人生の賞味期限について

以下のブログで書かれていたことについて思ったことを書いてみる。

 

現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ、人生の「賞味期限」

 

筆者の佐藤航陽氏が書くところによると、人生には「賞味期限」があるという。人間が一生の間に持っているエネルギーには限度があり、そのエネルギーは人生の中で減っていく、 なにかに挑戦するにはエネルギーが必要で、エネルギーが枯渇してしまうと、いくら挑戦できる十分な知識と経験があっても、もはや挑戦は できなくなる。このエネルギーが残っている期間を「人生の賞味期限」と呼んでいるということらしい。

 

ぼくのあまり長くはない人生経験からしても、こういう人生の賞味期限といったものは

本当に存在すると思う。

 

人生の賞味期限がなぜあるのかは単純で、佐藤氏が書いているように現実を直視しながら

理想を持ち続けることが難しいからだ。

 

簡単にいうと、世の中を変えようと、ある理想を実現しようと頑張る人間というのは根本的に勘違いをしているからだ。

 

勘違いというのはなにか?みっつ挙げる。

 

・ 理想を実現する能力を自分が持っているという思い込み。人間ひとりの力なんてたかが知れていて、理想が実現するかどうかは自分とは関係なく決まるものである。

・ 理想が正しくて、現実が間違っているという思い込み。当然のことながら、世の中に存在するものは全て合理的であり、間違っているように見えるのは全部が見えてないだけだからだ。

・ 理想を実現するのが自分の使命であり生きる意味であるという思い込み。当然のことながら、勘違い。社会的使命の実現のためと個人の幸せがたまたま一致していれば問題はないが、本来は個人の幸せは自分の理想とは別のものである。

 

人間個人の幸せと理想の追求の両立は、根本的にいろいろ無理があるのだ。まあ、たまたま、うまくいく場合もあれば、さらに幸運だとそれが長く続く場合もあるだろうが、基本はそんなことは起こったとしても、そっちのほうが事故みたいなものである。人生の幸せとは他にもいろいろあるに決まっている。

 

なぜ、人生に賞味期限があるかは明快で、人間ある程度頭がよければ、なんのために自分は理想を追求しなければいけないのだろうと、いつかは自分の勘違いに気付いてしまうだけのことである。

 

このように、ぼくはこのブログの筆者のいう人生の賞味期限とは勘違いをしたままなにかに異常な努力を注げる期間だと思っているのだが、たとえ、人生の賞味期限が過ぎたからといって、人間が挑戦をできなくなるわけではないと思っている。

 

理想と現実の折り合いをつけて生きていこうとする人間が直面する問題をもうちょっと

分かりやすぐ理解するために、簡単な具体例で考えてみよう。

 

「選挙に投票にいくかどうか問題」というのがちょうどいい。

 

昨年末の衆院選だということにして、あなたの実現したい理想は、原子力発電所の全廃ということにしてみよう。

 

さあ、あなたはどう行動するべきだろうか。

 

各党の原発政策に関する公約は自民党が「依存度を可能な限り低減」であり、民主党は「2030年代の稼働ゼロ」。「新設は認めない」とするのが公明党だ。

 

人によっていろいろな判断があるだろうが、一番、ふつうの行動は、本音では原子力発電を続けたそうな自民党に投票することは避けて、一応は最大野党の民主党に投票することだろうか。

 

ここで、あなたが理想の実現のために投票にいくために、ぜひ信じたいことがいくつかある。

 

・ あなたの一票で民主党が勝利する。

・ 民主党が勝利すると原発が本当になくなる。

・ 選挙で投票することは国民の義務である。

 

現実問題として、これらの3つのすべては、かなり現実とは隔たりがある表現だ。

 

あなたの一票なんて選挙結果に影響は与えないし、選挙の結果で民主党がたとえ勝利したとしても原発が本当になくなるかは分からない。また、選挙の投票にいかないことは、別に犯罪でもなければ、とくに罰則があるわけではない。

 

理性的に考えると、わざわざ休日のある時間を費やして、選挙に投票にいくというのは、人間個人としては、まったくもって合理的な行動ではない。昨年の衆院選投票率は52.7%で史上最低だったが、投票に行かないひとが有権者の半分いることは、なにも不思議なことではない。

 

逆にいうと、衆院選挙においては、理想のために非合理的な行動をとる人間が52.7%もいたことになる。

 

この52.7%はどういうひとだろうか。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとが52.7%もいると解釈すればいいのだろうか。

おそらくは違う。投票率は、天候に左右されるといわれていて、雨だと下がる。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは雨が降ろうが、嵐がこようが、投票所の近くに山賊が待ち伏せていようが、投票にいくようなひとのことだろう。理想のためにすべてをなげうって努力するひとのことだ。52.7%の大半は、自分の投票があまり意味がないかもしれないと分かった上で、それでも投票にいくぐらいの努力はやろうと決断したひとたちだろう。

 

ぼくが指摘したいのは、佐藤航陽氏のいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは、要するになにも分かってない「馬鹿」のことだろう、ということだ。だいたい、起業家になろうとする人間なんて、根本的に頭が悪い奴らばかりに決まっている。ジョブズの有名なスピーチで「stay foolish」と言ったのは、まったくもって正しい。馬鹿にならないと起業家なんてやってられない。

 

現実を知って、なおも理想を追いかけるのも、また、これも馬鹿である。

なぜ、馬鹿な行動に人間は憧れ、また、それを貫くひとを貴ぶのか。

 

ひとついえるのは、馬鹿で非合理的な行動を取るのはそもそも人間とはそういうものであるということ。もし、それを否定したら、人間なんていらなくなって、それこそ人工知能でいいじゃんということに、いずれなるということだ。

 

不幸なことに人間とは多少の知性を持ってしまっているがゆえに、人生のどっかで自分の馬鹿さ加減にいずれ気づいてしまう。それに気づいてしまうまでが、「人生の賞味期限」ということだろう。そうなってしまうと、どうモチベーションを維持するかというのが大きな問題になる。

 

だが、それでなにかに挑戦するエネルギーが本当になくなってしまうのか、というと、それは違うのだと思う。本当に無駄と思った努力はできなくなるというだけだろう。ぼくの場合は、賞味期限が切れて仕事へのモチベーションを失ったのはちょうど20年前になる。会社をつくったのはその後だ。

 

理想を失わない現実主義者であろうとする宮崎駿監督が、やろうとしていたことをすべてやってしまったと感じたのはトトロの時だ。以降、苦しみながら創作を続けて、もののけ姫千と千尋の大ヒットで世の中を変えた。

 

佐藤氏も大馬鹿者の勘違い野郎だったのが、とうとう現実が見えてきたということだろう。

 

人間がモチベーションを持って仕事をする条件は、自分にしかできない仕事だと思い込めるかどうかがいちばん重要だろうと思う。

 

時代の一歩先を読んで、ビジネスを成功させるというのは、佐藤氏が気づいたように、じつは自分でなくてもできる話で、だれがやったっていいことだ。本当に自分しかできない仕事があるとすれば、むしろ、だれもやろうとしない時代に逆らったあだ花を咲かせることにあると思う。

 

実はこれは合理性もあるようにできる話で、なぜかというと、時代の先を読んで有利にできるのは時代の先取りだけではなく、時代の逆戻りも同じことだからだ。時代を変えようとする力、今の時代を守ろうとする力、そのせめぎ合いのバランスの中で時代は決まる。時代の先を読む人間は変える側に付きたがるのが常だが、逆のアプローチも成立しうるということだ。

 

こっちのほうがやる人間も少ないから競争もない。それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。

 

そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。

 

人類の歴史にはきっと終わりがあり、それが早くなるだけだと思っているからだ。紆余曲折あったほうが、楽しい歴史になると思っている。

 

人類の最後があるなら、それを自分の目で見てみたい気持ちはあるけど、それは自分のエゴだし、想像するのも、また、それはそれで現実よりも楽しい。

 

 

ま、とりあえず、賞味期限の切れた人間をなめるなということです。というより、挑戦をできるかできないかでいえば、人間は賞味期限が切れることはない。無駄な挑戦ができなくなるというだけの話です。

投票率だって、政権交代しそうな時は上昇するし、争点が明確なときもまたあがる。

 

無理なことに突撃はできなくなっても、この世を変える可能性が見えたとき、それはなかなか起こらないことだけれども、そのときはまた理想のためにひと肌ぬぐ。人間とはそういうものではないでしょうか。

 

給料なんてサイコロで決めればいい

今日、面白法人カヤックという会社が上場した。おめでとうございますというのは本人に直接いえばいい話であって、こんなところに書きたいのはそんな話ではない。

 

カヤックには面白い人事制度がいくつもあるのだが、そのなかでもぼくが本当に衝撃を受けたのはサイコロ給という制度で、今日はそれを紹介したい。

 

サイコロ給とは毎月1回サイコロを振って、サイコロの出目X1%が支給されるという制度である。1がでれば給料の1%がサイコロ給として追加で貰える。6がでると6%が貰えるわけで、最大5%の給与格差がサイコロの目によって決まるわけだ。

 

http://www.kayac.com/vision/style/dice

 

このサイコロ給のねらいについては↑上のカヤックのサイトの説明文が素晴らしいのだが、要するに人間が人間を評価して給与を決めているけど、それってもともといい加減だよね、ということをいいたいらしいのだ。その初心を忘れないために毎月サイコロを振っているらしいのだ。

 

そう。どんな会社だって人間を評価する能力なんて本当はない人間がたいした時間もかけずに他人を評価して、それで人生が決まっていく。本人にとってはとても重要なことが他人の気まぐれみたいなもので決められていく。人生とは本当に理不尽なものだ。

 

そのことを端的に表現したサイコロ給という制度って、これってすごく素敵だし、ちょっと哲学的でもあって 、この話に救われる気持ちになるひとも多いのだと思うし、他人の企画にはほとんど興味は持たない僕だけれども、この企画に関しては本当にすごいと思ったし、正直、嫉妬したぐらいにいい企画だと思った。

 

まあ、ある程度はカヤックのサイコロ給は有名な話だと思うのだけれども、もっともっと世の中に知られていい話だと思う。こんな素敵な制度を持つIT企業が日本にはある。

 

さて、この話がもっと広まるためにカヤックが超えなければならない課題がひとつある。

それは会社として成功することだ。人間が人間を評価する能力があるのかという問題は、人事に限らない。

 

カヤックカヤックのサイコロ給がいかに素晴らしいものであったとしても日本人も日本社会もそれを評価する能力なんてもってない。

 

正直、カヤックが本当に素晴らしい会社かどうかについても、ぼくは疑問を持っている。カヤックはだいたい極端すぎる会社だ。一時期はサービスを粗製濫造で乱発し、1年間でつくったサービスの数を自慢していた時代があった。まあ、似たようなことをいっていた会社はカヤック以外にもあったのでそういう時代だったということなのかもしれないが。あれは間違いだとぼくは思う。

 

柳澤大輔さんに会ったときに、うちは2年間で50%の社員が入れ替わるんですと社員の流動性の高さについて胸を張られて、開き直りすぎだろと、唖然とした記憶がある。

 

だいたい面白法人ってなんだ。自分で自分のことを面白いとかいう会社って面白いのか?と思ったりもする。

 

だが、そんなこともすべてどうでもいい。いや、いまいったすべてのことが肯定的に輝いて見える方法がひとつあって、それは会社が大成功することなのだ。

 

言っている内容、やっている内容、みんなそんなものは正しくは評価してくれない。そんなものだと諦めるしかない。

 

同じことを何十年言い続けてきても、無視されるか、それとも素晴らしいと賞賛されるかは、だれがいっているか、そのだれはどんな立場にあるひとなのか、それしか人間は判断材料にしない。そして経営者の場合は、それは会社がうまくいっているかどうかだ。

 

上場したカヤックが大成功することを祈っています。それは数字だけじゃないですけどね。

 

民主主義は本当は独裁よりもましなのか?

あんまりはっきりとした結論が出ないエントリであることをあらかじめお断りしておく。

↓のような記事を読んだ。


まあ、とくに内容についてはコメントすることはないのだが、民主主義について思っていることを書く。

この記事の中では民主主義は「ひとつの価値観が暴走することを防ぐための画期的な発明である」というようなことが書いてある。そしてそれは国家統治のためには優れていてもビジネスにおいては非効率であるということが書いてある。

民主主義について、こういう類の否定と肯定が入り混じった言説はよく見る。なかでも有名なものはチャーチルの演説の中での「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という一節だろう。

ぼくはこういうテーマを見ると、本当のところはどうなんだろうと、すぐに頭の中で民主主義を表す力学的な数理モデルを考えたくなるのだが、これがなかなか十分に納得できるものをつくるのが難しい。ただ、断片的なモデルからでも思うのは、権力の暴走を防ぐといった表現は、民主主義の特徴を示すにはちょっとニュアンスが違うんじゃないかということだ。

単純化した簡単なモデルを示す。

 

正しい決定をおこなう独裁者のいる組織をAとする。

間違った決定をおこなう独裁者のいる組織をBとする。

なにも決定できない消極的な独裁者のいる組織をCとする。

正しい決定をおこなう民主的組織をaとする。

間違った決定をおこなう民主的組織をbとする。

なにも決定できない民主的組織をcとする。

上に引用した記事で主張している内容をこの記号をつかって説明すると

・ 民主的組織はaあるいはbよりもcになる傾向がある。

・ 民主的組織a,b,cは独裁的組織ABCよりも決定に時間がかかり効率が悪い。

・ 独裁的組織がBになるリスクよりも、民主的組織がbになる確率のほうが低い。

という3点になるだろう。これについては概ね正しいといったん考えることにする。

そうすると、民主主義の独裁に対する利点が、もし権力の暴走であるBが起こらないことだとすると、その理由は正しい決定aをよりおこなうからではなく、なにも決定しないcになりやすいからだということになる。

つまり民主主義の本質は正しい決定をすることではなく、なにも決定しないことにあるということになってしまう。そして、ぼくはこの結論は案外と正しいんじゃないかと思っている。

民主主義か独裁かを問わず組織として決定しないほうがうまくいく場合とはどんなものが考えられるか。それはなにか決定すると正しい結論A/aではなく、間違った結論B/bになってしまう可能性が高いような場合だろう。どういうときにそういうことになるかというと、単純に問題が複雑で難しい場合と、トップが民主的あるいは独裁で判断するよりも現場が勝手に判断したほうが正しいような場合の2種類だろう。

特に巨大化した組織ではトップといえども分業化が進むので現場としての判断能力はどんどんなくなるから、なにも決めないでくれたほうが組織はうまく回ることが多い。そういう意味でなにも決めれない民主主義は巨大な組織の運営方法として向いている。つまりなにも決めないほうが現場への権限委譲が進んで効率がよくなるというのが民主主義の利点の本質ということになる。

さて、もし、そうだとすると上のモデルではCとなっている、なにも決定できない独裁者のいる組織というのもなにも決定できない民主主義と同じぐらいに権限委譲が進んで素晴らしいのではないかという推論もでてくる。これはこれで正しいのではないか。「神輿は軽くてパーがいい」とは小沢一郎がいったとされる言葉だ。

まあ、結局のところ引用記事でもあるように民主的組織なんて意志決定機構としては効率が悪く、正しい意志決定の能力がある人間が独裁したほうがうまくいくのは間違いない。でも、正しい意志決定ができない場合に、あえて意志決定をしないための手法として民主主義が機能する場合があるというのが、本当のところではないかと思う。でも、民主主義以外にも意志決定をしない手法は組織的に権限委譲をすることなども含めてたくさんある。権限委譲を正しく設計できる有能な独裁者がいるなら民主主義なんてまったく利点は見当たらない。ようするに民主主義はやはり最低の意志決定手法であるということだ。

なのにこんなに民主主義がはびこっているかについては、組織としての効率よりも、自由、平等、博愛のイデオロギーの影響が強い現代において組織の構成員がもっとも納得しやすい意志決定手法であるということが大きいだろう。まあ、みんなを説得できるなら、できれば民主主義じゃないほうが望ましいということだ。

 

さて、民主主義の特徴して、引用記事が指摘したこととして、民主主義は効率が悪い、具体的には決定に時間がかかることがあげられていた。これについても実はなんらかの利点があるというモデルが考えられないだろうか。

ということで方向性を示唆しているように見えるもうひとつの記事を引用する。

アイデアを出すことが企画だと思ってる奴は100万回死んでいい 島国大和のド畜生

これで指摘されているのは、企画者が5秒で考えたアイデアで開発チームが1年間拘束されることがあるという指摘である。

組織が大きくなるとこういうことが多発する。

思いつきで影響力の大きな決定を頻繁にされたらまったくもって迷惑である。せめて一定期間にやっていい決定について回数制限とかはなんらかの形でしてほしいところだ。その実質的な回数制限に民主主義は役立っている可能性があるのではないか。

 

このように、ある一定のリソース*時間を消費するプロジェクトの実行を決定するのにかけるべき時間を定量的に説明できるような数理モデルというのはどんなものが考えられるだろうか、そんなことをさっきから考えていたのである。もちろん答えはまだない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナベタくんの選挙・都知事編・大塚英志

ここんところ、すっかりナベタくんブログになっています・・・。

 

以下転載。

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みなさまへ

 

大塚英志です。

 

「ナベタくんの選挙」東京都知事編です。

ネット選挙の狂躁も醒め、淡々と彼の選挙は続いています。

ネットの住人はカスタマイズされたイベントにユーザーとしてのみ参加し、リア充型の若者は「繋がり」が社会参加の目的なのか、彼のように「自分一人で何かをやる」というスタイルはどちらの住人にも、「評価」はされても同じ事をするものは殆ど現れません。

 

前回、マスコミ関係の取材を通じてメディアのコネもできたのですが、それを通じて拡散することは彼のモラルに反するようです。

そんなわけで最初に彼の動画を見て下さい、とお願いした3人の個人と一つの出版社のかたに「勝手に」かれのメールの一部と動画サイトのアドレスをご紹介します。

このメールを含めよかったらどなたかにどこかでご紹介下さい。

 

以下「ナベタくん」のメールす。

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ご無沙汰しております。

都知事選で「やってみた」結果の動画をアップしました。

東京都知事選挙候補者に会って質問できるか やってみた」 
youtube→ 
http://www.youtube.com/watch?v=K7UpcCNfMWM 
ニコニコ動画→ 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22782198 

……
回答が得られたのは16人中3人。
回答得られた候補は、宇都宮候補、中川候補、五十嵐候補です。

回答率18.75%はこれまでで最も低いものになりました。
けど、それも「やっぱりか」という感じがしています。
ひとつは、選挙の規模が大きくなると「距離」も広がっているような気がすること。
これまでの回答率は――

衆院選5人中1人 20
参院選20人中6人 30
市長選2人中1人 50
都議選5人中3人(予定) 60
市議選21人中19人 約90

――
というピラミッドになっていたので。
たまたまなのかもしれないですが、でも出来すぎてるなあ、と。

もうひとつは、「当選する」という熱を感じる陣営がすくなかったこと。
告示日に事務所の届け出があったのが10人だったり。
会って回答を得られた候補のなかでも「福生市」を知らず
福生市民」という肩書きをみて「宗教?」と訊かれて
「フクオシミン」というふうに読まれてしまったり。

ナベタ君とネット選挙について思うこと

 

 昨年、大塚英志さんからのメールを転載したナベタくんの選挙は大きな反響があった。

 とにかく候補者に個人があってどういう政策かを純粋に尋ねつづけて、その結果を動画にアップする。ジャーナリストではなく、個人としておこなう。そのひたむきな姿にネット時代の有権者の理想のありかたを見たひとは多かったと思う。

 ところが今年になってまた送られてきた大塚さんからのメールによると、そのナベタ君のやっていることは公職選挙法にあたると警告を受けたらしい。それもその警告はナベタ君の活動に好意的な取材をしたいと申し入れたあるテレビ局のスタッフによるおこなわれ、結果、好意的な報道どころか、「ネット選挙運動、都議選で「フライング」行為」というような否定的な報道をされたということだ。そして調べてみると、どうもナベタのやっているような政治家にインタビューをしてその結果を世間に報せるという行為はメディアはやってもいいけど、個人でやると選挙違反とかになるのがルールみたいだという。

 そうこうしているとこんなニュースもでてきた。

「RT、ダメですよ」――ネット選挙運動、未成年者は禁止 総務省が注意呼びかけ

 未成年者はネットで選挙運動にあたるような情報をtwitterとかでつぶやいてはいけないらしい。ここまでくると、選挙違反とかいうより言論統制に近い。

 まあ、総務省も(警察も?)おそらくは試行錯誤のネット選挙なのだろう。無制限というのもまずいような気がするから、とにかく、なんか、線を引いてコントロールしなきゃ、というような雰囲気が透けて見える。どう考えても本当に重要な線引きではない。意味があるとしたら、規制はなんらかするつもりですよ、という意思表示をしたいということだけだ。

 

 最後に、ナベタくんの2回目のエントリをアップ後、大塚英志さんから追加でのせてくれという文章がきたので掲載する。やはりナベタくんみたいな存在は必要でそれで分かることもある、と思った。

 

※以下大塚英志さんのメールをママ転載。

 

大塚英志です。

もし、先日のメールをブログに掲載されるなら、以下も掲載して下さると嬉しいです。

ナベタ君の先ほど北メールです。

 

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今回の結果の報告動画をアップしました。


都議選西多摩選挙区候補者に質問してみた、かったけれど……
youtube
http://www.youtube.com/watch?v=o03qARYZXKk
ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21156698

……
もう一度、都選管に電話をして、「これは問題になるのか?」といろいろ訊き。
「候補者名を出さず会おうとした顛末を記す」のは問題ないのではないか、といわれたので、
都選管の見解を受けて動くのやめた説明とともにそれをアップすることにしました。

実は、「ある候補者」の顛末は番号順そのままで。
背景にしている駅も、それぞれの事務所の最寄り駅だったりします。
都合良く事務所の場所がばらけていたので。
あとは、そこを指摘されてしまうのかどうか……

選管について検索してみて。
もっとも意外だったのは、中央選管や都選管の委員の多くが元議員だったこと。
もっと独立した機関かと思っていたのに。
対戦チームの関係者が審判として試合を裁いているような感じがしてしまって。
委員のリコールも住民だけでは完結せず議会の同意が必要だったり。
いったい何なんだろうなと……

 

 

ナベタくん(仮)の選挙の続報 ※大塚英志さんのメールをそのまま転載

 

大塚英志です。

 

ナベタ君へのメディア、選管の対応です。

以前、「ナベタ君・・」についての文章をお送りした方にお送りしています。

彼のメールを勝手に、添付します。

 

 

1 ナベタ君に賛同するという言い方で取材を申し込んできたTBSが突然、「公職選挙法に触れるから」といい出し、取材半ばで以下のような報道の素材に使われたようです。

・・・・・・以下、その事情をかたるナベタくんメール添付。

 

検索してみたところ、TBSのNews iのページに
「ネット選挙運動、都議選で「フライング」行為」
というタイトルで一度は動画があげられていたようですが、
現在は削除されたのか、みることはできなくて。

ただ、テレビ番組の話題を紹介するサイトで、以下のような記事をみつけました。
検索ページでわすかに目にすることができた、
上記動画につけられていた文章とは重なるところがあるので、
たぶん、これなのだろう、と。

     *

去年インターネットに投稿された「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」という動画が注目を集めている。内容は都内の男性が自分の選挙区の候補者全員の事務所を訪問し、政策を聞けるかというもの。男性が会うことができたのは5人のうち1人だけだったが、ネット上には多くの反響が寄せられた。7月の参議院選挙以降 インターネットを使った選挙活動が解禁になると、政党や候補者だけではなく有権者もHPやブログでの宣伝、動画を投稿することなどが可能になる

この動画投稿者の行為は特定の候補への投票の呼びかけにつながるおそれがあるとして来月の参院選までは違法になるというのが選管の見解となっている。男性は今回の都議選でも自分の選挙区だけはやるつもりだと話した。立候補を届け出たある候補者は選挙期間中もツイッターなどで演説の日程や場所を告知したいとしている。東京都選挙管理委員会の三浦雄二指導係長はフライングへの注意を呼びかけた。選挙初日のきょうもすでに複数の陣営が演説の日時などをツイッターに投稿しているが、選管は注意を呼びかけていく方針。

     *

ちなみに、自分はまだ選管からは何もいわれてはいません。
明日、市の選管に行く予定ですが、そこで何かいわれるのか……。

記者の方からは
「識者に話を聞くと、 
「ナベタくんの選挙」は今回の都議選までは公職選挙法に 
ひっかかる可能性がありそうだということです。」
といわれて、
識者の方は具体的にどこが問題だといっているのか、とお訊きしたところ
「まず現在の公職選挙法で何が選挙運動に当たるかの条件が 
・選挙期間中、インターネットを利用して 
・特定の選挙について 
・特定の候補者の投票を促す 
という行為です。 
この条件を照らし合わせると、 
動画の構成上、やはり見え方としては 
・ユーチューブ・ニコ動で 
・2012年の衆院選で 
・井上候補の投票を促す 
となってしまう可能性があるということでした。」
という返信がきました。

記者の方からは
「我々が選挙期間中、「絶対のルール」としてやっている 
各候補者の露出時間を平等にする」
ともいわれましたが。
これについては、でも既存メディアは、泡沫とした候補に対しては平等に扱ってないやん、
と思ってしまいました。
さすがにそれをいったら印象悪くなるなと思って返信はしませんでしたが。
それでも、いう通りにやめようとしなかったことで、こういう伝えられ方になったのかな、と。

記者の方は、そのメールの末尾では「これからも応援させていただきます!!」
といっていたのですが……。
うーん、こういうテレビ(というかTBSは)こういうとこなんだなあ、と。 
ある程度予想はしていたつもりでしたが、実際あってみると、やっぱりショックです。

得難い経験をした、と思うようにして。
これからどうなるのか、動き続けてみます。

 

2 その後、候補から「公職法」を理由にインタビュー拒否が出ました。

そのメール。

 

 

・・・・・・・・・・・・・以下コピペ。

 

質問にいった際、いま自分の行動に対して問題視する見方もあることもいうと

「都選管に確認してみてから」という話になったので、

改めて都選管に電話で訊いてみました。

 

その結果「問題がある」との回答でした。

 

自分は、誰かを当選落選させようという意図はなく、

既存メディアが謳うのと同じ公正中立というスタンスで情報を伝える、

「選挙運動」ではないとはいったのですが。

それでもいけない、と。

動画でも文章でもネット上にアップするのは、文書図画の頒布になるからだめだと。

 

既存メディアも伝えるところをネット上にアップしていて、

それと同じスタンスでやっているのだけどいったところ、

「マスコミには選挙報道の自由がある。でも個人は問題」だと。

 

候補者の主張をまとめたものを記す、などもだめ。

現行の公職選挙法では、

個人が、ネット上で候補者氏名などを記すのもいけない、ということでした。

 

具体的には「142条1項」と「146条1項」に抵触すると。

「142条1項」は、選挙運動のために規定されたビラなど以外の頒布を禁じたもの。

「146条1項」は、候補者などの支援もしくは反対などを表示した文書図画の頒布を禁じたもの。

自分がこれを読み判断する限りでは「選挙運動」でなければ大丈夫だと思うのですが。

それでも選管は「問題」だと。

 

個人がネットでアップできるようになるのは、

投票日の24時を過ぎて翌日になってから、ということでした。

質問して動画も撮って、でも公開は投票日翌日に、というのも考えました。

でも、その情報は無意味ではないけれど、投票の参考にはならないもの。

投票の参考に、というのがかなわないのであれば、

その行動は、ただの自己満足に近いものになってしまう気もして。

 

個人がNGでマスコミがOKなら「ジャーナリスト」を名乗る手もあるけれど。

たんなるひとりの有権者として動きたかったので

そこで自分のことを「マスコミ」だと偽りたくはなくて。

 

だったら、今回はやめよう、と思いました。

 

なんだか、とてもやっつけられた感じです。

 

 

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と言うことです。

さて、

「ナベタ君の選挙」は現在の公職選挙法で本当に「違法」なのでしょうか。

選管の「マスコミには選挙報道の自由がある。でも個人は問題」という見解は、正しいのでしょうか。

彼はどうするべきでしょうか。

ナベタくん(仮)の選挙   ※大塚英志さんのメールの転載

※HPもフェイスブックもやっていないから、という大塚英志さんからメールで送られてきた文章をそのまま転載しました。

 

 ぼくの昔の教え子にナベタくん(仮名)、という子がいる。

 十年以上か、もう少し前、ぼくが専門学校で二年ほどラノベの書き方を教えていた時の生徒だ。真面目な子だから卒業後は書店でアルバイトをしつつ小説を書いている、という近況を聞いたのは七年か八年前だ。彼らと卒業後やっていた勉強会も、ぼくが神戸の大学に行くことになって止めてしまったので、この何年か何となく音信不通になっていた。

 ところが去年、ニコニコ動画の公式チャンネルで月イチのまんがの番組を公開録画で始めると、当時の教え子の姿がちらちらし出した。介護士をやっている奴や、中には誰でも知っている携帯ゲームを考案した奴もいたけど、ナベタくんは色々あって本屋のバイトも辞めて、ニートというか微妙に引きこもり状態だという話で、リハビリを兼ねて(?)会場に顔を出すようになった。昔から真面目すぎる奴だから本屋でのアルバイトで人間関係とか色々なことでちょっとだけ心療内科系のお世話になることになったらしく、なんていう彼のプロフィールは多分、今の時代、少しも珍しくはない。

 そのナベタくんが誰に言われるでもなく始めたのがブログで、そこまでは本当に普通なのだが、その内容がちょっと変わっていた。彼は東京郊外のとある市に住んでいて、住民票もそこにある。つまり選挙権もある。有権者のはしくれである。彼はその地元の市長選挙だか市議会選挙が始まると、候補一人一人の選挙事務所を訪ねていって、そこでの受け答えをブログに載せたのである。別にツテやコネがあったわけでもなく、直接選挙事務所に電話をしてアポをとり訪ねていく。大抵は門前払いだが、驚くのはそれでも会って話をしてくれる候補がいたことだ。質問はコンパクトにまとめ、それをブログに短く書き込む。

 ナベタくんには特定のイデオロギーや政治的背景はない。本当に見事にない。ぼくはその専門学校で政治の話は一切しなかったし、彼とそういう話をしたこともない。覚えているのは、いつも彼が四方を何かに囲まれた世界から主人公が何とか脱出しようというモチーフの小説を繰り返し書いていたことだけだ。仲々うまく描けなくて、それは今思えば何だかその後の彼の人生を象徴しているように思えるけれど。

 ナベタくんのブログは政治の話とはいえ、ネットでの政治の語り方と全く異質で「ネット右翼」でもないし、そもそも何か政治的主張が左右どちらかに対してあるわけでもない。ただ、選挙に出た人たちがどんなことを考えているか、特に地方選では少しもメディアは伝えてくれないから、それなら自分はヒマだし聞きにいってブログにでも書いたら誰かの役に立つかもしれない、ただ、それだけの動機で始めたのだ。だから「見たまま、聞いたまま」をそのまま書く。

 ぼくは去年、その話を聞いて、君の人生がそれでどう変わるわけでもないだろうけれど、とてもいいことをしているから次の選挙でもやるといいんじゃない、と夜中のマクドナルドで百円のコーヒーを奢って彼に話した記憶はある。

 さて、その「次の選挙」が実は去年末の衆議院選挙であった。ナベタくんは少し社会復帰したらバイトして安いカメラを買ってインタビューを動画でアップできたらいい、と考えていたようだ。そして選挙が近づき、本当に偶然だけど、ナベタくんは街中で彼の先輩とあった。先輩は社会人でナベタくんよりお金がある。何やってんのさ、オマエ、みたいな話の中で、この選挙のブログの話となった。先輩はその話を聞いて「とてもいいことだから」と、そのまま彼を家電量販店に連れていって一番安い動画の撮れるカメラを買ってくれたという。ナベタくんはとても恐縮したけれど、何だか背中を世の中に押された気がした。

 ナベタくんの暮らす市が含まれる選挙区には主だった政党が皆候補を立てていた。市議会選挙だったら数十票で結果がひっくり返ることだってあるから、ナベタくんのようなよくわからない青年だって一応「一票」なのだからと、相手をしてくれる候補もいたけれど、今度は国政選挙である。

 そもそも彼はアルバイト先で対人関係でのトラブルがあって以来、調子を崩していて、ぼくの教え子だけれどぼくとは正反対で全く押しの強いタイプではない。それでも勇気を出して一人一人の選挙事務所に電話をし、訪ねていった。結局、ちゃんと話してくれたのは日本共産党の候補だけだった。けれども断られ方も色々で、それもそのまま脚色せずに文章にして、候補者のポスターの上にテロップで載せた。生まれて初めて動画を編集し、ニコニコ動画YouTubeに自力でアップした。どうにも不格好な動画だけれど、とにかく全部自力でやった。

 各候補の対応の中で日本未来の党の事務所の対応は、どうもナベタくんの話を聞く限りやや心なかったようだ。もちろん一人一人の有権者のアポにいちいち対応できない、というのはその通りだけれど、彼に向かって指を差して怒ったことは、同じように昔、アルバイト先で指を差されてなじられた経験を持っていたナベタくんにはちょっとショックで、その後丸一日、足が震え、心が折れかけたみたいだ。逆に自民党などは断り方もソツがないな、と感心するし、ナベタくんに一時間近い時間を割いて真面目に話してくれた共産党の人は親切すぎる。ニコ動で「やべ、共産党の人、やさしすぎ」なんていうコメントがあったぐらいだ。

 ここまで読むと、何だかナベタくんのやっていることを昔のマイケル・ムーアのアポ無し取材のように感じる人もいるかもしれないが、全く違う。本当におそるおそる、思いっきり腰が引けている。そこが実はとてもいいし、共感できる。

 ナベタくんは優しく話してくれた人も、何となく足蹴にされた人もなるべくニュートラルにその経緯を書き、そしてインタビューに応じてくれた共産党の人の動画を含め、一本の動画にまとめた。そうすると直接候補の話を聞けなくても、やはりその候補なり政党の有権者への態度は伝わってくる。選挙演説や政見放送ではわからない生の情報がそこにある。少なくともそれは誰に一票を投じるか、とても大切な基準になる。

 結局、選挙当日までに動画を見てくれたのは、ニコ動とYouTube合わせて一〇〇〇人に満たない。何だ共産党の宣伝じゃない、というコメントもあったが、別に公明党でも未来でも話してくれればそのままナベタくんはネットに載せた。未来の党の人の対応に批判が集まったが、無論、未来の党を叩くことが目的ではない。全て「ありのまま」だ。質問がつまらない、というコメントもあったが、それは今後の課題だし、だったら「こういうことを訊くべきだ」と言ってほしい、とナベタくんは思う。ナベタくんも、もう少し勉強しなきゃいけないけどね。ヒマ人しかできない、という声もある。しかし、ニートだから時間だけはあるのだ。そう考えると、ニートも社会の役に立つ。時間以外は先輩に買ってもらったカメラだけが、今のところナベタくんが持っている全てだ。

 それでも書き込みの中には「とてもすごいことをしているのかもしれない」という声も少しだけあった。ぼくもそう思っている。

 ぼくはもうこれ以上、繰り返さないが、柳田國男が何故、日本人がちゃんと選挙がやれないのかを第一回目の普通選挙の時に憤った話をしたのか、と思う。柳田は自分の見たことや感じたことを正しく記録し、それを持ちよってみんなで考える仕組みを作るしかこの国の選挙は正しい形にならないと考え、彼は民俗学にそれを託した。けれど民俗学はただの「学問」になってしまった。

 でも柳田の考えたことはできないことなのか。

 ぼくには、ナベタくんがたった一人でやったことは柳田國男の考えたことの実践のように思う。一人一人の選挙民が「選挙群」として考えなしに空気を読んで投票する愚かしさを、昭和の初めからこの国はずっとしてきている。ナベタくんは自分の選挙区で誰に投票したらいいか判断する材料をニコ動を使ってニュートラルに提供しようとした。繰り返すが、彼にイデオロギーがあるわけではない。しかし「考えるため」の材料を人々に提供し、そして考えてもらう、という彼のスタンスはとても正しい。ニコ動で柳田の理想が形になった気がした。

 もちろん候補にしてみれば素性の知れないニート青年にいちいち対応していられない、というのは正論だ。ナベタくんを諫めた未来の人の対応にもその意味で一理ある。例えば「名刺もないのか」とその人に言われ、ナベタくんはそうか名刺か、と思い、生まれて初めて名刺を作った。彼は名刺をどこに注文していいかも知らなかったので、その時だけぼくは相談に乗ったのだが、「webジャーナリスト」とでも書いとけば少しは対応マシにならないかな、とぼくが言ったのに対して、ナベタくんはそれは違うと思いますと考え込んだ。そして結局「市民」という肩書きの名刺を作った。住所と携帯の番号とサイトのアドレスが書いてある。「市民」なんてすっかり死語か胡散臭いものになってしまったけど、ナベタくんの「市民」はカッコいい。ぼくは彼の話を聞いて、どこかで「物書き」という特権に甘えている自分が恥ずかしくなった。

 ここでもちょっといい話がある。生まれて初めて自分で名刺を作ろうとした彼は、ぼくにタウンページでも探せよ、と言われ、電話帳の広告を見て「格安」と書いてあった会社を訪ねていった。そこで「市民」という肩書きの名刺を作ろうとするナベタくんは、印刷会社の人にあれこれと聞かれた。まあ、怪しいし、不審に思う。ナベタくんは一時間ぐらい自分が何をしてどうしてこの名刺を作ろうとしているのかを真面目に話した。印刷会社の人は最後に「自分は実は在日なので選挙権がない。けれども君のやっていることは正しいよ」と言って名刺の印刷を引き受けてくれた、という。出来過ぎのようだが、本当の話だ。また、誰かが背中を押したのかもしれない。

 

 ぼくの周りのどちらかといえば左翼やリベラルの人たちは、今回の選挙の結果に本当に呆然としている。そして、実は「右」の人でもちょっとあり得ない、とことばを失っている印象がある。ぼくはというと去年の初めに散々「土人」だ「愚民」だと悪態をついたから、絶望することももうなかったが、けれども単にニヒリズムに陥らずに済んだのはナベタくんの行動のおかげだ。

 何だか自分が放り出した教え子に、いいかげん「土人」って言ってても仕方ないでしょ、と叱られた気さえした。ナベタくんはこの国の選挙に一つの可能性を示した。

 例えば、次の選挙でネットが解禁される可能性は高い。そうすると橋下徹のツイッターが象徴するように、有権者をいかに自分の優位な方に動員するか、プロパガンダ合戦になる。実際、ネットを使った選挙とは、候補者や政党がどうネットを使うか、にしか議論はなく、有権者がどうネットを使うか、ましてや特定の候補や政権のためでなく選挙をまともに行うにはどうネットを使えばいいのか、という発想は全くない。ニコ動だって、結局、小池百合子の「断髪式」を生中継するかしないか、レベルの対応しか今回だって出来ていない。この先もそうだろう。ぼくはその意味で半端にNHKにでもなろうとしてる「情報の送り手」としてのドワンゴに少しも期待していない。しかし、ナベタくんが使って見せたように、この国の選挙を少しだけマトモにするためにニコ動は使える。YouTubeもだ。

 例えば、だ。次の選挙で全ての選挙区にナベタくんみたいなニートくんがカメラを抱え、一人一人の候補にアポをとり、同じ質問をし、答えてくれた人はそのまま、断られた人はその経緯をなるべくニュートラルに平等に動画に挙げていく。質問もたくさんだと迷惑がかかるから、日本中同じものと地域に根ざしたもの三つぐらいがいいかもしれない。

 とにかくフェアに、ニュートラルに、がルールだ。

 そういう動画が全ての選挙区にアップされたとして、それでも次の選挙は少しも変わらないだろうか。この国の民主主義は相変わらずこのままだろうか。確かに何人もが同じことをしても仕方ないから調整も必要だし、特定の陣営の人が紛れ込むリスクもある。編集のちょっとしたニュアンスでバイアスをかけることだって出来なくはない。

 そういうリスクや問題点を一つ一つ挙げていったらキリがない。けれども、ぼくはナベタくんがこの国の選挙や民主主義についてwebを使って少なくともやってみる価値のある答えを出した、と思う。

 ぼくの友人でリベラルな人の中には「もう亡命したい」とか「有権者一人一人に訴えていくなんて、橋下や安倍相手にそんな正攻法はやってられない」という思いつめた声がけっこうある。しかし、ぼくは何だか少しも絶望していない。ナベタくんみたいな人が日本に現れることに、この国の民主主義の可能性を託してみたい気になってしまう。「それどころじゃない」のかもしれないけれど、でも、こういう足場を作っていくことでしか民主主義も選挙も変わってはいかない。

 そういうわけで、この文章は「全文をまとめて、かつ、修正とかは一切しないこと」を条件に、サイトや印刷物にいくらでも転載してかまわない。

 ナベタくんの動画は、

 

youtube「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.youtube.com/watch?v=iI6nOYOmXEE&feature=youtu.be

 

ニコニコ動画「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19560813?mypage_nicorepo

 

 で、見ることができる。ぼくが今、こういう文章を書いていること自体、ナベタくんは知らない(依頼された原稿ではないのだ)。ぼくもこっそり背中を押してみる。

 ぼくは『愚民社会』のあとがきで、どうしたらいいかなんて自分で考えろ、と書いた。ナベタくんは多分、ぼくの本なんか読んでさえいない。ぼくの本など読まない彼は、しかし自分で考えれば「答え」などいくらでも転がっていることをわかっている。

「ナベタくんの選挙」が、さて、どこまで広がるか。広がらないかもしれない。それでも少なくとも、次もまた彼は一人で候補者に電話をして、断られたりしながらカメラを回すと思う。