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人生の賞味期限について

以下のブログで書かれていたことについて思ったことを書いてみる。

 

現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ、人生の「賞味期限」

 

筆者の佐藤航陽氏が書くところによると、人生には「賞味期限」があるという。人間が一生の間に持っているエネルギーには限度があり、そのエネルギーは人生の中で減っていく、 なにかに挑戦するにはエネルギーが必要で、エネルギーが枯渇してしまうと、いくら挑戦できる十分な知識と経験があっても、もはや挑戦は できなくなる。このエネルギーが残っている期間を「人生の賞味期限」と呼んでいるということらしい。

 

ぼくのあまり長くはない人生経験からしても、こういう人生の賞味期限といったものは

本当に存在すると思う。

 

人生の賞味期限がなぜあるのかは単純で、佐藤氏が書いているように現実を直視しながら

理想を持ち続けることが難しいからだ。

 

簡単にいうと、世の中を変えようと、ある理想を実現しようと頑張る人間というのは根本的に勘違いをしているからだ。

 

勘違いというのはなにか?みっつ挙げる。

 

・ 理想を実現する能力を自分が持っているという思い込み。人間ひとりの力なんてたかが知れていて、理想が実現するかどうかは自分とは関係なく決まるものである。

・ 理想が正しくて、現実が間違っているという思い込み。当然のことながら、世の中に存在するものは全て合理的であり、間違っているように見えるのは全部が見えてないだけだからだ。

・ 理想を実現するのが自分の使命であり生きる意味であるという思い込み。当然のことながら、勘違い。社会的使命の実現のためと個人の幸せがたまたま一致していれば問題はないが、本来は個人の幸せは自分の理想とは別のものである。

 

人間個人の幸せと理想の追求の両立は、根本的にいろいろ無理があるのだ。まあ、たまたま、うまくいく場合もあれば、さらに幸運だとそれが長く続く場合もあるだろうが、基本はそんなことは起こったとしても、そっちのほうが事故みたいなものである。人生の幸せとは他にもいろいろあるに決まっている。

 

なぜ、人生に賞味期限があるかは明快で、人間ある程度頭がよければ、なんのために自分は理想を追求しなければいけないのだろうと、いつかは自分の勘違いに気付いてしまうだけのことである。

 

このように、ぼくはこのブログの筆者のいう人生の賞味期限とは勘違いをしたままなにかに異常な努力を注げる期間だと思っているのだが、たとえ、人生の賞味期限が過ぎたからといって、人間が挑戦をできなくなるわけではないと思っている。

 

理想と現実の折り合いをつけて生きていこうとする人間が直面する問題をもうちょっと

分かりやすぐ理解するために、簡単な具体例で考えてみよう。

 

「選挙に投票にいくかどうか問題」というのがちょうどいい。

 

昨年末の衆院選だということにして、あなたの実現したい理想は、原子力発電所の全廃ということにしてみよう。

 

さあ、あなたはどう行動するべきだろうか。

 

各党の原発政策に関する公約は自民党が「依存度を可能な限り低減」であり、民主党は「2030年代の稼働ゼロ」。「新設は認めない」とするのが公明党だ。

 

人によっていろいろな判断があるだろうが、一番、ふつうの行動は、本音では原子力発電を続けたそうな自民党に投票することは避けて、一応は最大野党の民主党に投票することだろうか。

 

ここで、あなたが理想の実現のために投票にいくために、ぜひ信じたいことがいくつかある。

 

・ あなたの一票で民主党が勝利する。

・ 民主党が勝利すると原発が本当になくなる。

・ 選挙で投票することは国民の義務である。

 

現実問題として、これらの3つのすべては、かなり現実とは隔たりがある表現だ。

 

あなたの一票なんて選挙結果に影響は与えないし、選挙の結果で民主党がたとえ勝利したとしても原発が本当になくなるかは分からない。また、選挙の投票にいかないことは、別に犯罪でもなければ、とくに罰則があるわけではない。

 

理性的に考えると、わざわざ休日のある時間を費やして、選挙に投票にいくというのは、人間個人としては、まったくもって合理的な行動ではない。昨年の衆院選投票率は52.7%で史上最低だったが、投票に行かないひとが有権者の半分いることは、なにも不思議なことではない。

 

逆にいうと、衆院選挙においては、理想のために非合理的な行動をとる人間が52.7%もいたことになる。

 

この52.7%はどういうひとだろうか。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとが52.7%もいると解釈すればいいのだろうか。

おそらくは違う。投票率は、天候に左右されるといわれていて、雨だと下がる。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは雨が降ろうが、嵐がこようが、投票所の近くに山賊が待ち伏せていようが、投票にいくようなひとのことだろう。理想のためにすべてをなげうって努力するひとのことだ。52.7%の大半は、自分の投票があまり意味がないかもしれないと分かった上で、それでも投票にいくぐらいの努力はやろうと決断したひとたちだろう。

 

ぼくが指摘したいのは、佐藤航陽氏のいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは、要するになにも分かってない「馬鹿」のことだろう、ということだ。だいたい、起業家になろうとする人間なんて、根本的に頭が悪い奴らばかりに決まっている。ジョブズの有名なスピーチで「stay foolish」と言ったのは、まったくもって正しい。馬鹿にならないと起業家なんてやってられない。

 

現実を知って、なおも理想を追いかけるのも、また、これも馬鹿である。

なぜ、馬鹿な行動に人間は憧れ、また、それを貫くひとを貴ぶのか。

 

ひとついえるのは、馬鹿で非合理的な行動を取るのはそもそも人間とはそういうものであるということ。もし、それを否定したら、人間なんていらなくなって、それこそ人工知能でいいじゃんということに、いずれなるということだ。

 

不幸なことに人間とは多少の知性を持ってしまっているがゆえに、人生のどっかで自分の馬鹿さ加減にいずれ気づいてしまう。それに気づいてしまうまでが、「人生の賞味期限」ということだろう。そうなってしまうと、どうモチベーションを維持するかというのが大きな問題になる。

 

だが、それでなにかに挑戦するエネルギーが本当になくなってしまうのか、というと、それは違うのだと思う。本当に無駄と思った努力はできなくなるというだけだろう。ぼくの場合は、賞味期限が切れて仕事へのモチベーションを失ったのはちょうど20年前になる。会社をつくったのはその後だ。

 

理想を失わない現実主義者であろうとする宮崎駿監督が、やろうとしていたことをすべてやってしまったと感じたのはトトロの時だ。以降、苦しみながら創作を続けて、もののけ姫千と千尋の大ヒットで世の中を変えた。

 

佐藤氏も大馬鹿者の勘違い野郎だったのが、とうとう現実が見えてきたということだろう。

 

人間がモチベーションを持って仕事をする条件は、自分にしかできない仕事だと思い込めるかどうかがいちばん重要だろうと思う。

 

時代の一歩先を読んで、ビジネスを成功させるというのは、佐藤氏が気づいたように、じつは自分でなくてもできる話で、だれがやったっていいことだ。本当に自分しかできない仕事があるとすれば、むしろ、だれもやろうとしない時代に逆らったあだ花を咲かせることにあると思う。

 

実はこれは合理性もあるようにできる話で、なぜかというと、時代の先を読んで有利にできるのは時代の先取りだけではなく、時代の逆戻りも同じことだからだ。時代を変えようとする力、今の時代を守ろうとする力、そのせめぎ合いのバランスの中で時代は決まる。時代の先を読む人間は変える側に付きたがるのが常だが、逆のアプローチも成立しうるということだ。

 

こっちのほうがやる人間も少ないから競争もない。それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。

 

そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。

 

人類の歴史にはきっと終わりがあり、それが早くなるだけだと思っているからだ。紆余曲折あったほうが、楽しい歴史になると思っている。

 

人類の最後があるなら、それを自分の目で見てみたい気持ちはあるけど、それは自分のエゴだし、想像するのも、また、それはそれで現実よりも楽しい。

 

 

ま、とりあえず、賞味期限の切れた人間をなめるなということです。というより、挑戦をできるかできないかでいえば、人間は賞味期限が切れることはない。無駄な挑戦ができなくなるというだけの話です。

投票率だって、政権交代しそうな時は上昇するし、争点が明確なときもまたあがる。

 

無理なことに突撃はできなくなっても、この世を変える可能性が見えたとき、それはなかなか起こらないことだけれども、そのときはまた理想のためにひと肌ぬぐ。人間とはそういうものではないでしょうか。