でいうと、”上手く叫んでいる”ということである。上手く叫ぶとはどういうことか。ぼくの定義では他人にちゃんと聴いて貰えるように自分の思いを絶叫しているということだ。そういうものにぼくは惹かれる傾向がある。

 話は変わって、ぼくは最近、他人に話を聞いて貰えるようになった。話が面白いという賛辞を受けることが増えた。そういわれても、ぼくはいまいち喜ぶ気にはなれない。なぜなら、ぼくは昔から別にたいして変わってないからだ。ぼくは何十年も変わってないのに、ぼくの話なんて昔はだれも聞きたがらなかったじゃないか、とそう思うのである。

 この感覚は分かる人とそうでない人がいると思うが、ぼくは小学校の頃から1対1なら友達と喋れるが、友達の輪の中ではまったくひとことも喋れなくなることが多かった。ぼくが喋ってもだれも聞いてくれない、だれも望んでいないという恐怖から一言も喋れなくなるのだ。そうなると、だれかが気を遣って話を振ってくれても、もうなにも言葉がでてこない。

 当時のぼくのように、周りの人間関係の中で疎外感を感じながら、自分にはなにも喋る資格がないと思って、無口に暮らしているひとは、世の中にたくさんいると思う。この話をまったく理解できない人も多いだろうが、本当にそうだから、知っておいて欲しい。

 時々、電車で独り言をつぶやいているおばさんとかを見かける。街中で突然叫び出すおっさんとかもいる。そういうひともきっとずっとみんなの中で黙り続けて生きていたのだろう。ぼくもよくひとりきりになるとトイレや風呂場でひとりごとをいったり叫んだりする。言いたいことを聞いてもらいたいから無口になって生きるというのはそういうことだ。

 なので、最近はぼくの話も面白がってくれるひとが多いのだが、いまいち、嬉しくないのは、多少、恨みが残っているからだろう。だって、ぼくが一番だれかに話を聞いて時にあなたはなにも聞いてくれなかったじゃないか、と思うのだ。いや、もちろん、昔、そもそもあなたはぼくのまわりにはいなかったんだけれども。

 自分のいいたいことを聞いて貰えるように一生懸命工夫して話すのはぼくの原点だ。でも、その技術もぼくの記憶の中では大学生の時にはおおむね完成されていた。最近になってやっと話を聞いて貰えるのは、ぼくがかわったんじゃなく、まわりの環境、社会的な評価とかが変わったからにすぎない。ぼくは昔から同じだ。

 

 世の中にはだれかに話したい、叫びたい思いを抱えながら、現実世界では、ずっと黙って生きているひとがたくさんいる。そうひとの一部がネットで叫んでいる。5年前、ニコニコ動画が生まれたときの異様な熱気はそういうひとをポジティヴに救う場所がはじめてネットにできたからだろう。残念ながら、ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。

 ぼくはそういうのを見ると腹が立って本気で喧嘩をふっかけることがよくある。全力で叩きつぶそうとしたりする。だって間違っていると思うから。

 別に彼らの昔の自分を見て、まだ、そんなところにいるのか、こっちまでこいなんて偉そうなことを思っているわけではない。繰り返すが、ぼくは昔と変わっていない。環境が変わらないと人間は変わらない。

 ただ、思うのは、例え、ぼくの罵倒が、さらに彼らの頭に血を上らせカッカさせたとしても、ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか、ということだ。

 そう、信じることにして、時にぼくはネットで自分の抱える欲求不満を発散させるのだ。