3つの願いとピアピア動画Zero




ご注意:
 この小説は「南極点のピアピア動画」をオリジナル作品とした二次創作です。本作品に登場する人物・団体はすべてオリジナル作品から着想を得たものであり、実在する名称と類似あるいは一致するものがあったとしてもまったくの偶然かつ無関係ですのでご了承ください。




「ほんとピアピア超会議は成功してよかったねー」

 今月のピアンゴ最高経営茶話会で山上会長はご機嫌だった。

「だってさー、新バージョンZeroがあんだけ評判悪くてさー、超会議まで失敗してたら、ピアピア動画自体が世の中から見放されるところだったよ」

 運営長が深くうなづいて同意した。

「まったくです。超会議とZeroのリリースをずらしたのは大正解でした。超会議中にZeroがリリースされていたら、超会議の興奮がZeroのショックで一挙に冷めるところでした」

「でも、ショックが当日に来るか、2日後に来るかの違いでしたけど」

 広報の儚井美智子(はかないみちこ)が冷たく指摘した。

「いや、もし、超パーティーの最後のエンジニアが登壇して粉雪を熱唱するところで罵詈雑言を浴びせられてたと想像すると寒気がするよね。

とりあえず、あの場は感動的に切り抜けられて本当によかったよかった」

 山上会長がニコニコしながら断言すると、まわりの社員が力なく笑ったが、儚井は不満そうで愛想笑いすらしやしない。

 わずか66日間という短期間で制作したピアンゴ渾身の大イベントであるピアピア超会議は大成功し、マスメディアにも大きくとりあげられて、世間やさまざまな業界に大きな衝撃を与えた。ユーザも珍しく運営の超会議での仕事に批判の声はあまりでず、ひさびさにピアピア動画のユーザが一体感をもった歴史的な出来事になったにもかかわらず・・・。超会議と同時に発表し、プレミアム会員限定でリリースされたピアピア動画の最新バージョンZeroの評判は最悪だった。

「会長、Zeroにどうしてバージョンアップする必要があったんですか?ユーザはだれも喜んでいません」

 儚井美智子が山上会長を睨みつけながら詰め寄る。

「ユーザはなにか変化すると必ず文句を言うもんなんだよ。たとえ以前よりも明らかに使いやすくなったとしても、慣れているユーザーインターフェースのほうが良いと感じるもんだ。ユーザの反応をいちいち気にしていてもしょうがない。問題はバージョンアップの中身だ。Zeroの出来がいいか悪いかが一番大事なことだ」

 山上会長は冷静に儚井を諭そうとしたが効果はなかった。

「だから、そのZeroの出来が悪い、というのがユーザの結論だと思いますけど」

 儚井のきつい目線に山上会長は思わず目をそらした。

「でもさー、ユーザもそんなに怒んなくてもいいのに。だから、今回、希望者のみバージョンアップできるようにしたんじゃん。そのまま原宿つかってくれてもなんの問題もないのにさー」

「このままいずれデフォルトがZeroに変更されちゃうと思って危機感をもっているんだと思います」

「あれだよね。やっぱ、新バージョンとかいっちゃったのがよくなかったよね。お試しバージョンとか、テスト公開とかいう名前にすればよかったんだよ」

「なんで無理矢理バージョンアップする必要があったのかわからない。ユーザが怒るのも無理はないです」

 儚井は本当にZeroが嫌いらしい。

 

 今回はピアピア動画はじまって最大のユーザインターフェースの変更をおこなった。生放送プレイヤーや新サービスNSENはそれほど不満がなく、むしろNSENは絶賛の声があがっていたが、いちばん肝心の基本となる動画プレイヤーのデザイン、レイアウトが根本から全部変わっていたので、従来のプレイヤーに慣れたヘビーユーザほどZeroのUIは使いにくく、大きな不満の声があがっていた。

「まあ、いつもバージョンアップは評判悪いけど、今回は本当に悪いね。ネットみたくないもん」

「そういえば・・・」 

 生放送担当の淫楽(みだら)が沈痛そうな表情で報告した。

「特に評判の悪い動画プレイヤー担当の志賀君は2ちゃんねるに批判スレまで立ってしまいました」

「まじで・・・」

 山上会長が呻き声をあげる。他の社員がいっせいに志賀君のことを心配して、口々にかばいはじめた。

「志賀君はZeroプレイヤーできましたーとかつぶやくtwitterアカウントに本名のせているのが、俺には理解できないんだけどwいくらなんでも馬鹿すぎるだろと」

 運営長が一刀両断する。

「ピアンゴ社員なのにネットで実名を出す怖さをわかってないw」

 淫楽が笑う。

「もっと信じられないのは同じアカウントで家族の写真とか公開しているんですよ。それが2ちゃんねるにそのまま貼られて、完全に家族構成までばらされちゃっています」

「ネットリテラシー低すぎますよ」

「せめて会社のアカウントと個人のアカウント分けなきゃだめでしょ」

 みんなが口々に志賀君のことを弁護した。

 ピアンゴ社員の絆の強さに感動して口元をうるませながら山上会長はいった。

「一番評判悪い左側のピアピア市場のウィンドウと動画エリアにコメント入力欄のっけろというのは、俺の指示なんだよね。志賀君いやがっていたし。彼のせいじゃないんだけどなあ。あ、でもユーザがブログで批判した記事の中で、動画再生後メニューをなくして次の動画へのリンクを一番大きくしたのはピアピア動画の文化を破壊するという指摘はそのとおりだと思った。見終わった動画にコメントつけたりタグつけたりするのを最優先にすべきだよ。次々と動画を消費つづけるひとばっかりになったらピアピアの良さがなくなるもん」

「どんどん次の動画をみたいっていうのは志賀君の行動パターンなんですよ」

 淫楽が解説をはじめた。

「志賀君ってHuluに加入しているんですけど、彼の映画の見方って変わっていて、リストの最初から順番にみていくらしいんですよ。タイトルの『あ行』のいちばん上から順番にみていく」

「まじで?ジャンル関係ないの?」

「いつも、お風呂に入りながら映画を一本見るという生活パターンらしいんですけど。どんな映画でもかまわないらしくて。体洗いながらとか適当に見てて、ああ、今日の映画はよかった。面白くなかったって思いながら風呂をあがるらしいです」

「なるほど、完全に映像を消耗品として消費する人間なんだ。じゃあ、ああいうインターフェースつくるのは納得だよね。彼の人生観が見事に再現されている」

 山上会長が感心してうなった。

 

「まあ、いいや。ところで君だれだっけ?」

 山上会長は部屋の隅のほうに黙って座っている社員のひとりに話しかけた。

「君、よく見かけるよね」

 話しかけられた社員は苦笑しながら答える。

「はい、いつもこの会議には出席させていただいてます。こうして名前を尋ねられるのも5回目くらいです」

「5回目じゃ、まだまだだな。じゃあ、名前はいいや。君、いつもアクセスログ報告するひとだよね?Zeroリリース後のアクセスログのレポートかなんかないの?」

「はい、みなさんの机の上にすでに配布済みです」

「あ、これね。なるほど」

 山上会長は目の前の資料を読み始めた。

「結局さ、ユーザのネットの表面上の反応よりもさ、大事なのはアクセスログだよ。リアルなユーザの反応はアクセスログを見れば分かる。・・・。ふーむ。・・・なるほど。これは面白い結果だよな」

 山上会長が満面の笑みで喜びはじめた。

「やっぱり、今回のバージョンアップは成功じゃん。いままでバージョンアップすると必ずアクセスがそのあと下がって回復するまで3ヶ月ぐらいかかったけど、今回はPVもユニークユーザも減ってないね。むしろ増えている。はじめての大成功だ」

「それはバージョンアップが選択制だからだと思いますけど。みんな原宿をつかっているんじゃないですか?」

 儚井美智子が冷水を浴びせようとする。

「いや、このログ見るとほんとそのとおりなんだよね。プレミアム会員170万人のうち、Zeroに変更したユーザが、なんと、まだ25万人。しかも、リリース3日目ぐらいからほとんど増えてない。でも、25万人のうち15万人が毎日使い続けているのもすごいよね。そして原宿をつかっているユニークユーザのほうは順調にZeroリリース後に伸びつづけていると。面白い。やっぱり、これ、たぶん、ユニークユーザが伸びているのはZero効果というよりも超会議効果だな。いや、ほんと面白い。興味深い結果だ」

 面白がる山上会長にあわせて会議室のみんなも笑顔をつくるが、笑い声をあげているのは会長ひとりだけだった。

「まあ、結論はでたんじゃないの?少なくともZeroに簡単に選択できる原宿プレイヤーの互換バージョンを用意しないとだめでしょう。このまま強行するとぼくの読みだと最大1割ぐらいのユーザがニコニコを離れる。1割いなくなるというのは致命的な大事件だから、経営判断としては受け入れられない。ソフトランディングを模索しましょう。そしてプラス、ユーザ自身がユーザインターフェースをカスタムできるようにして、ほかのユーザがつくったインターフェースを選べるようなAPIを用意しよう。それで最終的な解決にする。それを結論にしましょう。」

 山上が提案というか決定しようとしたら、CTOの万野が異を唱えた。

「だれか、第三者がつくったインターフェースを配布するサーバもピアンゴで用意するというならぼくは反対です」 「それは勝手に用意してもらえばいいじゃん。うちはAPIだけ処理するサーバを用意してさー。twitterクライアントをいろんなところがつくっているみたいになればいいんじゃないの?」

「そういうことであれば同意します。ただしAPIをさばくサーバ用意するのもかなり大変だと思いますが、そこはピアンゴで持つという判断を経営的にするのであれば受け入れます」

「ユーザが自分の好きな環境でサービスを受けられるというのは本質だと思うからそれでいきましょう。ただし・・・」

 山上会長は宣言した。

「われわれはわれわれでベストだと思う次世代の動画インターフェースをつくる。それは続けていきましょう。いろいろ重要な問題はあるけど、Zeroの方向性は基本的には正しいとぼくは思っています。これまで現場からつぎはぎだらけの新プレイヤーの企画ばかりあがってきていたけど、これほどチャレンジングな新プレイヤーの企画は初めてでした。ぼくは志賀君なら最終的には素晴らしい動画プレイヤーをつくれると思っています。それに、どっちにしたって解像度と画面サイズを増やすのは必要。その場合に現行のレイアウトはもはや維持できないから変更せざるをえないんだよ。そして同時に動画プレイヤーのエンターテイメント性を高めていくという方針も正しい。これらの目標は堅持しましょう。ぼくらは今回は動画プレイヤーを改良してユーザのインタラクションをもっと増やそうと試みた。その試み自体は正しいけど、結果は逆になっている、その事実は受け止めて、もっと改良していきましょう」

 というかんじで、ここでZeroについての話題は途切れ、また、超会議の話にもどった。

 

「しかし、超会議の評判はほんとよかったねー。一ヶ月以上たつけど、いまだに超会議関連のニュースとか報道がとぎれないのはすごい」

「超会議後の最初の一週間はワイドショーがつぎつぎと取り上げてくれて、その次の週はいいタイミングでピアンゴの赤字の発表があって盛り上がりました。その次の週は新聞。さらに次の週はカンブリア宮殿

 広報の円(えん)がコメントする。

「驚いたのはあのピアンゴの赤字の発表の話題で社内IRCがもりあがってみんながチャットしてたんですけど、だれひとりも会社のことを心配してなかったんですよ。むしろピアンゴはそういう会社なんだと、なんか誇りに思っているぐらいのひとばっかりで」

 運営長がいうと、みんなが、そうそう、ほんとそうだった、と賛同の声をあげる。

「俺はそれはどうかと思ってんだけどさ・・・」

 山上会長が苦々しげにコメントした。

「いやさ、そういうの平気だよ、って社外にスタンスを見せるのはいいと思うんだけど、みんな、なんか、本気で赤字なんてどうでもいいって思ってそうじゃん。やっぱり赤字は大変なことなんだよ。本当に赤字をへーきだとみんなが思ったら会社がつぶれる」

「まともなこといいますね。そのセリフ、秋野さんに聞かせてあげてください。喜びますよ」

 儚井が助言する。 

 と、そのとき、・・・。  

 会議室の隅から大きな機械音がなりひびいた。

 短い音。なんかどこかで聞いたことのある効果音だ。

 あーやさんだった。

「なに、いまの音?」と山上会長。

「なんか、XBOX360でよく聞く音に似てますね」と運営長。

「あーやさんですか?今の音は」

 部屋の隅の風景として、いつものように存在していた地球外生命体のつくったアンドロイドあーやさんは返事をした。

「おめでとうございます。・・・ございます。・・・・・ございます。・・・。みなさんの地球文明での活動が評価されて、新しい実績を獲得しました。・・・獲得しました。・・・獲得しました。・・・。」

 部屋の隅に10体ほど固まっていたあーやさんはいっせいにしゃべりはじめた。

「すみません。しゃべるのはひとりだけにしてもらえませんか。実績を獲得・・・って、実績ってなんですか?」

 山上会長は一番近くにいるあーやさんに話しかけた。

「みなさんの使っている言語では”実績”あるいは”トロフィー”という単語が一番意味が近いのですが・・・。」  

あーやさんが解説をはじめた。

「みなさんの地球文明は、いま星間文明と一体化する進化の途中にあります。その途中にいくつかのきまった条件を満たすと”実績”がもらえるのです。今回、みなさんの超会議がきっかけとなって、新しい実績を与えることが星間文明より認められました」

「それはすごい!超会議は人類の進化の重要なステップとなる大イベントだったのか」

 山上会長は興奮して叫んだが、あーやさんは冷たく否定した。

「ちがいます。メインクエストとは関係ないので、この実績を獲得しなくても星間文明への進化はできます。むしろ、やりこみ要素に近いので、ほとんどの文明はこの実績の獲得は目指さないで無視します。非常にもらえるのは珍しいタイプの実績です」

「褒められているのか、けなされているのか、わからなくなってきたけど、その実績をもらえるとなにかいいことがあるんですか?」

「はい、特別ボーナスとして、みなさんの願いを3つだけ叶えることが可能です」

「え?」「え?」「え?」「・・・」

 事務的に即答したあーやさんの言葉に会議室の一同は一瞬固まって反応できなかった。

「願いを3つだけ叶えることが可能?」  山上会長があーやさんの言葉を反復した。

「はい、ピアンゴが人類を代表して願いごとを決めてください」

「どんな願いでもいいんですか?」

「はい、物理的に可能な願いならなんでもかまいません」

「まじで?すげー。じゃあ、ピアンゴの株価をあげて、時価総額を10兆円ぐらいにしてよ」

 信じてないのか、山上会長が適当なことをいう。

「はい、可能です」

「え、まじで?」

 ちょっと山上会長の顔が真剣になった。

「会長、人類を代表する願いがそんなことでいいんですか?もう少し考えましょうよ」

 儚井が文句をいった。

「いや、だってさ、ピアンゴの時価総額Facebookを超えたら面白くない?」

 山上会長が口をとがらす。

 あーやさんが尋ねた。

「確認しますが、願い事はピアンゴの時価総額を10兆円にすることですか?Facebook時価総額よりも大きくすることですか?どちらですか?」

 山上会長はあーやさんの質問にどきっとして黙り込んだ。ピアンゴの時価総額を10兆円にすることとFacebook時価総額を超えるというのはどうやら違う願いごとらしい。そう、もちろん違うっていったら違う。しかし、厳密にはどう違うのだろう。

 そのとき部屋にいた量産型こいづかくんの一体が口をはさんだ。

「物理的に可能な願いという定義をちゃんとはっきりさせたほうがいいんじゃないかな」

 みんながいっせいにこいづかくんを見たが、彼はそれっきり口をつぐんで黙り込んだ。

 山上会長があーやさんに尋ねる。

「あーやさん。どうやってピアンゴの時価総額を10兆円にするのか、具体的なプロセスを教えてもらってもいいですか?」

 異星からきた女性型アンドロイドは尋ねた。

「それはひとつめの願いですか?」

「ええ、ひとつめの願いでいいです。ぼくらにわかりやすい形で教えてください。あ、できればもっと詳しく願いをかなえるやりかたを知りたいので、ピアンゴの時価総額を10兆円にすることをサンプルにして、どういう願いならかなえられるか、どうやってかなえるかを解説してほしいのですが」

「わかりました」

 意外にもあーやさんは結構、親切に解説をしてくれた。普通ならこういう願いを叶えてくれるのは悪魔で、なにか、ひどいしっぺ返しが待っているものだが、あーやさんはマジ天使、だった。箇条書きでまとめると願いごとのルールは以下のようになる。

 

・ 願いごとは本当に望んでいることでないといけない。

・ 願いごとは基本的には地球の公転周期の間、つまり1年間の間に遷移可能な物理的経路が存在するものに限られる。

・ ただし、星間文明が物理的状態を操作できる自由度はかなり高くて事実上、地球上にあるすべての物体の状態を変更することも可能なので、その限りにおいては、ほとんど全ての願いごとはかなうといっていい。

・ むしろ困難は正確に願いごとを言語で表現することにある。とくに、願いごとに人間がつくった社会制度のような概念がはいっている場合は、人間がその概念にこめている定義自体が制約事項となるので、願いごと自体に矛盾が生じやすい。

・ 願いごとに矛盾がある場合には願いごとは無効とされるが、カウントは消費されるので1回分無駄になる。

・ 願いごとをかなえる方法が複数ある場合は、基本的にはより短期間で簡単に実現できる方法が採用される。

 

 ちなみにピアンゴの株価を10兆円にする場合には、まず、日本国債をデフォルトさせて財政破綻させてハイパーインフレを起こすそうだ。

 

「いや、あぶなかったね。願いごとの副作用で日本経済を破滅させるところだった。こんなんじゃ、ピアンゴの時価総額Facebookよりも高くするなんて願っていたら、米国が壊滅したかもしれなかったね」

「まったくです。会長のナイス判断です。最初にルールを確認するのが大正解でした」 「なんか、危険度の小さい軽めの単純な願いごとにしよう。下手したら人類滅ぶよ。ピアンゴのプレミアム会員は全てZeroにバージョンアップするとかはどうかな?」

「それはどうでしょう。Zeroにバージョンアップしないプレミアム会員の存在を抹消する。たとえば、生命活動を停止する、とかになったりしませんかね?」

「それは困るなあ、ほとんどプレミアム会員がいなくなる」

 山上会長は考え込んだ。

「あーやさん、じゃあ、こうしよう。Zeroの中身が素晴らしくなって、ユーザが自発的な意志により、けっしていまこの瞬間の現在いるプレミアム会員はひとりも減らないでみんなZeroを使うようになる。そういう願いごとを叶えてください」

「はい、わかりました。完了しました」

「え、もう、完了したの?どういうこと?」

 山上会長はみんなにネットを見てどうなっているかを確認するように指示した。 「あーなるほど」  運営長がすぐに大声をあげた。

「原宿のロゴがZeroに変わっている!」

 儚井も報告をする。

「あ、ニコニコニュースでリリースもでていますね。ひろゆきの名前でユーザへの謝罪と名前だけバージョンアップすることにしましたとか書いています」

twitterでも、これぞ待ち望んだZeroだと絶賛のツイートがものすごい数です」

 山上会長は頭をかかえた。

「なんだそりゃ。んーー。2つめの願いごとも、むだに使ってしまったじゃないか。もう、これで残った願いごとはひとつだけじゃん」

「なんか、昔話の3つの願いみたいになってきてますね。きっと3つめの願いごとも失敗する流れですよ」

 淫楽がいう。

「まあ、そのほうが平和でいいのかもなー」

 山上はつぶやいた。

 円が口をはさむ。

「なんか、もう、世界が平和になりますように。とか、そんな抽象的で人類のためになる願いごとにしたほうがよくないですか?」

 即座に山上は否定した。

「いや、それ、一番危険な願いじゃないかな。核戦争が起きて人類が滅んで平和になるとかじゃないの?」

「じゃあ、これからの一年間の世界が戦争も疫病も恐慌もおきずに平和でありますように。とかじゃだめですかね」

 山上は考え込んでいった。

「まあ、たしかに美しい願いごとなんだけど、この願いごとは超会議がきっかけとなってもらったものだから、ピアピア動画のユーザに還元するのが筋じゃないかなと思う」  そう会議室にいる社員全員の顔を見回す。

 精一杯の心をこめてゆっくりと山上は話をつづけた。

「全てのピア厨がこれからの1年間、しあわせに過ごせますように。副作用が怖いから付け加えるけど、もちろん、1年間の間に悲しいことがおこったり死んじゃうひともいるでしょう。でも、トータルとしては幸せだと感じている時間のほうが長い、そんな一年でありますように、というのどうかな」

 山上会長のどや笑顔に、会議室のみんなはそろそろ会議も4時間ぐらいつづいていて、いいかげん家に帰りたいと思っていたので、ここら辺を落としどころにしとくかというかんじで賛同の意を示す。 

「いま、いいことをいったつもりでいます?」

 儚井は違った。

「願いごとの条件を覚えています?本当に心から望んでいないとだめなんですよ。会長は本当にすべてのユーザに幸せになってほしいと思っていますか?」

「え?」

 山上会長はちょっとたじろいだ様子をみせた。

「え?んー、どうだろ。いや、たぶん・・・、思っているかな。もちろん・・・」

「もっとはっきり断言してください」

「いや、大丈夫。ほんと、すべてのユーザに幸せになってほしいとは思っているもん」

「全員ですか?ちょっと想像してみてください。アンチ運営のユーザとか荒らしユーザもいますけど」

「いや、好きか嫌いかでいうと嫌いなユーザはもちろんいるけど、幸せになってほしくないとは思わないな」

「本当ですか?抽象的なイメージでいっていませんか?具体的なユーザを思い浮かべても大丈夫ですか?」 「大丈夫じゃないかなあ」  いくぶん自信なさそうに山上はいった。

「ちょっとまって、具体的にユーザのパターンをいろいろ想像して本当に幸せになってほしいと思えるか、ちゃんと頭の中でシミュレーションしてみる。10分ほど時間くれないかな」 

 

 10分間。山上は考え込んだ。その間、全員が山上の考えを妨げないように、だれもひとことも発しなかった。願いごとで地球が滅ぶかもしれないのだ。

 

 きっかり10分後、山上は口を開いた。

 

「いろいろ考えたんだけどさ、全員の幸せを願うことは可能だと思う。本気でぼくはそう思える。でも、ピアピアユーザだけじゃなく、やっぱり円くんのさっきの意見を採用しようと思う。世界人類の幸福を願うことにする。自分たちだけじゃなくみんなが幸せになってほしいというのは、ピアピアユーザの願いでもあるとぼくは思うんだよね」

 もはや、だれもひとことも反対意見を発せず、山上のつぎのことばを待った。みんな早く帰りたいのだ。

「でも1年間幸せというのはちょっとやっぱり予想しない副作用がありそうで怖いから1分間にする。いまから全ての人類が1分間幸せな気持ちになって、ほかのひとのことも幸せになってほしいと願う、そういう心の状態になるようにしてくれないかな。あーやさん」 

 星間文明から送り込まれてきた女神は珍しく少し間をおいてから返事をした。

「わかりました。いまから開始します」

 

 目に見えないパワーが地球全体を覆った。願いごとをかなえるために地球の衛星軌道に集まっていたあーやさんの仲間たちだった。でも、彼らの存在にはどの天文台人工衛星も気づかなかった。 

 地球上のすべてのひとの脳の神経がすこしいじられた。シナプスがすこし増えたり、いくつかの場所の電位が変更された。 

 

 日本中のひとたち、米国、中国、ロシア、ヨーロッパ、中東、アフリカ、アマゾンの奥地に住んでいる部族や、南極の基地にいるひとまでふくめて、世界中の人々がひとしく幸せな気持ちでつつまれた。

 

 素晴らしい星間文明の科学力だったが、正直いって、たいしたことが起こったわけではない。

 

 山上以下、会議室にいた全員は、突然、自分が幸せであることに気づいて、お互いを見つめ合った。

 

 高速道路ではノルマが足らない交通警官がなぜか普段なら捕まえる微細な交通違反を見逃していた。

 

 ある雀荘では男が上家が捨てたアタリ牌をしばらく見つめていた。上家はずいぶんと今日負けが混んでいた。数秒後、男はクビをふりながら、自分の牌をつもった。

 

 国会議事堂の中にそのときいた人間型の生命体の多くは、なんて馬鹿らしい争いをしているんだろうと、そのときは思った。しかし、なにかが起こるには1分間では足らなすぎた。

 

 ロスの夜中のパーティーで支持者相手に演説をしていた米国大統領は突然に自分の胸の奥からわき起こってきた幸せの感情に驚いた。かってない聴衆との一体感に自然と涙がこぼれてきた。今日は人生で最高の演説になりそうだ、そう彼は思った。

 

 ローマでは早朝のミサが行われていた。祈りをささげる聖職者たちの間で、”それ”がはじまる瞬間、小さなどよめきがおこった。彼らは奇跡にきづいたのだ。

 

 香港では強盗が老婆の指輪を奪おうとしていた。いつもならナイフで指ごと切り落して指輪をもっていくが、なぜか、そのとき彼はできるだけ優しく指輪を彼女の指から抜き取った。老婆は抵抗しなかった。

 

 中東ではある兵士が、いま、まさに敵国の市民を撃ち殺そうとしていた。まだ相手は少年だったが、ゲリラだった。いや、本当にゲリラなのかは、よくわからなかったのだが、そんなことは問題ではない。  兵士がまさに銃を構えたときに相手の少年と目が合った。そのとき、突然、この子に幸せになってほしいという強烈な感情に襲われた。自分はいったいなにをしようとしているんだろう?こんなに幸せなのに。こんなにみんなに幸せになってほしいのに?

  やがて、不思議な1分間は終わった。いまの自分の感情はなんだったんだろうと、そう、いぶかしがりながら、兵士はふたたび少年を見つめ銃の引き金に指をかけた。

 

 世界中が幸せと平和への祈りにつつまれた。その奇跡はたった一分間しかなくて、なにかが変わるにはとても短すぎて、すぐになにもなかったように消えてしまうような奇跡だった。

 

 でも、確かにそのとき世界はひとつになって幸せにつつまれたのだ。  地球のあちことでひとびとがニコニコしながらみんなとつながっていた。

 

 つながったのは目の前にいたひとだけじゃなかった。いつもは憎しみあっているネットを隔てた向こうのひと同士も幸せで優しい気持ちになってつながっていた。

 ネットなんかなくたって人々はつながっていた。もう大人になった子供たちは、遠く離れて暮らしている両親のことを思った。親たちも子供たちを思って幸せにつつまれた。恋人たちや、もう終わった恋人たちでさえ相手のことを思って幸せな気持ちにつつまれた。いや、恋人とか友達とかも関係なかった。この世のすべての人が、みんな友達で恋人でもあって大切なひとたちだった。


 やがて束の間が過ぎ去り、地球を覆った見えない力の場は地球人にはまったく気づかれないまま消えていった。

 なにごともなかったかのように世界は元通りの日常を再開させたのだった。



(了) 

 

ちなみに元ネタの野尻さんの本はこちら

今回の二次創作の前作はこちら

【ミリしら】評価経済を批判してみる

ニコニコ動画の人気タグに「ミリしら」というものがある。1ミリも知らないという意味で、歌ってみた動画なんかについている。ようするに原曲をまったく聞いたことないけど歌ってみたとかいう意味だ。なにしろ元々の歌い方をしらないので無茶苦茶な歌い方だったり、意外とまともだったりしてどきどきして面白い。

 
 
ネットの言い争いにも「ミリしら」は、昔からよく見る光景だ。なにも知らないのに自分の極端な意見を主張したり、逆に他人のちゃんとした主張を思い込みで決めつけて批判するひとたちだ。でも、なぜか、わざわざ自分から「ミリしら」と名乗り出るような文化はないようで、ちょっとさみしい。ということで、今回の記事は堂々と「ミリしら」と主張しながら、なにかを批判してみるという実験だ。題材は最近よく単語を目にすることが多い「評価経済」を選んでみた。
 
 
なにしろ「ミリしら」だから、これからは評価経済の時代だといっているひとたちが、なにを主張しているのかをなんとなく想像して、こんなくだらないことをいっているのかと勝手に決めつけるところからスタートしたい。
 
 
おっとそのまえにどのように決めつけるかの方針というか議論の最終的な着地点、つまり結論をはっきりさせよう。ネットの議論の作法は結論が先にあることだ。まあ、もちろんいうまでもなく、結論はこれからは評価経済が大事なんていう思想なんて嘘にきまっているし、そんなことを主張している人間は信用ならないということである。そして、結論にとってもっとも必要で大切なのは、理屈ではなく、感情論だ。感情論こそがネットにおける最大の大義名分となるのだ。
 
 
上記の結論を導く感情論は(たぶん)以下のようになる。
 
 
・ いや、金ほしいし。金じゃなくもっと大切なものがあるなんて、したり顔で説教されるのはむかつく。
・ 評価経済とかネットで主張しているひとたちが個人的に気に食わないひとが多い。
 
 
さて、方針と結論と大義名分もはっきりしたところで、評価経済とはなにかという決めつけにはいろう。
 
 
本当によく知らないし、今回、ぐぐったりwikipediaで調べることも自分で禁じたので想像するしかない。まずは、ぼくの評価経済のイメージを列強してみよう。
 
 
(1) これからは貨幣経済から評価経済になるらしい。評価経済では評判が貨幣のかわりらしい。
(2) 貨幣経済がなくなるという意味でもなさそうで、貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して2軸の価値観が並立するイメージ。
(3) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5) よい評判を貯めることのほうがお金を貯めることよりも道徳的に正しいという前提があって、評価経済を大人にすることが貨幣経済を大事にすることよりもいい、と言わんばかりの雰囲気を感じる。
(6) 主張しているひとでよく聞く名前が岡田斗司夫。ひょっとしたら、経済学者がつくった用語じゃなく岡田斗司夫がいっているだけかもしれない?でも、そのわりには他のそれなりに有名な人でもよく評価経済とかいう単語を使っているのを目にするので、ちゃんとした理論がある専門用語の可能性もある?
 
 
まあ、だいたい、この六項目でぼくが知っている評価経済のイメージは全てだ。これから評価経済とはなにを主張しているのかを想像して決めつけよう。(3)、(4)、(5)はそのまま決めつけるだけで分かりやすいからいいだろう。(6)は分からないから保留して、触れないことにする。問題は(1)と(2)をどう解釈するかだ。具体的には評価経済とはどういうモデルを想定しているのかが、いまいちよく分からない。
 
 
最大の疑問は貨幣経済と評価経済の関係がどう定義されているのかである。ありうる可能性はつぎの3パターンあるいはそれらの組み合わせだろう。
 
 
(a) これからは長い目では貨幣経済はなくなっていき、評価経済に完全に置き換えられる。
(b) 貨幣経済と評価経済は並立してお互いの得意な場所で相互補完する。
(c) 貨幣経済で成功する=お金儲けのためには評価経済というモデルが有効である。
 
 
(a)はちょっと極端に見えるかもしれないが油断はできない。だいたい新しいパラダイムを提案するひとというのは過激なことをいいたがる傾向にあるので、現時点ではないかもしれないが、遠い未来の発展としては評価経済が貨幣経済を置換するぐらいのことは主張していても不思議ではない。むしろ貨幣経済と評価経済の構成比がだんたん後者が高くなっていくぐらいのことは予言しないと仮説として派手さに欠ける。(c)は評価経済は貨幣経済で成功するための手段に矮小化されているので、貨幣とは違う新しい価値観だとする主張と矛盾しているように見えるが、現世利益のない理論がネットで注目されることはまあないし、なにより現実的なので、いっしょに混ぜこぜに主張している可能性は高い。(3)のような主張が見え聞こえしてくることから考えてもおそらくこの予測は正しい。abcみっつともきっと主張しているのだろう。そう考えると(1)と(2)についても、(3)(4)(5)と同様にだいたいそのまま採用しても大丈夫そうだ。
 
 
以上の議論をまとめて評価経済とはこういうことを主張していると決めつけることにした。
 
 
(1’) これからは貨幣経済から評価経済が次第に重要になる。評価経済では評判が貨幣のかわりとなる。
(2’) 当面は貨幣経済で補えないところを評価経済が補完して、このふたつの経済が併存する。
(3’) 評価経済でいい評判をたくさん集めるとそれをお金に換えることもできる。
(4’) 一方、お金で評判は買えない。だから、評判 >>> 貨幣である。
(5’) 評価経済を大事にすることのほうが貨幣経済を大事にすることよりも道徳的に正しい。
 
 
このように並べてみると、この評価経済という概念にはいくつか矛盾や欠点が含まれていることに気づくだろう。それは自分の想像力の問題じゃないかと思うひともいるかもしれないが、いや、それは相手の理論に問題があるからだと断定するのがネットの議論の流儀というものである。
 
 
というわけで、やっと評価経済という見えない敵の姿がはっきりした。さっそく見えない敵との戦いを始めよう。
 
 
まず、だれでも思う疑問は、貨幣経済と評価経済なるふたつの交換システムが本当に独立して併存することが可能なのかどうかだろう。また、もし、評価経済が併存するとしたとき、それによってお金が儲かると主張するのは矛盾でないかというのがふたつめの疑問。さらには評価経済が併存するかどうかにかかわらず、(3’)のお金が儲かることを最終的に目指すのだとしたら、少なくとも(5’)は同時には成立するとは思えないよね、というのが3つめの疑問だ。
 
 
さすが、攻撃する側が防御側の装備を決めつけただけあって、あっというまに批判の骨子は終わってしまった。せっかくなので、もう少し細かく検討してみよう。
 
 
貨幣経済と評価経済が独立して併存するというのはどういうことだろう。他人からの評価(=評判)と貨幣の単位に為替レートができて交換できるようになるという主張をしているのであれば別だが、そんなことはないのであれば独立した交換システムが成立するための条件は以下のようなものだろう。
 
 
・ 大前提として評判だけである程度、定量化と交換がおこなえること。
・ 貨幣と評判とは交換ができない、もしくはきわめて難しいこと。
・ もし、貨幣と評判が交換できる場合でも、交換できる貨幣の量と評判の量に相関関係が薄いこと。
・ 同様に貨幣で交換できるモノと評判で交換できるモノ同士も交換が難しく、交換できる量に相関関係が薄いこと。
 
 
理系の人間であれば交換尺度としての貨幣ベクトルと評判ベクトルができる限り直交していることといえばイメージしやすいだろうか。そして貨幣と評判に為替レートが存在しうるという場合は、貨幣ベクトルと評判ベクトルがかなり似た方向を向いているとことであり、そうなると評判経済は結局は貨幣経済に従属する存在にしかならないだろう。
 
 
実はぼくは貨幣経済と評価経済というふたつの交換システムが併存するための上の4つの条件は、ネット社会において意外と成立しているんじゃないかと思っている。つまり、貨幣と評判との交換は実際のところかなり難しい、かつ、お互いの交換できる量に相関関係は薄いと思っている。
 
 
ただし、その場合に”いい評判”のように評判に属性をつけることが、評判を交換するシステムを考えるときに邪魔になるのじゃないかというのが、ぼくの考えだ。評判を交換単位にする評価経済というのが成立するとしたら、評判の大きさだけが問題であり、評判の中身は関係ないとしないと成り立たないように見える。
 
 
ネットの有名人を見てみるがいい。いい評判っていったいなんなんだ?いい評判と悪い評判はお互いに簡単に入れ替わる。あれだけ叩かれていたホリエモンがネットで人気者になっていく過程を考えてみるがいい。マイナス100だった評判が、だんだん人気になって0になり、さらに人気がでることでプラス100になったのだろうか?プラスの評判もマイナスの評判も同時に存在していたのが実態だろう。そしてそのプラスだかマイナスだかの属性はなにかのきっかけで逆に変わるひとがたくさんいる。それが実態だろう。
 
 
逆に人気がある有名人がなにかの事件がきっかけで叩かれて一挙に信用を失うという場面もたくさん見るだろう。たくさん人気のあるひとはそのぶん何度も失敗してもなかなか人気がなくならないかといえば、そんなことなく、人気のあるひとでも、なんかの事件で悪い評判に変わるひとの割合はあまり変わらないことが予想される。むしろある程度定量的に増減するのは、いい悪いに関わらずに、なんらかの評判をもっているひとの数だろう。つまり、評判を定量的な交換するシステムをつくるときには、評判の属性を無視しないと難しいということだ。
 
 
貨幣経済に対置して評価経済を考えるなら、評判の属性の保存が難しいという問題を解決しないとシステムとして成立しないだろうというのがぼくの意見だ。評価経済が成立するとしても、お金に貴賎はない、という決まり文句と同じことが評判にもいえて、評判にいいも悪いもない、とならないといけないと思う。
 
 
そうなるといい評判を集めるとお金になるという主張は、これからは評価経済の時代だと同時に主張するなら二重の意味で矛盾することになる。ひとつはいい評判なんてものは評価経済の中では定義できないだろうということ。それと最初にいったそもそも評価経済が貨幣経済と併存するためには交換が難しいことが条件であるからだ。
 
 
・・・・・。
 
 
まあ、以上のようなことを思っているので、ぼくは評価経済という名の下に主張されているだろう個別の事柄の正当性はおいといて、評価経済という単語自体はバズワードだと思っています。
 

経営戦略と作戦と戦術と商品開発を定義してみる件

fromdusktildwawn氏のブログshi3z氏のブログのやりとりを見て思ったことを書く。

 

from氏のブログでは経営戦略と商品開発という用語が登場する。

shi3z氏のブログでは戦略、作戦、戦術、兵站という用語が登場する。

 

それぞれの議論や主張はよく類似のものを見かけるので、きっと、それなりに正当性があるのだろう。残念ながら、彼らのバイブルだろうビジネス書や銀英伝の類は読んでいないのでここでは言及しないことにする。

 

ただ、彼ら自身の文章からも定義や表現を苦労している節が伺える上記の用語については、きっと読者はもっと混乱しているだろうから、なにか即興で、もうちょっと理系的でもうすこし厳密な定義を与えることはできないかと思って考えてみた。

 

まず、戦略、作戦、戦術とはなにか?5分ほど熟考した上でのぼくの結論はこうだ。戦略、作戦、戦術のどれにもあてはまる。

 

一、 (効率性)怠け者が手を動かさずに考えたうんちくである。

一、 (単純性)簡単な法則なので説明されればバカでもわかる。

一、 (一般性)同じような局面であればいつでも適用できる。

 

働くのは大変だ。基本的には、戦略も、作戦も、戦術も頭を使って楽に仕事をする方法である。そして、戦略も作戦も戦術もなにしろ楽をする方法であるから、より問題を単純化するものであり、よくわからない作業をうまくやるための指針を与えてくれるものである。そして当然のことながら、同じような仕事では毎回使えることが重要だ。

 

では、戦略、作戦、戦術の違いとはなんだろう?これは上記のなんらかのうんちくを分類する方法であって、通常は時間的、規模的、あるいはその他の適用される範囲の大小によって決定される。

 

当然ながら

 

時間的な長さ  戦略 > 作戦 > 戦術   

規模的な大きさ 戦略 > 作戦 > 戦術

適用範囲の大小 戦略 > 作戦 > 戦術

 

となる。基本的にはスケールの問題だけだが、とかく戦略が大事とかいうひとは、戦略と戦術に質的な違いを見いだそうという傾向が強いように見える。ぼくの見解ではそれらは量的な差である。

 

また、上述の効率性、単純性、一般性という尺度で考えると、傾向としては以下のようになるだろう。

 

効率性  戦略 > 作戦 > 戦術  (どれだけの量の仕事を節約できるかという点)

単純性  戦略 > 作戦 > 戦術  (うんちくの単純さ)

一般性  戦略 > 作戦 > 戦術  (どれだけ一般的な法則か)

 

戦略が大事だというひとが多いのは、基本的には戦略が楽をする小手先のテクニックとしては一番に効果が高いからである、とぼくは思う。(というか、いま書いてて思った)

 

そう、基本的には戦略も作戦も戦術も小手先のテクニックだ。頭のいいひとが手を汚さずに頭だけで自分が有利にたとうという小手先のテクニックを体系化したものが戦略であり作戦であり戦術だ。

 

さて、ここで経営戦略と商品開発のどっちが大事かという議論をみて思ったことを書く。商品開発で勝負するということはどういうことか。商品の内容で勝負するということだ。もしくは商品の宣伝で勝負するということだ。それはライバルとの真剣勝負であり、どうやってライバルと差別化するかという戦いである。

 

こういうライバルとの競争の時には上記の戦略、作戦、戦術というのはなかなか役に立たないことが多い。なぜならしょせんは小手先のテクニックだから重要な小手先はお互いやっているからだ。そういう勝負では単純に基礎能力が高かったりや経験が多いほうあるいはより努力をしたほうが勝ったりする。そこでの勝負に強いことが、件のブログの議論での商品開発力があるということと関係あるのだろう。

 

ようするに戦略や作戦や戦術などといった小手先のテクニックが通用しない世界での真剣勝負である。ぼくは、だから戦略、作戦、戦術というのは基礎教養であり、商品開発での勝負が本戦であると考える。本当は、戦略、作戦、戦術で差をつけるのは難しいのだ。ところがIT業界のようにまだみんな方法論が見いだせていない新しい世界では、世の中のレベルが低いので、そういう小手先が有効になるということだ。

 

というわけでだいたい目標は達せたと思うが、最後に残った兵站とはなにかについて定義を与えよう。兵站というと補給。補給って大事だね。とかまあ漠然と比喩で理解してもあまり益がない。もう少し抽象的に考えると、兵站とは戦略、作戦、戦術を実行することである。戦略、作戦、戦術というのはしょせん頭の中で考えたことにすぎないから、実際に現実で実現するためにはそういう作業が必要だ。それを兵站という言葉が抽象する本質的な意味であると考えればいいだろう。

 

(追記)

戦略について小手先と書いたが、小手先じゃない戦略というのも当然存在はするだろう。ある程度、競争が進むと小手先の戦略というのは通用しなくなるし、逆に小手先でない戦略で勝負するということも可能だ。そして、そういう戦略であれば周りに隠す必要はそれほどない。なぜなら小手先でない戦略は他人には理解されない信用されにくいものだからだ。 ライバルに隠すべき戦略なんて、じゃんけんでぱーだすかぐーだすか、それぐらいの低レベルなものだけだ。たしかにそういうものなら隠したほうがいい。

経営戦略を隠すべき本当の理由とは次のふたつなんじゃないか。

・ もったいをつけたほうがみんなが信じやすいし、協力を得られやすい。

・ 幼稚だから話すと恥ずかしい。

以上

 

飛翔体とピアピア超会議

ご注意:

 この小説は「南極点のピアピア動画」をオリジナル作品とした二次創作です。本作品に登場する人物・団体はすべてオリジナル作品から着想を得たものであり、実在する名称と類似あるいは一致するものがあったとしてもまったくの偶然かつ無関係ですのでご了承ください。

 

         ◇ ◇ ◇ 

 

 株式会社ピアンゴの山上会長は朝から不機嫌だった。

「なんで、朝から、こんなに予定がぎっしり詰まっているだ!森ユキくん」

 そういって隣に座っている秘書の女性をきつく睨んだ。

「それはもちろん、会長が水曜日しか出社してくれないからです」

 彼女はまったく動じずに即座に答えて、さらにつづけた。

「それと森ユキは宇宙戦艦ヤマトです。私の名はメーテル。森メーテルです。」

 森メーテルは優秀な秘書だ。もう、かれこれ7,8年、彼女といっしょにIT業界の荒波を超える旅をしている。

「だいたいなんで俺はここに座っているんだ。そして俺の席にFooさんが座っているんだ」

 山上会長は左斜め後ろの席を指さした。

「全部、会長の指示です。水曜日以外は毎日東小金井にアニメをつくりにいくから、ピアンゴの席は一般社員と同じでいいと、そう私にいいましたけど」

「確かに東小金井には毎日いっているが、アニメは別につくってないぞ。というか俺にアニメをつくる仕事ができるわけないじゃないか」

「じゃあ、毎日なにしてんですか。だったらピアンゴに帰ってきてください」

「いや、いろいろ勉強になるん・・・・」

 Fooさんがいつのまにか会長の席の横に立っていて話を遮った。

「会長!。超会議の進行状況のチェックをお願いします」

 超会議とは正式名称をピアピア超会議といって、ピアピア動画の全てを地上に再現する、とのコンセプトの下で幕張メッセで開催される巨大イベントだ。ピアンゴにとってはじめてのビッグイベントの開催は予想以上に大変で、気がついたらもう2週間を切っていて社内はてんやわんやの大変な騒ぎになっていた。

「これが超会議会場で夜におこなわれる別イベントのピアピア超パーティーの発表パートの進行表になります。発表内容についてこれでいいか見てください」

「この発表予定の一番最初にある”謝罪&土下座”ってなに?」

「はい、現段階ではわかりませんが、なにかきっと大変なトラブルが起こると見越して、あらかじめユーザに謝罪する時間を組み込んであります。今回、出演者が多いので予定外のハプニングがおこると時間内にイベントが終わらないのです。そこで、まず、発表は土下座からスタートしたいと思います」

「なるほど、超会議の準備は万端だな」

 満足げにうなずく山上会長をまわりの社員はややうんざりした表情で眺めていた。それぞれで準備期間が1ヶ月ぐらいは欲しい大型イベントを同時に何十個も進めているのだ。スタッフの緊張と不安はピークに達しつづけたままあと2週間つづく。

 ピアピア超会議はカオスなイベントだ。痛車の展示もコスプレもあれば同人誌即売もやっている。技術部の展示に格闘ゲームの大会もあればボーカロイドや歌い手、踊り手によるライブイベントもある。こういういわゆるサブカルチャー系のイベントはこれまでもあったが、同じ場所で同時にやるというのはこれまでになかったことだ。幕張メッセでおこなうイベントとしても8ホールも使った大規模なものは、他に東京ゲームショージャンプフェスタぐらいしかない。また、これまでイベントがあまり開かれることのなかった料理カテゴリからもユーザーの創作料理が食べられる巨大フードコートが設置されたり、例のアレなる、本当に展示していいものか分からないものまでコーナーが設けられている。政治、言論カテゴリからも、田原総一郎司会の大討論大会をはじめとして、錚々たるメンバーがさまざまな日本の社会や文化やネットの問題について議論することになっていた。さらにはネットを中心にいろいろな研究をしているひとたちがあつまった”学会”なるものも開催され、IT業界のエンジニアが集まってそれぞれの技術成果を競う大会なんかも開かれる。

 それらの普通は絶対に交わらないものがすべてごちゃまぜになっていっしょくたになったのがピアピア超会議なのだ。

 参加するひともアマチュアもいればプロもいる。ほりえもんの牢屋ブースもあれば、超一流アーティストもステージに立ったり売り子をやったりする。ピアピア動画が誕生した5年前と比べたら感慨深いものがあった。5年前のスタートしたばっかりのピアピア動画も商業作品やアマチュアの作品が混在となったサイトだったが、そのときの商業作品のほとんどは権利者に許可なくアップロードされたものだった。一時はピアピア動画から削除されて影の薄くなった商業作品は、なんだなんだの5年後のいま、こうやって公認されたり公式配信されたりして、また、ピアピア動画にだんだんともどってきているのだ。プロとアマチュアのクリエイターがいっしょになった世界でも珍しい不思議なプラットホームができつつあった。

「聖火ランナーの企画はやっぱり無理かなあ。聖火のかわりにピアピア動画の全ユーザの個人情報がはいったハードディスクを中野運営長が大事に大事に抱えながら原宿本社から幕張メッセまで走るという企画は相当面白いと思ったんだがなあ」

「いや、なんのためにユーザの個人情報を抱えて走るのか意味がまったくわかりませんし、そもそもいまさらそんな思いつきの企画をいわれても困ります」

「まあ、いいや。それは諦める。ところで在日米軍は結局は参加しないことになったんだっけ」

「はい、当初は参加する方向で調整をしていたんですが、北朝鮮のミサイル発射実験への対応でそれどころじゃなくなったと断りの連絡が・・・」

「北朝鮮か−。そりゃそうだろうね。あー、本物の戦車とか見たかったなあ」

 山上会長はがっかりしてためいきをついた。北朝鮮問題は連日、新聞やテレビで報道されていて、結局、世界中の反対を押し切って、今日か明日にでも発射するんじゃないかという見込みが高まっていた。

「まあ、他にもイベントはたくさんあるし、しょうがない。前向きに考えよう。そういや、この前の木曜日にワールドビジネスサテライトで超会議がかなり紹介されていたねえ。なんか、ツイッターでインタビューに答える杉本君の目が死んでいたとか書かれていたけど、気をつけるように彼にいっといてよ。」

(だれのせいだよ・・・)その場にいた社員の脳内でコメントが右から左へ流れた。

「会長、海外事業部のジェームスからの第3四半期の報告が届いています」

 森メーテルが報告書を読めとばかりにキーボードの上に置いた。山上会長はメールをめんどくさがってほとんど読まないから、重要なメールは森メーテルが印刷して渡すのだ。山上会長はめんどくさそうに報告書を読み始めたが、すぐにひざをたたいて喜びはじめた。

「なに、先月のホワイトハウスでのオバマ大統領の記者会見で、とうとう大統領に3メートルの距離までジェームスが近づいたそうじゃないか。まあ、演説台へ歩く途中でたまたまジェームスの近くを通り過ぎただけらしいが、それでもすごい。昨年末の記者発表の時は50メートルだったから17倍も近い。素晴らしい業績アップだ」

「会長は海外展開でなにを目指しているんですか?もっとお金が儲かる事業を考えてください」

「お金儲けかあ。お金儲けというと、そういや、志賀君がんばっているねえ。彼と高橋ハムちゃんぐらいだよね。ピアンゴでもうかる新しい企画を考えているの」

 志賀はピアピア動画のメインプログラマのひとりで超会議で発表される次期バージョンZEROの目玉となる動画プレイヤーの責任者だった。彼は技術も優秀だがピアンゴのエンジニアには珍しく金儲けも好きでピアピア動画のユーザ広告は彼が企画を担当していたときに売上げが急増した。彼は最近、エンジニアとろくろ回しの関係に着目し、ピアンゴに新しくセラミック事業部を立ち上げ、効率的な陶器の生産に乗り出した。なかなか出来映えの評判も良く有望なビジネスになりそうだ。

 

 そうやってのんきな話がピアンゴ本社で繰り広げられているとき、朝鮮半島上空の早期警戒衛星が異変を察知した。

 

 監視対象の北朝鮮のミサイル基地から光を検出したのだ。

 

 ミサイル発射だ。

 

 ただちに北朝鮮のミサイル発射実験開始の報は世界に伝わった。ピアピア生放送でもその模様の中継が開始された。

 

 北朝鮮からの飛翔体の軌道が計算される。発表されると悲鳴があがった。やはり大方の予想どおり、北朝鮮のロケットの精度は低く予定された着地地点から大幅にずれてしまっていた。飛翔体はまっすぐ関東平野へ、原宿の一角へと吸い込まれていったのだ。すべての迎撃は失敗した。

 

 ピアンゴ本社では森メーテルが山上会長の机のキーボードの上に次の企画書を置いて説明をはじめていた。

早川書房から野頭さんの新作SFが出版されるので解説を書いて欲しいと依頼が来ています。これが先方から来た企画書です。」

「野頭?頭Pさんか。へー、そういえば頭Pさんの本業はSF作家だったなあ。なんていうタイトルなの?」

 自分で森メーテルに質問しながら、ああ、この目の前の企画書を読めばいいのかと気づいて手に取った瞬間・・・爆発音とともにピアンゴ本社ビルが揺れた。

 

「なにごとだ?」

 

 なにかが燃えはじめた、そんな不吉な臭いがフロアに漂った。

 

 山上はすぐにネットにアクセスして、twitterで情報を検索した。すぐにたくさんのツイートが見つかり、状況を理解した。

 

 @takeori やばいwピア生見てたら、飛翔体が着弾したの、どうやらうちのビルwwwなんか焦げてる臭いがするw

 

 モニタから目を離して、前方を見ると5メートル先の机でtakeoriが楽しそうにネットサーフィンをしていた。

 

 森メーテルが報告する。

「下のフロアに北朝鮮からのミサイルが命中したようです。爆弾はついてなかったようですが、衝撃でダンボールハウス地帯が燃え始めました。」

ダンボールハウス?もう何年も前になくなったはずじゃ・・・」

 ダンボールハウスとは家に帰るのが嫌な社員が会社に快適に寝泊まりできるように勝手に会社の空いているスペースに立てた簡易宿泊施設である。結構、あったかくて居心地よかったらしいが、だんだん数が増えてきて、消防法とかいろいろな問題があってピアンゴが上場するときの審査で問題となり、もう何年も前に完全に撤去されたはずだった。

「そうなんですが、超会議と新バージョンZEROの準備で徹夜する社員が増えてきて、また、勝手に一部の社員が建設しはじめたんです。すでに下のフロアの3分の2はダンボールの家で埋まっていて完全にスラム街と化しています。そこにミサイルの衝撃で火がついてしまって・・・」

 状況は深刻だった。なにしろダンボールだから、あっというまに火は燃え広がり、どうしようもなかった。

「やばいなサーバールームが近い」

 ピアピア動画は費用をけちって自社のオフィスの中に自作PCサーバーラックを置いていた。ここが燃えるとピアピア動画の全サービスが停止する。

 

 4時間後、心配は現実のものとなった。

 

 5年間の歴史をもつピアピア動画は完全に沈黙した。すべておしまいだった。ネットには悲痛なユーザの声が溢れ、2ちゃんねるのピアピアスレは1時間で1000スレを超える記録を叩き出した後、2ちゃんねる全体が落ちてしまった。その他も、押し寄せるピアンゴ避難民による巻き添えでサービスを停止するサイトが続出した。

 

「うーん。どうしようもないな。もはや超会議どころじゃない」

 山上会長はため息をついた。いったいどれぐらい復旧に時間がかかるのか、目処はまったくたたなかった。

 

 と、そのとき・・・。

 

「わたしがサーバーを提供しましょうか」「わたしがサーバーを提供しましょうか」「わたしがサーバーを提供しましょうか」「わたしが・・・・」

 部屋のあちこちから同時に声がした。

 

 それは、部屋の中に何十体もいて、これまでずっと黙っていた、あーやだった。

 

 なにしろあーやは全世界に2億体以上もあって、とくに日本はその密度が高い。なかでも最初の繁殖地点だったピアンゴ本社のなかだと、もはや社員の数よりもあーやの数のほうが多く、すっかり風景となって存在を忘れていたのだ。

 

 それがいっせいに喋りだしたのだから、やかましくてしょうがない。

 

「すみません。あーやさん、喋るのはひとりにしてくれませんか?」

「わかりました。わたしが代表して話します」

 山上のリクエストに、一番近くにいたあーやさんが答えた。

「あーやさんがサーバーを提供してくれるというのはどういうことですか?」

「はい。わたしの身体は地球人からすると超超高性能コンピュータとしての機能ももっています。そして、いまの地球上にあるコンピュータであれば、どれでもわたしの身体の中でエミュレーションすることが可能です。いまある2億体のうちも必要なだけ、ピアピア動画のサーバとして使ってもらってかまいませんが、どうでしょうか?」

「それはすばらしい。あーやさんがクラウドサービスになるのか!」

「はい。ただし、問題がひとつあります。GPLです。」

GPL?ライセンスのGPLですか?」

「ええ、そうです。ピアピア動画のサーバはLINUXと呼ばれるソフトを中心として構築しているようですが、LINUXは地球人がGPLと呼ぶライセンスで提供されています。GPLはソフトウェアの配布と同時にソースコードも公開することを義務づけていますが、わたしの身体をベースマシンにしたLINUXを開発した場合にそのソースコードも公開する必要があります。そのためにはわたしの身体の内部アーキテクチャーの情報を公開しなければなりません。」

「なるほど、地球文明にはそんなことはできないというわけか」

「はい、そうです。星間文明のルールにより禁じられています」

「じゃあ、でもどうすれば?」

「わたしの身体へ、みなさんからのハッキングを許可します。みなさん自身でLINUXがうごく環境の仮想マシンプログラムをつくってください」

 あーやさんが自分でそういうのをつくればなんの問題もないんじゃないかと山上は思ったが口には出さなかった。ひょっとするとあーやさんは星間文明のルールをちょっとだけ踏み外そうとしているのかもしれないという考えがちらっと浮かんだからだ。

「しかし、それでも地球人が知ってはいけない情報にアクセスすることになりますけど、それは問題ないんですか?」

 CTOの万野が余計なことをあーやさんに尋ねた。

「はい、それはやはり地球人は知ってはいけない情報ですので、作業が終了後にそのかたの生命活動は停止させていただくことになります」

「…。それは死ぬということですか?」

「そういう表現も可能です」

「…。そんなの部下にさせられない…。」

 万野は呻いた。「ぼくがやります」

 

 そのとき社内会議をSKYPE中継で自宅からみていたある社員がtwitterにこう書き込んだ。

 

 @koizuka 昔の万野さんだったらできるかなあ。今はどうだろう。最近はコード書いてないはずだからなあ。

 

 数秒後、

 

 @koizuka あ、あーやさんにログインできた。ちょっと、やってみるか。

 

「上司のみなさん、ちょっといいですか」

 山上や万野たちがうるさそうにふりむくと、すまなそうな顔のtakeoriがいた。

「こいづかさんがあーやさんへのハッキングを開始したみたいです」

 

 こいづかはピアピア動画の最初のバージョンをひとりでたった3日間で開発した伝説的なエンジニアだ。ただし、そのまま伝説になってしまい自分がつくったサービスのヘビーユーザーとして5年間活躍し続けて、エンジニアとしての仕事はほとんどしてない。ピアピア動画のサービスが停止してしまって、ようやくヒマになってやる気を出したらしい。

 

「こいちゃん、いますぐ作業を中止しろ。死んでしまうぞ」

 万野が叫んだ。

 

 @koizuka いまさら、もう、遅いんじゃないかな。APIも半分ぐらいは使い方わかったし。

 

 沈痛な表情で見守っていた山上が口を開いた。

「こいづかくん。ほんとうにすまない。残業代は出す」

 

 こいづかの作業は一週間続いた。何人かのピアンゴの社員が手伝おうと、あーやさんとそしてこいづかの自宅サーバにアクセスを試みたが、すでに強力なセキュリティが敷かれていてアクセスできなかった。こいづかはひとりですべてやるつもりだった。

 

「こいづかさんの本気のファイアーウォールはぼくらじゃ突破するのは無理ですよ」

 若手の腕利きのエンジニアの報告に万野は諦めるしかなかった。

 

 一週間後・・・

 

 @koizuka できたかな。ピアピア動画(あーや)。

 

 彼のツイートは1分間で1万以上もRTされ、1時間後は10万RTを超えた。それが彼の最後のツイートだった。

 

 こいづかの同僚が自宅を見に行ったら、部屋の扉に鍵はかかっておらずPCのキーボードの上に寝オチしたかのように倒れ込んでいるこいづかが発見された。

 

 その日、ピアンゴ本社で緊急会議が開かれた。

 

 会議室にはいっていく社員はつぎつぎと驚いて声をあげた。部屋の中にこいづかそっくりの、いや、こいづかくんそのものの人型のなにかが10体ほどいるのに気づいたからだ。

「いや、最初は普通にあーやさんのうえに適当な仮想マシンをつくればいいのかなと思っていたんだけど、そのあとのメンテナンスとかもろもろ考えると、ぼく自身をあーやさんに移植したほうがはやい、ということに気づいた」

 一体のこいづかくんが説明する。

「本当に全部移植していますね。肉体とかも完全に再現されてますけど。いや、人間にしかみえないです」

 みんながこいづかくんを隅々まで観察して感嘆の声をあげる。

「時間があれば、ぼくの人格部分だけを再現して移植するとかいうこともできたけど、今回は時間がなかったのでぼくの身体をそのままあーやさん上に再現することにしたんだよね。」

 こいづかくんがすまなそうにいった。

「なるほど、それはわかったような気もしなくもないんだけど、じゃあLINUXはどこで動いているの?」

 万野が質問する。

「ぼくが頭の中でLINUXの動きを想像しながら動かしている。ハンドアセンブルみたいなかんじ?」

「こいちゃん、ちょっと待って。それって人間であるこいちゃんの脳の想像の中でコードを解釈して実行して、LINUXのサブシステムを動かしているってこと?」

「まあ、そんなイメージになるかな。当然、人間がやると遅くて現実的じゃないけど、あーやさんの性能はとても高いから、そういうやりかたでも実用的な速度が出る」

「なるほどこいちゃんが頭の中でLINUXを実行しているぶんには、GPLどうこういう問題も関係なさそうだよね。脳の中のソースコードなんてだせやしない。しかし、いくらあーやさんが高性能だといっても、そんなのでよく速度がでるよね。」

「本当は時間がかかる部分だけ、あーやさんのシステムのネイティブコードに変換して動かしている。たとえば、C++とかは得意だから、インタプリタ的に頭の中で想像で実行しても十分に速いけど、PHPとかJavaScriptとかは仕様もいろいろあって完全に把握してないから確認しながら実行するのは時間がかかりすぎる。だから、ネイティブコードにコンパイルしたようなかんじで動かしている。そうじゃないとちょっとさすがにあーやさんでも速度がでない」

「うーん。C++インタプリタで実行して、スクリプト言語はコンパイルしてんのか」

「まあ、全部バイナリで実行したら同じなんだけどね。さすがにメンテナンス性が悪いから」

「で、結局サーバーとしては10体あれば、十分、ピアピア動画は復活できると」

「そういうことになるかな」

 こいづかくんはたんたんと質問に答え続けた。

「そうか、しかし、結果的にサーバー兼量産型こいづかくんが10体手に入ったわけか。どうせなら1000体ぐらいつくろうよ。エンジニア足らないし」

 山上の提案にあーやはぴしゃりと返答した。

「必要以上は駄目です」

 

     

 かくしてピアピア動画は運営を再開した。

 

 そして超会議の前日の大阪・・・。

 

 大阪駅のプラットホームに先頭車両の前面に超会議号というプレートをつけた青い電車が停まっていた。超会議に向けて大阪から東京まで一晩だけ復活して走る寝台特急ブルートレインだ。向谷倶楽部が超会議のためにJRにかけあって実現した企画だ。

 

 ブルートレインの前には20人ほどの一団が集まっていた。山上会長やひろゆき、そしてこいづかくんが10体などなどの運営ご一行である。

 

「超会議の前日にみんなブルートレインなんかのっていていいんですか?」

 ひろゆきが山上をからかった。

「まあ、ぼくは別に仕事ないからねえ。ひろゆきもなんもしないし、こいづかくんはクラウドサーバだから、どこにいてもいい」

「こいづかさんがクラウドだからどこにいてもいいというのは、いまいちぼくにはよく理屈がわからないんですけど」

 ひろゆきが疑問を口にした。

「クラウドはネットの向こうの雲みたいなもんだから、どこにいてもいいし、どこからでもアクセスできるんだよ」

「いや、どこにいてもいいというのはわかるんですが、じゃあ、いま、こいづかさんはどこからインターネットに繋がっているんですか?」

「クラウドはそういうもんなんだよ。魔法の言葉で、なんでもできるんだよ」

 めんどくさそうに山上はひろゆきとの議論を打ち切ろうとした。

「じゃあ、クラウドはいいとして、よく直前にブルートレインの席とれましたね。すぐ完売するんじゃなかったんですか?」

「いや、ほっとくと鉄オタに買い占められてピア厨が買えないんじゃないかと心配して、一般の露出をまったくしなかったら、ちょっと売れ残っちゃったんだよね。20席ほど。あと、2週間あるから、興味ある人は買いにいったほうがいいんじゃないかな?」

「だれに向かって話しているんですか?それと今日は超会議の2週間前じゃなくて前日という”設定”ですから、いまから買いに行っても遅いですよ」

 ひろゆきが突っ込んだ。

 発車ベルが鳴り一行は列車に乗り込む。ゆっくりとブルートレイン超会議号が東京へ超会議会場へ向かって出発した。到着は明日の朝になる。上野着の夜行列車降りたときから、超会議の会場まではもうすぐだ。

 

「あーやさん、ピアピア動画のサーバを提供してくれて本当にたすかっているんですが、星間文明のきまりで営利目的のことには協力できないんじゃなかったでしたっけ?」

 ひろゆきが近くにいたあーやさんに聞いた。

「ピアンゴの事業内容、お金の使い方などの情報を分析したところ、ピアンゴは営利団体とはみなされません」

「あー、やっぱり異星人の目から冷静に見ると、ピアンゴは営利企業じゃないんですね」

「ひどいなあ。ほかにもそういう企業があるんですか?あーやさん」

 山上会長が口をはさんだ。

「そうですね。東証一部に上場している企業だと、東京電力なんかも営利団体とは思えないですね」

「あ、異星人からみるとピアンゴと東電はおなじだと」

 ひろゆきが大笑いをした。

 

 遠くの方からピアピア動画で流行っている曲の歌声が聞こえてきた。隣の車両でピア厨たちが合唱しはじめたらしい。

 

 Smiling together Will be together

 こんなご時世だからこそ笑って未来へと歩こう

 Smiling together

 

 一秒毎に世界のどこかで

 人が死に逝き 人が産まれ行く

 一輪花が枯れるよりも速く

 人は渇いて 人を求めてる

 

 Smilingだ。ピア動を代表するコラボ曲だ。

「会長、そういえば野頭さんの新しいSF小説の解説の仕事ですが、受けられますか?」

 メーテルが山上に尋ねた。

「あー、あれ、なんてタイトルだっけ?」

「北極点のニコニコ動画です」

「なにそれ、ニコニコ動画っていうのはピアピア動画をモデルにしたの?」

「そうみたいですね。だから、会長にぜひ解説をお願いしたいと」

 山上は思った。ニコニコ動画か。頭Pらしいネーミングだ。きっと、もっとピアピア動画をニコニコさせてほしいという願いも込めているのだろう。意外と悪くない名前かも知れない。

 Smilingの曲がサビにちかづいた。

 

 耳を澄ませなくても

 みんな気づいてるでしょ

 見せかけ平和の中

 熱い痛いよの声

 

 そう。もうすぐあのフレーズだ。

 

 国も色も血も超え

 一つになるとしたら

 きっとそれはこの場所・・・

 

 遠くのみんながその場所の名を叫んだ。

 山上もひろゆきも10体のこいづかくんも、声にはださなくても、おもわず口だけ動かしてその名前をつぶやいた。

 

 みんなの頭の中を、そのサイトの名前の弾幕がよぎった。

 

 4年ぶりのブルートレイン暗くなった北陸の線路をひた走る。歌声はきっと夜遅くまで続くのだろう。

 

 そんな悲しい顔は似合わないよ一緒に歌おう 

 Smiling together Will be together

 

(了)

ネットのプライバシーなんて本当に守れるのだろうか?

ネットでプライバシー侵害とセキュリティについての議論であれば、高木浩光氏のブログが素晴らしい。氏の議論は技術的な解説だけでなく法律的な側面からもいろいろな実例を紹介しており、まあ、総論としては、とても素晴らしいとしかいいようがない。氏の指摘により、ネットサービス側も、先日のはてなブックマークのように仕様変更をせざるを得なくなったケースも多くみられてネット社会に貢献しているサイトである。

 

少なくとも国内のネットサービス事業者においては氏の活躍により、プライバシー侵害についての意識が高まったことは間違いなく、今後も大いに活躍してもらいたいと思うのだが、やはり世の中の流れの全体としては、ネットのプライバシーなんて事実上なくなっていく可能性が高いなと、この前、Facebookを触っていて思った。

 

一昨年になるか、ぼくがFacebookのアカウントを取り直したときに気づいたことがある。自分の本名を入力した段階で、推薦される友達かもしれないリストの精度が異常に高いのだ。

 

なんでこんなに正確に予測できるのだと驚いた。まわりのFacebookユーザーにきいてみたら幾人かが電話帳とかtwitterのフォローしている人のデータを引っ張ってきているのですよとか訳知り顔に教えてくれた。そうなのかなとも思ったが、アカウントをとったのはPCだから、電話帳のデータというのはまずない。twitterアカウントのひもづけというのも表示されている人間にはtwitterをやっていない人間もはいっていたりして説明がつかない。いろいろ他の人にも聞いてみると、10年以上前、高校時代につきあっていて、まったく連絡をとっていない彼女の名前とかが表示されたひともいるという。

 

どういうロジックで表示しているのか、まわりのエンジニア数人と議論して、ありえる可能性についていくつか検討した結果、おそらくはこれだろうという推測がひとつ見つかった。

 

おそらくFacebookは友達検索を利用したユーザを逆引きして相手の友達候補として使用している。つまり、表示されているのはあなたの名前を過去にFacebookで検索したユーザであるということだ。このロジックであれば、自分の本名を登録しただけの状態でも友達候補を表示することが可能だ。そしてFacebookはおそらく複数のロジックで友達候補を表示しているのだと思うが、アカウントをとったばっかりのときにはこの方法しか使えないのだと思う。

 

このことは考えてみるとちょっと恐ろしい。逆に考えると、Facebookで自分の友達を探して名前をうっかり検索すると、自動的に相手の友達候補に表示されてしまうということだ。好きなひとの名前とかを検索するネットストーカー行為みたいなのも暴露されてしまうじゃないか。

 

さて、このことを実現するシステムを想像すると、Facebookはユーザの行動履歴をユーザーごとにログとして蓄積するだけでなく、特定の行動をおこなったひとのユーザIDの一覧をほぼリアルタイムで抽出できるデータベースを構築しているということが分かる。あたりまえのはなしである。データはもっているのだ。当然、そういうこともやるだろう。

 

ユーザのこうした行動履歴を管理しているだろうネットサービスはFacebookクラスのもので考えても、Googleapple、amazon、Microsoftと4つぐらいはあげられる。そうした会社はすべて現時点で相当な量のユーザの行動履歴を利用することが可能だということにあらためて気づかされる。セキュリティもくそもなく、すでにわれわれはプライベートな行動履歴をネットサービスをやっている事業者に握られていて、それをおそらくは気づかないうちにいろいろと利用されているのだ。

 

そう、考えると、最近の話題であるappleがUDIDの利用制限をアプリベンダーに対しておこなうなんていう発表を、アップルの英断だと喝采するのはずいぶんと脳天気だといわざるをえない。すでにプラットホームホルダーは個人情報を握っていて、それを自社のためになら利用できる状態にある。サードパーティへの提供をユーザの支持のもとに拒否できるのであれば、むしろ有利な立場でプラットホームホルダーが競争できるということになってラッキー、ぐらいにappleという会社の性格を考えると判断しそうだ。(アンチappleに思われるかもしれないのでいっとくと僕は年間100万円以上はアップル製品を購入しているヘビーユーザーだ)。

 

もちろんapple自身が個人情報を使ったサービスを発表したときにやはり非難される可能性はあるのだが、appleの場合はサービスがCoolだったり便利に見えたら、むしろ賞賛される展開になる。サードパーティの場合はLINEのようにたとえ便利であっても非難される、そういう展開になるのではないか。

 

まあ、しかし、ありそうな落としどころは現在のFacebookがやっているように、ユーザの承諾のもとに個人情報の提供をサードパーティに対してもおこなうことだ。いま、Facebookをつかうと1分に1回ぐらいはなんらかのサービスへ個人情報の提供の承諾を迫るウィンドウが開く。これは絶対にユーザが慣れる。聞いてみるとやはり反射的に無条件に承諾してしまう習性を身につけてしまったユーザが過半数をこえてそうだ。

 

あとは承諾する項目が増えて、承諾内容の説明文のところにスクロールバーがついたら、もう終わりだ。使用許諾契約のようにだれも読みやしないウィンドウになるのは目に見えている。

 

考えてみればプライバシーを守る権利とかが騒がれるようになったのはここ10年、20年の話だろう。昔の社会はそんなことは問題にならなかった。結局、人類の歴史のなかでは、プライバシーを守ろうという時代はネットが出現する過渡期におこった出来事で、結局は短期間で終わるんじゃないか。自分の個人情報が他所で管理されることに慣れ、疑問をもたない時代がくるんじゃないか、そういうことを、ここんところ、考えている。

 

ひろゆきは自分に似ていると思う人たち

はてな新ブログに移行したことだし、心機一転、ちょっと文体でも変えれないかと思って、いくつか人気のブログを読んでみた。そのなかでも、やっぱり、ちきりんさんの文章がとても読みやすくて面白い。さすが大人気ブログなだけのことはある。ぜひ、見習いたいところだ。

 

さて、今日の本題(ふたつめのエントリだけどw)であるが、2ちゃんねるニコニコ動画の創設者として知られる”ひろゆき”というのは、なかなかユニークな人間だ。実際の彼の人生や社会的立場も特別だけれども、考え方や生き方も独特でちょっと似た人間は思いつかない。

 

にもかかわらず、ぼくのまわりでひろゆきに会った人が、彼は自分に似ているとか、自分の若いころにそっくりだと言い出すことがよく起こる。かくいう、ぼく自身もひろゆきと会った最初の頃は、自分のちょっと若い時に似ているなとか思ったものだ。

 

これはいったいどういう現象なんだろうと、結構、数年間にわたり考えていたのだが、最近、やっと納得いく結論めいたものがまとまってきたので書いてみることにする。

 

まず、事実関係を整理しよう。

 

【事実関係その1】

ひろゆきが自分と似ているというひとたちは、本当にひろゆきと似ているひとたちなのか?ぼくの主観で客観的にいうと、まったく似ていない。全然、似てない。いや、あなたは違うでしょう、とぼくは思うし、他のひともそう思うんじゃないかなあ、っていうようなひとが、自分はひろゆきと似ていると言い出す。

 

【事実関係その2】

ひろゆきが自分と似ているというひとたちは、だいたい偉いひとが多い。企業の経営者とか、その分野でのトップをはっているひとたちに多い。

 

まあ、簡単に想像つくポイントとしては、どこが似ていると思ったかである。それはおそらく、ひろゆきのアナーキーさ、社会の常識がどうだろうと自分の考えを貫きとおす生き方に対してだろう。そして自分あるいは過去の自分と目の前のひろゆきを重ねて共感したんだろうということだ。自分も昔はやんちゃだった。多かれ少なかれ事をなしたひとというのはそういうことを思っている。まわりの人間からすると、いまでもあなたは十分に好き放題やっているだろ、とか心の中で考えられてたりするのだろうが、本人的にはやはり人生の中でずいぶんと妥協もしたし、我慢もしたと思っている。だから、自由に生きているひろゆきがある意味うらやましいと同時に、ああ、自分も同じだと感じるのだろう。

 

まあ、でも全体としてはやっぱり似てないよね、とかぼくは思うわけだ。じゃあ、人が他人を見て自分と似ていると思う現象って、そもそもなんだろう、とか考えちゃうのが次にくる疑問だ。

 

ひとつの解釈としては、人が他人を自分と似ていると思うのは、多くの場合は好意の表現でもあるということだ。ひろゆきは世間からいろいろいわれているけれども、私にもひろゆきと似た部分があると思う、というのは明らかに好意を感じていることの表明だ。仲良くなってもいい、と思っていることのサインだ。

 

そういう文脈ではもはや本当に似ているかどうかは関係ない。同じ大学を卒業したとか、郷里が同じである、とかと同じレベルの話だ。仲良くなろうと思ったから類似点を探しただけ、ということになる。

 

もうひとつの解釈は、人間は他人が自分と似ているかの判断に希少性のある属性を利用する傾向があるということだ。

 

簡単な例でいうと、日本に生きている日本人は、他人に対して、”なんだ、おまえも日本人じゃん”、とかいって共感して仲良くなることはない。でも、海外にいてまわりが外人ばっかりの環境で、別の日本人に会うと親しみを感じる。同じ日本人だとうれしくなる。つまり、自分の数ある属性の中で、これについてはまわりに似ているひとがいないな、と思っているようなパラメーターで似ているひとが現れたときに、自分と似ていると感じるということだ。

 

だから、まわりがだれも自由に生きていないと思うような環境で、自由に生きているひろゆきに出会うと、他の属性は全部無視して、ああ、彼こそ、自分と似ていると感じる。ここで面白いのは、自由なひろゆきと似ているというひとたちが、傍から見ると、必ずしも自由には生きてないひとも混ざっていることだ。

 

そういう場合、似ているのはそのひとの心の中にある別の自分と似ているということだろう。自分の中にある理想の自分であり本来の自分というものが、きっと自由な自分なのだ。それとひろゆきが似ていると感じる。そういう現象なんじゃないかな。

 

でも、そうなると、自由に生きたいと思っている自分が本来の自分であると思っているひとなんて世の中の大多数じゃないかという疑念も湧いてくる。だったら、まわりの人間にまず共感すべきじゃないか?どういうことか?

 

つまりこういうことだと思う。みんな自由に生きたいと心の中で思っていながら実現できていない。それは人生の上ではきっと不本意であり隠して生きていることなのだ。そして、まわりのひともみんなそうだから、それはそれでありふれていて共感の対象にならない。できれば本当は自分は違うと思いたいから似ているとも思わない。でも、そこで自由な人間を見つけたら、本来の理想の自分をそこに見いだして共感を覚える。そんなかんじの構造になっているんじゃないか。それがネットで幅広く、ひろゆきが人気を博す、真の理由じゃないかなと思う。

 

このことを応用すると、ひろゆきの例に限らず、みんながある程度うらやましいなと思うだろう属性で他人があんまり持っていないものがあると、むしろ他人から高確率で似ていると思われ、好意をもたれるという素敵な構造が成立しているんじゃないかという推測が成立する。

 

きっと普通の人よりも変わった奴ほど、実は他人に「自分と似ている」と思われているのではないか?

 

これは結構正しいんじゃないかなとちょっと思っている。

 

今回はこんなところかな?

 

 というわけで、今日ふたつめのエントリはみんなが心の中で思っている自由に生きるということを現実に実行すると、多くのひとから似ていると思われ、共感されて、好意をもたれるので大変におとくだという話でした。

 

 

そんじゃーね。

 

 

この世は夢かうつつかを高校生みたいに考えてみた

新しいはてなブログを今回から試してみることにする。旧ブログはこちら
 

最近、ぼくのまわりでは養老孟司さんの「唯脳論」がブームである。ぼくのまわりというか正確には、ぼくともうひとり某Sさんとの間で唯脳論に関する話題が熱くて、もう2ヶ月ぐらい、思い出したように繰り返し議論している。なんだか、高校生のころみたいだなあ、となかなか楽しいのだ。

 

このブログはだいたい文章が長いし理屈っぽいので、きっと理屈っぽいのが嫌いではないひとが多く読んでいるのだと思う。

 

そして理屈っぽいのが嫌いじゃないひとは、きっと、高校生のころ、同じく理屈っぽいのが嫌いじゃないクラスメイトときっといろんなテーマを議論しあったに違いない。どうして、大人になったら、こういう熱い議論ができないのか?いくつか理由を考えみると、まず、恋愛論や友情論なんかが大人になるとできないのはわかりやすい。ひとことでいうと、大人になると、こっぱずかしくてできなくなる。人生とは人間の生きる意味はなにかというようなちょっと哲学的な話、相対論とか量子力学って本当に正しいの?とか人工知能は人間を超えられるかみたいな理系的な話はどうだろうか?やっぱ書いてて思ったけど、これもこっぱずかしいよね。でも、それ以前に大人になると話せる相手がだんだんいなくなるというのが大きいと思う。自分のまわりの人間だけだと飽きてもくるし、興味と知識のレベルがだんだんと合わなくなってくる。

 

さて、「唯脳論」の話に戻る。これは書いてあるテーマが難しいので読むのが大変だけど、実はものすごくわかりやすい本だ。ものすごく難しいテーマをとても簡単に書いてあるのが、すごい。でも、結局、読みやすいかといわれると、養老さん最大のベストセラー「バカの壁」よりは10倍以上は読みにくいだろう。でも、養老さんが数ある著書の中でもこれこそ読んで欲しいと思っている自信作である。

 

そして20年前の本である。でも、去年書かれたといわれても信じてしまうぐらいに今読んでも画期的な本に見える。実は今月、あることで養老さんと同席できる機会があり、5分ぐらいか会話させていただいた。チャンスと思って、いくつかの唯脳論の疑問をぶつけてみたのだ。ひとつは20年後のいまでも画期的に見えるということは唯脳論は結局日本の世の中には理解されなかったのではないか、養老さん自身がどう思っているかを聞いてみたのだ。もうひとつは本の中で明らかに養老さん自身がいくつかの結論を出していると思うのに、結論を断言するのを慎重に避けている。これはなぜか、ということである。養老さんはその場で明快に答えていただいてやっぱりこの人はすごいと感動したのだが、なんといったかについては、ここで書くのはフェアではないので、みなさんの想像にお任せしたい。

 

唯脳論はわかりやすいが奥が深い本だ。そういう意味で解説が面白い。澤口俊之さんという脳科学者が書いているのだが、なんと、唯脳論は難解でぼくには分からない、と弱音を吐いているのだ。しかも、どう読んでも、この澤口さんは自分は唯脳論を理解しているはずだと思っているのが文章から伝わってくる。実際、解説を読んでもとくに間違って唯脳論を読んでいるようにはまったくみえない。でも、本人は養老さんの思考は深くて自分には理解できないとも書いてあるのだ。きっと、これは養老さんと澤口さんが会って話したことがあって、そのときになんか養老さんに、わかってない、なんてことをいわれたんじゃないかと邪推してしまうのだ。では、じゃあ、だとすると、澤口さんが理解していないと養老さんが思ったポイントがあるとすると、いったいどこなんだろうと、想像するととても楽しい。

 

やっぱり無責任に偉そうに想像して断言するのは本当に楽しいよね。というわけで、ぼくの予想をどうしても書きたくなったのでちょっとだけ書く。読んでない人でも、わかりやすくするために、ここでぼくは唯脳論とは、ある同じことを三段論法で主張している本であると、勝手に断言することにしよう。

 

唯脳論 レベル1

 

まず、人間の思考そのものは当然ながら脳というハードウェアに大きく依存している、というのがある。だから、人間が世界を認識するとき、脳の外に”世界という現実”があるという前提で考えたがるが、実際には脳の中にある”世界という現実”を見ているだけなんだ、という主張である。これについては、まあ、こういう話が好きな理系人間だけでなく、アニメとかSFとかのサブカル好きにも納得できる内容だろう。

 

唯脳論 レベル2

 

そう考えると、人間が世界をどれだけ認識できるかで、次第に人間が世界を認識するために使っている脳が持つ思考方法自体の限界が問題となってくるのは自明である。ちなみに唯脳論では、人間の思考の基本には、視覚と聴覚があり、人間の自意識はこのふたつで世の中を理解するときに、「構造」と「機能」のふたつの切り口で考えるのはそれぞれ視覚と聴覚に対応しているのではないかと指摘している。構造とは時間軸のない3次元の情報のことであり、機能とはあるデータが時間軸にそってどういうように変化するかという情報である。それぞれ視覚と聴覚に対応して進化した脳の機能であるという推測である。視覚と聴覚の情報処理から人間の自我や言語が生まれたに違いないという話は面白いので、ぜひ、唯脳論そのものを読んでほしいのだが、とりあえず、ここでは、人間の脳があるアーキテクチャーのハードウェアに依存して動作している以上、可能な情報処理には当然ながら限界があるだろう、というところに着目したい。まあ、このことはゲーデルの不完全定理以降は結構議論されるテーマだから、異論も少ないと思う。別のいいかたをすると、”世界の情報”を脳内モデルで再構成しているというのが、人間がやっていることだから、データ圧縮という観点からみても、世界を理解するというのがいかに無謀な試みかがわかるというものだ。

 

唯脳論 レベル3

 

上記ふたつのことはあらためて説明されるとそうだよね。と、少なくとも唯脳論がでて20年後の現在であれば、頷くような話だが、実は世の中のほとんどの人間はちゃんとつきつめては理解していない、ということが養老さんがもっともいいたかったことじゃないかというのが、ぼくの推測だ。たとえば唯脳論のなかで養老さんが割とページを割いて批判しているのが進化論のとらえ方だ。いまの多くの進化論の理解の仕方は宗教と同じだと書いている。進化論という真理が現実にあるという思い込みについてを批判している。現実と同じレベルで真理が存在すると思っていることを批判している。真理とは実は脳の中にある回路なのだ。脳の中にある回路を現実と混同して真理だと思い込んでいる。なぜ、そう思いこみたがるかについては、脳はそういうものなのだということを認識すべきである。ということが唯脳論の主張の核じゃないかと思うのだ。そして、なるほどそういう風に理解すればいいのかとポンと手を打った読者へ、そう分かったと思っているおまえはいったいどこにいるんだ?ということをいいたい気持ちなんじゃないかと思う。陳腐なそれっぽい言葉で言い切ってみせると、自己言及のパラドックスが真理を求める人間の思考の根本にある。それは現代の一流の学者であってもそのことへの認識は甘い、そう養老さんはいいたいのではないか?

 

これらはぼくの勝手な解釈で有り、想像だ。実際のところはなにがどう唯脳論に書かれているのか。もっと面白い推論や実例がたくさんあるので、ぜひご自分で原書で読んで考えていただきたい。幸いなことに原書は日本語で書かれている。

 

閑話休題ということで、とにかく唯脳論は考えさせる本だ。書いてある内容もそうだし、それによって自分が持っていた常識や考え方、生き方についても、いったいなんだったんだろうと考えさせる奥が深い本だ。

 

人間の脳はあたりまえだが完全ではない。唯脳論で批判されている主客の転倒は日常生活の中でもいたるところで見られる。昨年、さすがにネットでも批判されていたが、原子力発電所の事故の確率は0.1%でも0.01%でもなく、0%でなければならない、とかいう主張もそうだ。人間の命は地球よりも重いとかいう言葉もある。そういうのはスローガンかなにかであって、この世の真理ではない。でも、世の中のひとはスローガンを善悪で判断し、善であれば真理にであると思い込みたがる。本当はスローガンは現実にはなにを意図するものなのか、はたして可能なのかを考えなければいけないのに、スローガンが善であれば、すべての個別案件の判断材料にしたがる。新聞やテレビは政治家が逮捕されたり事情聴取されたりすると、疑惑のある政治家が辞めないのはどういうことかとキャンペーンを貼る。実際になにをやったのか、どういう疑惑なのかについてはおざなりな報道しかされない。人間の脳の情報処理能力の不足につけこむかたちでいろいろな社会のシステムが進化しているのが現代だ。今後、ネット社会において、そういう現象はますます進むだろう。情報操作が民主化されて個人でもできるようなったのがメディアとしてのネットの本質だ。

 

人間とはなにか、人類の歴史はどこに向かうのか、個人はなにを目的として人生を生きればいいのか、これまでの時代の知識人にもなかなか結論がでにくい難しいテーマにも、なんだかんだいって納得いく説明に近づけるいい時代にぼくらは生きている。一方、思うのは養老さんが指摘しているように人間の脳はハードウェアとしては10万年間まったく変わっていない。有名な「我思う。ゆえに我有り」のカントデカルトの言葉も養老さんによればその時代における唯脳論である。東洋の仏教や老荘思想にも唯脳論らしい思想があるという。よく昔から、夢と現実は同じようなものだという考え方があるが、どっちも脳から見ると同じような情報だから、脳から見るとまったく正しい。無常観みたいなのも詩的な表現に捉えられがちだが、昔の賢人は相当練り込まれた論理的な帰結としてそういう思想にいたったに違いない。やたら余計な知識ばっかり増えた現代人のほうが、思考の深度は浅くなっているのではないか、そう思う。

 

夢と現実、虚構と現実、人工と自然、バーチャルとリアル。ぼくらはどちらに生きているのか?などなど分かっているようで分かっていないそんなことをつらつらと考えて、議論するのは本当に楽しいから、みんなやろうぜ。

 

ということでぼくが心底思うのは2点。①専門外だろうが、もっといろんなことについてみんな発言すべき。②専門家風邪をふかすやつは滅びろ。ということだ。だいたい大学生ぐらいになってから、そういう議論がいやになったのはたとえば物理学とか専攻している奴が量子力学とか俺は分かっているんだという雰囲気だけ出してトータルではなんなのか説明できないくせに細かい専門用語についてそれは違うとかいう揚げ足とりをして素人を見下す態度をとるやつらの出現だ。専門家だからといっても専門とする物事をちゃんと理解してわけでなく、多くの専門家は専門用語の使い方を知っているだけだろ、と思う。専門家としての行儀作法を知っている。まあ、考えてみれば、柔道や剣道もまず作法から入るから正しいといえば正しい。でも、それと戦ったときの強さとは別ものだよね。

 

もっとみんながいろんなことを語ればいいのにと思うけど、みんな専門家がいるところでの議論を避ける。これがなんとかならないのかなとずっと考えている。ああ、でも一方でどうしようもなレベルの議論をどうどうと展開するひともネットに多いなあ。どっちが大きな問題かわからないや。

  

そういえば究極に人間を客観的に観察した結果の唯脳論を著した養老孟司さんが雑誌の熱風の1月号で面白いことを書いていた。90歳になってまで死にたくないとわめいている老人について、その根本にあるのは90歳まで本気で生きてこなかったからだと断じているのだ。なるほど。生きてきたという実感をもつひとは確かに明日死んでもまあそれはそれでいいかなと、どこかで思っているような気がぼくにもします。

 

人間の脳なんてしょせんはただの物体だろというひとが、一方で本気で生きる、ということについて語っている。これって面白いとは思いませんか?

  

それが人間というものなんです。