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オタクの恋愛というテーマのリアリティ(モテキ編)

いまさらではあるが、最近、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(通称”あの花”)という去年のテレビアニメシリーズと、「モテキ」という、これも去年に公開されてヒットした映画を見て、いろいろ思うところがあったので書いてみる。

 

このふたつはアニメと実写という違いはあるが、オタクの男の子の恋愛という同じテーマを扱っている。違うという人もいるかもしれないが、そういう理解もできるんだから、しょうがない。

 

およそ古今東西の物語というものは所謂”お話”であり、とどのつまりは主人公が読者が羨ましがるような突然の幸運に出会う話だ。ストーリー自体が悲劇であってもこの場合は関係ない。読者が自分の暮らしている日常と比較して刺激的であり、物語の登場人物のだれかに感情移入できるのであれば、それは読者が心の中で望んでいる羨ましい世界なのだ。

 

だから、なんの努力をしなくても主人公に女の子がよってきてハーレム状態になったとしても、そのこと自体は非難には値しないだろう。裏の畑で犬が鳴くので掘ってみたら大判小判がざっくざく出てきたという話とおんなじだ。

 

むしろ、どういう幸運であれば、いまの時代の人々が感情移入できるようなリアリティを与えることができるのか、それを探り当てることが、それぞれの時代における物語の作り手の使命になるのだと思う。

 

翻って、「あの花」と「モテキ」のふたつはどちらも2011年に発表されたヒット作品である。だから、今の時代のある一定の人々にリアリティのある幸運を見せることに成功した作品だといえるだろう。

 

どちらの作品も多くのひとが感動して絶賛した物語だ。それはどのような人々にどのような幸運を見せたのか?

 

まずは物語の構造がわりあいに単純な「モテキ」から見ていこう。

 

実は、昨日、Playstation Storeでレンタル購入して見たばっかりなのだが、すでに登場人物の名前をまったく覚えていない。面白くなかったといっているわけではなく、むしろ逆なのだが、ぼくは人間を識別し、名前を覚える能力に激しく欠けるのだ。正確にいうと、登場人物の名前を忘れたのではなく、昨日みた2時間の間に覚えることができなかったのである。

 

ということで登場人物はすべて記号で説明する。

 

主人公:A君

ヒロイン:長澤まさみ

ヒロインの友達:B子

飲み屋のねーちゃん:C子

主人公の上司:社長

主人公の同僚:D子

ヒロインの彼氏:E君

 

主要登場人物はこの7人だ。簡単にいうと、モテキはつぎのような話だ。

 

ーーー モテキのあらすじ ーーー

 

ネットと音楽が趣味で童貞のA君の前に突然長澤まさみが現れる。彼女は彼氏がいるらしいにも関わらず、A君に気のあるそぶりをみせて、A君は動揺する。何度もエッチもできそうな雰囲気になるが寸前で邪魔がはいって果たせないのはお約束。長澤まさみが自分のことをどう思っているか気になってしょうがないA君は、長澤まさみの友達のB子とも仲良くなり、好きだと告白されて、まず、B子とやってしまう。でも、本当は長澤まさみのほうが好きなんだといって、B子を振る。ついでに気をひこうと、B子とやったことを長澤まさみに言う。そこで長澤まさみの彼氏E君が登場。イケメンで仕事もできるE君を見て、A君はとても敵わないと諦めかけるが、実はE君は妻子がいて長澤まさみとは不倫をしていたことが分かる。A君は長澤まさみを不幸せにするなとE君に一喝する。で、だったら、オレのほうがふさわしいじゃんと、再度、長澤まさみにアタックするが、A君とじゃ自分を高められないからダメだ、みたいなことをいわれて振られる。そこでラストのクライマックス。E君はA君にいわれたことを反省し、妻と話し合って別居することにしたから一緒に住もうと長澤まさみと告げる。問題解決じゃんと思っていたら、その場にA君が登場する。長澤まさみ逃げる。A君追いかける。逃げる。追いつく。E君もおっかけてくる。E君に見せつけるようにA君は長澤まさみと濃厚なキス。延々とキスシーンでそれがそのままラストシーン。めでたしめでたし。

 

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基本の筋は以上だ。あ、社長とC子とD子がでてこなかった。主要登場人物はA君と長澤まさみとB子とE君の4人でしたね。

 

さて、モテキがリアリティのある幸運として、視聴者に受け取られるためにはなにが必要だったのだろうか。

 

まず、ざっとあらすじを見て思うのは主人公のA君はかなりサイテ−な奴でありしかも格好悪いことだ。ポイントはこのかなりサイテ−で格好悪いA君に対して、視聴者が共感したということである。A君のことを自分自身と似ている部分があると思わせることに成功したということである。そしてそのためにはサイテーで格好悪いことが障害にはならなかったばかりでなく、むしろ必要だったのだ。

 

主人公A君のような女の子と縁の薄いオタクにとってのリアリティのある幸運な出会いの物語を設計するとはどういうことか。

 

まず、A君は女の子と話すことが苦手であり、女性経験が少ないので、会話もできなければエッチにも自信がない。これらの障害を解決しないとリアリティのある出会いにならないということだ。

 

どうするか。まず、女の子を自分から口説くというのは現実感がない。だから、女の子は向こうからやってこないといけない。そして出会っても、なにを話していいかわからないから、自分と趣味がたまたま同じでなければならないだろう。そして仲良くなっても、どうやってエッチに持ち込んでいいかが想像できないから、向こうから誘ってくることが望ましい。モテキの長澤まさみはまさにそういう風に設計されている。

 

ここで問題がひとつ生じる。この場合、たしかにA君にとっては長澤まさみは都合のいい女であるが、これって、物好きなビッチと出会ってエッチをさせてもらえただけという話にならないか、ということである。そうなると、物語にでてくる社長やD子のようなA君を童貞と馬鹿にするリア充たちのコミュニティにやっと最下層民として仲間入りさせていただいたというだけの話であり、まったく爽快感にかける。やはり社長やD子たちの価値観よりもA君のほうが優れていて一発逆転みたいなストーリが求められるのだろう。

 

そうすると物語に以下のことが必要になる。

 

・ 長澤まさみはビッチだとしても、一番好きなのはA君でなければいけない。

・ 長澤まさみのビッチに見える行動は、実は彼氏には奥さんも子どももいて不倫関係であり傷ついていたからだという言い訳を用意する。

 

これでヒロインとの恋愛を純粋なものにする基本条件が整った。

 

さて、次は、共感を得やすいようにダメな人間として設定された主人公はいったい魅力がある人物になるのかという大問題だ。

 

なにしろ基本もてない人でも共感できるように設計されている主人公だけに、そのままでは確かにもてないよね、みたいな人間にしか見えない。もてない人間を正直に描写してもてるように見せるというのはハードルが高いというか基本的には矛盾することだ。視聴者の理想の人間ではなく等身大の人間として主人公を設定した以上は解決が難しい問題だ。

 

だから、いや、魅力的に見えないのは気のせいです。みなさん、この主人公を魅力的だといっていますよ。と一般常識のほうを改変して、理由や根拠の説明はできるだけ避けるというのはやむをえない戦略になる。だから、次のような設定が必要になる。

 

・ 長澤まさみだけでなく、彼女の友達のB子もA君を好きになる。

・ 社長につれていかれた飲み屋のねーちゃんC子がA君のことを需要があると断定する。

 

A君がなぜもてるのかじゃなく、A君はもてるんだなと事実だけを見せつけるという作戦だ。

しかし、A君はそもそも女の子と縁がないから、どういう人間にもてさせれば説得力があるだろうか。

よくアニメだとB子は幼なじみという設定が使われる。また、アニメだと職場の同僚であるD子が実はひそかにA君のことを好きだったというのもありそうな設定だろう。でも、これはアニメだから通用する手法だ。アニメはやはり世界全体がファンタジーに見えるからだ。

 

実写だと、やはり、アニメほどファンタジーな設定に説得力を持たせるのは簡単ではない。現実との比較をどうしてもしてしまうからだ。現実にいるA君のようなひとはまわりにまったく女っ気がないことだろう。そして幼なじみや職場の同僚の女の子がたとえいたとして、彼女たちが実はオレのことを好きだ、なんていうのはありえないというのは皮膚感覚で理解しているはずだから、どちらの設定も説得力に欠けてしまう。だから、モテキにおいてB子がヒロインの友達として設定されているのは正しい選択だと思う。長澤まさみもB子もどちらも向こう側の人間でなければならないのだ。

 

長澤まさみがどこからともなくやってきて、自分に好意を持つ。それだけでも現実的にはありえない話であるが、彼女が来た世界にいるB子まで自分に好意を持つとしたら、話はちょっと変わってくる。自分を好きになってくれるかわいい女の子が突然変異的にどこかにいるというより、どこか知らない世界に自分を好きになってくれるような価値観のあるところが存在するという話である。こちらのほうがリアリティを持って、理解しやすいのだ。価値観自体が変わる世界があるというのではないと、現実には自分がかわいい女の子には持ててないという事実からくる常識を打ち砕くことが難しいからだ。

 

さらに主人公はもてていますよーという説得力を補強する方法としてC子の登場だ。たくさんの男を見てきたはずの水商売の女性に、君みたいな男って需要あるよ、と断定されれば、意外とそういうもんかなと思うだろう。それはきっとA君に共感する全国のもてないお琴が潜在的に思っているし願ってもいることだからだ。

 

こういうふうに理屈ではなく、状況証拠で主人公の魅力があることをまわりから証明していくしか、現実問題として説得力ある主人公の魅力を表現することは難しいだろう。ただし、間接的な状況証拠だけでは、説得力のある恋愛ドラマはつくれない。多くの恋愛もので主人公の最大の魅力であり武器となるのはやっぱり一途な恋心なのだ。むしろ一途な恋心が報われるという部分がないとほとんどの恋愛物語は成立しないだろう。だから、主人公は一途に長澤まさみを好きでありつづけなければならないのだ。

 

ここでもうひとつ問題が生じる。オタクが一途にだれかを好きになるというのを想像すると一般的にはキモイし、ストーカーみたいに見えてしまう恐れがあるという問題だ。これを解決するためにA君はもB子とやらなければならなかった。長澤まさみだけじゃないよというアリバイづくりである。こうしてA君は長澤まさみを想い続けているんだけど、他の女にももてるし、一回ぐらいは他の女ともエッチまでやってしまうという説得力があるんだかないんだかわからない設定が必要になる。

 

さて、こうして、一応、仮にA君が純粋に長澤まさみのことを想い続けているんだという設定で主人公の魅力を伝えた場合に、B子も純粋にA君のことを想い続けているんだから、彼女の扱いをどうすべきかという問題が生まれる。「つうか、A君はB子と付き合えばよくね?」問題である。

 

やはり恋愛物語としてA君の一発逆転ドラマにするためには本命の長澤まさみ以外と付き合うことはありえない。それはA君の長澤まさみへの純粋な思いに共感している視聴者の感情移入への否定にもなる。A君に共感するようなひとは、もし自分に彼女ができたら絶対に大切にするのにと脳内彼女への純愛を妄想して自分のアイデンティティを安定させていることが多いので、恋愛において妥協することは自分の普段の価値観の否定にもつながってしまうのだ。

 

ところが自分の秘めた一途な空想の彼女への愛情を大事にするという結論は、同様に、B子の一途なA君への気持ちは踏みにじってもいいのかという疑問に容易に転化してしまう。これは困った。A君がB子を振ってもかまわないということは、逆にA君も長澤まさみに振られてもしょうがないということだからだ。自分の気持ちのほうが他人のB子の気持ちよりも大事だよね、というのは説得力があるにしても、後味が悪いので、もうすこし別の理由が必要だ。

 

そのためにB子はA君に振られたあとに社長とエッチをするという役回りを演じさせられる。まず、そこでB子の純愛さに疑問符をつけさせられる。さらに振られたときにA君にくいさがる態度がいかにもめんどくさそうな女である。ただ、このあたりではA君も大概ひどいのでお互い引き分けにしかならない。むしろお似合いだ。そこでB子を振るための決定打となるのは、オタク的感性の違いである。つまり長澤まさみのほうがかわいいからでも本命だからでもなくオタク的感性の違いから、B子を選ばないんだというわけだ。主人公の務めるのは現実にも存在する音楽サイトのナタリーだ。ナタリーで紹介されているような音楽好きのひとが聴きそうな音楽の話題に興じるA君と長澤まさみに対して、B子の好きなのはB'zである。この理由でB子はA君に振られてしまうのだ。この映画の世界観において音楽をわかっていないひとの好きな音楽の象徴として楽曲の使用許諾をさせられたB'z側は怒っていいと思う。まあ、オタク的でない一般人のための音楽という解釈も可能だが。

 

さて、最後に残ったのは、長澤まさみのほうは本当にA君のことを好きなの?問題だ。

 

これについては理由はともかく本当に好きなんだということだけを状況証拠で証明して押し切るという基本方針はやはり等身大の主人公を使う以上はやむをえない。

 

そのために長澤まさみは妻とは別居するとまでいってくれた本命のはずの彼氏を振ってA君を選ぶ。その際に、長澤まさみがわがままな女とならないように彼氏は離婚まではせずに別居であり、子どももいるという設定が芸が細かい。

 

また、長澤まさみに、A君と付き合うのはメリットがないとはっきり言わせるのも最終的にA君を選んだのが愛情が理由であるということを強調するためだ。最後の彼氏の目の前のキスシーンも理屈じゃなくて感情的にA君を好きなんだということを表現するためだ。

 

このようにしてモテキはオタクにもリアリティのある恋愛物語として受け取ることができるように設計されている。

 

ただ、モテキは実写でもあり、オタクではないひとにも受け入れられたのだろう。また、そのようにも設計されている。長澤まさみが主演だし、オタク的趣味の題材として”音楽”が選ばれているのもその現れだ。

 

これがアニメとなるとどうなるか、というわけで本題の「あの花」に移ろうと思ったが、気力も尽きたので、箇条書きにて終わらせる。

 

・ 同じ仲間というテーマについて、ヤンキー文化の「ワンピース」とオタク文化の「あの花」との対称性が興味深い。

・ ワンピースではそれぞれの道を歩む仲間が主人公の元に集う。あの花ではそれぞれの道を歩んでいた仲間が、主人公の元に戻ってくる。

・ Fateでもそうだったが、なぜ、こういうアニメでは別に他人のことを気遣わずに自分のことしか考えていないようにしか見えない主人公に対して、女の子が、他人のことばっかりじゃなくて自分をもっと大切にしてよと、一見、意味不明の説教をするのか問題。

・ 結局、なにに感動するのか、どこに感情移入をしているのかについての推測

・ モテキもそうだけど、一途な気持ちの価値が高くなる構造について。

・ 一人っ子の問題。

 

気力が復活すれば、「あの花」編で。

 

以上