オタクの恋愛というテーマのリアリティ(モテキ編)
いまさらではあるが、最近、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(通称”あの花”)という去年のテレビアニメシリーズと、「モテキ」という、これも去年に公開されてヒットした映画を見て、いろいろ思うところがあったので書いてみる。
このふたつはアニメと実写という違いはあるが、オタクの男の子の恋愛という同じテーマを扱っている。違うという人もいるかもしれないが、そういう理解もできるんだから、しょうがない。
およそ古今東西の物語というものは所謂”お話”であり、とどのつまりは主人公が読者が羨ましがるような突然の幸運に出会う話だ。ストーリー自体が悲劇であってもこの場合は関係ない。読者が自分の暮らしている日常と比較して刺激的であり、物語の登場人物のだれかに感情移入できるのであれば、それは読者が心の中で望んでいる羨ましい世界なのだ。
だから、なんの努力をしなくても主人公に女の子がよってきてハーレム状態になったとしても、そのこと自体は非難には値しないだろう。裏の畑で犬が鳴くので掘ってみたら大判小判がざっくざく出てきたという話とおんなじだ。
むしろ、どういう幸運であれば、いまの時代の人々が感情移入できるようなリアリティを与えることができるのか、それを探り当てることが、それぞれの時代における物語の作り手の使命になるのだと思う。
翻って、「あの花」と「モテキ」のふたつはどちらも2011年に発表されたヒット作品である。だから、今の時代のある一定の人々にリアリティのある幸運を見せることに成功した作品だといえるだろう。
どちらの作品も多くのひとが感動して絶賛した物語だ。それはどのような人々にどのような幸運を見せたのか?
まずは物語の構造がわりあいに単純な「モテキ」から見ていこう。
実は、昨日、Playstation Storeでレンタル購入して見たばっかりなのだが、すでに登場人物の名前をまったく覚えていない。面白くなかったといっているわけではなく、むしろ逆なのだが、ぼくは人間を識別し、名前を覚える能力に激しく欠けるのだ。正確にいうと、登場人物の名前を忘れたのではなく、昨日みた2時間の間に覚えることができなかったのである。
ということで登場人物はすべて記号で説明する。
主人公:A君
ヒロイン:長澤まさみ
ヒロインの友達:B子
飲み屋のねーちゃん:C子
主人公の上司:社長
主人公の同僚:D子
ヒロインの彼氏:E君
主要登場人物はこの7人だ。簡単にいうと、モテキはつぎのような話だ。
ーーー モテキのあらすじ ーーー
ネットと音楽が趣味で童貞のA君の前に突然長澤まさみが現れる。彼女は彼氏がいるらしいにも関わらず、A君に気のあるそぶりをみせて、A君は動揺する。何度もエッチもできそうな雰囲気になるが寸前で邪魔がはいって果たせないのはお約束。長澤まさみが自分のことをどう思っているか気になってしょうがないA君は、長澤まさみの友達のB子とも仲良くなり、好きだと告白されて、まず、B子とやってしまう。でも、本当は長澤まさみのほうが好きなんだといって、B子を振る。ついでに気をひこうと、B子とやったことを長澤まさみに言う。そこで長澤まさみの彼氏E君が登場。イケメンで仕事もできるE君を見て、A君はとても敵わないと諦めかけるが、実はE君は妻子がいて長澤まさみとは不倫をしていたことが分かる。A君は長澤まさみを不幸せにするなとE君に一喝する。で、だったら、オレのほうがふさわしいじゃんと、再度、長澤まさみにアタックするが、A君とじゃ自分を高められないからダメだ、みたいなことをいわれて振られる。そこでラストのクライマックス。E君はA君にいわれたことを反省し、妻と話し合って別居することにしたから一緒に住もうと長澤まさみと告げる。問題解決じゃんと思っていたら、その場にA君が登場する。長澤まさみ逃げる。A君追いかける。逃げる。追いつく。E君もおっかけてくる。E君に見せつけるようにA君は長澤まさみと濃厚なキス。延々とキスシーンでそれがそのままラストシーン。めでたしめでたし。
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基本の筋は以上だ。あ、社長とC子とD子がでてこなかった。主要登場人物はA君と長澤まさみとB子とE君の4人でしたね。
さて、モテキがリアリティのある幸運として、視聴者に受け取られるためにはなにが必要だったのだろうか。
まず、ざっとあらすじを見て思うのは主人公のA君はかなりサイテ−な奴でありしかも格好悪いことだ。ポイントはこのかなりサイテ−で格好悪いA君に対して、視聴者が共感したということである。A君のことを自分自身と似ている部分があると思わせることに成功したということである。そしてそのためにはサイテーで格好悪いことが障害にはならなかったばかりでなく、むしろ必要だったのだ。
主人公A君のような女の子と縁の薄いオタクにとってのリアリティのある幸運な出会いの物語を設計するとはどういうことか。
まず、A君は女の子と話すことが苦手であり、女性経験が少ないので、会話もできなければエッチにも自信がない。これらの障害を解決しないとリアリティのある出会いにならないということだ。
どうするか。まず、女の子を自分から口説くというのは現実感がない。だから、女の子は向こうからやってこないといけない。そして出会っても、なにを話していいかわからないから、自分と趣味がたまたま同じでなければならないだろう。そして仲良くなっても、どうやってエッチに持ち込んでいいかが想像できないから、向こうから誘ってくることが望ましい。モテキの長澤まさみはまさにそういう風に設計されている。
ここで問題がひとつ生じる。この場合、たしかにA君にとっては長澤まさみは都合のいい女であるが、これって、物好きなビッチと出会ってエッチをさせてもらえただけという話にならないか、ということである。そうなると、物語にでてくる社長やD子のようなA君を童貞と馬鹿にするリア充たちのコミュニティにやっと最下層民として仲間入りさせていただいたというだけの話であり、まったく爽快感にかける。やはり社長やD子たちの価値観よりもA君のほうが優れていて一発逆転みたいなストーリが求められるのだろう。
そうすると物語に以下のことが必要になる。
・ 長澤まさみはビッチだとしても、一番好きなのはA君でなければいけない。
・ 長澤まさみのビッチに見える行動は、実は彼氏には奥さんも子どももいて不倫関係であり傷ついていたからだという言い訳を用意する。
これでヒロインとの恋愛を純粋なものにする基本条件が整った。
さて、次は、共感を得やすいようにダメな人間として設定された主人公はいったい魅力がある人物になるのかという大問題だ。
なにしろ基本もてない人でも共感できるように設計されている主人公だけに、そのままでは確かにもてないよね、みたいな人間にしか見えない。もてない人間を正直に描写してもてるように見せるというのはハードルが高いというか基本的には矛盾することだ。視聴者の理想の人間ではなく等身大の人間として主人公を設定した以上は解決が難しい問題だ。
だから、いや、魅力的に見えないのは気のせいです。みなさん、この主人公を魅力的だといっていますよ。と一般常識のほうを改変して、理由や根拠の説明はできるだけ避けるというのはやむをえない戦略になる。だから、次のような設定が必要になる。
・ 長澤まさみだけでなく、彼女の友達のB子もA君を好きになる。
・ 社長につれていかれた飲み屋のねーちゃんC子がA君のことを需要があると断定する。
A君がなぜもてるのかじゃなく、A君はもてるんだなと事実だけを見せつけるという作戦だ。
しかし、A君はそもそも女の子と縁がないから、どういう人間にもてさせれば説得力があるだろうか。
よくアニメだとB子は幼なじみという設定が使われる。また、アニメだと職場の同僚であるD子が実はひそかにA君のことを好きだったというのもありそうな設定だろう。でも、これはアニメだから通用する手法だ。アニメはやはり世界全体がファンタジーに見えるからだ。
実写だと、やはり、アニメほどファンタジーな設定に説得力を持たせるのは簡単ではない。現実との比較をどうしてもしてしまうからだ。現実にいるA君のようなひとはまわりにまったく女っ気がないことだろう。そして幼なじみや職場の同僚の女の子がたとえいたとして、彼女たちが実はオレのことを好きだ、なんていうのはありえないというのは皮膚感覚で理解しているはずだから、どちらの設定も説得力に欠けてしまう。だから、モテキにおいてB子がヒロインの友達として設定されているのは正しい選択だと思う。長澤まさみもB子もどちらも向こう側の人間でなければならないのだ。
長澤まさみがどこからともなくやってきて、自分に好意を持つ。それだけでも現実的にはありえない話であるが、彼女が来た世界にいるB子まで自分に好意を持つとしたら、話はちょっと変わってくる。自分を好きになってくれるかわいい女の子が突然変異的にどこかにいるというより、どこか知らない世界に自分を好きになってくれるような価値観のあるところが存在するという話である。こちらのほうがリアリティを持って、理解しやすいのだ。価値観自体が変わる世界があるというのではないと、現実には自分がかわいい女の子には持ててないという事実からくる常識を打ち砕くことが難しいからだ。
さらに主人公はもてていますよーという説得力を補強する方法としてC子の登場だ。たくさんの男を見てきたはずの水商売の女性に、君みたいな男って需要あるよ、と断定されれば、意外とそういうもんかなと思うだろう。それはきっとA君に共感する全国のもてないお琴が潜在的に思っているし願ってもいることだからだ。
こういうふうに理屈ではなく、状況証拠で主人公の魅力があることをまわりから証明していくしか、現実問題として説得力ある主人公の魅力を表現することは難しいだろう。ただし、間接的な状況証拠だけでは、説得力のある恋愛ドラマはつくれない。多くの恋愛もので主人公の最大の魅力であり武器となるのはやっぱり一途な恋心なのだ。むしろ一途な恋心が報われるという部分がないとほとんどの恋愛物語は成立しないだろう。だから、主人公は一途に長澤まさみを好きでありつづけなければならないのだ。
ここでもうひとつ問題が生じる。オタクが一途にだれかを好きになるというのを想像すると一般的にはキモイし、ストーカーみたいに見えてしまう恐れがあるという問題だ。これを解決するためにA君はもB子とやらなければならなかった。長澤まさみだけじゃないよというアリバイづくりである。こうしてA君は長澤まさみを想い続けているんだけど、他の女にももてるし、一回ぐらいは他の女ともエッチまでやってしまうという説得力があるんだかないんだかわからない設定が必要になる。
さて、こうして、一応、仮にA君が純粋に長澤まさみのことを想い続けているんだという設定で主人公の魅力を伝えた場合に、B子も純粋にA君のことを想い続けているんだから、彼女の扱いをどうすべきかという問題が生まれる。「つうか、A君はB子と付き合えばよくね?」問題である。
やはり恋愛物語としてA君の一発逆転ドラマにするためには本命の長澤まさみ以外と付き合うことはありえない。それはA君の長澤まさみへの純粋な思いに共感している視聴者の感情移入への否定にもなる。A君に共感するようなひとは、もし自分に彼女ができたら絶対に大切にするのにと脳内彼女への純愛を妄想して自分のアイデンティティを安定させていることが多いので、恋愛において妥協することは自分の普段の価値観の否定にもつながってしまうのだ。
ところが自分の秘めた一途な空想の彼女への愛情を大事にするという結論は、同様に、B子の一途なA君への気持ちは踏みにじってもいいのかという疑問に容易に転化してしまう。これは困った。A君がB子を振ってもかまわないということは、逆にA君も長澤まさみに振られてもしょうがないということだからだ。自分の気持ちのほうが他人のB子の気持ちよりも大事だよね、というのは説得力があるにしても、後味が悪いので、もうすこし別の理由が必要だ。
そのためにB子はA君に振られたあとに社長とエッチをするという役回りを演じさせられる。まず、そこでB子の純愛さに疑問符をつけさせられる。さらに振られたときにA君にくいさがる態度がいかにもめんどくさそうな女である。ただ、このあたりではA君も大概ひどいのでお互い引き分けにしかならない。むしろお似合いだ。そこでB子を振るための決定打となるのは、オタク的感性の違いである。つまり長澤まさみのほうがかわいいからでも本命だからでもなくオタク的感性の違いから、B子を選ばないんだというわけだ。主人公の務めるのは現実にも存在する音楽サイトのナタリーだ。ナタリーで紹介されているような音楽好きのひとが聴きそうな音楽の話題に興じるA君と長澤まさみに対して、B子の好きなのはB'zである。この理由でB子はA君に振られてしまうのだ。この映画の世界観において音楽をわかっていないひとの好きな音楽の象徴として楽曲の使用許諾をさせられたB'z側は怒っていいと思う。まあ、オタク的でない一般人のための音楽という解釈も可能だが。
さて、最後に残ったのは、長澤まさみのほうは本当にA君のことを好きなの?問題だ。
これについては理由はともかく本当に好きなんだということだけを状況証拠で証明して押し切るという基本方針はやはり等身大の主人公を使う以上はやむをえない。
そのために長澤まさみは妻とは別居するとまでいってくれた本命のはずの彼氏を振ってA君を選ぶ。その際に、長澤まさみがわがままな女とならないように彼氏は離婚まではせずに別居であり、子どももいるという設定が芸が細かい。
また、長澤まさみに、A君と付き合うのはメリットがないとはっきり言わせるのも最終的にA君を選んだのが愛情が理由であるということを強調するためだ。最後の彼氏の目の前のキスシーンも理屈じゃなくて感情的にA君を好きなんだということを表現するためだ。
このようにしてモテキはオタクにもリアリティのある恋愛物語として受け取ることができるように設計されている。
ただ、モテキは実写でもあり、オタクではないひとにも受け入れられたのだろう。また、そのようにも設計されている。長澤まさみが主演だし、オタク的趣味の題材として”音楽”が選ばれているのもその現れだ。
これがアニメとなるとどうなるか、というわけで本題の「あの花」に移ろうと思ったが、気力も尽きたので、箇条書きにて終わらせる。
・ 同じ仲間というテーマについて、ヤンキー文化の「ワンピース」とオタク文化の「あの花」との対称性が興味深い。
・ ワンピースではそれぞれの道を歩む仲間が主人公の元に集う。あの花ではそれぞれの道を歩んでいた仲間が、主人公の元に戻ってくる。
・ Fateでもそうだったが、なぜ、こういうアニメでは別に他人のことを気遣わずに自分のことしか考えていないようにしか見えない主人公に対して、女の子が、他人のことばっかりじゃなくて自分をもっと大切にしてよと、一見、意味不明の説教をするのか問題。
・ 結局、なにに感動するのか、どこに感情移入をしているのかについての推測
・ モテキもそうだけど、一途な気持ちの価値が高くなる構造について。
・ 一人っ子の問題。
気力が復活すれば、「あの花」編で。
以上
私は、人間は進歩しないものだと思っています。
信頼関係を築けるひとと築けないひと
ぼくがどういうひとと付き合いたいか、付き合っているか、を考えてみた。
人間関係の基本はお互いの信用にある。どこまで相手が自分を信用しているか、逆に自分が信用するかを値踏みすることになる。
これは意識的、無意識的を問わずにすべての人間がやっていることだ。
ぼくが仲がよくなるひとには、なぜか世間的には信用できないひとである、とか思われていることが多い。
そういう一般的に”難しい”ひとと付き合えるのはひとえにぼくの優れた人格の賜物であるとか以前は思ったりもしてたのだが、そういうわけでもないなといつの頃からか考えるようになった。
世間で油断ならないとか、自分のことしか考えないとかいって非難されるタイプの人には共通項がある。他人を信用しないということと、もうひとつそれを態度に出しているひとであるということだ。
他人を信用しないだけならともかくそれを態度にわざわざ出してしまうというのはどういうことか。それはそのひとが本当は他人を信用したいひとであるからに他ならない。本当は他人を信用したいのに何度も騙された結果、人間不信に陥ったのだ。そして人間を信用したいのに信用できないことに不満をもっている。それが他人を信用するまいという態度をわざわざ外に出すというかたちであらわれるのだ。
そういうひととは最終的には仲良くなれることが多い。結局はだれかを信用したいとまだ思っているからだ。
本当にやばいひとはもっと人当たりがいい。他人は信用できないという”悟り”を開いたひとたちだ。もう、完全に割り切っていて他人を信用しないことが当然すぎて疑問をもっていない。他人を信用したいという気持ちはあるとしてもずっと深くに沈み込んでしまって届かない。
そうなるとどうやっても仲良くはなれない。
さて、人間関係でお互い信用するというのは2種類の違った切り口がある。それは自分が困ったときに助けてくれるというある種の運命共同体としての絆を信用するということと、利害関係的にお互い組んだほうが得であるという価値観の共有を信用するということのふたつである。ぼくが仲良くなれないひとでも利害関係での価値観の共有はできるし、信じることもできる。
感情的に人間が求めるのは当然、運命共同体的な絆のほうである。もうひとつの利害関係における価値観の共有を信じるというのは理性的なものだ。
この両者は切り口としてはほとんど正反対だが、実際にはこのふたつが入り組んで絡み合っているのが人間関係だ。感情が勝つこともあれば理性が勝つこともある。どちらが勝つかも一貫しておらず、都合のいいときに使い分けているのが人間だろう。
人間とはそういうものなのだ。感情だけで決めることにも理性だけでも決めるにしても、貫き通すのには大変なエネルギーが必要で、自然にはできない。ここを理解していないと無駄に他人に期待して裏切られたと感じて絶望することになる。
そして感情的なものはむしろなにしろ感情だから個人の勝手でありしょうがないもんはしょうがないのだが、理性的なもののほうが価値観が異なることが自分の理屈では納得いかずに感情的なものに転化したりしていろいろとめんどくさい。
さきほどいった他人を信用しないで自分のことばっかり考えていると非難されるようなひとたちの場合には、ぼくの経験則だが、非難している側にむしろ問題があることが多い。それは利用しようと思って利用できなかったひとに対して非難していることが多いからだ。多くの場合、自分のことばっかり考えていると非難されているひとのほうが自分の信念と価値観を持って行動していたりする。利用しようとする側はそういうのが自分の価値観では理解できないから、利用できないことに腹を立てる、そういう構図がよく見られる。
まとめると、世の中とは、自分の損得だけ考えて他人を信用していない態度をみせるひとが、感情的な信頼関係を本当は求めていたり、お互いの損得だけ考えて他人に近づくひとが感情的に怒ったりする面白い場所だということだ。
年を取るというのはどういうことか考えてみた
ぼくは20歳のころから老化による自分の能力の低下に対する恐怖があった。
たぶん、そういうひとはほかにも多いと思う。
いったい何歳まで自分は働けるのだろう。年を取ったときにどれぐらい能力が現実問題として下がるのかということにずっと関心をもって、自分のまわりを観察してきたのだが、現時点での結論を簡単に書いてみようと思う。ぼくの主観的な感覚なので正しいかどうかはわからないし、どの程度、一般性があるのかどうかもさだかではないが、実際のところ、年をとるっていうのはどんなかんじなのという疑問への回答のサンプルにはなるだろう。
(1)記憶力
子供の時分から他人よりも物覚えが得意なタイプのひとがいる。ぼくもそのタイプだった。特に努力をしなくてもいろんなことを覚えてしまう。
テストの点数もそこそこいい。こういうタイプは20歳を過ぎるころから記憶力の低下に苦しむことになる。
記憶力というのは分かりやすい指標なので、自分でも頭が悪くなったと思い始める。
単純な記憶力はやはり年をとると低下していくのは間違いないだろう。気になるのは、これが年齢によってどんどん低下するのか、ある程度、断続的に低下するもので、いったん下がると、しばらくはそのままなのかだ。ぼくの感覚的には20歳を過ぎたどこかで記憶力に質的な変化がおこり大きく下がる。以後はそれほどは下がっていないというものだ。
むしろ20歳以前が例外な期間であり、記憶力については特別なボーナスがあると考えた方がいいだろう。脳がまだ使われていない領域がたくさん残っていて、とても性能の高い部分に記憶を格納することができる。そんなイメージだ。外国語習得でネィティブ並になるためには25歳以前に覚えないと無理だとかいうような俗説があるが、同じような理由だろうと思う。人間が記憶に使うメモリには種類があり、高性能なものは若い自分に使われてしまう。
さて、主観的な記憶力の低下については30歳ぐらいで止まる。30歳以降はエピソード記憶というらしいが、物事をすでに覚えている知識に関連づける記憶が得意になり、記憶力がむしろ再び上昇したような気にさえなる。まわりを見る限り、主観的な記憶力については少なくとも70歳ぐらいまでは問題は起こらないように思える。
(2)瞬間的な判断力
ある状況においてなにをすればいいのかを瞬間的に判断する力は、ぼくの見解では年齢とともに上昇する。なぜかというと、しょせん瞬間的な判断というのは過去の経験にもとづくパターン認識によるものだからだ。当然、経験が多ければ多いほど正確な判断をおこなえるだろう。おそらく厳密には反射神経が年齢とともに衰えるように瞬間で判断する時間は年齢とともに増していると想像される。ただし、それこそ反射神経的な速度を要求される判断でなければ、0.1秒の判断に2,3病かかったところで、現実の多くの問題の解決には誤差みたいなものなので、過去の経験による判断能力は年齢とともに増していくと考えていいだろう。
(3)理解力
これは、記憶力と関係があり、似たようなカーブを描くというのが僕の考えだ。ただし、単純な記憶力と違って、理解力というのは、物事を関連づけて覚えるということだから、ピークは三十代以降だ。但し、これはいままでの自分の経験からなる記憶に基づく能力だから、理解できるベースのないものは理解出来ない。全く新しい経験の体系を理解する力は二十代以降は急激に低下する。
(4)シミュレーション能力
どこをどうしたらああなってこうなるみたいなことを予測する能力はやはり年齢と経験と共に向上する。
特に人間関係におけるシミュレーション能力と人脈のコンボは老人たちの最大の武器だ。
(5)体力
これは、間違いなく低下する。毎年低下する。際限なく低下していく。もう俺も若くないなと思い始めてから、数年ごとに何度も同じことを実感することになる。
脳の能力とは関係なさそうに見えるが、そんなことなく集中力やどれだけ長い時間働けるかは体力で決まる。元気がなけりゃヤル気もでない。
中年以降の再就職が難しいのは新しいしごとを覚えられないことと、体力がないから、仕事のアウトプットの量が絶対的に少ないからだ。
(6)感性
年を取ると感性が鈍るという。感性が知らない物事に出会った時の新鮮な驚きと定義するならその通りだろう。
若くて無知な方がなんにでもびっくりする=感性が鋭くなるのは自明だ。
感性を時代の雰囲気を捉える力と定義するなら、感性は世代ごとにことなるだろうから、同世代を生きている人間の方が同世代の心を捉えることは得意だろう。
鈍くなるとかそういうものではないと思うが、離れた世代の感性はだんだんと掴みにくくなるのはしょうがない。
だから、若い感性を維持するというのは若い世代との接点を自分の生活の中にどう維持するかという問題におきかえられる。
今の日本の文化の大きな流れとしては、おたく文化とヤンキー文化の二つがある。ここ数十年間、世の中の中心を形作ってきたのはヤンキー文化のほうである。
なぜ、おたく文化が世の中の中心になれないのかについての僕の仮説がある。
それは世の中で文化を作れる権力を持っている人の若い世代との接点が、キャバクラとかなんじゃないかということだ。
AKBにせよEXILEにせよ夜の街の文化に強い影響をうけている。
ヤンキー文化はそういう接点で上の世代のクリエイターに強い影響を与えて主流派になりえたのだと思う。
ひるがえって考えるに、おたく文化の担い手たち側はそういう正のスパイラルが、世代間で働かなかったから、どんどん高齢化がすすみ先鋭化して行ったのではないか。
この構造が正しいとするとおたく文化の昨今の興隆には、ヤンキーたちにもジブリ、ワンピース、モンハンに代表されるおたく文化の一部が浸透してきている点と、ネットを介した新しい世代間交流の仕組みが存在している点は非常に重要であり注目に値するだろう。余談になるが、ぼくはこれらのことから今後の若い世代のオタクがリア充化することは歴史的な必然であり、避けられないと思っている。日本の文化のメインストーリムの担い手が若い世代の感覚をネットを通じて吸収しはじめているからだ。
マーケティングをやる人間にとってはいい時代だ。若い女の子と仲良くなって仕事のふりして「最近、何がはやっているの?」とか聞かなくてもネットを見ていれば若い世代の空気は調べられる。おそらくマーケティングやる人間のプロとしての寿命はネットによって伸びるだろう。
(7)人脈
人間はひとりでできることには限界がある。そして自分ひとりでできることなんて年齢とともに少なくなる。
およそ40歳を超えた人間の労働力としての価値はすでに習得した知識か、持っている人脈かの2種類ぐらいしかない。
そして若くして活躍する経営者とかクリエイターはじじいキラーと呼ばれりして、なんらかの後ろ盾が存在することがほとんどだ。
この人脈は傾向としては当然ながら年とともに強力になっていくものだが、減少する場合もある。
ひとつは人脈も自分とともに年をとっていくということだ。自分の仲がいいひとがあまり偉くなっても現場への影響力は逆に下がっていったりする。また、サラリーマンであれば定年があり、そうでなくても一丁あがりとラインを外れていったりする。老いた権力者も最終的に影響力を失っていくのは自分の人脈が引退したり死んでしまうからだ。
また、もうひとつの留意点としては、人脈とは相互扶助の仕組みだから自分自身が力を失うと自分の人脈も利用できなくなることが多いということだ。
(8)言語的な表現力
人前でしゃべる能力は、場数で決まるので、場数を踏んだ人生の経験者のほうが一般的に話は面白くなる。ただ、会話において当意即妙な答えを返すという能力は、反射神経的な速度を要求されるので、ぼくの感覚では40歳以降はだんだんと自分の話すのは得意でも相手の話を聞いて適切な答えをリアルタイムで返すという能力はどんどん失われていく。老人はだいたい会話の反応が遅くて、相手の話を聞かないという特徴を共通して持つ。ただ、仕事を現役でやっているひととそうでないひとで結構差がつくというのが印象でひょっとしたら、それは自然淘汰で問題ないひとが残っているだけなのかもしれないが、60歳、70歳でもほとんど問題ないひとは多い。しかし、それでも、だいたい80歳超えると実務的な会話はかなり難しくなるというのがぼくの印象だ。
だから、会話能力に問題がであると、いくら人脈があっても使えないから現役で仕事をするのは肉体的には80歳が限界かなと思っている。ひょっとするとネットがこの限界を超えさせるのであれば面白いと思っている。
(9)ギャグの面白さ
それが面白いかどうは別にして、ある単語をなんの関係もない別の意味の文章に結びつけるという典型的なおやじギャクの能力は30歳を過ぎると開花する。これを笑ってもらえるかどうかは人間の能力というよりは偉さで決まる。偉いひとの冗談は人間は本能的に面白く感じるという性質を持っている。おやじギャグを笑ってもらえないことを気にする人はギャグを磨くよりも偉くなったほうが早い。
(10)人格
ぼくが人生で出会ったさまざまなひとを観察した結論だが、人間の人格は環境で決定されるので年齢は関係ないというのが結論だ。
なんとなく物語的には老人というのは賢者であり人格者であり、みんなを導いてくれるものだが、実際は老人でも性格悪いひとは悪いし、人間が円くなるとかよくいうが、それは周りと散々衝突した結果のある意味敗北だったり、体力、気力の低下が主原因で、人格が人生経験により、素晴らしくなるというのは例外的なケースだと思う。むしろ年をとるといまの日本の社会だとひがみっぽくなったりして、より性格は悪くなるという傾向があるように思える。
(11)客観性
若さゆえのあやまちという。若いと自分を客観的に見ることができず感情のおもむくままに暴走してしまうことがよくある。これは年齢によってどうなるか。自分を客観的に見れるようになるのはだいたい30歳ぐらいからじゃないかというのがぼくの意見だ。
基本は30歳を過ぎてからも向上していく能力に見えるが、老人の独善性をどう考えればいいのかが、まだ、未熟な僕としては判断がつかないところだ。客観性はあるけど、そのうえで、わがままなのかもしれない。
(12)好奇心
好奇心が強いかどうかは性格に起因するようだが、好奇心の強いひとでも、どうも年を取るとだんだんと好奇心が弱くなって保守的になっていく。好奇心を維持し続けることは本当に大変なことのようだ。
好奇心を年をとっても維持しつづけているひとの特徴は自分が好奇心を持つと決めたもの以外の情報をシャットアウトしていることだ。
年をとっても好奇心が旺盛なひとは同時に飽きっぽいし、興味ないと判断するのも早い。
(13)創作意欲
いまのところ僕には創作意欲と年齢の関係はあまりないように思える。ただ、体力的な問題で集中力が衰えるので、ものづくりにかける根気のほうが足らなくなるという現象はあるかもしれない。それと本人がつくりたいものと時代とのマッチングの問題だろう。人間は年をとってもクリエイティブさは全然衰えないというのがぼくの見解だ。それよりも思うのは年齢を問わずに生活が満たされると、創作意欲はなくなるという現象をよく見聞きする。
(14)環境による能力の変化
最後に能力の個人差について思うことを書く。まず、最初の就職は重要だ。20代に覚えた仕事のやりかたは一生ついてまわり抜け出せないものらしい。とりあえず僕の場合にも自分の年齢まではまったくそのとおりだ。
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そして仕事を覚える能力だけでなく意欲も20代は最高だ。最初の就職が重要なのは、そこで20代の間に意欲を失なうと、二度と同じような新鮮な気持ちで意欲をもてなくなることになる。若い時に純粋な意欲というものはかけがえがなく、かつ汚染されやすい。
そして経営者でも管理職でもいいが自分の判断で物事を動かせる仕事をすることが非常に重要だ。よく、経営者は孤独だ、とかいう言葉を聞くが、それはたしかに真実の一面ではあるかもしれないが、業界を見ていると経営者は70過ぎても元気で、サラリーマンは60近くになると急激に老け込んでいるのが現実だ。やっぱり孤独だかなんだかしらないが総合的には経営者はストレスフリーであり、健康で長生きする傾向にあるように思う。
経営者でなくても仕事が現役かどうかで人間の能力の低下具合は一変する。やっぱり一線で活躍することが大事なのだ。引退すると老ける。ハッピーリタイアなんて幻想を持っているひとは捨てましょう。
人間は最後の瞬間まで働いていて、そのまま斃れるのが幸せだ。老害上等だよね。むしろほとんどの老人が老害になれずに消えていくのが、いまの競争社会の姿だろうと思う。
実際にやっぱり大変なことだよ。年をとってもなお一線でいつづけるのは。
実録:弥生さんの話
友達の家の近くにある公園に柵ができていたのです。かなり大きな柵なので公園の向こう半分が完全に覆われていました。
「なんか工事中なの?」
ぼくは友達に聞いたのです。
「ああ、公園の中にある建物なにかしってる?」
「小屋みたいなの?」
公園の中央には物置みたいな木造の小屋があります。
「あれ、古代遺跡なんだって。高床式の建物らしい」
そうだったんだ。
「その割には新しくない?」
「もちろん、復元してるんだけどね」
「じゃあ、発掘作業かなんかの工事やってんの?」
「いや、工事はやってなくて立ち入り禁止にしてるだけなんだよね。人が住んじゃったの」
おかしな話です。
「人が住んだってどういうこと」
「遺跡にひとがすんじゃったの。あの高床式の建物に」
ぼくは笑いました。
「なにそれ、つまり、浮浪者かなんかが住みついたってこと?」
「浮浪者・・・まあ、そういうことになるかな」
友達は考え込んでつけくわえました。
「でも、オレはそのひとのことを弥生さんと呼んでいたんだよね」
「なに、弥生さんって」
ぼくは可笑しくてしかたがありません。
「弥生時代っぽいから弥生さん」
「仲良かったの?」
「いや、話したことはなくて、勝手にそう名付けていただけ。でも、あいさつはしてたよ」
「あいさつしてたんだ」
「弥生さんはねえ、結構、あの遺跡の役に立っていたんだよ」
友達は少しむきになって弥生さんのことを説明しはじめました。
弥生さんは、毎朝、6時ぐらいから起きて、公園のまわりのそうじをはじめるのだそうです。だから、公園はいつもゴミがありませんでした。近所づきあいも良くて、いつも元気に通りかかる人とあいさつを交わしていたそうです。だから、このあたりでも人気は高かったはずだと友達は主張するのです。自分の住まいにしていた高床式の小屋もそれはそれは丁寧に使っていたそうです。
「なのに、きっと心ないひとがいたんだよ。だれかが通報したんだと思う」
「まあ、そりゃ、勝手に公園に住んでいたら、いつかは通報されるよね」
「区役所は弥生さんを追い出すんじゃなくて雇うべきだったんだよ。役に立っていたんだもん」
柵は工事のためじゃなく、弥生さんを追い出して遺跡に入れなくするためだったのです。
「それで弥生さんはどうなったの?」
「追い出されて一週間ぐらいは公園の残った半分にあるベンチにずっと座っていたんだよね」
自分が住んでいた高床式の小屋を眺めながら、弥生さんは一日中ベンチに座っていたんだそうです。
「もう、いなくなったの?」
「ここ2,3週間は見ないよね。きっと、どっかにいっちゃったんだよ」
「諦めて別の場所を見つけたのか。それともどこかに連れて行かれたのか」
ぼくは少し悲しくなってためいきをついたのです。
「面倒をみてくれる施設とかにいれられたのかな」
「いや、浮浪者の面倒みてくれるような施設はないでしょ」
「そんなのないのかあ」
「ないだろうね」
ぼくたちは弥生さんの身を案じましたが、しょうがありません。どうしようもありません。
Facebookの日記に書きなよと、ぼくは友達に薦めました。もちろん、そんなことをしてもなんにもならないことは分かっていましたが、せめて弥生さんのことをネットの片隅にでも記録として残そうと思ったのです。
それから1ヶ月立ちました。
今日、公園を見ると、もう、柵はとりのぞかれていました。弥生さんが帰ってくることはもうないと区役所が判断したのでしょうか。
友達はまだ日記を書いていません。
しょうがないのでぼくがこのエントリを書くことにしたのです。
人の心を試してはいけないのはなぜか。
私を見て欲しい。だれに?
朝、寝ぼけながら考えた。というか、まだ、寝ぼけています。
たぶん、ぼくにしては短いブログになる。
なんでネットにメンヘラがいるのか。今朝もこの時間になっても寝れないメンヘラが自分を見て欲しいとつぶやいているのか。
まあ、だいたいメンヘラってそうだよね。自己承認要求がなんかこじらせているんだよね。
というか、クリエイターにそもそもメンヘラが多い。
なんでだろ。
人間が本能的に自己承認要求を持つのは群れをなす動物だからに違いない。だから、きっと、メンヘラは群れにいれてもらえない叫びを抱えていきているのだろう。
群れってこの場合なに?本人がはいりたい群れってどこにあるのか。
人間が孤独になるのは群れにいれてもらえないからか、自分が所属すべき群れがみつからないと感じているのかどちらだろう。どちらもあるだろうけど、どちらが先とかあるのだろうか。
なんとなく人間の心理状態の遷移を想像すると、順番的には
① 群れにいれてもらえない。
↓
② こいつらはそもそも仲間じゃない。ほかにぼくの本当の仲間がいるはずだ。
という順序のような気がする。
うーん。書いてて、やっぱりメンヘラって基本的には群れに所属したいっていう本能が満たされていない症状のような気がしてきた。
ネットというのがやばい。遠くはなれたところに自分につぶやきに反応してくれるひとがいて、そこに仲間がいるように感じる。でも、結局、身の回りにいるわけじゃない。ここが健康的じゃない部分だな。
クリエイターというのもそうだろう。基本、離れたところにファンがいる。そこが不安定の源になる。アーティストが自分のまわりをファンで固めたくなる心理もそこだろう。自分の群れをつくりたいのだと思う。
現代社会の群れはいりくんでいて、遠くにいて、あやふやな存在だから、きっと、みんなメンヘラになる。
だから、きっとメンヘラを治すには身近な仲間をつくることがいちばん精神衛生にはいいんだろう。でも、きっとクリエイターがそこを満たされたら、もう、作品なんてつくれなくなるよね。
・・・。
あんなたいしたこと書いてないな。
いいや。もっぺん、寝る。