ネットに木霊する叫び

 どんな音楽が好きと他人に訊かれる経験はだれにでもあるだろう。ぼくはその場合に絶対に自分の好きな音楽を言わない。だいたい、なんでも聴く、とか、そのとき周りの友達とかが聴いている音楽を聴いているとか答える。まあ、嘘ではない。でも、周りの趣味とかに関係なく、いつも、ぼくが猛烈に惹かれてしまう、あるタイプの音楽もあるのだが、それについては滅多に口を開かない。 なぜかというと、大昔、好きだった子に馬鹿にされた経験があるからだ。どういう風にいわれたかというと、「汗くさい」「なんか貧乏くさい」というような形容詞のひとことで切り捨てられたのである。これはきつかった。

 具体的に名前を出してしまうと、そのときはTUBEというバンドだった。同じように猛烈に惹かれてしまうバンドにはACIDMANなんかもある。単発の曲とかでいうとD-51のサヴァイバーとかいう曲はとても好きだった。JAM Projectとかもぼくの中では同系統だ。

 別にぼくの音楽の趣味の話を今回したいわけではないし、だれかに共感してもらったり、薦めたいわけでもない。なぜ、これらの音楽に特別に自分が惹かれるかの理由を考えたのだ。

 ぼくが惹かれるポイントはなにかというと、ボーカルがとにかく叫んでいるということである。押さえきれないなにかを込めて叫ぶように歌っているのである。ここらへんが汗くさいイメージがつく理由だろう。ただし、ただ、絶叫すればいいってもんでもなく、ヘビメタなんかは、ぼくは嫌いだ。メロディがちゃんとある。メロディにのせて叫んでいるのである。

 これはぼくなりの表現でいうと、”上手く叫んでいる”ということである。上手く叫ぶとはどういうことか。ぼくの定義では他人にちゃんと聴いて貰えるように自分の思いを絶叫しているということだ。そういうものにぼくは惹かれる傾向がある。

 話は変わって、ぼくは最近、他人に話を聞いて貰えるようになった。話が面白いという賛辞を受けることが増えた。そういわれても、ぼくはいまいち喜ぶ気にはなれない。なぜなら、ぼくは昔から別にたいして変わってないからだ。ぼくは何十年も変わってないのに、ぼくの話なんて昔はだれも聞きたがらなかったじゃないか、とそう思うのである。

 この感覚は分かる人とそうでない人がいると思うが、ぼくは小学校の頃から1対1なら友達と喋れるが、友達の輪の中ではまったくひとことも喋れなくなることが多かった。ぼくが喋ってもだれも聞いてくれない、だれも望んでいないという恐怖から一言も喋れなくなるのだ。そうなると、だれかが気を遣って話を振ってくれても、もうなにも言葉がでてこない。

 当時のぼくのように、周りの人間関係の中で疎外感を感じながら、自分にはなにも喋る資格がないと思って、無口に暮らしているひとは、世の中にたくさんいると思う。この話をまったく理解できない人も多いだろうが、本当にそうだから、知っておいて欲しい。

 時々、電車で独り言をつぶやいているおばさんとかを見かける。街中で突然叫び出すおっさんとかもいる。そういうひともきっとずっとみんなの中で黙り続けて生きていたのだろう。ぼくもよくひとりきりになるとトイレや風呂場でひとりごとをいったり叫んだりする。言いたいことを聞いてもらいたいから無口になって生きるというのはそういうことだ。

 なので、最近はぼくの話も面白がってくれるひとが多いのだが、いまいち、嬉しくないのは、多少、恨みが残っているからだろう。だって、ぼくが一番だれかに話を聞いて時にあなたはなにも聞いてくれなかったじゃないか、と思うのだ。いや、もちろん、昔、そもそもあなたはぼくのまわりにはいなかったんだけれども。

 自分のいいたいことを聞いて貰えるように一生懸命工夫して話すのはぼくの原点だ。でも、その技術もぼくの記憶の中では大学生の時にはおおむね完成されていた。最近になってやっと話を聞いて貰えるのは、ぼくがかわったんじゃなく、まわりの環境、社会的な評価とかが変わったからにすぎない。ぼくは昔から同じだ。

 

 世の中にはだれかに話したい、叫びたい思いを抱えながら、現実世界では、ずっと黙って生きているひとがたくさんいる。そうひとの一部がネットで叫んでいる。5年前、ニコニコ動画が生まれたときの異様な熱気はそういうひとをポジティヴに救う場所がはじめてネットにできたからだろう。残念ながら、ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。

 ぼくはそういうのを見ると腹が立って本気で喧嘩をふっかけることがよくある。全力で叩きつぶそうとしたりする。だって間違っていると思うから。

 別に彼らの昔の自分を見て、まだ、そんなところにいるのか、こっちまでこいなんて偉そうなことを思っているわけではない。繰り返すが、ぼくは昔と変わっていない。環境が変わらないと人間は変わらない。

 ただ、思うのは、例え、ぼくの罵倒が、さらに彼らの頭に血を上らせカッカさせたとしても、ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか、ということだ。

 そう、信じることにして、時にぼくはネットで自分の抱える欲求不満を発散させるのだ。

 

ケイクス加藤さんに訊ねてほしいハックルさんのこと

今週の水曜日にこういう番組があるらしい。

 

cakes(ケイクス)VSブロマガ~どうなる? ネットとクリエイターの未来~加藤貞顕×川上量生×ハックル

 

雑誌形式の電子書籍ともいえるケイクスとブロマガの比較と、今後のネットとクリエイターの行方はどうなるか、みたいなのが番組のテーマらしいが、、そんなことはどうでもよくて問題は司会のハックルさんこと岩崎夏海氏である。

 

岩崎夏海氏といえば、はてなブックマークではファンとアンチを両方とも大量に獲得し、どっちかというとアンチあるいはややうさんくさい目で見ているひとのほうが多いかなという超有名ブロガーだ。

 

彼が数年前に、『もしドラ』こともし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を出版し、大ベストセラーになったことはネットの一部、つまりはてな界隈では大きな驚きだった。

 

まさか彼がそんな世間的な大成功を収めるような人物だったとは、みんな思っていなかったのである。

 

今にいたるまでもネットの少なくともはてな界隈では『もしドラ』の評価もハックルさんの評価もとても低い。でも、売れた。とてつもなく売れた。この事実をどう解釈するべきかはネットの数多のハックルさんウォッチャーにとっても重要な問題であった。

 

事実はともかくとして、なにかの間違い、あるいは運が良かっただけ、と思いたいのがアンチハックルさん達の正直な気持ちだろう。

 

ぶっちゃけ僕自身も『もしドラ』を読んだとき、つまらないし、くだらない、と思ったし、まさかこんなに売れるとは予想だにしなかった。少なくともマーケティングに関わる人間としては『もしドラ』が売れることを予見できなかった僕は大いに恥じ入るべきだろう。それでもなお、いまだ未練がましくも、つい考えてしまうのだ。

 

もしドラ」って本当に面白いの?

 

ハックルさんて、本当に才能あるの?

 

これはハックルさんのファンあるいはアンチを問わず、ハックルさんに関する究極の疑問であり謎だといえよう。

 

そこで今回の放送に登場するケイクス加藤貞顕氏である。

 

加藤さんは、ピークオブケイク社を創業し電子雑誌ケイクスを立ち上げる前はダイヤモンド社の編集者をやっていて、なんと『もしドラ』も彼が担当していたのだ。

 

ハックルさんとはなにものか、もしドラとはいったいなんだったのか、という疑問をぶつけるのに彼より適任なひとはいないだろう。明日、対談するドワンゴ川上量生氏にはぜひ以下の質問を加藤さんにぶつけて欲しい。

 

(1)『もしドラ』という本の中身について加藤さんはどの程度かかわったのか?また、本のマーケティングプランを立てたのは加藤さんなのか岩崎さんなのか?

(2)ぶっちゃけ『もしドラ』を150万部も売った本当の功労者は作者岩崎夏海と編集者加藤貞顕のどっち?

(3)加藤さんは岩崎夏海氏には、A:才能がある or B:才能がない。どっちだと思っている?

(4)無難にAと答えるだろう加藤さんに尋ねます。ケイクスを立ち上げるときに才能もありパートナーとして大成功した仕事もしたことのある岩崎夏海氏に執筆者の一人として声をかけなかったのはどうしてなのでしょうか?

(5)人間岩崎夏海についてどう思いますか?ぶっちゃっけ人格的にどう評価していますか?

 

ほぼ毎日更新をしているハックルさんのブロマガを読むにつけ、あらためて、彼の実力は本物だと感じます。

 

ブロマガの発表会で月額840円は高いんじゃないかという指摘に対して、岩崎夏海氏は、それに見合う記事を書くように自分を奮い立たせるんだと主張していましたが、いまのところ彼のいうとおりのクオリティを実現できているようにみえます。数あるメルマガのなかでハックルさんのが今一番面白いし、いろいろ考えさせられる斬新な視点を与えてくれる、そういう記事を書いています。なぜ、彼をケイクスの看板にもっていかなかったのか?よほど付き合うのがめんどくさい人なのか?

 

多くのひとが感じているハックルさんの自己承認要求の強さ、自意識の過剰さ。それを彼自身は’わざと”演じていると主張しているが、おそらく、だれも信じてないだろう。彼は本当に天才なのかどうか?ただ、天才とはえてして人格面に偏りがでるものである。ネット以前は一般人が知ることのなかった天才の内面をたまたま、ぼくらは目撃しちゃっているだけなのかもしれない。

 

もうひとつハックルさんの人格形成に影響あったかもしれない重要な要素として、ハックルさんはもし天才だとしても、これまた別の天才秋元康の付き人として長く側にいたことがある。秋元康はハックルさんの才能を見いだしていたのかそうでないのか?『もしドラ』が大ヒットしたあとは、あいつは昔から見所あったとか過去が塗り替えられている可能性も高いように思うが、実際のところはどうだったのか?おそらくはもんもんとした思いを秋元康の側で抱えていたのではないだろうか?

 

とにかくハックルさんが、ネットでいま一番面白い。

 

オタクの恋愛というテーマのリアリティ(あの花編)

「モテキ」に引き続き「あの花」についてである。

「あの花」というのは昨年の4月ノイタミナ枠で放送されて人気を博した「あの日見た花の名前をぼくたちはまだ知らない」というアニメシリーズの略称である。同じく昨年の1月から放送された深夜アニメシリーズの「まどかマギカ」と並んで「あの花」は2011年を代表する傑作アニメ作品だ。ぼくがシリーズ最終話まで見た2011年のアニメもこのふたつだけになる。

 

もっとも「あの花」を見たのはつい最近だ。最初、BDの1巻だけ買って見て、あまりに面白く見終わってすぐ残りの巻を注文した。で、4日ほどかけてあっというまに全話見てしまったのだが、見終わってから、BDを買ったのは1巻だけで2巻以降は間違えてDVDを注文していたことに気づいた。見ている最中は途中からDVDに変わったことなにも気づかなかった。つまり映像的にはHDである必要はまったくなかったアニメ作品だったといえる。

 

ネットを見ていても「あの花」の評判は非常に高く、単に人気があったというだけでなく、ファンの作品への入れ込み方、感情移入の仕方も並外れて強い作品だったようだ。

 

また、深夜アニメファンだけが好む作品でなく、広く一般の人にも受け入れられる可能性のある普遍性も持った作品であると僕は感じた。

 

にもかかわらず、基本的にはこのアニメは、主人公「じんたん」のような引きこもり要素を持つ人のために作られた物語である。悲しいラブストーリの体裁をとっているのは表面だけで、本当は主人公みたいなひきこもり&ひきこもり予備軍のひとたちへ慎ましい現実逃避とともに現実への救いを与える物語だ。

 

まずは登場人物とストーリーの要約をしよう。

 

主人公:じんたん

ヒロイン:めんま

幼なじみ:あなる

イケメンの友人:ゆきあつ

優等生メガネ女:つるこ

三枚目の友人:ぽっぽ

 

主要登場人物はこの6人だ。この6人は子どもの頃は仲良しグループだったが、いまはお互い距離が離れている。

 

あと、重要な脇役として、主人公のお父さんと幼なじみ「あなる」の女友達二人組がいる。これらは世間の代表だ。したがって、この物語は基本は仲間内の6人の中でいろいろ事件が起こる話であって、世間との関わりはほとんどお父さんと「あなる」の女友達二人ぐらいしか存在しないというとても内向きな話になっている。ではストーリーを要約してみよう。なにしろテレビシリーズ1クールなのでどうしても外せない要点だけに絞っても結構長くなったがご容赦頂きたい。

 

 

ーーー あの花のあらすじ ーーー

主人公「じんたん」はひきこもりで学校にいっていないけど着ているTシャツだけはユニークな少年だ。母親はいなくて父親との二人暮らしだ。だから、父親が仕事にでかけると、本当は自宅にひとりきりになるはずだが、実は内緒の同居人(しかも女の子!)がいる。それがヒロインである「めんま」だ。でも、彼女は実はゆうれいで「じんたん」以外に姿は見えない。しかも彼女は主人公が小さい子どものときの仲良しで、大昔に事故で死んでしまった女の子だったのだ。主人公は、彼女の事故死には負い目もあって後悔している。だから、もし、「めんま」が死んだときの小さい子どもの頃の姿で化けてでたら、ほとんどホラー映画になるところだが、そこは深夜アニメ。なぜか、もし、生きていたらこうだっただろうという成長したかわいい年頃の女の子(多少ロリははいっているものの)の姿でめんまは幽霊としてあらわれる。だから、ちょっとエロい。ほとんど下着姿。主人公にしか見えない設定のはずなのに抱きついたり、いっしょに寝たりする描写はほとんど物理的実在があるようにしか見えない。本当はゆうれいという設定を思い出さなければ、突然、かわいい女の子が押しかけてきて同居するという美少女アニメの典型的なパターンが展開されている。

 

なぜ、死んだはずのめんまが今頃になってゆうれいとなって現れたのか、めんま本人もわからないが、たぶん、なにかねがいごとをかなえて欲しいからだという。めんまの願い事とはいったいなんだろう、主人公がいろいろ見つけようと努力するのがこの物語の中心となる目的になる。

 

さて、めんまが生きていた頃、めんまも含めて主人公たちは「超平和バスターズ」と名付けられた仲良し6人組を結成していた。めんまが死んだあと、「超平和バスターズ」は自然消滅してしまい、もはや残った5人も一緒に遊ぶことはなくなっていた。リーダー格だった主人公「じんたん」も昔の輝きはすでになく、ただの登校拒否生徒として、まわりから見下される存在になっていた。

 

めんまを助けるために昔の仲間をもういちど集めよう!とじんたんが努力をするわけではないが、勝手にみんなが集まっていく方向でストーリは展開される。最初に現れるのは幼なじみの「あなる」だ。幼なじみというと、超平和バスターズの6人組は全員幼なじみなわけだが、あえて幼なじみというにはワケがある。オタク的アニメにおいて幼なじみというと、要するに主人公とは腐れ縁で仲が良くていつも主人公のことを心配しているんだけど、別に恋愛対象じゃないよ、なんていいながら、実は主人公のことを好き、という女の子のことだ。しかもまったく女にもてない主人公にとって唯一の女っ気であるにも関わらず、主人公の本命のヒロインとの恋愛の過程で傷つき踏み台にされる運命をもった理不尽な役回りだ。

 

でも、最初に主人公じんたんの仲間になるのは、ぽっぽというデブだ。ぽっぽは超平和バスターズの6人の中では一番目立たないチビでずっとリーダーのじんたんに憧れていて、じんたんと再会するまでの間に世界中を旅してデブになった。そんなんだから、じんたん同様に学校はいっていない。

 

じんたんの呼びかけに超平和バスターズの6人は再びかっての秘密基地に集結する。集結したもののみんなの心は簡単に元通りのひとつにはならない。あなるはすぐに仲間になったものの、残るゆきあつとつるこの二人は冷めている。特にイケメンのゆきあつが冷たくて、めんまの幽霊なんているわけがないと言い放つ。そうこうしていたら、めんまの幽霊とは別にめんまらしき人影がちらちら現れる。めんまの幽霊はふたりいるのか?追いかけてみたら、それは実はめんまのことが忘れられなくて夜な夜なめんまの女装をして徘徊していたゆきあつの姿だった。女装という秘密を握られたゆきあつはやむなく仲間になる。ゆきあつが好きなつるこも一緒についてくる。

 

一応、多少のしこりは残しつつも再結成された超平和バスターズは本格的にめんまを成仏させるべく活動を開始するが、なかなかめんまの本当のおねがいがなんなのかわからない。そんな中、昔の自分を取り戻しつつあった、じんたんはもういちど学校へ登校しようとチャレンジするが、途中でくじけて帰ってしまう。めんまは、じんたんが学校にいくのがめんまのお願いかもしれないといってじんたんを励まそうとするが、じんたん逆ギレする。

 

そんなときじんたんの父親と、たしか、母親の墓参りにいく。じんたんは父親がどうして学校にいけと自分を怒らないで放任しているのかを疑問に思う。でも話してみると、父親はじつはじんたんの生活のことを細かいことまで把握してくれていた。そんなに自分のことを見てくれていたんだとじんたんは感動するが、でも、そんな主人公に、いや、じんたんのことは、なにも分からないんだと父親は悲しく言う。じんたんと父親がはじめて心を通わせたシーンである。じんたんの父親はちょっとアーティストっぽいかんじでいつもニット帽をかぶっているのだが、心を許した父親は、ここではじめてニット帽を脱ぐ。なんとニット帽の下はハゲだった。あの花の前半のクライマックスである。そしていつしかめんまは学校いきたくなければいかなくていいよとじんたんにいうようになるのだった。

 

こうして心の傷をひとつひとつ癒やされていったじんたんは次第に真面目にめんまを成仏させるという目標に向き合っていくというのが、後半のストーリーだ。その過程で超平和バスターズのみんなはめんまが成仏するというのはどういうことか、めんまを成仏させたいという自分の気持ちは果たして純粋なのか?いろいろ悩むことになり、感動的なエピソードがラストシーンまでいくつもあらわれるのだが、まあ、そこらへんは細かいところなので説明の必要はないだろう。

 

結局、じんたんは最後にめんまと好きだと告白する。めんまもその思いに答えるが、ほかの仲間のみんなも好きなのだといって成仏する。結局、ゆうれいになっためんますらじんたんとくっつく現実に、めんまへの思いを断ち切ろうとするイケメンゆきあつは同じくじんたんに振り向いてもらえない幼なじみあなるに付き合おうというが、それもうまくいかずに、結局、昔からゆきあつのことを好きだったつることくっつくのだった。

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あの花とはこういう話だ。見たことのないひとは実際に見て確認していただきたいが、見たことあるひとに対しては、もういちど繰り返そう。あの花はこういう話である。

 

そしてあの花はオタクの心を癒やすようにつくられた物語である。

 

オタクとはそもそもなにか?趣味にのめりこむ人たちという定義を好む人も多いだろう。が、とくに上の年代の一般人にとっては現実社会に背を向けて自分たちの世界に閉じこもっているひとたちというイメージをオタクという言葉に対して抱いている。若い世代においてはオタクというのはそういうネガティブなニュアンスはかなり消えているので違和感をもつひとも多いかも知れないが。

 

なぜオタクが現実社会に背を向けたのか?そして自分たちの世界に閉じこもったのか?趣味として好きだから自ら飛び込んだひとたちもいるだろうが、多くは現実社会に馴染めなかったがゆえに自分の世界に閉じこもらざるを得なかったひとたちが自然に肩寄せ合って集まったという一面がオタクのコミュニティには確実にある。「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」とか揶揄されるネットのオタクコミュニティの団結力の脆さの原因はこんなあたりにあるのだろう。

 

あの花の主人公のじんたんもテレビゲームはするもののそれほどのめりこんでいるようには全く見えない。ひきこもりでやることがないから、逃げ場のひとつにテレビゲームがなっているだけに見える。だが、一般世間からみたらオタクとしてひとくくりにみなされるようなそういう人間だろう。

 

友達をつくるコミュ力に欠けていた。いじめにあった。学校の勉強にまったくついていけない。家が貧乏で学校の友達との付き合いができない。現実社会でうまくやっていくのは大変なストレスだ。ひきこもりまでいかなくても、その予備軍まで含めると、主人公じんたんの境遇に何らかの共感を持つひとはとても多いのだろうと思う。そういうひとたちの悩みの逃げ場所として、アニメやゲームなどのオタク趣味が機能していることは間違いない。

 

そういうひとたちにどういう夢を与えてあげればいいか?どういう救いをアニメで見せることができるのだろうか?

 

映画モテキのような実写と違い、アニメの場合は現実とは異なる別世界をつくるのが比較的容易だ。実写だとどうしても現実の影が濃すぎて、ファンタジーな世界に入り込ませるのが難しい。実写だったら荒唐無稽な恋愛でもアニメだったら信じられる。

 

だから、三次元の女性なんて信用できないし不要、二次元の女性だけでいいという自分が見る世界を現実から完全にアニメ側に変えてしまうような入り込み方をしているひとも多く、また、そういうひとたちの需要を満たすことが商業的にも一定の成功を保証する安全な道である。そして、あの花にもそういう現実を置換するファンタジーを与えるという要素は存在する。ただし、あの花で見せるファンタジーは現実からそっぽを向いた荒唐無稽なものではなく、現実をある程度、直視したうえでのささやかなものだ。

 

まず、ヒロインがゆうれいであって現実にいる女の子でないというのが謙虚さの第一歩だ。また、幼なじみもあだ名がちょっとエロい「あなる」になっているというのがポイント高い。こういう設定だったら女の子と冗談いいあえるかもと思わせるあざとい小技になっている。さらには主人公はなにか特別な能力はもっていないただのひきこもりである。あるのは隠された能力ではなく、昔のオレはちがったという思い出だけである。たいていのひきこもりのひとも記憶を辿れば生まれてからずっと世間から疎外されていると感じているひとは少数だろう。ほとんどのひとには記憶の彼方にはもっとちがった過去があったはずだ。そして現実にいるという設定の幼なじみからの求愛すら受け入れずに幻覚のような死んだめんまの影にとらわれる道を選ぶというのは、もはや三次元の彼女なんて必要ないし、期待しないという態度に呼応する。つまり恋愛物語としてのあの花は、ヒロインはちゃんとした人間じゃないかも知れないけど、二次元の彼女で自分はかまわないんだという主人公が宣言をする非常にある意味リアリティのある謙虚な話になっているのだ。

 

また、主人公が恋人と同じぐらいに切望しているのは仲間である。あの花は恋人とともにともだち:仲間ができる物語だ。仲間との絆を描いたマンガとしては、リア充も大好きなワンピースというのがあるが、あの花と比較すると同じ仲間の大切さを確認するテーマがこうも違った形であらわれるのかということが興味深い。箇条書きで比較してみよう。

 

・ ワンピースの仲間は主人公と出会って仲間になる。あの花の仲間は主人公と出会うわけではない。もともと主人公の仲間だったけど離れていったのが戻ってくる。

・ ワンピースの仲間はそれぞれ自分の夢をもっているが主人公の夢のために命をかけて助けてくれる。あの花の仲間は主人公の夢が自分たちの夢と同じであるということに気づいてくれる。

・ ワンピースの仲間は主人公の敵として戦うこともある。戦いの中でもお互いを尊敬し友情を育んでいく。あの花の仲間が主人公と喧嘩することはない。主人公が一方的に傷つけられる。思いがけずに一方的に傷つけるかである。喧嘩で反省はしては相手を尊敬したりはしない。

 

ワンピースも過酷な現実で生きる読者に勇気を与えるマンガだが、きっと本当に信じられると思っている友達が現実にいるひとたちが共感しやすいのだろう。あの花のじんたんは人間関係において恋愛だけじゃなく友達すら期待していないぐらいに現実に絶望しているのだ。

 

実際にあの花は物語に構造とは裏腹に最後まで本当に超平和バスターズの固い友情が復活したという印象は与えない。基本はじんたんとめんまの物語であり、そのほかの仲間はふたりを見守ってくれるようになったというだけの話なのだ。

 

あなるは結局ほっとかれる。これは三次元の女性に対する復讐のあらわれにもなっている。そしてイケメンゆきあつの扱いがもっとも酷い。女装趣味という設定にされた上に、一番、好きなめんまはじんたんにとられた上、めんまに相手にされないあなるとすら付き合うことはできない。イケメンなのに二重にじんたんに敗北をさせられる役回りだ。そして結局くっつくのはずっとゆきあつを好きでいてくれたメガネ女つるこである。ようするにおまえは好きな女とつきあう資格はない。つるこがお似合いだということだ。これがリア充社会への復讐でなくてなんなのか。

 

また、多くのアニメで主人公はどうみても自分勝手なんだけど、ヒロインからはどうして他人のことばっかり考えて自分のことを考えないのとか説教されるシーンが多くある。あの花でもそうだ。これはなぜなのかをずっと不思議だったのだが、直接の理由は、そういう風にいわれたいと思っているアニメファンがいるということだろう。なぜなかを考えると、これは恋人も友達もいない人間の思考パターンじゃないかと思う。架空の理想化された恋人に対して自己犠牲の妄想を繰り返しているからではないだろうか。

 

まあ、このように、あの花はじんたんのように人生を諦めかかった人間の心にも届く作品なのだ。

 

しかし、一方、これは非常に深い心の闇にまで踏み込む作品でもあるということになる。

 

前半のクライマックスのじんたんのお父さんのハゲがなぜ必要だったか。登校拒否するじんたんを無理矢理登校させるわけでもなく、かといって無視するわけでもなく、ちゃんと見守っていてくれる。これはじんたんに共感するひとの共通の願いだ。きっと実体験においてもみんな思い当たる部分があるのだ。この部分に強く反応したひとは多いはずだ。こういう父親であってくれたら。ただ、ここは非常に危険な心の領域に踏み込むことだ。そんな単純な慰めを与えられてもそうそう簡単には心を開きたくない。そういう部分に立ち入る話なのだ。だから、深刻になる前にお父さんのハゲで空気を一挙に変えて笑い飛ばしてごまかす。それがおそらく見るひとの心を癒やす最高の手法だったのだろうと思う。

 

善意からじんたんに登校するように強くいうめんまも途中からはいわなくなる。いうのは簡単だし、自分のことを心配していってくれているのは分かるけど、どれだけその本人にとって登校するのが大変な苦痛かを他人は実際には知ることができない。めんまはそこまでも理解してくれる恋人なのだ。

 

あの花が素晴らしいのは、アニメとしてよくあるような現実逃避のうそだらけのファンタジーを与えるのではなく、ちゃんといまのアニメの枠組みの中で精一杯に現実と向き合う作品を作ったということだと思う。ファンタジーがないわけではない。それは救いでもあるから。そして他人事だからいえるような無理な説教をメッセージとして垂れ流すのではなく、たんに現実の苦労、悩みをさりげなく描写してみせた。そういうところではないかとぼくは思う。

 

・・・・・。

 

 

と、まあ、あの花を見て、こんなことをつらつらと考えてしまったのにはもうひとつ個人的な理由がある。

 

いま、スイスに住んでいる姪が3人日本に遊びに戻っている。7歳と5歳と4歳の全員女の子だ。妹は米国人と結婚したので、3人とも日本語と英語を話す。どちらかというと英語が母国語だ。ところが仕事の関係で2年前からスイスに引っ越したのである。スイスの中でドイツ語圏の地域である。母国語が2つあるというのは実は子どもにとってはかなり大変なことだ。どちらも中途半端になる。彼女たちは英語のほうが得意だが、同年代の英語圏の子どもほどは語学力はない。かといって日本語は字も読み書きできない。それがドイツ語しか話さないひとたちが住んでいるところに引っ越しをするというのはどういうことか。

おしゃべりで活発な長女はあっというまに暗くなった。友達がいっきょにいなくなったのだ。もともと人見知りだった次女はほとんど自閉症気味になった。2年たった今は、長女はやっと現地でも友達ができたようで明るさを取り戻したが、次女はいまだにドイツ語はひとこともしゃべらない。子どもながらに絶対にしゃべらないと固く決意しているのだ。そして2年間のうちの大きな変化がひとつ。みんな携帯ゲーム機をかたときも離そうとしない。おそらくあの使い古されたNintendo DSによって彼女たちの心はこの2年間どれだけ救われたことだろうか。でも、とりあえず日本にいる間はできるだけとりあげることにした。

もうひとつ思ったのは、彼女たちは、まだ姉妹3人でいたからこそ頑張っていけたのだと思う。

日本のひとりっこが社会に疎外されたらやっぱりきついよね。日本語が通じるからといっても、だれとも会話しないまま帰るんだったら、通じないのといっしょだ。そんなやつは、ぼくの同級生の中にもいた。ひとりっこだったら、家に帰っても逃げ場はない。

 

そんなことをあの花を見て思ったのだ。ぼくがここで書いたあの花のまわりにコーディングされた美しい物語もそれはそれで素晴らしいものだけれどもね。

 
 

オタクの恋愛というテーマのリアリティ(モテキ編)

いまさらではあるが、最近、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(通称”あの花”)という去年のテレビアニメシリーズと、「モテキ」という、これも去年に公開されてヒットした映画を見て、いろいろ思うところがあったので書いてみる。

 

このふたつはアニメと実写という違いはあるが、オタクの男の子の恋愛という同じテーマを扱っている。違うという人もいるかもしれないが、そういう理解もできるんだから、しょうがない。

 

およそ古今東西の物語というものは所謂”お話”であり、とどのつまりは主人公が読者が羨ましがるような突然の幸運に出会う話だ。ストーリー自体が悲劇であってもこの場合は関係ない。読者が自分の暮らしている日常と比較して刺激的であり、物語の登場人物のだれかに感情移入できるのであれば、それは読者が心の中で望んでいる羨ましい世界なのだ。

 

だから、なんの努力をしなくても主人公に女の子がよってきてハーレム状態になったとしても、そのこと自体は非難には値しないだろう。裏の畑で犬が鳴くので掘ってみたら大判小判がざっくざく出てきたという話とおんなじだ。

 

むしろ、どういう幸運であれば、いまの時代の人々が感情移入できるようなリアリティを与えることができるのか、それを探り当てることが、それぞれの時代における物語の作り手の使命になるのだと思う。

 

翻って、「あの花」と「モテキ」のふたつはどちらも2011年に発表されたヒット作品である。だから、今の時代のある一定の人々にリアリティのある幸運を見せることに成功した作品だといえるだろう。

 

どちらの作品も多くのひとが感動して絶賛した物語だ。それはどのような人々にどのような幸運を見せたのか?

 

まずは物語の構造がわりあいに単純な「モテキ」から見ていこう。

 

実は、昨日、Playstation Storeでレンタル購入して見たばっかりなのだが、すでに登場人物の名前をまったく覚えていない。面白くなかったといっているわけではなく、むしろ逆なのだが、ぼくは人間を識別し、名前を覚える能力に激しく欠けるのだ。正確にいうと、登場人物の名前を忘れたのではなく、昨日みた2時間の間に覚えることができなかったのである。

 

ということで登場人物はすべて記号で説明する。

 

主人公:A君

ヒロイン:長澤まさみ

ヒロインの友達:B子

飲み屋のねーちゃん:C子

主人公の上司:社長

主人公の同僚:D子

ヒロインの彼氏:E君

 

主要登場人物はこの7人だ。簡単にいうと、モテキはつぎのような話だ。

 

ーーー モテキのあらすじ ーーー

 

ネットと音楽が趣味で童貞のA君の前に突然長澤まさみが現れる。彼女は彼氏がいるらしいにも関わらず、A君に気のあるそぶりをみせて、A君は動揺する。何度もエッチもできそうな雰囲気になるが寸前で邪魔がはいって果たせないのはお約束。長澤まさみが自分のことをどう思っているか気になってしょうがないA君は、長澤まさみの友達のB子とも仲良くなり、好きだと告白されて、まず、B子とやってしまう。でも、本当は長澤まさみのほうが好きなんだといって、B子を振る。ついでに気をひこうと、B子とやったことを長澤まさみに言う。そこで長澤まさみの彼氏E君が登場。イケメンで仕事もできるE君を見て、A君はとても敵わないと諦めかけるが、実はE君は妻子がいて長澤まさみとは不倫をしていたことが分かる。A君は長澤まさみを不幸せにするなとE君に一喝する。で、だったら、オレのほうがふさわしいじゃんと、再度、長澤まさみにアタックするが、A君とじゃ自分を高められないからダメだ、みたいなことをいわれて振られる。そこでラストのクライマックス。E君はA君にいわれたことを反省し、妻と話し合って別居することにしたから一緒に住もうと長澤まさみと告げる。問題解決じゃんと思っていたら、その場にA君が登場する。長澤まさみ逃げる。A君追いかける。逃げる。追いつく。E君もおっかけてくる。E君に見せつけるようにA君は長澤まさみと濃厚なキス。延々とキスシーンでそれがそのままラストシーン。めでたしめでたし。

 

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基本の筋は以上だ。あ、社長とC子とD子がでてこなかった。主要登場人物はA君と長澤まさみとB子とE君の4人でしたね。

 

さて、モテキがリアリティのある幸運として、視聴者に受け取られるためにはなにが必要だったのだろうか。

 

まず、ざっとあらすじを見て思うのは主人公のA君はかなりサイテ−な奴でありしかも格好悪いことだ。ポイントはこのかなりサイテ−で格好悪いA君に対して、視聴者が共感したということである。A君のことを自分自身と似ている部分があると思わせることに成功したということである。そしてそのためにはサイテーで格好悪いことが障害にはならなかったばかりでなく、むしろ必要だったのだ。

 

主人公A君のような女の子と縁の薄いオタクにとってのリアリティのある幸運な出会いの物語を設計するとはどういうことか。

 

まず、A君は女の子と話すことが苦手であり、女性経験が少ないので、会話もできなければエッチにも自信がない。これらの障害を解決しないとリアリティのある出会いにならないということだ。

 

どうするか。まず、女の子を自分から口説くというのは現実感がない。だから、女の子は向こうからやってこないといけない。そして出会っても、なにを話していいかわからないから、自分と趣味がたまたま同じでなければならないだろう。そして仲良くなっても、どうやってエッチに持ち込んでいいかが想像できないから、向こうから誘ってくることが望ましい。モテキの長澤まさみはまさにそういう風に設計されている。

 

ここで問題がひとつ生じる。この場合、たしかにA君にとっては長澤まさみは都合のいい女であるが、これって、物好きなビッチと出会ってエッチをさせてもらえただけという話にならないか、ということである。そうなると、物語にでてくる社長やD子のようなA君を童貞と馬鹿にするリア充たちのコミュニティにやっと最下層民として仲間入りさせていただいたというだけの話であり、まったく爽快感にかける。やはり社長やD子たちの価値観よりもA君のほうが優れていて一発逆転みたいなストーリが求められるのだろう。

 

そうすると物語に以下のことが必要になる。

 

・ 長澤まさみはビッチだとしても、一番好きなのはA君でなければいけない。

・ 長澤まさみのビッチに見える行動は、実は彼氏には奥さんも子どももいて不倫関係であり傷ついていたからだという言い訳を用意する。

 

これでヒロインとの恋愛を純粋なものにする基本条件が整った。

 

さて、次は、共感を得やすいようにダメな人間として設定された主人公はいったい魅力がある人物になるのかという大問題だ。

 

なにしろ基本もてない人でも共感できるように設計されている主人公だけに、そのままでは確かにもてないよね、みたいな人間にしか見えない。もてない人間を正直に描写してもてるように見せるというのはハードルが高いというか基本的には矛盾することだ。視聴者の理想の人間ではなく等身大の人間として主人公を設定した以上は解決が難しい問題だ。

 

だから、いや、魅力的に見えないのは気のせいです。みなさん、この主人公を魅力的だといっていますよ。と一般常識のほうを改変して、理由や根拠の説明はできるだけ避けるというのはやむをえない戦略になる。だから、次のような設定が必要になる。

 

・ 長澤まさみだけでなく、彼女の友達のB子もA君を好きになる。

・ 社長につれていかれた飲み屋のねーちゃんC子がA君のことを需要があると断定する。

 

A君がなぜもてるのかじゃなく、A君はもてるんだなと事実だけを見せつけるという作戦だ。

しかし、A君はそもそも女の子と縁がないから、どういう人間にもてさせれば説得力があるだろうか。

よくアニメだとB子は幼なじみという設定が使われる。また、アニメだと職場の同僚であるD子が実はひそかにA君のことを好きだったというのもありそうな設定だろう。でも、これはアニメだから通用する手法だ。アニメはやはり世界全体がファンタジーに見えるからだ。

 

実写だと、やはり、アニメほどファンタジーな設定に説得力を持たせるのは簡単ではない。現実との比較をどうしてもしてしまうからだ。現実にいるA君のようなひとはまわりにまったく女っ気がないことだろう。そして幼なじみや職場の同僚の女の子がたとえいたとして、彼女たちが実はオレのことを好きだ、なんていうのはありえないというのは皮膚感覚で理解しているはずだから、どちらの設定も説得力に欠けてしまう。だから、モテキにおいてB子がヒロインの友達として設定されているのは正しい選択だと思う。長澤まさみもB子もどちらも向こう側の人間でなければならないのだ。

 

長澤まさみがどこからともなくやってきて、自分に好意を持つ。それだけでも現実的にはありえない話であるが、彼女が来た世界にいるB子まで自分に好意を持つとしたら、話はちょっと変わってくる。自分を好きになってくれるかわいい女の子が突然変異的にどこかにいるというより、どこか知らない世界に自分を好きになってくれるような価値観のあるところが存在するという話である。こちらのほうがリアリティを持って、理解しやすいのだ。価値観自体が変わる世界があるというのではないと、現実には自分がかわいい女の子には持ててないという事実からくる常識を打ち砕くことが難しいからだ。

 

さらに主人公はもてていますよーという説得力を補強する方法としてC子の登場だ。たくさんの男を見てきたはずの水商売の女性に、君みたいな男って需要あるよ、と断定されれば、意外とそういうもんかなと思うだろう。それはきっとA君に共感する全国のもてないお琴が潜在的に思っているし願ってもいることだからだ。

 

こういうふうに理屈ではなく、状況証拠で主人公の魅力があることをまわりから証明していくしか、現実問題として説得力ある主人公の魅力を表現することは難しいだろう。ただし、間接的な状況証拠だけでは、説得力のある恋愛ドラマはつくれない。多くの恋愛もので主人公の最大の魅力であり武器となるのはやっぱり一途な恋心なのだ。むしろ一途な恋心が報われるという部分がないとほとんどの恋愛物語は成立しないだろう。だから、主人公は一途に長澤まさみを好きでありつづけなければならないのだ。

 

ここでもうひとつ問題が生じる。オタクが一途にだれかを好きになるというのを想像すると一般的にはキモイし、ストーカーみたいに見えてしまう恐れがあるという問題だ。これを解決するためにA君はもB子とやらなければならなかった。長澤まさみだけじゃないよというアリバイづくりである。こうしてA君は長澤まさみを想い続けているんだけど、他の女にももてるし、一回ぐらいは他の女ともエッチまでやってしまうという説得力があるんだかないんだかわからない設定が必要になる。

 

さて、こうして、一応、仮にA君が純粋に長澤まさみのことを想い続けているんだという設定で主人公の魅力を伝えた場合に、B子も純粋にA君のことを想い続けているんだから、彼女の扱いをどうすべきかという問題が生まれる。「つうか、A君はB子と付き合えばよくね?」問題である。

 

やはり恋愛物語としてA君の一発逆転ドラマにするためには本命の長澤まさみ以外と付き合うことはありえない。それはA君の長澤まさみへの純粋な思いに共感している視聴者の感情移入への否定にもなる。A君に共感するようなひとは、もし自分に彼女ができたら絶対に大切にするのにと脳内彼女への純愛を妄想して自分のアイデンティティを安定させていることが多いので、恋愛において妥協することは自分の普段の価値観の否定にもつながってしまうのだ。

 

ところが自分の秘めた一途な空想の彼女への愛情を大事にするという結論は、同様に、B子の一途なA君への気持ちは踏みにじってもいいのかという疑問に容易に転化してしまう。これは困った。A君がB子を振ってもかまわないということは、逆にA君も長澤まさみに振られてもしょうがないということだからだ。自分の気持ちのほうが他人のB子の気持ちよりも大事だよね、というのは説得力があるにしても、後味が悪いので、もうすこし別の理由が必要だ。

 

そのためにB子はA君に振られたあとに社長とエッチをするという役回りを演じさせられる。まず、そこでB子の純愛さに疑問符をつけさせられる。さらに振られたときにA君にくいさがる態度がいかにもめんどくさそうな女である。ただ、このあたりではA君も大概ひどいのでお互い引き分けにしかならない。むしろお似合いだ。そこでB子を振るための決定打となるのは、オタク的感性の違いである。つまり長澤まさみのほうがかわいいからでも本命だからでもなくオタク的感性の違いから、B子を選ばないんだというわけだ。主人公の務めるのは現実にも存在する音楽サイトのナタリーだ。ナタリーで紹介されているような音楽好きのひとが聴きそうな音楽の話題に興じるA君と長澤まさみに対して、B子の好きなのはB'zである。この理由でB子はA君に振られてしまうのだ。この映画の世界観において音楽をわかっていないひとの好きな音楽の象徴として楽曲の使用許諾をさせられたB'z側は怒っていいと思う。まあ、オタク的でない一般人のための音楽という解釈も可能だが。

 

さて、最後に残ったのは、長澤まさみのほうは本当にA君のことを好きなの?問題だ。

 

これについては理由はともかく本当に好きなんだということだけを状況証拠で証明して押し切るという基本方針はやはり等身大の主人公を使う以上はやむをえない。

 

そのために長澤まさみは妻とは別居するとまでいってくれた本命のはずの彼氏を振ってA君を選ぶ。その際に、長澤まさみがわがままな女とならないように彼氏は離婚まではせずに別居であり、子どももいるという設定が芸が細かい。

 

また、長澤まさみに、A君と付き合うのはメリットがないとはっきり言わせるのも最終的にA君を選んだのが愛情が理由であるということを強調するためだ。最後の彼氏の目の前のキスシーンも理屈じゃなくて感情的にA君を好きなんだということを表現するためだ。

 

このようにしてモテキはオタクにもリアリティのある恋愛物語として受け取ることができるように設計されている。

 

ただ、モテキは実写でもあり、オタクではないひとにも受け入れられたのだろう。また、そのようにも設計されている。長澤まさみが主演だし、オタク的趣味の題材として”音楽”が選ばれているのもその現れだ。

 

これがアニメとなるとどうなるか、というわけで本題の「あの花」に移ろうと思ったが、気力も尽きたので、箇条書きにて終わらせる。

 

・ 同じ仲間というテーマについて、ヤンキー文化の「ワンピース」とオタク文化の「あの花」との対称性が興味深い。

・ ワンピースではそれぞれの道を歩む仲間が主人公の元に集う。あの花ではそれぞれの道を歩んでいた仲間が、主人公の元に戻ってくる。

・ Fateでもそうだったが、なぜ、こういうアニメでは別に他人のことを気遣わずに自分のことしか考えていないようにしか見えない主人公に対して、女の子が、他人のことばっかりじゃなくて自分をもっと大切にしてよと、一見、意味不明の説教をするのか問題。

・ 結局、なにに感動するのか、どこに感情移入をしているのかについての推測

・ モテキもそうだけど、一途な気持ちの価値が高くなる構造について。

・ 一人っ子の問題。

 

気力が復活すれば、「あの花」編で。

 

以上

 
 

私は、人間は進歩しないものだと思っています。

”私は、人間は進歩しないものだと思っています。”

そういう書き出しではじまるすごい文章が、壁に貼られていると、昨日、まわりのひとに教えてもらった。

どこに貼られているか?

現代美術館で昨日からはじまった特撮展のある一角の壁だ。

だれのことばか?

ウルトラマンなどのデザインをしたことで知られる彫刻家の成田享というひとだそうだ。ぼくは初めて知った名前だ。


最初の2行だけ引用する。


 私は、人類は進歩しないものだと思っています。進歩しないで変化してゆくものだと思っています。職を求める為に働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働き乍ら、一人一人は成長してゆきますが、人間そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことをくり返しています。
 しかし科学は進歩します。日進月歩、昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。営々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。


この檄文の全文は特撮展で読んで欲しいが、もともとは「みやこさろん」という都ホテルチェーンが出しているらしい小冊子に1990年に載った文章らしい。

なぜ、そんなところにこんな文章を載せたのか。なぜ、特撮展に展示されているのか。本人はとっくに亡くなっているから遺族の意志なのか特撮の関係者のそれか。

ただ、ウルトラマンのデザインをした成田享という人間が自らを芸術家であり、彫刻家であると考えていたひとであることは間違いない。そして人間の本質を考え、芸術の高みを目指した人間が人間は進歩しないと断じているのだ。

そして人類の進歩と人間自身の進歩を無邪気に信じるわれわれに警句を鳴らしている。

面白いではないか。

信頼関係を築けるひとと築けないひと

ぼくがどういうひとと付き合いたいか、付き合っているか、を考えてみた。

 

人間関係の基本はお互いの信用にある。どこまで相手が自分を信用しているか、逆に自分が信用するかを値踏みすることになる。

これは意識的、無意識的を問わずにすべての人間がやっていることだ。

 

ぼくが仲がよくなるひとには、なぜか世間的には信用できないひとである、とか思われていることが多い。

 

そういう一般的に”難しい”ひとと付き合えるのはひとえにぼくの優れた人格の賜物であるとか以前は思ったりもしてたのだが、そういうわけでもないなといつの頃からか考えるようになった。

 

世間で油断ならないとか、自分のことしか考えないとかいって非難されるタイプの人には共通項がある。他人を信用しないということと、もうひとつそれを態度に出しているひとであるということだ。

 

他人を信用しないだけならともかくそれを態度にわざわざ出してしまうというのはどういうことか。それはそのひとが本当は他人を信用したいひとであるからに他ならない。本当は他人を信用したいのに何度も騙された結果、人間不信に陥ったのだ。そして人間を信用したいのに信用できないことに不満をもっている。それが他人を信用するまいという態度をわざわざ外に出すというかたちであらわれるのだ。

 

そういうひととは最終的には仲良くなれることが多い。結局はだれかを信用したいとまだ思っているからだ。

 

本当にやばいひとはもっと人当たりがいい。他人は信用できないという”悟り”を開いたひとたちだ。もう、完全に割り切っていて他人を信用しないことが当然すぎて疑問をもっていない。他人を信用したいという気持ちはあるとしてもずっと深くに沈み込んでしまって届かない。

 

そうなるとどうやっても仲良くはなれない。

 

さて、人間関係でお互い信用するというのは2種類の違った切り口がある。それは自分が困ったときに助けてくれるというある種の運命共同体としての絆を信用するということと、利害関係的にお互い組んだほうが得であるという価値観の共有を信用するということのふたつである。ぼくが仲良くなれないひとでも利害関係での価値観の共有はできるし、信じることもできる。

 

感情的に人間が求めるのは当然、運命共同体的な絆のほうである。もうひとつの利害関係における価値観の共有を信じるというのは理性的なものだ。

 

この両者は切り口としてはほとんど正反対だが、実際にはこのふたつが入り組んで絡み合っているのが人間関係だ。感情が勝つこともあれば理性が勝つこともある。どちらが勝つかも一貫しておらず、都合のいいときに使い分けているのが人間だろう。

 

人間とはそういうものなのだ。感情だけで決めることにも理性だけでも決めるにしても、貫き通すのには大変なエネルギーが必要で、自然にはできない。ここを理解していないと無駄に他人に期待して裏切られたと感じて絶望することになる。

 

そして感情的なものはむしろなにしろ感情だから個人の勝手でありしょうがないもんはしょうがないのだが、理性的なもののほうが価値観が異なることが自分の理屈では納得いかずに感情的なものに転化したりしていろいろとめんどくさい。

 

さきほどいった他人を信用しないで自分のことばっかり考えていると非難されるようなひとたちの場合には、ぼくの経験則だが、非難している側にむしろ問題があることが多い。それは利用しようと思って利用できなかったひとに対して非難していることが多いからだ。多くの場合、自分のことばっかり考えていると非難されているひとのほうが自分の信念と価値観を持って行動していたりする。利用しようとする側はそういうのが自分の価値観では理解できないから、利用できないことに腹を立てる、そういう構図がよく見られる。

 

まとめると、世の中とは、自分の損得だけ考えて他人を信用していない態度をみせるひとが、感情的な信頼関係を本当は求めていたり、お互いの損得だけ考えて他人に近づくひとが感情的に怒ったりする面白い場所だということだ。

 
 

年を取るというのはどういうことか考えてみた

 ぼくは20歳のころから老化による自分の能力の低下に対する恐怖があった。

 

 たぶん、そういうひとはほかにも多いと思う。

 

 いったい何歳まで自分は働けるのだろう。年を取ったときにどれぐらい能力が現実問題として下がるのかということにずっと関心をもって、自分のまわりを観察してきたのだが、現時点での結論を簡単に書いてみようと思う。ぼくの主観的な感覚なので正しいかどうかはわからないし、どの程度、一般性があるのかどうかもさだかではないが、実際のところ、年をとるっていうのはどんなかんじなのという疑問への回答のサンプルにはなるだろう。

 

(1)記憶力

 

 子供の時分から他人よりも物覚えが得意なタイプのひとがいる。ぼくもそのタイプだった。特に努力をしなくてもいろんなことを覚えてしまう。

 テストの点数もそこそこいい。こういうタイプは20歳を過ぎるころから記憶力の低下に苦しむことになる。

 

 記憶力というのは分かりやすい指標なので、自分でも頭が悪くなったと思い始める。

 

 単純な記憶力はやはり年をとると低下していくのは間違いないだろう。気になるのは、これが年齢によってどんどん低下するのか、ある程度、断続的に低下するもので、いったん下がると、しばらくはそのままなのかだ。ぼくの感覚的には20歳を過ぎたどこかで記憶力に質的な変化がおこり大きく下がる。以後はそれほどは下がっていないというものだ。

 

 むしろ20歳以前が例外な期間であり、記憶力については特別なボーナスがあると考えた方がいいだろう。脳がまだ使われていない領域がたくさん残っていて、とても性能の高い部分に記憶を格納することができる。そんなイメージだ。外国語習得でネィティブ並になるためには25歳以前に覚えないと無理だとかいうような俗説があるが、同じような理由だろうと思う。人間が記憶に使うメモリには種類があり、高性能なものは若い自分に使われてしまう。

 

 さて、主観的な記憶力の低下については30歳ぐらいで止まる。30歳以降はエピソード記憶というらしいが、物事をすでに覚えている知識に関連づける記憶が得意になり、記憶力がむしろ再び上昇したような気にさえなる。まわりを見る限り、主観的な記憶力については少なくとも70歳ぐらいまでは問題は起こらないように思える。

 

(2)瞬間的な判断力

 

 ある状況においてなにをすればいいのかを瞬間的に判断する力は、ぼくの見解では年齢とともに上昇する。なぜかというと、しょせん瞬間的な判断というのは過去の経験にもとづくパターン認識によるものだからだ。当然、経験が多ければ多いほど正確な判断をおこなえるだろう。おそらく厳密には反射神経が年齢とともに衰えるように瞬間で判断する時間は年齢とともに増していると想像される。ただし、それこそ反射神経的な速度を要求される判断でなければ、0.1秒の判断に2,3病かかったところで、現実の多くの問題の解決には誤差みたいなものなので、過去の経験による判断能力は年齢とともに増していくと考えていいだろう。

 

(3)理解力

 

 これは、記憶力と関係があり、似たようなカーブを描くというのが僕の考えだ。ただし、単純な記憶力と違って、理解力というのは、物事を関連づけて覚えるということだから、ピークは三十代以降だ。但し、これはいままでの自分の経験からなる記憶に基づく能力だから、理解できるベースのないものは理解出来ない。全く新しい経験の体系を理解する力は二十代以降は急激に低下する。

 

(4)シミュレーション能力

 

 どこをどうしたらああなってこうなるみたいなことを予測する能力はやはり年齢と経験と共に向上する。

 特に人間関係におけるシミュレーション能力と人脈のコンボは老人たちの最大の武器だ。

 

(5)体力

 

 これは、間違いなく低下する。毎年低下する。際限なく低下していく。もう俺も若くないなと思い始めてから、数年ごとに何度も同じことを実感することになる。

 脳の能力とは関係なさそうに見えるが、そんなことなく集中力やどれだけ長い時間働けるかは体力で決まる。元気がなけりゃヤル気もでない。

 中年以降の再就職が難しいのは新しいしごとを覚えられないことと、体力がないから、仕事のアウトプットの量が絶対的に少ないからだ。

 

(6)感性

 

 年を取ると感性が鈍るという。感性が知らない物事に出会った時の新鮮な驚きと定義するならその通りだろう。

 若くて無知な方がなんにでもびっくりする=感性が鋭くなるのは自明だ。

 感性を時代の雰囲気を捉える力と定義するなら、感性は世代ごとにことなるだろうから、同世代を生きている人間の方が同世代の心を捉えることは得意だろう。

 鈍くなるとかそういうものではないと思うが、離れた世代の感性はだんだんと掴みにくくなるのはしょうがない。

 だから、若い感性を維持するというのは若い世代との接点を自分の生活の中にどう維持するかという問題におきかえられる。

 今の日本の文化の大きな流れとしては、おたく文化とヤンキー文化の二つがある。ここ数十年間、世の中の中心を形作ってきたのはヤンキー文化のほうである。

 なぜ、おたく文化が世の中の中心になれないのかについての僕の仮説がある。

 それは世の中で文化を作れる権力を持っている人の若い世代との接点が、キャバクラとかなんじゃないかということだ。

 AKBにせよEXILEにせよ夜の街の文化に強い影響をうけている。

 ヤンキー文化はそういう接点で上の世代のクリエイターに強い影響を与えて主流派になりえたのだと思う。

 

 ひるがえって考えるに、おたく文化の担い手たち側はそういう正のスパイラルが、世代間で働かなかったから、どんどん高齢化がすすみ先鋭化して行ったのではないか。

 

 この構造が正しいとするとおたく文化の昨今の興隆には、ヤンキーたちにもジブリ、ワンピース、モンハンに代表されるおたく文化の一部が浸透してきている点と、ネットを介した新しい世代間交流の仕組みが存在している点は非常に重要であり注目に値するだろう。余談になるが、ぼくはこれらのことから今後の若い世代のオタクがリア充化することは歴史的な必然であり、避けられないと思っている。日本の文化のメインストーリムの担い手が若い世代の感覚をネットを通じて吸収しはじめているからだ。

 

 マーケティングをやる人間にとってはいい時代だ。若い女の子と仲良くなって仕事のふりして「最近、何がはやっているの?」とか聞かなくてもネットを見ていれば若い世代の空気は調べられる。おそらくマーケティングやる人間のプロとしての寿命はネットによって伸びるだろう。

 

 

(7)人脈

 

 人間はひとりでできることには限界がある。そして自分ひとりでできることなんて年齢とともに少なくなる。

 およそ40歳を超えた人間の労働力としての価値はすでに習得した知識か、持っている人脈かの2種類ぐらいしかない。

 そして若くして活躍する経営者とかクリエイターはじじいキラーと呼ばれりして、なんらかの後ろ盾が存在することがほとんどだ。

 この人脈は傾向としては当然ながら年とともに強力になっていくものだが、減少する場合もある。

 ひとつは人脈も自分とともに年をとっていくということだ。自分の仲がいいひとがあまり偉くなっても現場への影響力は逆に下がっていったりする。また、サラリーマンであれば定年があり、そうでなくても一丁あがりとラインを外れていったりする。老いた権力者も最終的に影響力を失っていくのは自分の人脈が引退したり死んでしまうからだ。

 また、もうひとつの留意点としては、人脈とは相互扶助の仕組みだから自分自身が力を失うと自分の人脈も利用できなくなることが多いということだ。

 

 

(8)言語的な表現力

 

 人前でしゃべる能力は、場数で決まるので、場数を踏んだ人生の経験者のほうが一般的に話は面白くなる。ただ、会話において当意即妙な答えを返すという能力は、反射神経的な速度を要求されるので、ぼくの感覚では40歳以降はだんだんと自分の話すのは得意でも相手の話を聞いて適切な答えをリアルタイムで返すという能力はどんどん失われていく。老人はだいたい会話の反応が遅くて、相手の話を聞かないという特徴を共通して持つ。ただ、仕事を現役でやっているひととそうでないひとで結構差がつくというのが印象でひょっとしたら、それは自然淘汰で問題ないひとが残っているだけなのかもしれないが、60歳、70歳でもほとんど問題ないひとは多い。しかし、それでも、だいたい80歳超えると実務的な会話はかなり難しくなるというのがぼくの印象だ。

 だから、会話能力に問題がであると、いくら人脈があっても使えないから現役で仕事をするのは肉体的には80歳が限界かなと思っている。ひょっとするとネットがこの限界を超えさせるのであれば面白いと思っている。

 

 

(9)ギャグの面白さ

 

 それが面白いかどうは別にして、ある単語をなんの関係もない別の意味の文章に結びつけるという典型的なおやじギャクの能力は30歳を過ぎると開花する。これを笑ってもらえるかどうかは人間の能力というよりは偉さで決まる。偉いひとの冗談は人間は本能的に面白く感じるという性質を持っている。おやじギャグを笑ってもらえないことを気にする人はギャグを磨くよりも偉くなったほうが早い。

 

(10)人格

 

 ぼくが人生で出会ったさまざまなひとを観察した結論だが、人間の人格は環境で決定されるので年齢は関係ないというのが結論だ。

 なんとなく物語的には老人というのは賢者であり人格者であり、みんなを導いてくれるものだが、実際は老人でも性格悪いひとは悪いし、人間が円くなるとかよくいうが、それは周りと散々衝突した結果のある意味敗北だったり、体力、気力の低下が主原因で、人格が人生経験により、素晴らしくなるというのは例外的なケースだと思う。むしろ年をとるといまの日本の社会だとひがみっぽくなったりして、より性格は悪くなるという傾向があるように思える。

 

 

(11)客観性

 

 若さゆえのあやまちという。若いと自分を客観的に見ることができず感情のおもむくままに暴走してしまうことがよくある。これは年齢によってどうなるか。自分を客観的に見れるようになるのはだいたい30歳ぐらいからじゃないかというのがぼくの意見だ。

 

 基本は30歳を過ぎてからも向上していく能力に見えるが、老人の独善性をどう考えればいいのかが、まだ、未熟な僕としては判断がつかないところだ。客観性はあるけど、そのうえで、わがままなのかもしれない。

 

 

(12)好奇心

 

 好奇心が強いかどうかは性格に起因するようだが、好奇心の強いひとでも、どうも年を取るとだんだんと好奇心が弱くなって保守的になっていく。好奇心を維持し続けることは本当に大変なことのようだ。

 

 好奇心を年をとっても維持しつづけているひとの特徴は自分が好奇心を持つと決めたもの以外の情報をシャットアウトしていることだ。

年をとっても好奇心が旺盛なひとは同時に飽きっぽいし、興味ないと判断するのも早い。

 

(13)創作意欲

 

 いまのところ僕には創作意欲と年齢の関係はあまりないように思える。ただ、体力的な問題で集中力が衰えるので、ものづくりにかける根気のほうが足らなくなるという現象はあるかもしれない。それと本人がつくりたいものと時代とのマッチングの問題だろう。人間は年をとってもクリエイティブさは全然衰えないというのがぼくの見解だ。それよりも思うのは年齢を問わずに生活が満たされると、創作意欲はなくなるという現象をよく見聞きする。

 

(14)環境による能力の変化

 

 最後に能力の個人差について思うことを書く。まず、最初の就職は重要だ。20代に覚えた仕事のやりかたは一生ついてまわり抜け出せないものらしい。とりあえず僕の場合にも自分の年齢まではまったくそのとおりだ。

 そして仕事を覚える能力だけでなく意欲も20代は最高だ。最初の就職が重要なのは、そこで20代の間に意欲を失なうと、二度と同じような新鮮な気持ちで意欲をもてなくなることになる。若い時に純粋な意欲というものはかけがえがなく、かつ汚染されやすい。

 

 そして経営者でも管理職でもいいが自分の判断で物事を動かせる仕事をすることが非常に重要だ。よく、経営者は孤独だ、とかいう言葉を聞くが、それはたしかに真実の一面ではあるかもしれないが、業界を見ていると経営者は70過ぎても元気で、サラリーマンは60近くになると急激に老け込んでいるのが現実だ。やっぱり孤独だかなんだかしらないが総合的には経営者はストレスフリーであり、健康で長生きする傾向にあるように思う。

 

 経営者でなくても仕事が現役かどうかで人間の能力の低下具合は一変する。やっぱり一線で活躍することが大事なのだ。引退すると老ける。ハッピーリタイアなんて幻想を持っているひとは捨てましょう。

 

 人間は最後の瞬間まで働いていて、そのまま斃れるのが幸せだ。老害上等だよね。むしろほとんどの老人が老害になれずに消えていくのが、いまの競争社会の姿だろうと思う。

 

実際にやっぱり大変なことだよ。年をとってもなお一線でいつづけるのは。