オタクの恋愛というテーマのリアリティ(あの花編)

「モテキ」に引き続き「あの花」についてである。

「あの花」というのは昨年の4月ノイタミナ枠で放送されて人気を博した「あの日見た花の名前をぼくたちはまだ知らない」というアニメシリーズの略称である。同じく昨年の1月から放送された深夜アニメシリーズの「まどかマギカ」と並んで「あの花」は2011年を代表する傑作アニメ作品だ。ぼくがシリーズ最終話まで見た2011年のアニメもこのふたつだけになる。

 

もっとも「あの花」を見たのはつい最近だ。最初、BDの1巻だけ買って見て、あまりに面白く見終わってすぐ残りの巻を注文した。で、4日ほどかけてあっというまに全話見てしまったのだが、見終わってから、BDを買ったのは1巻だけで2巻以降は間違えてDVDを注文していたことに気づいた。見ている最中は途中からDVDに変わったことなにも気づかなかった。つまり映像的にはHDである必要はまったくなかったアニメ作品だったといえる。

 

ネットを見ていても「あの花」の評判は非常に高く、単に人気があったというだけでなく、ファンの作品への入れ込み方、感情移入の仕方も並外れて強い作品だったようだ。

 

また、深夜アニメファンだけが好む作品でなく、広く一般の人にも受け入れられる可能性のある普遍性も持った作品であると僕は感じた。

 

にもかかわらず、基本的にはこのアニメは、主人公「じんたん」のような引きこもり要素を持つ人のために作られた物語である。悲しいラブストーリの体裁をとっているのは表面だけで、本当は主人公みたいなひきこもり&ひきこもり予備軍のひとたちへ慎ましい現実逃避とともに現実への救いを与える物語だ。

 

まずは登場人物とストーリーの要約をしよう。

 

主人公:じんたん

ヒロイン:めんま

幼なじみ:あなる

イケメンの友人:ゆきあつ

優等生メガネ女:つるこ

三枚目の友人:ぽっぽ

 

主要登場人物はこの6人だ。この6人は子どもの頃は仲良しグループだったが、いまはお互い距離が離れている。

 

あと、重要な脇役として、主人公のお父さんと幼なじみ「あなる」の女友達二人組がいる。これらは世間の代表だ。したがって、この物語は基本は仲間内の6人の中でいろいろ事件が起こる話であって、世間との関わりはほとんどお父さんと「あなる」の女友達二人ぐらいしか存在しないというとても内向きな話になっている。ではストーリーを要約してみよう。なにしろテレビシリーズ1クールなのでどうしても外せない要点だけに絞っても結構長くなったがご容赦頂きたい。

 

 

ーーー あの花のあらすじ ーーー

主人公「じんたん」はひきこもりで学校にいっていないけど着ているTシャツだけはユニークな少年だ。母親はいなくて父親との二人暮らしだ。だから、父親が仕事にでかけると、本当は自宅にひとりきりになるはずだが、実は内緒の同居人(しかも女の子!)がいる。それがヒロインである「めんま」だ。でも、彼女は実はゆうれいで「じんたん」以外に姿は見えない。しかも彼女は主人公が小さい子どものときの仲良しで、大昔に事故で死んでしまった女の子だったのだ。主人公は、彼女の事故死には負い目もあって後悔している。だから、もし、「めんま」が死んだときの小さい子どもの頃の姿で化けてでたら、ほとんどホラー映画になるところだが、そこは深夜アニメ。なぜか、もし、生きていたらこうだっただろうという成長したかわいい年頃の女の子(多少ロリははいっているものの)の姿でめんまは幽霊としてあらわれる。だから、ちょっとエロい。ほとんど下着姿。主人公にしか見えない設定のはずなのに抱きついたり、いっしょに寝たりする描写はほとんど物理的実在があるようにしか見えない。本当はゆうれいという設定を思い出さなければ、突然、かわいい女の子が押しかけてきて同居するという美少女アニメの典型的なパターンが展開されている。

 

なぜ、死んだはずのめんまが今頃になってゆうれいとなって現れたのか、めんま本人もわからないが、たぶん、なにかねがいごとをかなえて欲しいからだという。めんまの願い事とはいったいなんだろう、主人公がいろいろ見つけようと努力するのがこの物語の中心となる目的になる。

 

さて、めんまが生きていた頃、めんまも含めて主人公たちは「超平和バスターズ」と名付けられた仲良し6人組を結成していた。めんまが死んだあと、「超平和バスターズ」は自然消滅してしまい、もはや残った5人も一緒に遊ぶことはなくなっていた。リーダー格だった主人公「じんたん」も昔の輝きはすでになく、ただの登校拒否生徒として、まわりから見下される存在になっていた。

 

めんまを助けるために昔の仲間をもういちど集めよう!とじんたんが努力をするわけではないが、勝手にみんなが集まっていく方向でストーリは展開される。最初に現れるのは幼なじみの「あなる」だ。幼なじみというと、超平和バスターズの6人組は全員幼なじみなわけだが、あえて幼なじみというにはワケがある。オタク的アニメにおいて幼なじみというと、要するに主人公とは腐れ縁で仲が良くていつも主人公のことを心配しているんだけど、別に恋愛対象じゃないよ、なんていいながら、実は主人公のことを好き、という女の子のことだ。しかもまったく女にもてない主人公にとって唯一の女っ気であるにも関わらず、主人公の本命のヒロインとの恋愛の過程で傷つき踏み台にされる運命をもった理不尽な役回りだ。

 

でも、最初に主人公じんたんの仲間になるのは、ぽっぽというデブだ。ぽっぽは超平和バスターズの6人の中では一番目立たないチビでずっとリーダーのじんたんに憧れていて、じんたんと再会するまでの間に世界中を旅してデブになった。そんなんだから、じんたん同様に学校はいっていない。

 

じんたんの呼びかけに超平和バスターズの6人は再びかっての秘密基地に集結する。集結したもののみんなの心は簡単に元通りのひとつにはならない。あなるはすぐに仲間になったものの、残るゆきあつとつるこの二人は冷めている。特にイケメンのゆきあつが冷たくて、めんまの幽霊なんているわけがないと言い放つ。そうこうしていたら、めんまの幽霊とは別にめんまらしき人影がちらちら現れる。めんまの幽霊はふたりいるのか?追いかけてみたら、それは実はめんまのことが忘れられなくて夜な夜なめんまの女装をして徘徊していたゆきあつの姿だった。女装という秘密を握られたゆきあつはやむなく仲間になる。ゆきあつが好きなつるこも一緒についてくる。

 

一応、多少のしこりは残しつつも再結成された超平和バスターズは本格的にめんまを成仏させるべく活動を開始するが、なかなかめんまの本当のおねがいがなんなのかわからない。そんな中、昔の自分を取り戻しつつあった、じんたんはもういちど学校へ登校しようとチャレンジするが、途中でくじけて帰ってしまう。めんまは、じんたんが学校にいくのがめんまのお願いかもしれないといってじんたんを励まそうとするが、じんたん逆ギレする。

 

そんなときじんたんの父親と、たしか、母親の墓参りにいく。じんたんは父親がどうして学校にいけと自分を怒らないで放任しているのかを疑問に思う。でも話してみると、父親はじつはじんたんの生活のことを細かいことまで把握してくれていた。そんなに自分のことを見てくれていたんだとじんたんは感動するが、でも、そんな主人公に、いや、じんたんのことは、なにも分からないんだと父親は悲しく言う。じんたんと父親がはじめて心を通わせたシーンである。じんたんの父親はちょっとアーティストっぽいかんじでいつもニット帽をかぶっているのだが、心を許した父親は、ここではじめてニット帽を脱ぐ。なんとニット帽の下はハゲだった。あの花の前半のクライマックスである。そしていつしかめんまは学校いきたくなければいかなくていいよとじんたんにいうようになるのだった。

 

こうして心の傷をひとつひとつ癒やされていったじんたんは次第に真面目にめんまを成仏させるという目標に向き合っていくというのが、後半のストーリーだ。その過程で超平和バスターズのみんなはめんまが成仏するというのはどういうことか、めんまを成仏させたいという自分の気持ちは果たして純粋なのか?いろいろ悩むことになり、感動的なエピソードがラストシーンまでいくつもあらわれるのだが、まあ、そこらへんは細かいところなので説明の必要はないだろう。

 

結局、じんたんは最後にめんまと好きだと告白する。めんまもその思いに答えるが、ほかの仲間のみんなも好きなのだといって成仏する。結局、ゆうれいになっためんますらじんたんとくっつく現実に、めんまへの思いを断ち切ろうとするイケメンゆきあつは同じくじんたんに振り向いてもらえない幼なじみあなるに付き合おうというが、それもうまくいかずに、結局、昔からゆきあつのことを好きだったつることくっつくのだった。

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あの花とはこういう話だ。見たことのないひとは実際に見て確認していただきたいが、見たことあるひとに対しては、もういちど繰り返そう。あの花はこういう話である。

 

そしてあの花はオタクの心を癒やすようにつくられた物語である。

 

オタクとはそもそもなにか?趣味にのめりこむ人たちという定義を好む人も多いだろう。が、とくに上の年代の一般人にとっては現実社会に背を向けて自分たちの世界に閉じこもっているひとたちというイメージをオタクという言葉に対して抱いている。若い世代においてはオタクというのはそういうネガティブなニュアンスはかなり消えているので違和感をもつひとも多いかも知れないが。

 

なぜオタクが現実社会に背を向けたのか?そして自分たちの世界に閉じこもったのか?趣味として好きだから自ら飛び込んだひとたちもいるだろうが、多くは現実社会に馴染めなかったがゆえに自分の世界に閉じこもらざるを得なかったひとたちが自然に肩寄せ合って集まったという一面がオタクのコミュニティには確実にある。「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」とか揶揄されるネットのオタクコミュニティの団結力の脆さの原因はこんなあたりにあるのだろう。

 

あの花の主人公のじんたんもテレビゲームはするもののそれほどのめりこんでいるようには全く見えない。ひきこもりでやることがないから、逃げ場のひとつにテレビゲームがなっているだけに見える。だが、一般世間からみたらオタクとしてひとくくりにみなされるようなそういう人間だろう。

 

友達をつくるコミュ力に欠けていた。いじめにあった。学校の勉強にまったくついていけない。家が貧乏で学校の友達との付き合いができない。現実社会でうまくやっていくのは大変なストレスだ。ひきこもりまでいかなくても、その予備軍まで含めると、主人公じんたんの境遇に何らかの共感を持つひとはとても多いのだろうと思う。そういうひとたちの悩みの逃げ場所として、アニメやゲームなどのオタク趣味が機能していることは間違いない。

 

そういうひとたちにどういう夢を与えてあげればいいか?どういう救いをアニメで見せることができるのだろうか?

 

映画モテキのような実写と違い、アニメの場合は現実とは異なる別世界をつくるのが比較的容易だ。実写だとどうしても現実の影が濃すぎて、ファンタジーな世界に入り込ませるのが難しい。実写だったら荒唐無稽な恋愛でもアニメだったら信じられる。

 

だから、三次元の女性なんて信用できないし不要、二次元の女性だけでいいという自分が見る世界を現実から完全にアニメ側に変えてしまうような入り込み方をしているひとも多く、また、そういうひとたちの需要を満たすことが商業的にも一定の成功を保証する安全な道である。そして、あの花にもそういう現実を置換するファンタジーを与えるという要素は存在する。ただし、あの花で見せるファンタジーは現実からそっぽを向いた荒唐無稽なものではなく、現実をある程度、直視したうえでのささやかなものだ。

 

まず、ヒロインがゆうれいであって現実にいる女の子でないというのが謙虚さの第一歩だ。また、幼なじみもあだ名がちょっとエロい「あなる」になっているというのがポイント高い。こういう設定だったら女の子と冗談いいあえるかもと思わせるあざとい小技になっている。さらには主人公はなにか特別な能力はもっていないただのひきこもりである。あるのは隠された能力ではなく、昔のオレはちがったという思い出だけである。たいていのひきこもりのひとも記憶を辿れば生まれてからずっと世間から疎外されていると感じているひとは少数だろう。ほとんどのひとには記憶の彼方にはもっとちがった過去があったはずだ。そして現実にいるという設定の幼なじみからの求愛すら受け入れずに幻覚のような死んだめんまの影にとらわれる道を選ぶというのは、もはや三次元の彼女なんて必要ないし、期待しないという態度に呼応する。つまり恋愛物語としてのあの花は、ヒロインはちゃんとした人間じゃないかも知れないけど、二次元の彼女で自分はかまわないんだという主人公が宣言をする非常にある意味リアリティのある謙虚な話になっているのだ。

 

また、主人公が恋人と同じぐらいに切望しているのは仲間である。あの花は恋人とともにともだち:仲間ができる物語だ。仲間との絆を描いたマンガとしては、リア充も大好きなワンピースというのがあるが、あの花と比較すると同じ仲間の大切さを確認するテーマがこうも違った形であらわれるのかということが興味深い。箇条書きで比較してみよう。

 

・ ワンピースの仲間は主人公と出会って仲間になる。あの花の仲間は主人公と出会うわけではない。もともと主人公の仲間だったけど離れていったのが戻ってくる。

・ ワンピースの仲間はそれぞれ自分の夢をもっているが主人公の夢のために命をかけて助けてくれる。あの花の仲間は主人公の夢が自分たちの夢と同じであるということに気づいてくれる。

・ ワンピースの仲間は主人公の敵として戦うこともある。戦いの中でもお互いを尊敬し友情を育んでいく。あの花の仲間が主人公と喧嘩することはない。主人公が一方的に傷つけられる。思いがけずに一方的に傷つけるかである。喧嘩で反省はしては相手を尊敬したりはしない。

 

ワンピースも過酷な現実で生きる読者に勇気を与えるマンガだが、きっと本当に信じられると思っている友達が現実にいるひとたちが共感しやすいのだろう。あの花のじんたんは人間関係において恋愛だけじゃなく友達すら期待していないぐらいに現実に絶望しているのだ。

 

実際にあの花は物語に構造とは裏腹に最後まで本当に超平和バスターズの固い友情が復活したという印象は与えない。基本はじんたんとめんまの物語であり、そのほかの仲間はふたりを見守ってくれるようになったというだけの話なのだ。

 

あなるは結局ほっとかれる。これは三次元の女性に対する復讐のあらわれにもなっている。そしてイケメンゆきあつの扱いがもっとも酷い。女装趣味という設定にされた上に、一番、好きなめんまはじんたんにとられた上、めんまに相手にされないあなるとすら付き合うことはできない。イケメンなのに二重にじんたんに敗北をさせられる役回りだ。そして結局くっつくのはずっとゆきあつを好きでいてくれたメガネ女つるこである。ようするにおまえは好きな女とつきあう資格はない。つるこがお似合いだということだ。これがリア充社会への復讐でなくてなんなのか。

 

また、多くのアニメで主人公はどうみても自分勝手なんだけど、ヒロインからはどうして他人のことばっかり考えて自分のことを考えないのとか説教されるシーンが多くある。あの花でもそうだ。これはなぜなのかをずっと不思議だったのだが、直接の理由は、そういう風にいわれたいと思っているアニメファンがいるということだろう。なぜなかを考えると、これは恋人も友達もいない人間の思考パターンじゃないかと思う。架空の理想化された恋人に対して自己犠牲の妄想を繰り返しているからではないだろうか。

 

まあ、このように、あの花はじんたんのように人生を諦めかかった人間の心にも届く作品なのだ。

 

しかし、一方、これは非常に深い心の闇にまで踏み込む作品でもあるということになる。

 

前半のクライマックスのじんたんのお父さんのハゲがなぜ必要だったか。登校拒否するじんたんを無理矢理登校させるわけでもなく、かといって無視するわけでもなく、ちゃんと見守っていてくれる。これはじんたんに共感するひとの共通の願いだ。きっと実体験においてもみんな思い当たる部分があるのだ。この部分に強く反応したひとは多いはずだ。こういう父親であってくれたら。ただ、ここは非常に危険な心の領域に踏み込むことだ。そんな単純な慰めを与えられてもそうそう簡単には心を開きたくない。そういう部分に立ち入る話なのだ。だから、深刻になる前にお父さんのハゲで空気を一挙に変えて笑い飛ばしてごまかす。それがおそらく見るひとの心を癒やす最高の手法だったのだろうと思う。

 

善意からじんたんに登校するように強くいうめんまも途中からはいわなくなる。いうのは簡単だし、自分のことを心配していってくれているのは分かるけど、どれだけその本人にとって登校するのが大変な苦痛かを他人は実際には知ることができない。めんまはそこまでも理解してくれる恋人なのだ。

 

あの花が素晴らしいのは、アニメとしてよくあるような現実逃避のうそだらけのファンタジーを与えるのではなく、ちゃんといまのアニメの枠組みの中で精一杯に現実と向き合う作品を作ったということだと思う。ファンタジーがないわけではない。それは救いでもあるから。そして他人事だからいえるような無理な説教をメッセージとして垂れ流すのではなく、たんに現実の苦労、悩みをさりげなく描写してみせた。そういうところではないかとぼくは思う。

 

・・・・・。

 

 

と、まあ、あの花を見て、こんなことをつらつらと考えてしまったのにはもうひとつ個人的な理由がある。

 

いま、スイスに住んでいる姪が3人日本に遊びに戻っている。7歳と5歳と4歳の全員女の子だ。妹は米国人と結婚したので、3人とも日本語と英語を話す。どちらかというと英語が母国語だ。ところが仕事の関係で2年前からスイスに引っ越したのである。スイスの中でドイツ語圏の地域である。母国語が2つあるというのは実は子どもにとってはかなり大変なことだ。どちらも中途半端になる。彼女たちは英語のほうが得意だが、同年代の英語圏の子どもほどは語学力はない。かといって日本語は字も読み書きできない。それがドイツ語しか話さないひとたちが住んでいるところに引っ越しをするというのはどういうことか。

おしゃべりで活発な長女はあっというまに暗くなった。友達がいっきょにいなくなったのだ。もともと人見知りだった次女はほとんど自閉症気味になった。2年たった今は、長女はやっと現地でも友達ができたようで明るさを取り戻したが、次女はいまだにドイツ語はひとこともしゃべらない。子どもながらに絶対にしゃべらないと固く決意しているのだ。そして2年間のうちの大きな変化がひとつ。みんな携帯ゲーム機をかたときも離そうとしない。おそらくあの使い古されたNintendo DSによって彼女たちの心はこの2年間どれだけ救われたことだろうか。でも、とりあえず日本にいる間はできるだけとりあげることにした。

もうひとつ思ったのは、彼女たちは、まだ姉妹3人でいたからこそ頑張っていけたのだと思う。

日本のひとりっこが社会に疎外されたらやっぱりきついよね。日本語が通じるからといっても、だれとも会話しないまま帰るんだったら、通じないのといっしょだ。そんなやつは、ぼくの同級生の中にもいた。ひとりっこだったら、家に帰っても逃げ場はない。

 

そんなことをあの花を見て思ったのだ。ぼくがここで書いたあの花のまわりにコーディングされた美しい物語もそれはそれで素晴らしいものだけれどもね。