【ミリしら】評価経済を批判してみる

ニコニコ動画の人気タグに「ミリしら」というものがある。1ミリも知らないという意味で、歌ってみた動画なんかについている。ようするに原曲をまったく聞いたことないけど歌ってみたとかいう意味だ。なにしろ元々の歌い方をしらないので無茶苦茶な歌い方だったり、意外とまともだったりしてどきどきして面白い。

 
 
ネットの言い争いにも「ミリしら」は、昔からよく見る光景だ。なにも知らないのに自分の極端な意見を主張したり、逆に他人のちゃんとした主張を思い込みで決めつけて批判するひとたちだ。でも、なぜか、わざわざ自分から「ミリしら」と名乗り出るような文化はないようで、ちょっとさみしい。ということで、今回の記事は堂々と「ミリしら」と主張しながら、なにかを批判してみるという実験だ。題材は最近よく単語を目にすることが多い「評価経済」を選んでみた。
 
 
なにしろ「ミリしら」だから、これからは評価経済の時代だといっているひとたちが、なにを主張しているのかをなんとなく想像して、こんなくだらないことをいっているのかと勝手に決めつけるところからスタートしたい。
 
 
おっとそのまえにどのように決めつけるかの方針というか議論の最終的な着地点、つまり結論をはっきりさせよう。ネットの議論の作法は結論が先にあることだ。まあ、もちろんいうまでもなく、結論はこれからは評価経済が大事なんていう思想なんて嘘にきまっているし、そんなことを主張している人間は信用ならないということである。そして、結論にとってもっとも必要で大切なのは、理屈ではなく、感情論だ。感情論こそがネットにおける最大の大義名分となるのだ。
 
 
上記の結論を導く感情論は(たぶん)以下のようになる。
 
 
・ いや、金ほしいし。金じゃなくもっと大切なものがあるなんて、したり顔で説教されるのはむかつく。
・ 評価経済とかネットで主張しているひとたちが個人的に気に食わないひとが多い。
 
 
さて、方針と結論と大義名分もはっきりしたところで、評価経済とはなにかという決めつけにはいろう。
 
 
本当によく知らないし、今回、ぐぐったりwikipediaで調べることも自分で禁じたので想像するしかない。まずは、ぼくの評価経済のイメージを列強してみよう。
 
 
(1) これからは貨幣経済から評価経済になるらしい。評価経済では評判が貨幣のかわりらしい。
(2) 貨幣経済がなくなるという意味でもなさそうで、貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して2軸の価値観が並立するイメージ。
(3) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5) よい評判を貯めることのほうがお金を貯めることよりも道徳的に正しいという前提があって、評価経済を大人にすることが貨幣経済を大事にすることよりもいい、と言わんばかりの雰囲気を感じる。
(6) 主張しているひとでよく聞く名前が岡田斗司夫。ひょっとしたら、経済学者がつくった用語じゃなく岡田斗司夫がいっているだけかもしれない?でも、そのわりには他のそれなりに有名な人でもよく評価経済とかいう単語を使っているのを目にするので、ちゃんとした理論がある専門用語の可能性もある?
 
 
まあ、だいたい、この六項目でぼくが知っている評価経済のイメージは全てだ。これから評価経済とはなにを主張しているのかを想像して決めつけよう。(3)、(4)、(5)はそのまま決めつけるだけで分かりやすいからいいだろう。(6)は分からないから保留して、触れないことにする。問題は(1)と(2)をどう解釈するかだ。具体的には評価経済とはどういうモデルを想定しているのかが、いまいちよく分からない。
 
 
最大の疑問は貨幣経済と評価経済の関係がどう定義されているのかである。ありうる可能性はつぎの3パターンあるいはそれらの組み合わせだろう。
 
 
(a) これからは長い目では貨幣経済はなくなっていき、評価経済に完全に置き換えられる。
(b) 貨幣経済と評価経済は並立してお互いの得意な場所で相互補完する。
(c) 貨幣経済で成功する=お金儲けのためには評価経済というモデルが有効である。
 
 
(a)はちょっと極端に見えるかもしれないが油断はできない。だいたい新しいパラダイムを提案するひとというのは過激なことをいいたがる傾向にあるので、現時点ではないかもしれないが、遠い未来の発展としては評価経済が貨幣経済を置換するぐらいのことは主張していても不思議ではない。むしろ貨幣経済と評価経済の構成比がだんたん後者が高くなっていくぐらいのことは予言しないと仮説として派手さに欠ける。(c)は評価経済は貨幣経済で成功するための手段に矮小化されているので、貨幣とは違う新しい価値観だとする主張と矛盾しているように見えるが、現世利益のない理論がネットで注目されることはまあないし、なにより現実的なので、いっしょに混ぜこぜに主張している可能性は高い。(3)のような主張が見え聞こえしてくることから考えてもおそらくこの予測は正しい。abcみっつともきっと主張しているのだろう。そう考えると(1)と(2)についても、(3)(4)(5)と同様にだいたいそのまま採用しても大丈夫そうだ。
 
 
以上の議論をまとめて評価経済とはこういうことを主張していると決めつけることにした。
 
 
(1’) これからは貨幣経済から評価経済が次第に重要になる。評価経済では評判が貨幣のかわりとなる。
(2’) 当面は貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して、このふたつの経済が併存する。
(3’) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4’) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5’) 評価経済を大事にすることのほうが貨幣経済を大事にすることよりも道徳的に正しい。
 
 
このように並べてみると、この評価経済という概念にはいくつか矛盾や欠点が含まれていることに気づくだろう。それは自分の想像力の問題じゃないかと思うひともいるかもしれないが、いや、それは相手の理論に問題があるからだと断定するのがネットの議論の流儀というものである。
 
 
というわけで、やっと評価経済という見えない敵の姿がはっきりした。さっそく見えない敵との戦いを始めよう。
 
 
まず、だれでも思う疑問は、貨幣経済と評価経済なるふたつの交換システムが本当に独立して併存することが可能なのかどうかだろう。また、もし、評価経済が併存するとしたとき、それによってお金が儲かると主張するのは矛盾でないかというのがふたつめの疑問。さらには評価経済が併存するかどうかにかかわらず、(3’)のお金が儲かることを最終的に目指すのだとしたら、少なくとも(5’)は同時には成立するとは思えないよね、というのが3つめの疑問だ。
 
 
さすが、攻撃する側が防御側の装備を決めつけただけあって、あっというまに批判の骨子は終わってしまった。せっかくなので、もう少し細かく検討してみよう。
 
 
貨幣経済と評価経済が独立して併存するというのはどういうことだろう。他人からの評価(=評判)と貨幣の単位に為替レートができて交換できるようになるという主張をしているのであれば別だが、そんなことはないのであれば独立した交換システムが成立するための条件は以下のようなものだろう。
 
 
・ 大前提として評判だけである程度、定量化と交換がおこなえること。
・ 貨幣と評判とは交換ができない、もしくはきわめて難しいこと。
・ もし、貨幣と評判が交換できる場合でも、交換できる貨幣の量と評判の量に相関関係が薄いこと。
・ 同様に貨幣で交換できるモノと評判で交換できるモノ同士も交換が難しく、交換できる量に相関関係が薄いこと。
 
 
理系の人間であれば交換尺度としての貨幣ベクトルと評判ベクトルができる限り直交していることといえばイメージしやすいだろうか。そして貨幣と評判に為替レートが存在しうるという場合は、貨幣ベクトルと評判ベクトルがかなり似た方向を向いているとことであり、そうなると評判経済は結局は貨幣経済に従属する存在にしかならないだろう。
 
 
実はぼくは貨幣経済と評価経済というふたつの交換システムが併存するための上の4つの条件は、ネット社会において意外と成立しているんじゃないかと思っている。つまり、貨幣と評判との交換は実際のところかなり難しい、かつ、お互いの交換できる量に相関関係は薄いと思っている。
 
 
ただし、その場合に”いい評判”のように評判に属性をつけることが、評判を交換するシステムを考えるときに邪魔になるのじゃないかというのが、ぼくの考えだ。評判を交換単位にする評価経済というのが成立するとしたら、評判の大きさだけが問題であり、評判の中身は関係ないとしないと成り立たないように見える。
 
 
ネットの有名人を見てみるがいい。いい評判っていったいなんなんだ?いい評判と悪い評判はお互いに簡単に入れ替わる。あれだけ叩かれていたホリエモンがネットで人気者になっていく過程を考えてみるがいい。マイナス100だった評判が、だんだん人気になって0になり、さらに人気がでることでプラス100になったのだろうか?プラスの評判もマイナスの評判も同時に存在していたのが実態だろう。そしてそのプラスだかマイナスだかの属性はなにかのきっかけで逆に変わるひとがたくさんいる。それが実態だろう。
 
 
逆に人気がある有名人がなにかの事件がきっかけで叩かれて一挙に信用を失うという場面もたくさん見るだろう。たくさん人気のあるひとはそのぶん何度も失敗してもなかなか人気がなくならないかといえば、そんなことなく、人気のあるひとでも、なんかの事件で悪い評判に変わるひとの割合はあまり変わらないことが予想される。むしろある程度定量的に増減するのは、いい悪いに関わらずに、なんらかの評判をもっているひとの数だろう。つまり、評判を定量的な交換するシステムをつくるときには、評判の属性を無視しないと難しいということだ。
 
 
貨幣経済に対置して評価経済を考えるなら、評判の属性の保存が難しいという問題を解決しないとシステムとして成立しないだろうというのがぼくの意見だ。評価経済が成立するとしても、お金に貴賎はない、という決まり文句と同じことが評判にもいえて、評判にいいも悪いもない、とならないといけないと思う。
 
 
そうなるといい評判を集めるとお金になるという主張は、これからは評価経済の時代だと同時に主張するなら二重の意味で矛盾することになる。ひとつはいい評判なんてものは評価経済の中では定義できないだろうということ。それと最初にいったそもそも評価経済が貨幣経済と併存するためには交換が難しいことが条件であるからだ。
 
 
・・・・・。
 
 
まあ、以上のようなことを思っているので、ぼくは評価経済という名の下に主張されているだろう個別の事柄の正当性はおいといて、評価経済という単語自体はバズワードだと思っています。