ひろゆきは自分に似ていると思う人たち

はてな新ブログに移行したことだし、心機一転、ちょっと文体でも変えれないかと思って、いくつか人気のブログを読んでみた。そのなかでも、やっぱり、ちきりんさんの文章がとても読みやすくて面白い。さすが大人気ブログなだけのことはある。ぜひ、見習いたいところだ。

 

さて、今日の本題(ふたつめのエントリだけどw)であるが、2ちゃんねるニコニコ動画の創設者として知られる”ひろゆき”というのは、なかなかユニークな人間だ。実際の彼の人生や社会的立場も特別だけれども、考え方や生き方も独特でちょっと似た人間は思いつかない。

 

にもかかわらず、ぼくのまわりでひろゆきに会った人が、彼は自分に似ているとか、自分の若いころにそっくりだと言い出すことがよく起こる。かくいう、ぼく自身もひろゆきと会った最初の頃は、自分のちょっと若い時に似ているなとか思ったものだ。

 

これはいったいどういう現象なんだろうと、結構、数年間にわたり考えていたのだが、最近、やっと納得いく結論めいたものがまとまってきたので書いてみることにする。

 

まず、事実関係を整理しよう。

 

【事実関係その1】

ひろゆきが自分と似ているというひとたちは、本当にひろゆきと似ているひとたちなのか?ぼくの主観で客観的にいうと、まったく似ていない。全然、似てない。いや、あなたは違うでしょう、とぼくは思うし、他のひともそう思うんじゃないかなあ、っていうようなひとが、自分はひろゆきと似ていると言い出す。

 

【事実関係その2】

ひろゆきが自分と似ているというひとたちは、だいたい偉いひとが多い。企業の経営者とか、その分野でのトップをはっているひとたちに多い。

 

まあ、簡単に想像つくポイントとしては、どこが似ていると思ったかである。それはおそらく、ひろゆきのアナーキーさ、社会の常識がどうだろうと自分の考えを貫きとおす生き方に対してだろう。そして自分あるいは過去の自分と目の前のひろゆきを重ねて共感したんだろうということだ。自分も昔はやんちゃだった。多かれ少なかれ事をなしたひとというのはそういうことを思っている。まわりの人間からすると、いまでもあなたは十分に好き放題やっているだろ、とか心の中で考えられてたりするのだろうが、本人的にはやはり人生の中でずいぶんと妥協もしたし、我慢もしたと思っている。だから、自由に生きているひろゆきがある意味うらやましいと同時に、ああ、自分も同じだと感じるのだろう。

 

まあ、でも全体としてはやっぱり似てないよね、とかぼくは思うわけだ。じゃあ、人が他人を見て自分と似ていると思う現象って、そもそもなんだろう、とか考えちゃうのが次にくる疑問だ。

 

ひとつの解釈としては、人が他人を自分と似ていると思うのは、多くの場合は好意の表現でもあるということだ。ひろゆきは世間からいろいろいわれているけれども、私にもひろゆきと似た部分があると思う、というのは明らかに好意を感じていることの表明だ。仲良くなってもいい、と思っていることのサインだ。

 

そういう文脈ではもはや本当に似ているかどうかは関係ない。同じ大学を卒業したとか、郷里が同じである、とかと同じレベルの話だ。仲良くなろうと思ったから類似点を探しただけ、ということになる。

 

もうひとつの解釈は、人間は他人が自分と似ているかの判断に希少性のある属性を利用する傾向があるということだ。

 

簡単な例でいうと、日本に生きている日本人は、他人に対して、”なんだ、おまえも日本人じゃん”、とかいって共感して仲良くなることはない。でも、海外にいてまわりが外人ばっかりの環境で、別の日本人に会うと親しみを感じる。同じ日本人だとうれしくなる。つまり、自分の数ある属性の中で、これについてはまわりに似ているひとがいないな、と思っているようなパラメーターで似ているひとが現れたときに、自分と似ていると感じるということだ。

 

だから、まわりがだれも自由に生きていないと思うような環境で、自由に生きているひろゆきに出会うと、他の属性は全部無視して、ああ、彼こそ、自分と似ていると感じる。ここで面白いのは、自由なひろゆきと似ているというひとたちが、傍から見ると、必ずしも自由には生きてないひとも混ざっていることだ。

 

そういう場合、似ているのはそのひとの心の中にある別の自分と似ているということだろう。自分の中にある理想の自分であり本来の自分というものが、きっと自由な自分なのだ。それとひろゆきが似ていると感じる。そういう現象なんじゃないかな。

 

でも、そうなると、自由に生きたいと思っている自分が本来の自分であると思っているひとなんて世の中の大多数じゃないかという疑念も湧いてくる。だったら、まわりの人間にまず共感すべきじゃないか?どういうことか?

 

つまりこういうことだと思う。みんな自由に生きたいと心の中で思っていながら実現できていない。それは人生の上ではきっと不本意であり隠して生きていることなのだ。そして、まわりのひともみんなそうだから、それはそれでありふれていて共感の対象にならない。できれば本当は自分は違うと思いたいから似ているとも思わない。でも、そこで自由な人間を見つけたら、本来の理想の自分をそこに見いだして共感を覚える。そんなかんじの構造になっているんじゃないか。それがネットで幅広く、ひろゆきが人気を博す、真の理由じゃないかなと思う。

 

このことを応用すると、ひろゆきの例に限らず、みんながある程度うらやましいなと思うだろう属性で他人があんまり持っていないものがあると、むしろ他人から高確率で似ていると思われ、好意をもたれるという素敵な構造が成立しているんじゃないかという推測が成立する。

 

きっと普通の人よりも変わった奴ほど、実は他人に「自分と似ている」と思われているのではないか?

 

これは結構正しいんじゃないかなとちょっと思っている。

 

今回はこんなところかな?

 

 というわけで、今日ふたつめのエントリはみんなが心の中で思っている自由に生きるということを現実に実行すると、多くのひとから似ていると思われ、共感されて、好意をもたれるので大変におとくだという話でした。

 

 

そんじゃーね。