実録:弥生さんの話

 

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 友達の家の近くにある公園に柵ができていたのです。かなり大きな柵なので公園の向こう半分が完全に覆われていました。

「なんか工事中なの?」

 ぼくは友達に聞いたのです。

「ああ、公園の中にある建物なにかしってる?」

「小屋みたいなの?」

 公園の中央には物置みたいな木造の小屋があります。

「あれ、古代遺跡なんだって。高床式の建物らしい」

 そうだったんだ。

「その割には新しくない?」

「もちろん、復元してるんだけどね」

「じゃあ、発掘作業かなんかの工事やってんの?」

「いや、工事はやってなくて立ち入り禁止にしてるだけなんだよね。人が住んじゃったの」

 おかしな話です。

「人が住んだってどういうこと」

「遺跡にひとがすんじゃったの。あの高床式の建物に」

 ぼくは笑いました。

「なにそれ、つまり、浮浪者かなんかが住みついたってこと?」

「浮浪者・・・まあ、そういうことになるかな」

 友達は考え込んでつけくわえました。

「でも、オレはそのひとのことを弥生さんと呼んでいたんだよね」

「なに、弥生さんって」

 ぼくは可笑しくてしかたがありません。

弥生時代っぽいから弥生さん」

「仲良かったの?」

「いや、話したことはなくて、勝手にそう名付けていただけ。でも、あいさつはしてたよ」

「あいさつしてたんだ」

「弥生さんはねえ、結構、あの遺跡の役に立っていたんだよ」

 友達は少しむきになって弥生さんのことを説明しはじめました。

 弥生さんは、毎朝、6時ぐらいから起きて、公園のまわりのそうじをはじめるのだそうです。だから、公園はいつもゴミがありませんでした。近所づきあいも良くて、いつも元気に通りかかる人とあいさつを交わしていたそうです。だから、このあたりでも人気は高かったはずだと友達は主張するのです。自分の住まいにしていた高床式の小屋もそれはそれは丁寧に使っていたそうです。

「なのに、きっと心ないひとがいたんだよ。だれかが通報したんだと思う」

「まあ、そりゃ、勝手に公園に住んでいたら、いつかは通報されるよね」

「区役所は弥生さんを追い出すんじゃなくて雇うべきだったんだよ。役に立っていたんだもん」

 柵は工事のためじゃなく、弥生さんを追い出して遺跡に入れなくするためだったのです。

「それで弥生さんはどうなったの?」

「追い出されて一週間ぐらいは公園の残った半分にあるベンチにずっと座っていたんだよね」

 自分が住んでいた高床式の小屋を眺めながら、弥生さんは一日中ベンチに座っていたんだそうです。

「もう、いなくなったの?」

「ここ2,3週間は見ないよね。きっと、どっかにいっちゃったんだよ」

「諦めて別の場所を見つけたのか。それともどこかに連れて行かれたのか」

 ぼくは少し悲しくなってためいきをついたのです。

「面倒をみてくれる施設とかにいれられたのかな」

「いや、浮浪者の面倒みてくれるような施設はないでしょ」

「そんなのないのかあ」

「ないだろうね」

 ぼくたちは弥生さんの身を案じましたが、しょうがありません。どうしようもありません。

 Facebookの日記に書きなよと、ぼくは友達に薦めました。もちろん、そんなことをしてもなんにもならないことは分かっていましたが、せめて弥生さんのことをネットの片隅にでも記録として残そうと思ったのです。

 

 それから1ヶ月立ちました。

 

 今日、公園を見ると、もう、柵はとりのぞかれていました。弥生さんが帰ってくることはもうないと区役所が判断したのでしょうか。

 友達はまだ日記を書いていません。

 しょうがないのでぼくがこのエントリを書くことにしたのです。

 

 

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人の心を試してはいけないのはなぜか。

今朝、ラジオで荒井由美の昔の曲を紹介していたひとが、「人の心を試してはいけない」といっていた言葉が心に残った。「それはとても失礼だから」ということらしい。それは感覚的にはとても納得する言葉で、人生を長く生きた人間の重みを感じさせる言葉だったのだが、なにしろ、ぼくは理系人間なので、もうちょっと理路整然とした理屈はないものかが気になったので考えてみた。

「人の心を試してはいけない」

友人や恋人や恩人、はては肉親ですらも人間はつい試そうとする。彼らが本当に自分に抱いている気持ちを確かめたくなる。愛情を持ってくれているのか、本当は自分のことが嫌いじゃないのか、自分を裏切ったりしないかが気になってしょうがない。

気になるから試しちゃうことのなにがいけないのだろうか。

実利的に考えると、他人を試しているのが相手にばれると嫌われる、というのがわかりやすい。
あ、結論がでてしまった。身もふたもない。
付け加えていうと、相手だけじゃなく、自分のまわりからの評判もだいたい悪くなる。これは損だ。

もうちょっと高尚な説明はないだろうか。

類似の言い回しに「神を試してはいけない」というのがある。

これは神が本当にいるならばXXXするはずだ、という前提で行動することだ。神が本当にいるかどうかを試すわけだ。

では、この場合、「神を試してはいけない」というのはなぜだろう。

宗教側の立場からいうと、神を試されて困る理由は明白だ。神が本当はいないことがばれてしまうからだ。無神論をふりかざしたいわけじゃないので、もうちょい表現を変えると、”みんなが想像し期待するような”神はいない、ということが分かってしまう。

「人の心を試してはいけない」理由も同じだろう。みんなが想像し期待するような人の心なんて存在しないことがばれてしまうからだ。あなたが期待する愛情や信頼なんて、相手は本当は持っていない、ということが分かってしまうからに違いない。

まあ、だいたい、そういう疑いを他人にかけて試すようなひとのほうが、相手からみたら裏切りみたいなものだから、言わずもがなである。

人間は他人からは無条件かつ無限な愛情表現や信頼を与えられたいと願うのに、自分が他人に与える愛情や信頼は条件付きであって有限であるものだ。これは人間の心の本質であって、おそらくは本能的なものだから容易には変えられない。

みんな自分にできないことを他人の心に求めているんだから、「人の心を試してはいけない」ということにしないと社会的に都合が悪いのは当たり前だろう。

愛情あふれる肉親や恋人、信頼あふれる仲間なんていうものは自分の脳内のシナプスのパターン上にしか存在していない。神も同じだろう。現代科学の常識から一番矛盾のない神の存在場所を考えると、やはり自分の脳内であるという結論がいちばんしっくりくる。

神も(自分の理想とする)他人も自分の脳内にしか存在しないのである。

さて、そうすると、人間関係で他人を信頼するということは神を信じるのと同じであるという言い方もできるだろう。本当はたぶん存在しないものを信じるということであり、自分の内なる神であり他人を信じるということだ。

ここで人間としてはふたつの道がある。

神も他人も存在しないのだから信じないという道。現実はどうあれ自分の心の中にある神や他人を信じるという道。

少なくとも自分が潜在意識の中で他人に望んでいるのは後者の道だろう。現実のろくでもない自分なんか関係なく自分を受け入れてほしい、愛していてほしい、信用していてほしいと望む。そんな感情を人間は本能として持っている。

だったら、自分自身もまた現実の相手の心なんか、おかまいなしに、相手を受け入れて、愛して、信用すべきだろう。

自分が望んでいる人間関係ってそれでしょ?偽りかもしれないけど、それを本当のことにしたいんでしょ。自分もそして相手も。だったら、そういうことにすればいいじゃない。疑ったらすべてが台無しになる。

「人の心を試してはいけない」

よし、なんか、説明できた気がする。

私を見て欲しい。だれに?

朝、寝ぼけながら考えた。というか、まだ、寝ぼけています。

 

たぶん、ぼくにしては短いブログになる。

 

なんでネットにメンヘラがいるのか。今朝もこの時間になっても寝れないメンヘラが自分を見て欲しいとつぶやいているのか。

 

まあ、だいたいメンヘラってそうだよね。自己承認要求がなんかこじらせているんだよね。

 

というか、クリエイターにそもそもメンヘラが多い。

 

なんでだろ。

 

人間が本能的に自己承認要求を持つのは群れをなす動物だからに違いない。だから、きっと、メンヘラは群れにいれてもらえない叫びを抱えていきているのだろう。

 

群れってこの場合なに?本人がはいりたい群れってどこにあるのか。

 

人間が孤独になるのは群れにいれてもらえないからか、自分が所属すべき群れがみつからないと感じているのかどちらだろう。どちらもあるだろうけど、どちらが先とかあるのだろうか。

 

なんとなく人間の心理状態の遷移を想像すると、順番的には

 

① 群れにいれてもらえない。

 ↓

② こいつらはそもそも仲間じゃない。ほかにぼくの本当の仲間がいるはずだ。

 

という順序のような気がする。

 

うーん。書いてて、やっぱりメンヘラって基本的には群れに所属したいっていう本能が満たされていない症状のような気がしてきた。

 

ネットというのがやばい。遠くはなれたところに自分につぶやきに反応してくれるひとがいて、そこに仲間がいるように感じる。でも、結局、身の回りにいるわけじゃない。ここが健康的じゃない部分だな。

 

クリエイターというのもそうだろう。基本、離れたところにファンがいる。そこが不安定の源になる。アーティストが自分のまわりをファンで固めたくなる心理もそこだろう。自分の群れをつくりたいのだと思う。

 

現代社会の群れはいりくんでいて、遠くにいて、あやふやな存在だから、きっと、みんなメンヘラになる。

 

だから、きっとメンヘラを治すには身近な仲間をつくることがいちばん精神衛生にはいいんだろう。でも、きっとクリエイターがそこを満たされたら、もう、作品なんてつくれなくなるよね。

 

・・・。

 

あんなたいしたこと書いてないな。

 

いいや。もっぺん、寝る。

来月復活するガールズケイリンがヤバすぎる件

このブログもちきりんさんの4倍ぐらい読みやすい文章を書けたらなと思う今日この頃です。

さて、来月、48年ぶりにガールズケイリンが復活する。


まあ、要するに女性選手が走る競輪なわけだが、これが思いのほか面白そうなのだ。

まずはどんな選手がいるのか一覧をみてほしい。


ひとり、なぜか、いや、これはどうみてもおっさんだろうという選手がまじっている。
加瀬 加奈子だ。

いや、まじでびっくりした。ぼくは、昨日、函館競輪の高松宮記念G1を見に行って、
そこでガールズケイリンのパンフレットをもらったのだが、そっちのプロフィール画像はもっと凄まじい。

最初、みたとき、こんな化け物みたいな女がいるのかと驚いたりは全くしなくて、たんに、なんでここに男の写真も載っているのだろうと不思議に思った。

明らかにわざとそういう写真を選んで載せているとしか思えないから、確信犯なのだろう。

なんでも、加瀬 加奈子はガールズケイリンの選手の中でも最強らしい。
女の戦いは見た目でほぼ勝負が決まるというのは競輪の世界でも変わらないということだ。

他にも後閑 百合亜という群馬の選手がいて、もしやと思って聞いたらやっぱり後閑信一いう有名競輪選手の娘らしい。他にもそういう選手は何人かいて、結論としてはガールズケイリンは見た目と血筋が重要ということになる。

さて、このガールズケイリンはルールの上でも普通の競輪とは異なっている。

なんと、他の選手とチームを組んではいけないのだ。どういうことか?

知らない人のために説明すると競輪というのは特殊なレースで、あくまで個人単位で競争するレースなのにも関わらず、他の選手と組むことが許されているのだ。

そこが、同じほ乳類のレースでも人間様よりは知能に劣る動物が走る競馬との違いだ。

どういう選手と組むのかも含めて予想するのが、ギャンブルとしての競輪の楽しみでもある。

このレースごとに臨時にできるチームのことをラインという。通常は南関東ラインとか九州ラインとか出身地ごとにラインを組む。近い地域がいない場合はだれか他の孤独な選手同士で組んだりとか、同期で組んだりだとかする。これはもはや公然とおこなわれていて、スポーツ新聞の予想でも事前に選手のインタビューでだれと組むかというコメントが載っているし、競輪中継でも解説者は当然のように今回のレースのラインを説明する。

ちなみに競輪でラインを組む理由は単純で先頭を走ると空気抵抗があってエネルギーを消耗するからだ。カーレースのマンガでよく出てくるスリップストリームである。だから、みんなだれかの後ろを本当は走りたい。それも早く走ってくれるひとのうしろを走りたい。

そういうわけでスタミナがあって早く走る選手の後ろに背後霊のようにひっつき、寄生だけするのもなんなので、後ろから追い抜いてこようとする別のラインがいたら、邪魔をしてあげて先頭選手を助ける、これが競輪のラインの基本なのだ。

というわけでラインというのは選手同士のある種の談合なのだが、とはいっても本来は競争相手なので、最後はラインにいる選手同士も一着を目指して騙しあうことになる。だから、ラインの後ろの選手は先頭の選手ができるだけ長い間速度を出して先導してくれて、最後はバテテくれるのが嬉しいし、先頭の選手はそうはさせまいと力を温存しようとする。

そういう駆け引きに前回のレースでの選手間の貸し借りや、先輩後輩の人間関係、個人の性格なんかも絡んでくるわけで、そこをふくめてギャンブルとして予想するのがケイリン醍醐味だ。

ところがガールズケイリンではこういったラインを組んだチーム戦みたいな行為が、基本的には認められていないのだ。あからさまにチームを組んだり、相手のチームを妨害したりすると失格になるというのが従来の競輪との大きな違いだ。

というか、国際ルールのケイリンはそうらしい。オリンピックなどのスポーツとしての自転車競技では選手同士が組んじゃだめなのだ。ガールズケイリンは国際ルールでやるということだ。

えーーーー。なんでだよ。国際ルールつまんない。ヨーロッパライン対アジアラインとか、キリスト教ライン対イスラム教ラインとか見てみたいじゃん!米国選手なんだけど今回はヒスパニックラインとか。

ちなみに国際戦ということだと、日韓で年に一回交流レースをやっているらしい。
これがすごくてなにしろ韓国は反日の国。日本に勝つのが生き甲斐みたいなところだから、韓国ラインの団結力はすさまじい。先頭の選手がスタミナ切れになることを覚悟で全力で走って使い捨て、つぎに2番目の選手が同じことやって使い捨てられる。そのつぎ、みたいに2段ロケット、3段ロケットみたいな方法で最後の選手で日本を破って優勝させるみたいな作戦をとってくる。

競輪ファンもわかっているからそれ前提でレースの予想をするからギャンブルとしても問題ないらしい。

そんなんじゃ韓国が有利すぎるだろうと思ったら、まだ、日本の競輪選手のほうが地力で勝っているので、それでも優勝選手は日本からでるそうだ。

・・・・。

やっぱ、国際ルールはあんまり憎しみとか生まないようにラインは禁止が正しいかもね。
 
ガールズケイリンもねー、女同士の談合って怖そうだしね。
    


んじゃーね。
 

3つの願いとピアピア動画Zero




ご注意:
 この小説は「南極点のピアピア動画」をオリジナル作品とした二次創作です。本作品に登場する人物・団体はすべてオリジナル作品から着想を得たものであり、実在する名称と類似あるいは一致するものがあったとしてもまったくの偶然かつ無関係ですのでご了承ください。




「ほんとピアピア超会議は成功してよかったねー」

 今月のピアンゴ最高経営茶話会で山上会長はご機嫌だった。

「だってさー、新バージョンZeroがあんだけ評判悪くてさー、超会議まで失敗してたら、ピアピア動画自体が世の中から見放されるところだったよ」

 運営長が深くうなづいて同意した。

「まったくです。超会議とZeroのリリースをずらしたのは大正解でした。超会議中にZeroがリリースされていたら、超会議の興奮がZeroのショックで一挙に冷めるところでした」

「でも、ショックが当日に来るか、2日後に来るかの違いでしたけど」

 広報の儚井美智子(はかないみちこ)が冷たく指摘した。

「いや、もし、超パーティーの最後のエンジニアが登壇して粉雪を熱唱するところで罵詈雑言を浴びせられてたと想像すると寒気がするよね。

とりあえず、あの場は感動的に切り抜けられて本当によかったよかった」

 山上会長がニコニコしながら断言すると、まわりの社員が力なく笑ったが、儚井は不満そうで愛想笑いすらしやしない。

 わずか66日間という短期間で制作したピアンゴ渾身の大イベントであるピアピア超会議は大成功し、マスメディアにも大きくとりあげられて、世間やさまざまな業界に大きな衝撃を与えた。ユーザも珍しく運営の超会議での仕事に批判の声はあまりでず、ひさびさにピアピア動画のユーザが一体感をもった歴史的な出来事になったにもかかわらず・・・。超会議と同時に発表し、プレミアム会員限定でリリースされたピアピア動画の最新バージョンZeroの評判は最悪だった。

「会長、Zeroにどうしてバージョンアップする必要があったんですか?ユーザはだれも喜んでいません」

 儚井美智子が山上会長を睨みつけながら詰め寄る。

「ユーザはなにか変化すると必ず文句を言うもんなんだよ。たとえ以前よりも明らかに使いやすくなったとしても、慣れているユーザーインターフェースのほうが良いと感じるもんだ。ユーザの反応をいちいち気にしていてもしょうがない。問題はバージョンアップの中身だ。Zeroの出来がいいか悪いかが一番大事なことだ」

 山上会長は冷静に儚井を諭そうとしたが効果はなかった。

「だから、そのZeroの出来が悪い、というのがユーザの結論だと思いますけど」

 儚井のきつい目線に山上会長は思わず目をそらした。

「でもさー、ユーザもそんなに怒んなくてもいいのに。だから、今回、希望者のみバージョンアップできるようにしたんじゃん。そのまま原宿つかってくれてもなんの問題もないのにさー」

「このままいずれデフォルトがZeroに変更されちゃうと思って危機感をもっているんだと思います」

「あれだよね。やっぱ、新バージョンとかいっちゃったのがよくなかったよね。お試しバージョンとか、テスト公開とかいう名前にすればよかったんだよ」

「なんで無理矢理バージョンアップする必要があったのかわからない。ユーザが怒るのも無理はないです」

 儚井は本当にZeroが嫌いらしい。

 

 今回はピアピア動画はじまって最大のユーザインターフェースの変更をおこなった。生放送プレイヤーや新サービスNSENはそれほど不満がなく、むしろNSENは絶賛の声があがっていたが、いちばん肝心の基本となる動画プレイヤーのデザイン、レイアウトが根本から全部変わっていたので、従来のプレイヤーに慣れたヘビーユーザほどZeroのUIは使いにくく、大きな不満の声があがっていた。

「まあ、いつもバージョンアップは評判悪いけど、今回は本当に悪いね。ネットみたくないもん」

「そういえば・・・」 

 生放送担当の淫楽(みだら)が沈痛そうな表情で報告した。

「特に評判の悪い動画プレイヤー担当の志賀君は2ちゃんねるに批判スレまで立ってしまいました」

「まじで・・・」

 山上会長が呻き声をあげる。他の社員がいっせいに志賀君のことを心配して、口々にかばいはじめた。

「志賀君はZeroプレイヤーできましたーとかつぶやくtwitterアカウントに本名のせているのが、俺には理解できないんだけどwいくらなんでも馬鹿すぎるだろと」

 運営長が一刀両断する。

「ピアンゴ社員なのにネットで実名を出す怖さをわかってないw」

 淫楽が笑う。

「もっと信じられないのは同じアカウントで家族の写真とか公開しているんですよ。それが2ちゃんねるにそのまま貼られて、完全に家族構成までばらされちゃっています」

「ネットリテラシー低すぎますよ」

「せめて会社のアカウントと個人のアカウント分けなきゃだめでしょ」

 みんなが口々に志賀君のことを弁護した。

 ピアンゴ社員の絆の強さに感動して口元をうるませながら山上会長はいった。

「一番評判悪い左側のピアピア市場のウィンドウと動画エリアにコメント入力欄のっけろというのは、俺の指示なんだよね。志賀君いやがっていたし。彼のせいじゃないんだけどなあ。あ、でもユーザがブログで批判した記事の中で、動画再生後メニューをなくして次の動画へのリンクを一番大きくしたのはピアピア動画の文化を破壊するという指摘はそのとおりだと思った。見終わった動画にコメントつけたりタグつけたりするのを最優先にすべきだよ。次々と動画を消費つづけるひとばっかりになったらピアピアの良さがなくなるもん」

「どんどん次の動画をみたいっていうのは志賀君の行動パターンなんですよ」

 淫楽が解説をはじめた。

「志賀君ってHuluに加入しているんですけど、彼の映画の見方って変わっていて、リストの最初から順番にみていくらしいんですよ。タイトルの『あ行』のいちばん上から順番にみていく」

「まじで?ジャンル関係ないの?」

「いつも、お風呂に入りながら映画を一本見るという生活パターンらしいんですけど。どんな映画でもかまわないらしくて。体洗いながらとか適当に見てて、ああ、今日の映画はよかった。面白くなかったって思いながら風呂をあがるらしいです」

「なるほど、完全に映像を消耗品として消費する人間なんだ。じゃあ、ああいうインターフェースつくるのは納得だよね。彼の人生観が見事に再現されている」

 山上会長が感心してうなった。

 

「まあ、いいや。ところで君だれだっけ?」

 山上会長は部屋の隅のほうに黙って座っている社員のひとりに話しかけた。

「君、よく見かけるよね」

 話しかけられた社員は苦笑しながら答える。

「はい、いつもこの会議には出席させていただいてます。こうして名前を尋ねられるのも5回目くらいです」

「5回目じゃ、まだまだだな。じゃあ、名前はいいや。君、いつもアクセスログ報告するひとだよね?Zeroリリース後のアクセスログのレポートかなんかないの?」

「はい、みなさんの机の上にすでに配布済みです」

「あ、これね。なるほど」

 山上会長は目の前の資料を読み始めた。

「結局さ、ユーザのネットの表面上の反応よりもさ、大事なのはアクセスログだよ。リアルなユーザの反応はアクセスログを見れば分かる。・・・。ふーむ。・・・なるほど。これは面白い結果だよな」

 山上会長が満面の笑みで喜びはじめた。

「やっぱり、今回のバージョンアップは成功じゃん。いままでバージョンアップすると必ずアクセスがそのあと下がって回復するまで3ヶ月ぐらいかかったけど、今回はPVもユニークユーザも減ってないね。むしろ増えている。はじめての大成功だ」

「それはバージョンアップが選択制だからだと思いますけど。みんな原宿をつかっているんじゃないですか?」

 儚井美智子が冷水を浴びせようとする。

「いや、このログ見るとほんとそのとおりなんだよね。プレミアム会員170万人のうち、Zeroに変更したユーザが、なんと、まだ25万人。しかも、リリース3日目ぐらいからほとんど増えてない。でも、25万人のうち15万人が毎日使い続けているのもすごいよね。そして原宿をつかっているユニークユーザのほうは順調にZeroリリース後に伸びつづけていると。面白い。やっぱり、これ、たぶん、ユニークユーザが伸びているのはZero効果というよりも超会議効果だな。いや、ほんと面白い。興味深い結果だ」

 面白がる山上会長にあわせて会議室のみんなも笑顔をつくるが、笑い声をあげているのは会長ひとりだけだった。

「まあ、結論はでたんじゃないの?少なくともZeroに簡単に選択できる原宿プレイヤーの互換バージョンを用意しないとだめでしょう。このまま強行するとぼくの読みだと最大1割ぐらいのユーザがニコニコを離れる。1割いなくなるというのは致命的な大事件だから、経営判断としては受け入れられない。ソフトランディングを模索しましょう。そしてプラス、ユーザ自身がユーザインターフェースをカスタムできるようにして、ほかのユーザがつくったインターフェースを選べるようなAPIを用意しよう。それで最終的な解決にする。それを結論にしましょう。」

 山上が提案というか決定しようとしたら、CTOの万野が異を唱えた。

「だれか、第三者がつくったインターフェースを配布するサーバもピアンゴで用意するというならぼくは反対です」 「それは勝手に用意してもらえばいいじゃん。うちはAPIだけ処理するサーバを用意してさー。twitterクライアントをいろんなところがつくっているみたいになればいいんじゃないの?」

「そういうことであれば同意します。ただしAPIをさばくサーバ用意するのもかなり大変だと思いますが、そこはピアンゴで持つという判断を経営的にするのであれば受け入れます」

「ユーザが自分の好きな環境でサービスを受けられるというのは本質だと思うからそれでいきましょう。ただし・・・」

 山上会長は宣言した。

「われわれはわれわれでベストだと思う次世代の動画インターフェースをつくる。それは続けていきましょう。いろいろ重要な問題はあるけど、Zeroの方向性は基本的には正しいとぼくは思っています。これまで現場からつぎはぎだらけの新プレイヤーの企画ばかりあがってきていたけど、これほどチャレンジングな新プレイヤーの企画は初めてでした。ぼくは志賀君なら最終的には素晴らしい動画プレイヤーをつくれると思っています。それに、どっちにしたって解像度と画面サイズを増やすのは必要。その場合に現行のレイアウトはもはや維持できないから変更せざるをえないんだよ。そして同時に動画プレイヤーのエンターテイメント性を高めていくという方針も正しい。これらの目標は堅持しましょう。ぼくらは今回は動画プレイヤーを改良してユーザのインタラクションをもっと増やそうと試みた。その試み自体は正しいけど、結果は逆になっている、その事実は受け止めて、もっと改良していきましょう」

 というかんじで、ここでZeroについての話題は途切れ、また、超会議の話にもどった。

 

「しかし、超会議の評判はほんとよかったねー。一ヶ月以上たつけど、いまだに超会議関連のニュースとか報道がとぎれないのはすごい」

「超会議後の最初の一週間はワイドショーがつぎつぎと取り上げてくれて、その次の週はいいタイミングでピアンゴの赤字の発表があって盛り上がりました。その次の週は新聞。さらに次の週はカンブリア宮殿

 広報の円(えん)がコメントする。

「驚いたのはあのピアンゴの赤字の発表の話題で社内IRCがもりあがってみんながチャットしてたんですけど、だれひとりも会社のことを心配してなかったんですよ。むしろピアンゴはそういう会社なんだと、なんか誇りに思っているぐらいのひとばっかりで」

 運営長がいうと、みんなが、そうそう、ほんとそうだった、と賛同の声をあげる。

「俺はそれはどうかと思ってんだけどさ・・・」

 山上会長が苦々しげにコメントした。

「いやさ、そういうの平気だよ、って社外にスタンスを見せるのはいいと思うんだけど、みんな、なんか、本気で赤字なんてどうでもいいって思ってそうじゃん。やっぱり赤字は大変なことなんだよ。本当に赤字をへーきだとみんなが思ったら会社がつぶれる」

「まともなこといいますね。そのセリフ、秋野さんに聞かせてあげてください。喜びますよ」

 儚井が助言する。 

 と、そのとき、・・・。  

 会議室の隅から大きな機械音がなりひびいた。

 短い音。なんかどこかで聞いたことのある効果音だ。

 あーやさんだった。

「なに、いまの音?」と山上会長。

「なんか、XBOX360でよく聞く音に似てますね」と運営長。

「あーやさんですか?今の音は」

 部屋の隅の風景として、いつものように存在していた地球外生命体のつくったアンドロイドあーやさんは返事をした。

「おめでとうございます。・・・ございます。・・・・・ございます。・・・。みなさんの地球文明での活動が評価されて、新しい実績を獲得しました。・・・獲得しました。・・・獲得しました。・・・。」

 部屋の隅に10体ほど固まっていたあーやさんはいっせいにしゃべりはじめた。

「すみません。しゃべるのはひとりだけにしてもらえませんか。実績を獲得・・・って、実績ってなんですか?」

 山上会長は一番近くにいるあーやさんに話しかけた。

「みなさんの使っている言語では”実績”あるいは”トロフィー”という単語が一番意味が近いのですが・・・。」  

あーやさんが解説をはじめた。

「みなさんの地球文明は、いま星間文明と一体化する進化の途中にあります。その途中にいくつかのきまった条件を満たすと”実績”がもらえるのです。今回、みなさんの超会議がきっかけとなって、新しい実績を与えることが星間文明より認められました」

「それはすごい!超会議は人類の進化の重要なステップとなる大イベントだったのか」

 山上会長は興奮して叫んだが、あーやさんは冷たく否定した。

「ちがいます。メインクエストとは関係ないので、この実績を獲得しなくても星間文明への進化はできます。むしろ、やりこみ要素に近いので、ほとんどの文明はこの実績の獲得は目指さないで無視します。非常にもらえるのは珍しいタイプの実績です」

「褒められているのか、けなされているのか、わからなくなってきたけど、その実績をもらえるとなにかいいことがあるんですか?」

「はい、特別ボーナスとして、みなさんの願いを3つだけ叶えることが可能です」

「え?」「え?」「え?」「・・・」

 事務的に即答したあーやさんの言葉に会議室の一同は一瞬固まって反応できなかった。

「願いを3つだけ叶えることが可能?」  山上会長があーやさんの言葉を反復した。

「はい、ピアンゴが人類を代表して願いごとを決めてください」

「どんな願いでもいいんですか?」

「はい、物理的に可能な願いならなんでもかまいません」

「まじで?すげー。じゃあ、ピアンゴの株価をあげて、時価総額を10兆円ぐらいにしてよ」

 信じてないのか、山上会長が適当なことをいう。

「はい、可能です」

「え、まじで?」

 ちょっと山上会長の顔が真剣になった。

「会長、人類を代表する願いがそんなことでいいんですか?もう少し考えましょうよ」

 儚井が文句をいった。

「いや、だってさ、ピアンゴの時価総額Facebookを超えたら面白くない?」

 山上会長が口をとがらす。

 あーやさんが尋ねた。

「確認しますが、願い事はピアンゴの時価総額を10兆円にすることですか?Facebook時価総額よりも大きくすることですか?どちらですか?」

 山上会長はあーやさんの質問にどきっとして黙り込んだ。ピアンゴの時価総額を10兆円にすることとFacebook時価総額を超えるというのはどうやら違う願いごとらしい。そう、もちろん違うっていったら違う。しかし、厳密にはどう違うのだろう。

 そのとき部屋にいた量産型こいづかくんの一体が口をはさんだ。

「物理的に可能な願いという定義をちゃんとはっきりさせたほうがいいんじゃないかな」

 みんながいっせいにこいづかくんを見たが、彼はそれっきり口をつぐんで黙り込んだ。

 山上会長があーやさんに尋ねる。

「あーやさん。どうやってピアンゴの時価総額を10兆円にするのか、具体的なプロセスを教えてもらってもいいですか?」

 異星からきた女性型アンドロイドは尋ねた。

「それはひとつめの願いですか?」

「ええ、ひとつめの願いでいいです。ぼくらにわかりやすい形で教えてください。あ、できればもっと詳しく願いをかなえるやりかたを知りたいので、ピアンゴの時価総額を10兆円にすることをサンプルにして、どういう願いならかなえられるか、どうやってかなえるかを解説してほしいのですが」

「わかりました」

 意外にもあーやさんは結構、親切に解説をしてくれた。普通ならこういう願いを叶えてくれるのは悪魔で、なにか、ひどいしっぺ返しが待っているものだが、あーやさんはマジ天使、だった。箇条書きでまとめると願いごとのルールは以下のようになる。

 

・ 願いごとは本当に望んでいることでないといけない。

・ 願いごとは基本的には地球の公転周期の間、つまり1年間の間に遷移可能な物理的経路が存在するものに限られる。

・ ただし、星間文明が物理的状態を操作できる自由度はかなり高くて事実上、地球上にあるすべての物体の状態を変更することも可能なので、その限りにおいては、ほとんど全ての願いごとはかなうといっていい。

・ むしろ困難は正確に願いごとを言語で表現することにある。とくに、願いごとに人間がつくった社会制度のような概念がはいっている場合は、人間がその概念にこめている定義自体が制約事項となるので、願いごと自体に矛盾が生じやすい。

・ 願いごとに矛盾がある場合には願いごとは無効とされるが、カウントは消費されるので1回分無駄になる。

・ 願いごとをかなえる方法が複数ある場合は、基本的にはより短期間で簡単に実現できる方法が採用される。

 

 ちなみにピアンゴの株価を10兆円にする場合には、まず、日本国債をデフォルトさせて財政破綻させてハイパーインフレを起こすそうだ。

 

「いや、あぶなかったね。願いごとの副作用で日本経済を破滅させるところだった。こんなんじゃ、ピアンゴの時価総額Facebookよりも高くするなんて願っていたら、米国が壊滅したかもしれなかったね」

「まったくです。会長のナイス判断です。最初にルールを確認するのが大正解でした」 「なんか、危険度の小さい軽めの単純な願いごとにしよう。下手したら人類滅ぶよ。ピアンゴのプレミアム会員は全てZeroにバージョンアップするとかはどうかな?」

「それはどうでしょう。Zeroにバージョンアップしないプレミアム会員の存在を抹消する。たとえば、生命活動を停止する、とかになったりしませんかね?」

「それは困るなあ、ほとんどプレミアム会員がいなくなる」

 山上会長は考え込んだ。

「あーやさん、じゃあ、こうしよう。Zeroの中身が素晴らしくなって、ユーザが自発的な意志により、けっしていまこの瞬間の現在いるプレミアム会員はひとりも減らないでみんなZeroを使うようになる。そういう願いごとを叶えてください」

「はい、わかりました。完了しました」

「え、もう、完了したの?どういうこと?」

 山上会長はみんなにネットを見てどうなっているかを確認するように指示した。 「あーなるほど」  運営長がすぐに大声をあげた。

「原宿のロゴがZeroに変わっている!」

 儚井も報告をする。

「あ、ニコニコニュースでリリースもでていますね。ひろゆきの名前でユーザへの謝罪と名前だけバージョンアップすることにしましたとか書いています」

twitterでも、これぞ待ち望んだZeroだと絶賛のツイートがものすごい数です」

 山上会長は頭をかかえた。

「なんだそりゃ。んーー。2つめの願いごとも、むだに使ってしまったじゃないか。もう、これで残った願いごとはひとつだけじゃん」

「なんか、昔話の3つの願いみたいになってきてますね。きっと3つめの願いごとも失敗する流れですよ」

 淫楽がいう。

「まあ、そのほうが平和でいいのかもなー」

 山上はつぶやいた。

 円が口をはさむ。

「なんか、もう、世界が平和になりますように。とか、そんな抽象的で人類のためになる願いごとにしたほうがよくないですか?」

 即座に山上は否定した。

「いや、それ、一番危険な願いじゃないかな。核戦争が起きて人類が滅んで平和になるとかじゃないの?」

「じゃあ、これからの一年間の世界が戦争も疫病も恐慌もおきずに平和でありますように。とかじゃだめですかね」

 山上は考え込んでいった。

「まあ、たしかに美しい願いごとなんだけど、この願いごとは超会議がきっかけとなってもらったものだから、ピアピア動画のユーザに還元するのが筋じゃないかなと思う」  そう会議室にいる社員全員の顔を見回す。

 精一杯の心をこめてゆっくりと山上は話をつづけた。

「全てのピア厨がこれからの1年間、しあわせに過ごせますように。副作用が怖いから付け加えるけど、もちろん、1年間の間に悲しいことがおこったり死んじゃうひともいるでしょう。でも、トータルとしては幸せだと感じている時間のほうが長い、そんな一年でありますように、というのどうかな」

 山上会長のどや笑顔に、会議室のみんなはそろそろ会議も4時間ぐらいつづいていて、いいかげん家に帰りたいと思っていたので、ここら辺を落としどころにしとくかというかんじで賛同の意を示す。 

「いま、いいことをいったつもりでいます?」

 儚井は違った。

「願いごとの条件を覚えています?本当に心から望んでいないとだめなんですよ。会長は本当にすべてのユーザに幸せになってほしいと思っていますか?」

「え?」

 山上会長はちょっとたじろいだ様子をみせた。

「え?んー、どうだろ。いや、たぶん・・・、思っているかな。もちろん・・・」

「もっとはっきり断言してください」

「いや、大丈夫。ほんと、すべてのユーザに幸せになってほしいとは思っているもん」

「全員ですか?ちょっと想像してみてください。アンチ運営のユーザとか荒らしユーザもいますけど」

「いや、好きか嫌いかでいうと嫌いなユーザはもちろんいるけど、幸せになってほしくないとは思わないな」

「本当ですか?抽象的なイメージでいっていませんか?具体的なユーザを思い浮かべても大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃないかなあ」  いくぶん自信なさそうに山上はいった。

「ちょっとまって、具体的にユーザのパターンをいろいろ想像して本当に幸せになってほしいと思えるか、ちゃんと頭の中でシミュレーションしてみる。10分ほど時間くれないかな」 

 

 10分間。山上は考え込んだ。その間、全員が山上の考えを妨げないように、だれもひとことも発しなかった。願いごとで地球が滅ぶかもしれないのだ。

 

 きっかり10分後、山上は口を開いた。

 

「いろいろ考えたんだけどさ、全員の幸せを願うことは可能だと思う。本気でぼくはそう思える。でも、ピアピアユーザだけじゃなく、やっぱり円くんのさっきの意見を採用しようと思う。世界人類の幸福を願うことにする。自分たちだけじゃなくみんなが幸せになってほしいというのは、ピアピアユーザの願いでもあるとぼくは思うんだよね」

 もはや、だれもひとことも反対意見を発せず、山上のつぎのことばを待った。みんな早く帰りたいのだ。

「でも1年間幸せというのはちょっとやっぱり予想しない副作用がありそうで怖いから1分間にする。いまから全ての人類が1分間幸せな気持ちになって、ほかのひとのことも幸せになってほしいと願う、そういう心の状態になるようにしてくれないかな。あーやさん」 

 星間文明から送り込まれてきた女神は珍しく少し間をおいてから返事をした。

「わかりました。いまから開始します」

 

 目に見えないパワーが地球全体を覆った。願いごとをかなえるために地球の衛星軌道に集まっていたあーやさんの仲間たちだった。でも、彼らの存在にはどの天文台人工衛星も気づかなかった。 

 地球上のすべてのひとの脳の神経がすこしいじられた。シナプスがすこし増えたり、いくつかの場所の電位が変更された。 

 

 日本中のひとたち、米国、中国、ロシア、ヨーロッパ、中東、アフリカ、アマゾンの奥地に住んでいる部族や、南極の基地にいるひとまでふくめて、世界中の人々がひとしく幸せな気持ちでつつまれた。

 

 素晴らしい星間文明の科学力だったが、正直いって、たいしたことが起こったわけではない。

 

 山上以下、会議室にいた全員は、突然、自分が幸せであることに気づいて、お互いを見つめ合った。

 

 高速道路ではノルマが足らない交通警官がなぜか普段なら捕まえる微細な交通違反を見逃していた。

 

 ある雀荘では男が上家が捨てたアタリ牌をしばらく見つめていた。上家はずいぶんと今日負けが混んでいた。数秒後、男はクビをふりながら、自分の牌をつもった。

 

 国会議事堂の中にそのときいた人間型の生命体の多くは、なんて馬鹿らしい争いをしているんだろうと、そのときは思った。しかし、なにかが起こるには1分間では足らなすぎた。

 

 ロスの夜中のパーティーで支持者相手に演説をしていた米国大統領は突然に自分の胸の奥からわき起こってきた幸せの感情に驚いた。かってない聴衆との一体感に自然と涙がこぼれてきた。今日は人生で最高の演説になりそうだ、そう彼は思った。

 

 ローマでは早朝のミサが行われていた。祈りをささげる聖職者たちの間で、”それ”がはじまる瞬間、小さなどよめきがおこった。彼らは奇跡にきづいたのだ。

 

 香港では強盗が老婆の指輪を奪おうとしていた。いつもならナイフで指ごと切り落して指輪をもっていくが、なぜか、そのとき彼はできるだけ優しく指輪を彼女の指から抜き取った。老婆は抵抗しなかった。

 

 中東ではある兵士が、いま、まさに敵国の市民を撃ち殺そうとしていた。まだ相手は少年だったが、ゲリラだった。いや、本当にゲリラなのかは、よくわからなかったのだが、そんなことは問題ではない。  兵士がまさに銃を構えたときに相手の少年と目が合った。そのとき、突然、この子に幸せになってほしいという強烈な感情に襲われた。自分はいったいなにをしようとしているんだろう?こんなに幸せなのに。こんなにみんなに幸せになってほしいのに?

  やがて、不思議な1分間は終わった。いまの自分の感情はなんだったんだろうと、そう、いぶかしがりながら、兵士はふたたび少年を見つめ銃の引き金に指をかけた。

 

 世界中が幸せと平和への祈りにつつまれた。その奇跡はたった一分間しかなくて、なにかが変わるにはとても短すぎて、すぐになにもなかったように消えてしまうような奇跡だった。

 

 でも、確かにそのとき世界はひとつになって幸せにつつまれたのだ。  地球のあちことでひとびとがニコニコしながらみんなとつながっていた。

 

 つながったのは目の前にいたひとだけじゃなかった。いつもは憎しみあっているネットを隔てた向こうのひと同士も幸せで優しい気持ちになってつながっていた。

 ネットなんかなくたって人々はつながっていた。もう大人になった子供たちは、遠く離れて暮らしている両親のことを思った。親たちも子供たちを思って幸せにつつまれた。恋人たちや、もう終わった恋人たちでさえ相手のことを思って幸せな気持ちにつつまれた。いや、恋人とか友達とかも関係なかった。この世のすべての人が、みんな友達で恋人でもあって大切なひとたちだった。


 やがて束の間が過ぎ去り、地球を覆った見えない力の場は地球人にはまったく気づかれないまま消えていった。

 なにごともなかったかのように世界は元通りの日常を再開させたのだった。



(了) 

 

ちなみに元ネタの野尻さんの本はこちら

今回の二次創作の前作はこちら

【ミリしら】評価経済を批判してみる

ニコニコ動画の人気タグに「ミリしら」というものがある。1ミリも知らないという意味で、歌ってみた動画なんかについている。ようするに原曲をまったく聞いたことないけど歌ってみたとかいう意味だ。なにしろ元々の歌い方をしらないので無茶苦茶な歌い方だったり、意外とまともだったりしてどきどきして面白い。

 
 
ネットの言い争いにも「ミリしら」は、昔からよく見る光景だ。なにも知らないのに自分の極端な意見を主張したり、逆に他人のちゃんとした主張を思い込みで決めつけて批判するひとたちだ。でも、なぜか、わざわざ自分から「ミリしら」と名乗り出るような文化はないようで、ちょっとさみしい。ということで、今回の記事は堂々と「ミリしら」と主張しながら、なにかを批判してみるという実験だ。題材は最近よく単語を目にすることが多い「評価経済」を選んでみた。
 
 
なにしろ「ミリしら」だから、これからは評価経済の時代だといっているひとたちが、なにを主張しているのかをなんとなく想像して、こんなくだらないことをいっているのかと勝手に決めつけるところからスタートしたい。
 
 
おっとそのまえにどのように決めつけるかの方針というか議論の最終的な着地点、つまり結論をはっきりさせよう。ネットの議論の作法は結論が先にあることだ。まあ、もちろんいうまでもなく、結論はこれからは評価経済が大事なんていう思想なんて嘘にきまっているし、そんなことを主張している人間は信用ならないということである。そして、結論にとってもっとも必要で大切なのは、理屈ではなく、感情論だ。感情論こそがネットにおける最大の大義名分となるのだ。
 
 
上記の結論を導く感情論は(たぶん)以下のようになる。
 
 
・ いや、金ほしいし。金じゃなくもっと大切なものがあるなんて、したり顔で説教されるのはむかつく。
・ 評価経済とかネットで主張しているひとたちが個人的に気に食わないひとが多い。
 
 
さて、方針と結論と大義名分もはっきりしたところで、評価経済とはなにかという決めつけにはいろう。
 
 
本当によく知らないし、今回、ぐぐったりwikipediaで調べることも自分で禁じたので想像するしかない。まずは、ぼくの評価経済のイメージを列強してみよう。
 
 
(1) これからは貨幣経済から評価経済になるらしい。評価経済では評判が貨幣のかわりらしい。
(2) 貨幣経済がなくなるという意味でもなさそうで、貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して2軸の価値観が並立するイメージ。
(3) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5) よい評判を貯めることのほうがお金を貯めることよりも道徳的に正しいという前提があって、評価経済を大人にすることが貨幣経済を大事にすることよりもいい、と言わんばかりの雰囲気を感じる。
(6) 主張しているひとでよく聞く名前が岡田斗司夫。ひょっとしたら、経済学者がつくった用語じゃなく岡田斗司夫がいっているだけかもしれない?でも、そのわりには他のそれなりに有名な人でもよく評価経済とかいう単語を使っているのを目にするので、ちゃんとした理論がある専門用語の可能性もある?
 
 
まあ、だいたい、この六項目でぼくが知っている評価経済のイメージは全てだ。これから評価経済とはなにを主張しているのかを想像して決めつけよう。(3)、(4)、(5)はそのまま決めつけるだけで分かりやすいからいいだろう。(6)は分からないから保留して、触れないことにする。問題は(1)と(2)をどう解釈するかだ。具体的には評価経済とはどういうモデルを想定しているのかが、いまいちよく分からない。
 
 
最大の疑問は貨幣経済と評価経済の関係がどう定義されているのかである。ありうる可能性はつぎの3パターンあるいはそれらの組み合わせだろう。
 
 
(a) これからは長い目では貨幣経済はなくなっていき、評価経済に完全に置き換えられる。
(b) 貨幣経済と評価経済は並立してお互いの得意な場所で相互補完する。
(c) 貨幣経済で成功する=お金儲けのためには評価経済というモデルが有効である。
 
 
(a)はちょっと極端に見えるかもしれないが油断はできない。だいたい新しいパラダイムを提案するひとというのは過激なことをいいたがる傾向にあるので、現時点ではないかもしれないが、遠い未来の発展としては評価経済が貨幣経済を置換するぐらいのことは主張していても不思議ではない。むしろ貨幣経済と評価経済の構成比がだんたん後者が高くなっていくぐらいのことは予言しないと仮説として派手さに欠ける。(c)は評価経済は貨幣経済で成功するための手段に矮小化されているので、貨幣とは違う新しい価値観だとする主張と矛盾しているように見えるが、現世利益のない理論がネットで注目されることはまあないし、なにより現実的なので、いっしょに混ぜこぜに主張している可能性は高い。(3)のような主張が見え聞こえしてくることから考えてもおそらくこの予測は正しい。abcみっつともきっと主張しているのだろう。そう考えると(1)と(2)についても、(3)(4)(5)と同様にだいたいそのまま採用しても大丈夫そうだ。
 
 
以上の議論をまとめて評価経済とはこういうことを主張していると決めつけることにした。
 
 
(1’) これからは貨幣経済から評価経済が次第に重要になる。評価経済では評判が貨幣のかわりとなる。
(2’) 当面は貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して、このふたつの経済が併存する。
(3’) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4’) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5’) 評価経済を大事にすることのほうが貨幣経済を大事にすることよりも道徳的に正しい。
 
 
このように並べてみると、この評価経済という概念にはいくつか矛盾や欠点が含まれていることに気づくだろう。それは自分の想像力の問題じゃないかと思うひともいるかもしれないが、いや、それは相手の理論に問題があるからだと断定するのがネットの議論の流儀というものである。
 
 
というわけで、やっと評価経済という見えない敵の姿がはっきりした。さっそく見えない敵との戦いを始めよう。
 
 
まず、だれでも思う疑問は、貨幣経済と評価経済なるふたつの交換システムが本当に独立して併存することが可能なのかどうかだろう。また、もし、評価経済が併存するとしたとき、それによってお金が儲かると主張するのは矛盾でないかというのがふたつめの疑問。さらには評価経済が併存するかどうかにかかわらず、(3’)のお金が儲かることを最終的に目指すのだとしたら、少なくとも(5’)は同時には成立するとは思えないよね、というのが3つめの疑問だ。
 
 
さすが、攻撃する側が防御側の装備を決めつけただけあって、あっというまに批判の骨子は終わってしまった。せっかくなので、もう少し細かく検討してみよう。
 
 
貨幣経済と評価経済が独立して併存するというのはどういうことだろう。他人からの評価(=評判)と貨幣の単位に為替レートができて交換できるようになるという主張をしているのであれば別だが、そんなことはないのであれば独立した交換システムが成立するための条件は以下のようなものだろう。
 
 
・ 大前提として評判だけである程度、定量化と交換がおこなえること。
・ 貨幣と評判とは交換ができない、もしくはきわめて難しいこと。
・ もし、貨幣と評判が交換できる場合でも、交換できる貨幣の量と評判の量に相関関係が薄いこと。
・ 同様に貨幣で交換できるモノと評判で交換できるモノ同士も交換が難しく、交換できる量に相関関係が薄いこと。
 
 
理系の人間であれば交換尺度としての貨幣ベクトルと評判ベクトルができる限り直交していることといえばイメージしやすいだろうか。そして貨幣と評判に為替レートが存在しうるという場合は、貨幣ベクトルと評判ベクトルがかなり似た方向を向いているとことであり、そうなると評判経済は結局は貨幣経済に従属する存在にしかならないだろう。
 
 
実はぼくは貨幣経済と評価経済というふたつの交換システムが併存するための上の4つの条件は、ネット社会において意外と成立しているんじゃないかと思っている。つまり、貨幣と評判との交換は実際のところかなり難しい、かつ、お互いの交換できる量に相関関係は薄いと思っている。
 
 
ただし、その場合に”いい評判”のように評判に属性をつけることが、評判を交換するシステムを考えるときに邪魔になるのじゃないかというのが、ぼくの考えだ。評判を交換単位にする評価経済というのが成立するとしたら、評判の大きさだけが問題であり、評判の中身は関係ないとしないと成り立たないように見える。
 
 
ネットの有名人を見てみるがいい。いい評判っていったいなんなんだ?いい評判と悪い評判はお互いに簡単に入れ替わる。あれだけ叩かれていたホリエモンがネットで人気者になっていく過程を考えてみるがいい。マイナス100だった評判が、だんだん人気になって0になり、さらに人気がでることでプラス100になったのだろうか?プラスの評判もマイナスの評判も同時に存在していたのが実態だろう。そしてそのプラスだかマイナスだかの属性はなにかのきっかけで逆に変わるひとがたくさんいる。それが実態だろう。
 
 
逆に人気がある有名人がなにかの事件がきっかけで叩かれて一挙に信用を失うという場面もたくさん見るだろう。たくさん人気のあるひとはそのぶん何度も失敗してもなかなか人気がなくならないかといえば、そんなことなく、人気のあるひとでも、なんかの事件で悪い評判に変わるひとの割合はあまり変わらないことが予想される。むしろある程度定量的に増減するのは、いい悪いに関わらずに、なんらかの評判をもっているひとの数だろう。つまり、評判を定量的な交換するシステムをつくるときには、評判の属性を無視しないと難しいということだ。
 
 
貨幣経済に対置して評価経済を考えるなら、評判の属性の保存が難しいという問題を解決しないとシステムとして成立しないだろうというのがぼくの意見だ。評価経済が成立するとしても、お金に貴賎はない、という決まり文句と同じことが評判にもいえて、評判にいいも悪いもない、とならないといけないと思う。
 
 
そうなるといい評判を集めるとお金になるという主張は、これからは評価経済の時代だと同時に主張するなら二重の意味で矛盾することになる。ひとつはいい評判なんてものは評価経済の中では定義できないだろうということ。それと最初にいったそもそも評価経済が貨幣経済と併存するためには交換が難しいことが条件であるからだ。
 
 
・・・・・。
 
 
まあ、以上のようなことを思っているので、ぼくは評価経済という名の下に主張されているだろう個別の事柄の正当性はおいといて、評価経済という単語自体はバズワードだと思っています。
 

経営戦略と作戦と戦術と商品開発を定義してみる件

fromdusktildwawn氏のブログshi3z氏のブログのやりとりを見て思ったことを書く。

 

from氏のブログでは経営戦略と商品開発という用語が登場する。

shi3z氏のブログでは戦略、作戦、戦術、兵站という用語が登場する。

 

それぞれの議論や主張はよく類似のものを見かけるので、きっと、それなりに正当性があるのだろう。残念ながら、彼らのバイブルだろうビジネス書や銀英伝の類は読んでいないのでここでは言及しないことにする。

 

ただ、彼ら自身の文章からも定義や表現を苦労している節が伺える上記の用語については、きっと読者はもっと混乱しているだろうから、なにか即興で、もうちょっと理系的でもうすこし厳密な定義を与えることはできないかと思って考えてみた。

 

まず、戦略、作戦、戦術とはなにか?5分ほど熟考した上でのぼくの結論はこうだ。戦略、作戦、戦術のどれにもあてはまる。

 

一、 (効率性)怠け者が手を動かさずに考えたうんちくである。

一、 (単純性)簡単な法則なので説明されればバカでもわかる。

一、 (一般性)同じような局面であればいつでも適用できる。

 

働くのは大変だ。基本的には、戦略も、作戦も、戦術も頭を使って楽に仕事をする方法である。そして、戦略も作戦も戦術もなにしろ楽をする方法であるから、より問題を単純化するものであり、よくわからない作業をうまくやるための指針を与えてくれるものである。そして当然のことながら、同じような仕事では毎回使えることが重要だ。

 

では、戦略、作戦、戦術の違いとはなんだろう?これは上記のなんらかのうんちくを分類する方法であって、通常は時間的、規模的、あるいはその他の適用される範囲の大小によって決定される。

 

当然ながら

 

時間的な長さ  戦略 > 作戦 > 戦術   

規模的な大きさ 戦略 > 作戦 > 戦術

適用範囲の大小 戦略 > 作戦 > 戦術

 

となる。基本的にはスケールの問題だけだが、とかく戦略が大事とかいうひとは、戦略と戦術に質的な違いを見いだそうという傾向が強いように見える。ぼくの見解ではそれらは量的な差である。

 

また、上述の効率性、単純性、一般性という尺度で考えると、傾向としては以下のようになるだろう。

 

効率性  戦略 > 作戦 > 戦術  (どれだけの量の仕事を節約できるかという点)

単純性  戦略 > 作戦 > 戦術  (うんちくの単純さ)

一般性  戦略 > 作戦 > 戦術  (どれだけ一般的な法則か)

 

戦略が大事だというひとが多いのは、基本的には戦略が楽をする小手先のテクニックとしては一番に効果が高いからである、とぼくは思う。(というか、いま書いてて思った)

 

そう、基本的には戦略も作戦も戦術も小手先のテクニックだ。頭のいいひとが手を汚さずに頭だけで自分が有利にたとうという小手先のテクニックを体系化したものが戦略であり作戦であり戦術だ。

 

さて、ここで経営戦略と商品開発のどっちが大事かという議論をみて思ったことを書く。商品開発で勝負するということはどういうことか。商品の内容で勝負するということだ。もしくは商品の宣伝で勝負するということだ。それはライバルとの真剣勝負であり、どうやってライバルと差別化するかという戦いである。

 

こういうライバルとの競争の時には上記の戦略、作戦、戦術というのはなかなか役に立たないことが多い。なぜならしょせんは小手先のテクニックだから重要な小手先はお互いやっているからだ。そういう勝負では単純に基礎能力が高かったりや経験が多いほうあるいはより努力をしたほうが勝ったりする。そこでの勝負に強いことが、件のブログの議論での商品開発力があるということと関係あるのだろう。

 

ようするに戦略や作戦や戦術などといった小手先のテクニックが通用しない世界での真剣勝負である。ぼくは、だから戦略、作戦、戦術というのは基礎教養であり、商品開発での勝負が本戦であると考える。本当は、戦略、作戦、戦術で差をつけるのは難しいのだ。ところがIT業界のようにまだみんな方法論が見いだせていない新しい世界では、世の中のレベルが低いので、そういう小手先が有効になるということだ。

 

というわけでだいたい目標は達せたと思うが、最後に残った兵站とはなにかについて定義を与えよう。兵站というと補給。補給って大事だね。とかまあ漠然と比喩で理解してもあまり益がない。もう少し抽象的に考えると、兵站とは戦略、作戦、戦術を実行することである。戦略、作戦、戦術というのはしょせん頭の中で考えたことにすぎないから、実際に現実で実現するためにはそういう作業が必要だ。それを兵站という言葉が抽象する本質的な意味であると考えればいいだろう。

 

(追記)

戦略について小手先と書いたが、小手先じゃない戦略というのも当然存在はするだろう。ある程度、競争が進むと小手先の戦略というのは通用しなくなるし、逆に小手先でない戦略で勝負するということも可能だ。そして、そういう戦略であれば周りに隠す必要はそれほどない。なぜなら小手先でない戦略は他人には理解されない信用されにくいものだからだ。 ライバルに隠すべき戦略なんて、じゃんけんでぱーだすかぐーだすか、それぐらいの低レベルなものだけだ。たしかにそういうものなら隠したほうがいい。

経営戦略を隠すべき本当の理由とは次のふたつなんじゃないか。

・ もったいをつけたほうがみんなが信じやすいし、協力を得られやすい。

・ 幼稚だから話すと恥ずかしい。

以上