信頼関係を築けるひとと築けないひと

ぼくがどういうひとと付き合いたいか、付き合っているか、を考えてみた。

 

人間関係の基本はお互いの信用にある。どこまで相手が自分を信用しているか、逆に自分が信用するかを値踏みすることになる。

これは意識的、無意識的を問わずにすべての人間がやっていることだ。

 

ぼくが仲がよくなるひとには、なぜか世間的には信用できないひとである、とか思われていることが多い。

 

そういう一般的に”難しい”ひとと付き合えるのはひとえにぼくの優れた人格の賜物であるとか以前は思ったりもしてたのだが、そういうわけでもないなといつの頃からか考えるようになった。

 

世間で油断ならないとか、自分のことしか考えないとかいって非難されるタイプの人には共通項がある。他人を信用しないということと、もうひとつそれを態度に出しているひとであるということだ。

 

他人を信用しないだけならともかくそれを態度にわざわざ出してしまうというのはどういうことか。それはそのひとが本当は他人を信用したいひとであるからに他ならない。本当は他人を信用したいのに何度も騙された結果、人間不信に陥ったのだ。そして人間を信用したいのに信用できないことに不満をもっている。それが他人を信用するまいという態度をわざわざ外に出すというかたちであらわれるのだ。

 

そういうひととは最終的には仲良くなれることが多い。結局はだれかを信用したいとまだ思っているからだ。

 

本当にやばいひとはもっと人当たりがいい。他人は信用できないという”悟り”を開いたひとたちだ。もう、完全に割り切っていて他人を信用しないことが当然すぎて疑問をもっていない。他人を信用したいという気持ちはあるとしてもずっと深くに沈み込んでしまって届かない。

 

そうなるとどうやっても仲良くはなれない。

 

さて、人間関係でお互い信用するというのは2種類の違った切り口がある。それは自分が困ったときに助けてくれるというある種の運命共同体としての絆を信用するということと、利害関係的にお互い組んだほうが得であるという価値観の共有を信用するということのふたつである。ぼくが仲良くなれないひとでも利害関係での価値観の共有はできるし、信じることもできる。

 

感情的に人間が求めるのは当然、運命共同体的な絆のほうである。もうひとつの利害関係における価値観の共有を信じるというのは理性的なものだ。

 

この両者は切り口としてはほとんど正反対だが、実際にはこのふたつが入り組んで絡み合っているのが人間関係だ。感情が勝つこともあれば理性が勝つこともある。どちらが勝つかも一貫しておらず、都合のいいときに使い分けているのが人間だろう。

 

人間とはそういうものなのだ。感情だけで決めることにも理性だけでも決めるにしても、貫き通すのには大変なエネルギーが必要で、自然にはできない。ここを理解していないと無駄に他人に期待して裏切られたと感じて絶望することになる。

 

そして感情的なものはむしろなにしろ感情だから個人の勝手でありしょうがないもんはしょうがないのだが、理性的なもののほうが価値観が異なることが自分の理屈では納得いかずに感情的なものに転化したりしていろいろとめんどくさい。

 

さきほどいった他人を信用しないで自分のことばっかり考えていると非難されるようなひとたちの場合には、ぼくの経験則だが、非難している側にむしろ問題があることが多い。それは利用しようと思って利用できなかったひとに対して非難していることが多いからだ。多くの場合、自分のことばっかり考えていると非難されているひとのほうが自分の信念と価値観を持って行動していたりする。利用しようとする側はそういうのが自分の価値観では理解できないから、利用できないことに腹を立てる、そういう構図がよく見られる。

 

まとめると、世の中とは、自分の損得だけ考えて他人を信用していない態度をみせるひとが、感情的な信頼関係を本当は求めていたり、お互いの損得だけ考えて他人に近づくひとが感情的に怒ったりする面白い場所だということだ。