シン・セカイ系への誘い

 「セカイ系」とよばれる物語の分類がある。おおまかにいうと主人公とヒロインの恋愛っぽいエピソードを中心にしながら、彼ら2人の行動が、なぜか世界の存亡にかかわる問題に直結するというようなッタイプの物語のことだ。まあ、わりと有名な言葉だ。

 

 セカイ系に対して、「新世界系」なる物語が近年誕生し、影響力を増してきたと主張する集団が、ネット上に存在する。

 

 集団といっても、新世界系でググってもらえば分かるが、でてくるのは、ペトロニウス、LD、海燕という3人ぐらいだ。彼らはAzukiaraiAkademiaというサークルを3人でつくっていて、ようするに彼らだけが、「新世界系」なるジャンルの存在を主張しているといっていい。

 

 ぼくは彼らの中のひとりである海燕さんのブログをずっとウォッチしているのだが、結論をいうと彼らの主張はめちゃくちゃ正しくて、ここ10年ぐらいの日本の世の中で支持されるアニメの類型とその移り変わりを見事に説明していると思っている。

 

 彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。

 

 彼らは進撃の巨人の「壁」とはなにか?という考察から、ざっとまとめると以下のことを結論した。

 

① 壁の外とは「現実世界」を象徴している。

② 「現実世界」とは言い換えると、「主人公が保護されていない世界」である。

③ 「壁」とは「主人公が保護されている世界」と「主人公が保護されていない世界」を隔てている。なぜ、「壁」が必要なのかというと、「主人公が保護されていない世界」では定義上、主人公がすぐ死んでしまうので、物語を成立させるための仕掛けとして存在している。

④ 進撃の巨人だけでなく、当時、新編がスタートしたワンピースの「新世界」、トリコの「グルメ界」、HUNTERxHUNTERの「暗黒大陸」すべて同じ構造をもっており、「現実世界」=「主人公が保護されていない世界」である。

⑤ 上記の「新世界」の物語と「セカイ系」の物語とは、まったく異なるものである。

 

 ①と②の「主人公が保護されていない世界」が「現実世界」であるというのはどういうことか?

逆にいうと、通常の物語では主人公が保護されているということを指摘している。敵があらわれるにしても、ちょうど主人公がギリギリ倒せるぐらいの敵が順番にあらわれるし、仮にどうみても倒せなさそうな敵がでてきたとしても、なんらかの不思議な力の働きで勝ててしまうというのが、「主人公が保護されている世界」だ。

 

 まあ、物語の都合としてはあたりまえだともいえる。そんなに簡単に主人公が死んだら、物語にならない。

 しかし、そういう主人公が必ず勝つような都合のいい世界は、現実の世界とは大きく違う。ふと我に返るとリアリティがない世界だといえる。

 もっとリアリティのある、本当に主人公だって、簡単に死んでしまいそうな世界というのが、「主人公が保護されない世界」である。

 

 ただ、「主人公が保護されていない世界」においては、なにしろ主人公がすぐに死んでしまうわけだから、そのままだと物語が成立しない。すぐに最終回になってしまう。そこで③にあるように「壁」のようなものを用意する必要がある。

 

 しかも、これは進撃の巨人だけでなく、ワンピースの「新世界」をはじめとして、同時代の人気作品に共通してあらわれている特徴であるというのが④の彼らの指摘である。

 

 そして、これはたんに作劇上のテクニックのひとつで最近、流行っているとかなんかじゃなくて、もっと大きい、世の中の状況の変化を反映させた消費者の嗜好の変化なんだというのが、⑤でいう彼らの結論となる主張だ。やがて、彼らは新世界の物語を「新世界系」と呼び始める。つまり、「セカイ系」のブームというのも、ある時期の世の中の大きな流れとなる空気を投影させたものであり、「新世界系」もまた同じであり、世の中は「セカイ系」の望む空気から、「新世界系」を望む空気に変わってきているんだ、ということだ。そして、「新世界系」を表現するための物語の演出方法とはどうあるべきか。

 

 彼らは2014年から、今日に至るまで、ずっと、このテーマを議論しつづけている。

 

 さて、ここで、ではセカイ系と新世界系を求める世の中の空気とはどのようなものだったか?ということを考えたいのだが、その前に、基本的なことではあるが、世の中の空気なるものが物語に本当に決定的な影響を与えるなんてことがあるのか、ということについて確認したい。

 

 どんな時代であれ、面白いものは面白いんじゃないか?流行はあるのかもしれないが、時代なんてものがそれを決めているのか?多少はあるかもしれないが、それが決定的な要因なのか?

 

 具体的な例として、ぼくの身近に帰国子女の子がいる。ずっと海外にいたので、日本に戻ってきても、頭はいいのだが、日本語でのコミュニケーションは慣れていなくて、ほぼ不登校になってしまった。彼女が好むのがゾンビ映画のようなグロテスクな物語だ。なぜ、そうなのか?

 

 ぼくが想像するのは、彼女には現実社会が、ゾンビ映画のようなグロテスクなものに見えているんじゃないか?なにを考えているか分からないし、自分の意志もまったく伝えられない、そういう怪物たちの住む世界が、自分に襲いかかってくるように見えているんじゃないかということである。

 

 そして、そのことが彼女の抱える悩みの核心なんだろう、だからこそ、似た構造があるように見える物語に大きく反応してしまう、興味をもってしまう、ということだろう、ということだ。けっしてグロテスクな現実世界なんて好きじゃないはずなのに惹きつけられてしまうのだろう。

 

 ヒットするコンテンツに与える時代の空気の影響というのも、基本、同じ構造だろう。だとすると時代の空気なんてものは、空気という言葉の持つ軽いイメージとは裏腹に、もっと切実な同時代の人々の最大の悩みを反映したものだろうというのが、ぼくの云いたいことだ。それぐらい切実な空気しか、ある人がどうしても惹きつけられるコンテンツなんてものは生みださないし、そういうひとが大量にいることでしか、コンテンツの大ヒットを生みだすほどの影響は与えられないと、ぼくは思う。

 

 では、「セカイ系」と「新世界系」が基盤としていた時代の切実な空気とはいったいなんだろうか?

 

 「セカイ系」の物語に対して、現実がどう見えている人たちが惹きつけられたのか?それは社会が同調圧力でもって自分を利用して生き方を支配しようとしていると反発しているひとたちだろう。端的な例でいえば、いい大学へ入って、いい会社に入るために、勉強しなさい。出世するためには、もっと仕事しなさい、一人前の大人としてきちんとしなさいなど、社会が持っている価値観を押しつけられて、それが自分の幸せにつながるかどうかがはっきりしない、もっというと自分を騙して利用しようとしているだけなんじゃないか。

 

 そういう現実のモデルを、コンテンツの消費者が物語として受け入れやすい、じつは本当に自分が重要な人間であり世界の命運を握っている、そしてまわりはそれを利用しようとしているという舞台設定として提示したのが、セカイ系の物語ではないか。

 

 そしてセカイ系の物語が通用しなくなるということはどういうことか。

 セカイ系とは世界の危機を救うより、目の前の恋愛が大切なんだというメッセージに帰着することが定番であり、そのことによって視聴者はカタルシスを感じる構造になっていることが多いのだが、これは要するに、自分を利用しようとする現実を拒否してやるということの気持ち良さである。これが成立するのは拒否したあとの逃げ場所が保証されていることが前提だ。逃げ場所がないのに拒否するというのは、ほぼ手首切ったりする自傷行為に近い。

 

 社会から押しつけられる価値観を拒否したとしても、案外、人生は楽しく暮らせるという余裕が社会にあることが、セカイ系の価値観を普遍的なものにすることを可能にする。別に勉強をして、いい大学にいかなくても、一生懸命働かなくても、オタクとしてコンテンツ消費者として楽しく暮らせるじゃないか、そう思える余裕があることが、当事者たちにとっての「最大の人生の悩みが社会からの価値観の押しつけである」というひとたちの大量発生を可能にする。

 

 それが長引く日本の低迷の中で、難しくなってきた。現実がいかに厳しくてもそれから逃避することができなくなってきた。厳しい現実の中で自分たちはどうやって生き延びていけばいいのかいいか、それがまったく分からないことが最大の悩みであり、ストレスになった。そういう現実認識が世の中の多数派になってきたときには、セカイ系が生ぬるいものになり、新世界系が台頭することになった。

 

 上記の説明は、だいぶ、ぼく風のアレンジはしているが、海燕氏たちが考える新世界系が登場してくる時代の背景とは、あまり未来に希望を持てない厳しい現実に向き合う同世代の”われわれ”という世界観が浮かび上がってくる。

 

 彼らの新世界系にかかわる議論には、いろいろ面白い話が多いのだが、まあ、多すぎてまとめるのは大変なので、直近の話題を2点ほどだけ紹介する。

 

 海燕氏の最近のブログでは、セカイ系ネオリベ新自由主義)が相性がいいというトピックについて議論されていて、なるほどと思った。ようするに社会がなにかを強制するのを嫌悪して、自分たちで勝手にやっていくよ、というスタンスにおいてほぼ同じであるということだ。(海燕氏自身のアイデアというよりは、彼が紹介した記事の中で指摘されていたことについての議論)

 

 もうひとつはペトロニウス氏のブログで、新世界系の特徴として、世界の秘密はどうでもよくて、そのなかで主人公たちがどう生きたのか、その生き様と仲間達のキズナを描くのが重要であるという推測が、連載を終了した鬼滅の刃でも実際、そのとおりになっていて、正しさが裏付けられた、という主張だ。

 

 詳しくは彼らのブログを見て欲しい。

 

海燕氏のブログ 

ch.nicovideo.jp

ペトロニウス氏のブログ

petronius.hatenablog.com

 

 というわけで今回の記事を終わるが、最後に今回の記事のタイトルについて説明する。セカイ系と呼ばれる作品はたくさんあるが、セカイ系の成功を世の中に印象づけたのは、なんといっても、エヴァンゲリオンの大ヒットだろう。当時、ぼくのまわりにも、何人もの「シンジ君とはぼくのことだ」という友達がいたことを覚えている。当時のエヴァンゲリオンは社会から逃げるシンジ君を肯定する物語として、世の中に受け止められていたということだろう。

 

 当の庵野監督はというとエヴァンゲリオンのそういう解釈のされかたには、必ずしも本意ではなかったように見える。実際のところ、いまになってエヴァンゲリオンを思い返してみると、海燕氏らが主張する新世界系の特徴の多くは、すでにテレビ版のエヴァンゲリオンの中に存在しているように思える。

 

 海燕氏らはセカイ系と新世界系はまったく違うものとして捉えているが、実際のところ変わったのは消費者側のマインドであって、作品そのものとしては、同じエヴァンゲリオン庵野監督が描いたものが、2,30年をかけて、違ったかたちで(おそらくは、より作者の意図に近いかたちで)世の中に受容されただけじゃないか、そんなこと考えて、あえて海燕氏たちが呼ぶ「新世界系」を、カタカナで「シン・セカイ系」と書いてみることにした。

 

 というわけで正しいのは「新世界系」だ。

 

人間自身が知財になる時代が来る

  ずっと考えているテーマがある。

  ぼくは結論として人間の時代は終わり、AIが世の中を支配する時代が来ると信じているのだが、問題は、それがいつごろに起こるか、どのような過程を経て、そうなるのか、AIの時代が来るとして、そこで人間の影響はどこまで残せるか、といったところである。

 

 人間がAIにのっとられる前段階として、決定的に重要なイベントはなにかというと、それはわりとはっきりしている。人間同士のコミュニケーションがデジタル化されることだ。

  人間同士がリアルに出会って対面するという行為がなくなった時代は、モニターに映っている本人の映像や、スピーカーから聞こえてくる音声が、本物である必要はなくなる。AIで合成できるからだ。まして、メールやチャットなどの文字によるコミュニケーションはなおさらだ。

  したがって人間からAIへの歴史の主導権の移行は、

 

 ① 人間同士のコミュニケーションがデジタル化

 ② 人間のデジタルコミュニケーションをAIがアシスト

 ③ 実質的なコミュニケーションの主体がAIになってくる。

 ④ 人間ってなんだっけ?

 

 という分かりやすいプロセスを経る。ここまでは容易に想像がつく。

 とはいえ、人間同士のコミュニケーション形式の主流がデジタル化されるというのは、あまりにも大きな変化であり、まだまだ社会全体がそうなるには20年ぐらいはかかるだろう、と思っていたのだが、状況が変わった。

 

 もちろん、理由はコロナだ。

 

 コロナで仕事も一挙にリモートワークが進み、打ち合わせもネットで済むようになった。本来はデジタル移行を拒む年長者の層まで、そうなった。人間が知識を得る手段も対面授業からオンライン学習に切り替わった。この流れは、もう、止まらない。

 というわけで、人間のコミュニケーションのデジタル化が一挙に進み、AIと人間が置き換わる前段階としてのAIと人間の融合が開始できる素地が一挙に整うことになったのを記念して、ぼくが考えていた人間とAIとの融合のプロセスについて、もう少し書いてみようと思う。

 

 人間のコミュニケーションにAIが介在すると、いいことはたくさんあるのだが、実現するには経済的な合理性が必要だ。儲かるかというよりは、継続的な開発費の出し手が存在しそうかどうかだ。

 AI、あるいはその前段階としてのIT技術によってコミュニケーションをアシストしてもらうのに、直接的な恩恵を受けるのは、社会のリーダー層の人間だ。社会のリーダー層の仕事の大半は外部の人間、あるいは部下とのコミュニケーションが占めている。このコミュニケーションをIT技術に支援してもらうことで、より多くこなせるようになることは、そのまま自分の能力の拡大になる。さらにAIによってさらに強力な支援、どころか仕事を代替してもらうことができれば、仕事ができるといわれているひとが、きっと一度は考えたことがあるだろう「自分がもうひとり欲しい」がいくらでも実現するようになる。組織の力を代弁できるような強力な個人は、そういう自分の能力の拡張に費用は惜しみなく出すだろう。

 

 また、AIにアシストしてもらうコミュニケーションをリーダー層の場合は、多忙と力関係を理由にして相手に応じてもらえやすいことも大きなポイントだ。社会のリーダー層がコミュニケーションをAIを使ってでも拡張する合理性は経済的にも社会的にもあるということになる。

 したがって、人間のコミュニケーションをAIに代行させる動きが、最初におこなわれるのは社会のリーダー層になる。一般社会にまで、コミュニケーションのAIへの代行が広がるのは、それよりは後だ。

 

 なので、いつ社会のリーダー層がコミュニケーションをAIにアシストさせるかが、人間の時代からAIの時代への変遷過程において、重要なメルクマールになるわけだが、その前に必要なキーステップはなにかということも気になる。

 

 それも書いてしまうと、組織のメンバーのデジタル化されたコミュニケーションをモニターする機能をもった業界標準となる人事システムが普及すること、で十分だ。

 このような業界標準となった人事システムは、AI時代において、AIビジネスにおけるOSのような役割を果たす。ビジネスにおけるAIの本質は人件費の削減にあるのだから、人事システムがOSになるのは極めて自然だ。業務の目的に応じてカスタマイズされたAIをOSにプラグインで組み込んで使うことになるだろう。

 人事システムが有望なキーステップとなるもうひとつの理由は、別にAIがなくても成立するからだ。仕事がリモート化されてデジタル化された時代に、それを管理できるというだけで十分に実用的だ。将来的にはそこにAIが組み込まれる。

 

 なんか、話が脱線してきたので、人事システムがAIビジネスの大本命だというのはどっか別に書くことにして、表題の「人間自身が知財になる時代がくる」について話す。

 

 人間がAIを通じてコミュニケーションをおこなう時代とはなんなのか?ということを知財という観点から説明する。

 知財の歴史をおおざっぱに考えると、最初に知的財産となったのは、人間がつくりだしたもの、そのものに対する権利だ。これが著作権だ。その次に知的財産となったのは、人間がどうやってつくりだしたのかというノウハウだ。特許権がそうだ。

 

 AI時代になにが起こるか、AIがつくったものの著作権特許権が認められるか、という議論があるのが、これは最終的にはAIの創作物が爆発的に増大しすぎて、そういう権利の保護、運用がそもそも不可能になるという結末しかみえない。そのときに残る知財は商標だけだ。自分が自分であるということを主張できる権利だ。人間がコミュニケーションをAIに委ねる未来には、自分とはなにかをどう決めるかというのが大事になる。

 

 それは人間に最後まで残る権利だろう。人間自身が最後の知財となる。

 

人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観

AIとはなにかということを、真剣に考え始めたのは、6年前からだ。AIとはなにかというテーマを突き詰めていくと、そもそも人間の知性とはなにか、という疑問にぶちあたる。

 

人間の知性を将来はコンピュータに搭載された人工知能が超えてしまうという想像はコンピュータの登場とともに誕生していて、なにも新しいことではない。事実、コンピュータは発明された瞬間に、計算能力においては人間を軽く超えていた。

 

計算能力で劣っているにも関わらず知性において人間がコンピュータに負けてないと思うのは少し奇妙なことでもある。人間の脳の機能の進化において、数字を扱って、計算できるようになったのはかなり最近のことのようだ。人間の脳にとっては、足し算とかかけ算は、最新のバージョンアップで、やっと可能になった最先端の高度な情報処理能力であって、それでコンピュータに負けてしまったということだ。

 

人間がコンピュータには直感はないとか、心はないとか、意識はないとか、感情はないとかいって、コンピュータに知性では負けてないというのは、生物の進化として考えた場合に、より原始的な能力においては、まだ、負けてないと主張することを意味する。

 

そもそも知性とはなんなのか?人間が漠然と考えている知性にたいして持っているイメージが、そもそも正しくないのじゃないだろうか。

 

いろいろはしょって、ぼくが考えたひとつの結論を書くと、世間一般で思われている知性というものの実体のかなりの部分は、個々の人間は持っていなくて、社会が持っているものであるということだ。とくに人間が高度な知性の証だと考えるものほど、実体は社会にあって、ひとりひとりの人間は持っていない。

 

多くの人間が考えている知性なるものの実体は、ほぼ社会側にあり、個々の人間は、(たとえ優秀な人間であったとしても)そのほんの一部分をコピーしているだけで、なんとなく自分の脳が本当にもっているより、はるかに大きな知性があると思い込んでいるのが人間という存在だ。そう考えるべきだとぼくは思う。

 

そして、近年の機械学習の研究の爆発的な発展を眺めていて、(ここは専門の研究者でも異論があるひとは多いだろうが)、人間の直感や創造性、感情や意識にいたるまで、そこまで複雑なものではなく、どうやら、意外と簡単な原理でモデル化できそうだという予想を、ぼくは持っている。

 

このあたりの詳細や、知性と肉体としての人間との関係をどう考えるべきかとかについて書きたいことは、山ほどあるのだが長くなるのでやめて、今回は、今日書いた人間の知性は社会の知性の部分的なコピーであるという考え方が、近未来の社会に与える影響について書こうと思う。(社会の知性とはなにか。便宜上、そう呼ぶが、なにを指すかはこのあとの文章から適当に想像してほしい)

 

まず、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像は、今後、かなり一般的なものになると予想する。

 

理由の第一は、まず、事実として、より正しい見方であるだろうことだ。人間は個人としての人間全体の知性の集合が社会の知性であると思いたがる傾向があるが、社会の知性の起源がかりにすべて人間であったとしても、かなりの人間はすでに過去に死んでいる。また、個々の人間というよりは集団としての人間とそのときの社会の知性との相互作用によって、社会の知性は進化しているので、社会の知性は単純な人間の知性の合算ではありえない。さらに現在においては社会の知性のかなりの割合が、人間そのものではなく人間がつくった道具、コンピュータなどから生成されていると考えたほうが適当だろう。社会の知性というものを人間とは独立した存在として認識するのは正しい方向性であると考える。

 

理由の第二は、今後のAIによっておこなわれるだろう教育の発展だ。社会の知性のごく小さなコピーが人間の知性だというなら、コピーする手段の代表的な手法は教育だ。今後発展するだろうAIとさらにはVRの組み合わせは、人間になにかを教えた時に、相手が本当に理解しているか、どこまで理解しているかを正確に判断できる教育システムの開発を可能にする。そうなると、あるレベルの人間に何時間の教育をほどこせば、なにを覚えられるかが、およそシミュレートできるようになる。まさに知性を人間にインストールする時代がやってくる。もちろんAI+VR教育システムの進化は段階的にしか進まないだろうが、そういう世の中になっていく流れが明確になってくるなかで知性の本体の発明者が人間であるという考え方を維持するのは多くの人間にとっては次第に難しくなるだろう。

 

理由の第三は、人間の知性の外部化が、今後、なし崩し的に進むことだ。すでに知識は暗記するよりも検索したほうが早いと考える人間が増えている。ネットを通じて取得する情報は事前にAIによってフィルタリングされ、リコメンドされ、”外部の知性”によって加工されている。今後、その”外部の知性”の能力は拡大する一方だろう。もちろん人間はそういった外部の知性も自分の能力であると思い込む能力を発達させるだろうが、一方で自分の知性が自分の肉体と脳に完全に紐付いたものであるという認識は、やはり次第に難しくなっていくだろう。

 

理由の第四は、人間の遺伝子組み換え技術の普及だ。おそらく病気や障害の除去という大義名分をきっかけに自分の子どもの遺伝子をカスタマイズすることはあたりまえになる。はじまってしまえば、ついでに頭をよくしたりとか、プラスの遺伝子を追加することが容認されるようになるまでは一瞬だ。自由に子どもの遺伝子をカスタマイズできる世の中で、子どもは自分の遺伝子を受け継いだ生物であるという概念自体が成立しにくくなってくる。そうなると人間にとって生物学的な肉体は、たんなる知性の乗り物であるという見方が優勢になってくると予想する。じゃあ、知性はどこからうけつがれるかというと

 

 

さて、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像が社会の中で一般化すると、なにが起こるのか。

 

ぼくはこれが人間社会の根本的な変化をもたらす原動力になる、ないしは変化の下地をつくることになる決定的な価値観の変化だと思っている。

 

人類という種が次に進化をするとすれば、生物学的な進化ではなく、工学的な進化である可能性が高い。主な可能性はつぎの3つぐらいであり、おそらくすべて実現する。

 

・遺伝子の組み替え。

・人体のサイボーグ化。

・脳の機能をコンピュータに置き換える

 

どれもやるメリットがあり、障害となるのはおもに人間の倫理と生理的嫌悪感だ。

 

 遺伝子の組み換えははじまってしまえばあっというまに普及する。まずは遺伝病や奇形などの遺伝子の欠陥を修正するためという大義名分ではじまる。そうなるとついでにちょっと頭をよくしたりとか、体の歪みを直した結果として体形が良くなったり、顔がよくなったりとか、とめどがなくなるのは目に見えている。

 人体のサイボーグ化を後押しするのは高齢化社会だ。技術的な問題が解決すれば、老化した体を置き換える心理的な抵抗はそれほど大きくはならないだろう。むしろ技術がどこまで発達するかのほうが重要なポイントになる。

 

 3つのうち人間が最後まで決断ができないのは脳の機能をコンピュータに置き換えるということだろう。はたして、それは人間なのか、自分自身なのかについては、さすがに乗り越えるのは大きすぎる心理的ハードルだ。しかしながら、いきなり脳をすべてコンピュータに置き換えるような技術はどうせ不可能だ。したがって、脳の機能の置換は、段階的に進むことになる。それは確実に起こる。段階的といったって、脳に電極を差したり、チップを埋め込んだりするのは嫌だろうと思うかもしれないが、実はそれは必要がない。まず、上に書いたように脳に電極を差すまでもなく、人間の知性の外部化はインターネット上のクラウドサービスを通じて、現在でもすでに進行中だ。そして次の決定的な変化の段階でも実は脳に電極を差す必要はない。次の段階とは人間社会の仮想化、つまりVR社会の到来だ。人間がVR社会でのアバター化をしたときに、事実上、脳の機能をAIに代行させることが容易になる。人間の分身であるアバターの操作をAIに自動運転させるわけだ。本人と見分けがつかない声で喋らせることも現状で完成している技術の延長線上で十分に可能だ。人間はVR社会では人間同士のコミュニケーションもAIに代行・媒介させることが可能になる。それは需要も実用性もあるので確実に技術が発展する。そして、それは実質的には人間の脳の機能をAIで置換することに他ならない。

 

 最終的に人間が脳も含めた肉体を捨てる決断を可能にするのは、自分の肉体、とくに脳と自分自身の意識が別に一体不可分のものではないと思えるかどうかにかかっている。自分自身の意識とは、たまたま人間の脳に寄生した情報的な生物であり、自分たちは遺伝子ではなくミームで繁殖している存在だ。自分たちの本体は社会にある知性だ。そう思えるかどうかだ。そういう価値観、認識の変化が起こりえるかどうか。それは現在の常識ではなさそうにみえるが、おそらく今世紀中には確実に起こるだろうというのが、ぼくの予想だ。

 

 ここに書いたことは歴史的な必然として起こると思っている。そして、それは不可逆な変化になる。しかしながら、人間が脳を捨てたら、それはもはや現在の意味での人間とは別の存在だろう。ある意味での人類の歴史の終わりだ。

 

 そういう未来が避けられないものだとしても、それは未来の人類にとっての幸せを意味するものだとしても、なにも生き急がなくてもいいんじゃないかとぼくは思っている。

 人類にとって、いちどしかない”人類生”なんだから、途中の風景を楽しみながら、もっとのんびり歩いたほうがいい。

 

ボヘミアンラプソディーを観て考えたこと

話題の映画を観てきた。平日の夜8時半からの回は満席だった。いろいろ思うところがあったが、ひとことでいうなら、いい映画だった。

 

映画業界のひとにも話を聞いてみた。現時点での興収予想は30億円。当然、業界でも予想外のヒットのようだが、みんな喜んでいるらしい。元気が出た。こういう映画がヒットするなら、まだ、世の中も捨てたもんじゃない。そういう風に受け止められているそうだ。

 

いい映画とはなにか。映画が世の中に果たす役割とは何か。
映画に限らず、あるアーティストが表現した作品が、観客にあたえる作用とはなんなのか。

 

あらためてそういったことを考えさせられた。

 

自分がなんで映画に感動しているのか、理由がよく分からないけど、でも、とにかく感動している。ぼくもそう感じたし、事前に観に行ったまわりの人たちも、似たようなことを言っていた。

 

「音楽が良すぎてずるい。ストーリーがいいとかじゃなくて、とにかく音楽で感動した」

 

そんな声も聞いたし、正直な感想なのだろうが、それはちょっと違うはずだ。
音楽だけでヒットするなら、いい音楽PVを映画にすればヒットするという理屈になる。そんな簡単なもんじゃない。たとえQUEENの音楽がいいにしろ、映画のなかで音楽がいいと思わせる仕掛けは映画自体になんかあったに違いない。

 

それはいったいなんだろうか。とくに明確な答えがあるわけではないが、いろいろ考えたことを書きたい。

 

(以下ネタバレ注意)

 

人が、なにか作品に対して、心を動かされるということはどういうことか、感動してしまうとはどういうことか。素晴らしい技巧に感心するということではなく、感動となると、そこにはなんらかの感情移入が働いているように思う。

つまり、なにか自分と重ねてしまっているということだ。

この映画には観客がフレディ・マーキュリーとそれを取り巻くひとたちに自分たちを重ねてしまう仕掛けが、いろいろ施されている。

 

少年向けの冒険物語の主人公のように、ごくふつうのどこにでもいる若者としてフレディは登場する。貧しく、容姿にも恵まれず、才能も世の中にも家族にさえも認められていないが、しかし、大きな夢と希望を抱いている。

 

そしてちょっとしたきっかけによる偶然のチャンスを掴み、潜在している才能を認められ、フレディはQUEENのメンバーがやっていた学生バンドにボーカルとして所属することになる。観客の最大公約数に感情移入を促すような、ある種、典型的な成長物語の主人公としての人物描写がされている。

 

伝説のバンドとしてスターダムを駆け上がっていく過程でも、近づきがたいカリスマではなく、むしろ実際はこうだったんだろうなと思えるような人間味が強調されている。家族の問題。恋人との関係。

 

映画の題名にもなっているボヘミアンラプソディーは名曲だが、今の時代に聴いても、なお新鮮であり、その独創性はオリジナリティあふれすぎていて、いまだに他の追随を許さない。言い方を変えると、聴いたことないメチャクチャな構成の曲だ。CMで使われたり、あちこちで流れるので、フレーズはみんななんとなく知っているが、ぼくはかなり年を取るまで、自分の聴いたことがあるふたつの曲の有名そうなフレーズが、じつは同一の曲のものだったということを知らなかった。

 

映画ではボヘミアンラプソディーのレコーディングをしているときの描写で、曲の中で連呼されている意味不明の叫びについて、叫んでいるメンバー自身に「ガリレオっていったいなんの意味?」と言わせている。映画の笑いどころのひとつだ。たぶん、ボヘミアンラプソディーを聴いたことのあるひとのだれもが思った疑問を、メンバー自身に言わせることによって、伝説の名曲の舞台裏を見せて、自分がまるでその同時代にフレディたちと居合わせているような錯覚を与えている。

 

映画の前半部分では、神秘的なQUEENの名曲の裏側が、じつは、たんに、だれもやったことのないことをやりたい、世の中を驚かせたいという若者たちの必死の努力の結果であったという描写がされている。これが、後半逆転する。

 

メンバーの不和。恋人との破局。高額の契約金によるフレディのソロデビューで、ついにQUEENは分解する。

 

映画のフィナーレはLIVE AIDでのQUEENの伝説的なパフォーマンスの再現だ。HIVの発覚にはじまり、フレディはメンバーは家族だと思い直し、謝罪をする。メンバーは果たしてフレディの謝罪を受け入れるのか。映画の見せどころのひとつだが、そのとき、ギターのブライアン・メイは、いったん席を外してくれとフレディに告げる。フレディが部屋の外に出たあと、どうしてフレディに席を外させたのかを聞かれると、ブライアンメイは、「なんとなく」と答える。この映画のもうひとつの笑いどころだ。

 

ここは家族とはいくらいいつつも、結局は血は繋がっておらず仕事の関係でもあるという微妙な人間関係を、やはりそれでも彼らは心の繋がった仲間だと信じてもいいと観客に印象付ける説得力のあるエピソードだ。

 

ライブの直前、病の症状で調子がでない中、他のメンバーにAIDS感染を告白する。世間には病気のことを伏せたまま、LIVE AIDの舞台に立つフレディ・マーキュリー。舞台の背後に映り込むLIVE AIDのロゴはAIDSを連想させる。

ライブの始まりは、ボヘミアン・ラプソディーだ。ここで観客は気付かされる。前半、奇をてらった曲、とくに意味のない歌詞の連なり、として描写されていた同じ曲の同じ歌詞が、フレディの魂の叫びであったこと。真実そのものであったこと。

レジェンドのはずのフレディが観客の側に戻ってきた瞬間だ。いや、最初から観客のそばにいたんだと気づくのだ。思わず目頭が熱くなる。

そしておそらくは20分間の伝説のライブを完全再現したのだろう。観客に追体験させることで映画は終わる。

観客が感情移入できるのは、フレディ・マーキュリーだけではない。まわりの人物のすべてが本当にいそうなひとたちだ。よくあるファンの代表みたいな登場人物がいないのもいい。そういうつくられたファンは、むしろ自分とはちがうことを意識させるので感情移入の邪魔だ。ファンが映画に登場するのは客席の中と、それとフレディがHIVを告げられる病院の待合室での短いやりとりだけだ。いかにもありそうな情景だ。

もうひとつの感情移入の入り口は身近な自分が好きなアーティストとQUEENを重ねることだ。映画を見ていて思ったのは、たんにQUEENと自分の好きなアーティストを重ねるのもあるだろうが、それ以上にアーティストに憧れて育ったファンが次の世代のアーティストになるという連鎖を想像させたことじゃないかと思う。

 

自分が好きなバンド。こんなバンドは他にないと思っていたユニークなバンドが、おそらくは相当にQUEENの影響を受けていたんだなということに映画を見ていて気づいた。彼らも彼らのファンと同じようにQUEENに憧れた時代があり、それが彼らの表現の根本にあったんだと思ったことだ。突然現れたようにみえる天才アーティストも、じつはその前の世代のバトンを受け継いでいるんだという事実を感じた。

 

そう考えると、たんに自分の好きなアーティストとQUEENを重ねるだけでなく、QUEENの前では自分にとってのカリスマも、自分と同じ立場のファンだったのかもしれないという、そういう親しみが沸き起こってくる。

 

何重にもいろんな登場人物に、いろんな立場から共感の連鎖が重なり合う、そんな映画だった。

 

映画とはなんのためにあるのか。

 

人間はなんのために映画を見るのか、あまり意味のない、答えが何通りもあるだろう問いだが、ぼくが思っていることを書く。

 

映画に限らず、すべての表現のもっとも大事であり、もっとも尊い目的は、自分はひとりじゃないということを観客に伝えることにある、と思っている。

 

この映画でそういうメッセージを受け取ったひとは多いんじゃないか。

 

そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ボヘミアンラプソディーという映画がヒットしているらしい

 先週の週明けに会社の女の子からボヘミアンラプソディーという映画に行ってよかった、泣いた、本当に感動した、絶対に観るべきという情報を入手した。というか、一方的に押し付けられた。

 

「それって曲の名前じゃないの?」と尋ね返すと、そうだ、という。

 あの有名なクイーンの伝記が映画になったようだ。

 

 まあ、ミュージカル映画みたいなもので、曲聴いていれば感動していいのかも。と思った。昔、ロンドンでWe Wii Rock Youというミュージカルを観たことがあって、ストーリーはさっぱり分からなかったが、それなりに感動した記憶がある。

 

 きっとボヘミアンラプソディーも良いのだろう。そのときはそれだけ思って、聞き流したのだが、ネットを見てて、ボヘミアンラプソディーが前週の興行収入で1位を取ったというニュースを発見し、俄然、興味が湧いた。2週間で興行収入の累計が13億で、予想外の大ヒットをしているらしい。

 

 ミュージシャンの伝記映画としてはあまり記憶にない大きな数字だ。クイーンのファンだけではなく一般観客も巻き込んでヒットしたということだ。これはどういう現象だろうと、少し調べてみようと思った。

 

 ネットを検索して、最初に見つけたのが1週間にボヘミアンラプソディーを4回も観ているという女性のブログだ。毎回、同じところで感動して泣いているという。

 

 そして「すべての関ジャニファンに見てほしい」というようなことが書いてあった。

 

 えっと・・・、なんの映画だ?クイーンの映画じゃなかったのか?

 

 読み進めていくと、映画の中のフレディ・マーキュリー渋谷すばるのことが重なって見えているらしい。渋谷すばるとは関ジャニの中心メンバーのひとりで最近、グループを脱退したらしい。

 

 クイーンのオールドファンが聞いたら、いろいろ言いたくなるような比較だと思ったが、若い世代にとっては、もはやクイーンなんて想像上の生き物であって、逆に自分に身近な存在に感情移入しやすいということかなと思った。

 

 翌日の会社で、また別の女の子からもボヘミアンラプソディーを観に行って感動したという話を聞いた。ぼくが見つけたブログの話をすると、クイーンと関ジャニを一緒にするのはさすがに違うよね、という反応があった。そして熱く語り始めた。

 

 「関ジャニが好きな私でも、それはおかしいと思う。でも・・・」

 

 お前も関ジャニファンか!

 

 彼女は話を続けた。なんでも関西出身ということで関ジャニは、ジャニーズの中でも少し浮いた存在なのだという。その中で頑張ってきた関ジャニはジャニーズのグループの中でもとりわけメンバーの仲がいいのだそうだ。そしてファンもそういう仲のいい関ジャニのメンバーが好きで応援してきたのだという。でも、その中で起きた渋谷すばるの脱退事件はファンに大きなショックを与えた。

 それでも残ったメンバーは頑張っていて、ファンもそれを応援しているのだという。

 

 調べてみると、関ジャニファンでボヘミアンラプソディーに反応している人は、他にもたくさんいるようだ。メンバーの錦戸亮も映画を観たらしく、先週のライブでフレディマーキュリーの真似をしたらしい。

 

意外なヒットを続けるボヘミアンラプソディー。

 

どうしてヒットしたかの理由は、いまのところ、まだ、よく分からないが、関ジャニについての情報はどんどん集まってきている。

 

 

山本一郎氏によるネットで有効な議論の方法

サイトブロッキングについては実名ブログで書くことにしているが、山本一郎氏の一連のブロッキングまわりのブログ記事についてのコメントは、実名ブログには書かないことにしたい。

 

理由は、氏の行っているブログの中身は、ブロッキングそのものの議論とは、もはや呼べない、ただの個人攻撃だからだ。これはむしろネット全体に関わるネットでの議論を装った中傷にどう対応すべきかという問題の典型例だろう。

 

まずは以下の記事のタイトルを見てみる。

 

憲法違反「ブロッキング議論」を誘発した、クールジャパン機構を巡る官民の癒着構造

 

いうまでもないことだが、クールジャパン機構とブロッキング議論は、なんの関係もない。

本文を読んで見ると、なにか、結びつける根拠があるかと思いきや、ただの人名とブロッキングとはまったく関係のない事柄をつぎつぎと書いてあるだけで、無理矢理にこじつけて連想させようとしているに過ぎない。

 

この記事は山本一郎氏が得意とするネットで効果がある印象操作の典型例だ。

 

ネットの読者の大多数は記事をタイトルしか読まない。また、本文についても流し読みで、キーワードなどによるイメージでのみ判断をする、という傾向がある。なにか問題を言い立てている雰囲気だけを装って、あとは人名とかの単語を悪いことをしているという印象操作をおこなうというのが山本一郎氏の議論のやりかただ。

 

これは議論とは本来は呼ばないと思う。実際、相手の意見に対して反論をおこない、それに対して再反論があるという、通常の議論を山本一郎氏がおこなうのは稀だ。ほとんど、このような言い切りの印象操作の発言を連発して、相手の反論には、関係の無い別の印象操作の発言をぶつける、あるいは、反論などなかったかのように、同じフレーズをくり返して延々と攻撃を続ける、というのが山本一郎氏の議論のやりかただ。

 

さきほどのブログの本文もそういうブロッキングと関係のない中身で満たされている。読むのもバカバカしいが、上から中身をみていく。

 

・ CODAの資料による3000億円の被害金額がおかしい。

おかしくない。妥当なものであることは、さんざん私などが主張しているが、その議論にはふれていない。

・ CODAブロッキングに賛成するように各社、各団体に働きかけたことが問題である。

意味不明。賛成なんだから、働きかけるのは当然では?

・ CODAブロッキング固執するのは、予算獲得のためだ。

まず、これはブロッキングの議論の正しさとはまったく関係のない攻撃である。CODA海賊版対策を長年やってきた団体で、ブロッキングしか方法がないというのを一番理解している団体。ちなみに、この議論と無関係の攻撃を最初にネットでおこなったのは今年4月の楠正憲氏。

・ 林いずみ委員が有識者の資質を欠く。根拠は法学部の学生でも知っている憲法の知識を知らなかったからだ。

もちろん、林いずみ委員が憲法を知らないわけがなく、憲法や法律のもとでどのように行政が運用されているのかの事実を指摘しているわけですが、議論を理解しているとも思えない山本一郎氏は、自分ではなく、林いずみ委員が有識者失格であると断じています。これはただ林いずみ委員の信用を失墜させることだけが目的の個人攻撃でしょう。

・ 林いずみ委員とファイアーエンブレム任天堂の話。

ブロッキングとなんの関係があるのか。

・ 林いずみ委員が総務省の発言を批判したのは、ブロッキング推進のためであり、クールジャパン機構の取締役をしていたので、利益相反の疑いがある。

前半も後半も意味不明。特に後半はクールジャパン機構の取締役をしたら、必ず悪いことをしているはずだという前提があるように思えるが、山本一郎氏だったら汚職できる立場になったらするのが当然かもしれないが、一般にあてはめるのは、たんなる中傷だ。

・ クールジャパン機構に、夏野氏と林いずみ氏と須賀千鶴が関与している。カドカワと癒着していた?

まず、ブロッキングとは関係ない。元の文章が単語をちりばめているだけで具体的になにを主張しているのが不明だが、癒着不正があったというのは重大な中傷だ。たんに印象操作で名前をあげているだけでないなら、証拠を出すべきだろう。(おそらく、こう書くと、なんの証明にもなってないキーワードの羅列をまた証拠だといって、持ってくると予想)

 

山本一郎氏の記事本文をよく読んで貰えば分かるが、彼の文章はそもそもなにをいっているかよく分からない。ただ、事実を適当にならべて、適当なコメントを並べているだけで、キーワードによる印象操作を狙っているだけだからだ。だから、反論が難しい。論ではなくただの印象操作だからだ。

 

これを山本一郎氏は確信犯でおこなっている。

 

産経デジタルIRONNAには以下の記事を山本一郎氏は寄稿している。

 

海賊版ブロッキングより日本が急ぐべき「真の知財戦略」がある

 

記事の中身にはまったく賛同はしないが、上のヤフー個人ニュースの記事よりは、ずいぶんとそれっぽい記事だ。

山本一郎氏による個人攻撃の記事は、さすがに内容のチェックのある媒体には載せられないということだろう。

 

ただし、ヤフー個人ニュースの拡散力は大きく、山本一郎という筆者の選定と大きく扱う記事のピックアップはヤフーニュースが行っている。

 

山本一郎氏を見習った言い回しをしてみると、自社を批判されないように、ヤフーニュースという媒体の力を山本一郎氏に与えて、他者への個人攻撃に加担しているのだとしたら、ヤフー自身も責任が問われてしかるべきではないかと私は思う。

 

以上

罪を犯した人間をどこまで許すべきか

 最近、起こったいくつかの事件について思うところを書く。ひとつはHagexさんが亡くなられた事件。もうひとつは、松本智津夫の死刑執行の件。そして結愛ちゃんが亡くなった事件だ。

 

 最初のふたつの事件には共通項がある。それは加害者である、いわゆる「低脳先生」こと松本英光容疑者にしろ、麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚にしろ、彼らの行動に弁護の余地がほとんどないことだ。

 そして、両事件とも被害者には、ほとんど落ち度がなく、理不尽な犠牲者でしかなかった。殺された被害者のまわりに残された人たちの悲しさ、悔しさは、どれほどなのかを考えると、胸が苦しくなる。

 

 このふたつの出来事のあと、ネットでいろいろ議論が起こった。ぼくも若干巻き込まれた。

 

 簡単にいうと、「松本英光」にしても「松本智津夫」にしても、彼らが凶行に及んだことには理由があるという指摘がいくつか現れたことと、それに対する大反発である。

 

 「低脳先生」については、彼は正義の名の下にネットから、集団いじめに遭っていたという指摘である。彼は実際に恨みから殺人まで犯したわけだから、少なくとも彼本人の主観の上ではそうだったのは間違いない。しかし、この事実をどう受け止めるからでネットの意見は大きく割れた。

 

 ひとつは悪いのは「低脳先生」だけで、それ以外はまったく悪くないという主張。もうひとつは正義の名の下にいくらでも他人を攻撃してもいいというネットの風潮がそもそもの事件の原因だとする派だ。興味深いのはネットで前者の主張をするひとは概して攻撃的であり、そうでないひとの存在そのものを否定する行動をおこなったことだ。

 

 似たような現象は松本智津夫の死刑執行のときにもあり、朝日新聞の丹治吉順記者がツイートで、松本智津夫が過去に虐待をされていたなどの過去があったことが、その後の事件の背景にあることを書いた。そして、そのツイートには猛烈に反発するコメントが集まった。そのようなツイートをした記者への人格攻撃にはじまり、虐待の事実そのものへの疑念、あるいはそれを事件に関連づけることを否定するものが多く見られた。

 

 あれほどの理不尽な凶行をおこなった「低脳先生」と「麻原彰晃」の過去になんらかの原因があるとするのはむしろ自然だが、そのことを認めることを拒否するひとたちが大量に発生した。

 

 なぜか。

 

 どんな理由があろうが、ふたりの殺人が免罪されること、同情されること、なんて絶対に許されないという気持ちからだろう。たとえ過去にいじめや虐待があったとしてもだ。

 

 だとしても、いじめや虐待があったという事実そのものまで否定しなければいけないのはなぜか。それはもちろん、一般的には過去にいじめや虐待があったということは、同情の対象となってしかるべきという、社会的通念が存在しているからだ。でも、絶対に許したくない。

 

 この矛盾が解決できなくて、ネットの議論は無駄に加熱した。

 

 しかし社会のルールということで考えた場合は、どんな過去があろうとも、罪を犯した二人とも許されるべきではない。つらい過去は原因の説明にはなっても、言い訳にはならない。罪に対して罰することで、罪を犯してはならないという社会のルールが維持されるからだ。過去の原因が言い訳、そして免罪符になるのだとしたら、全部が環境のせいにできて、人間に罪なんてものはなにもなくなる。

 公の場で擁護することですら、社会のルールを乱す行為として糾弾されてもしょうがないことだろう。やっていけないことはやっていけないのだ。

 

 だが、社会のルールとしても、なぜ罪を犯すひとが生まれたのか。その原因を探ることなしには、類似の事件は今後も防げないということはいえるだろう。それについては議論すべきであるが、それが罪を犯したひとへの免罪符になってはいけないということだと思う。

 

 じゃあ、一方で罪を犯した人間の気持ちによりそうことは社会のルールとして許されないのか、同情したり共感したりする気持ちを持ってはいけないのかということを問いたい。

 

 ぼくはこれは社会のルールとしては、宗教だったり、小説やドラマとかの物語がテーマとすべき問題であり、究極的には個人の心のありかたについての問題だと思う。ようするに、ひとそれぞれでいいということだ。

 

 結愛ちゃんがなくなった事件でぼくが思ったことがある。おそらくは、ぼく以外にも全国で何人のひとが思わず考えてしまったことだ。どうして自分になにもできなかったのか。時計の針をもどせるなら、親を叱り飛ばして目を覚まさせたい、なんなら自分が引き取って育てたい。そんないまさら思ってもしょうがない妄想を思わずしてしまうぐらいに悲しい事件だった。

 

 少し冷静になって考えた。たぶん結愛ちゃんみたいな境遇の子どもはたくさんいる。ぼく個人では救えないぐらいにたくさんいる。その中には同様に亡くなった子どももいれば、死なずには済んでそのまま大きくなる子どもいるだろう。いや、さすがに死にはしないで大きくなる子どものほうが数は多いに決まっている。

 

 そういう子どもたちはどんな大人になるか。多くは性格が悪いんじゃないだろうか。そして、性格が悪いのは、彼らの責任なのだろうか。ぼくが人生の中で当然のように攻撃し、罵ってきた相手の中に、未来の結愛ちゃんがいたんじゃないだろうか。いや、なにかしらの意味で全員がそうなんじゃないだろうか。

 

 ぼくは、とどのつまり、すべての人間には罪はなく、許されるべきだと思っている。正義の名の下に人間に他人を見下す資格なんて本当はない。たんに社会のルールとして罪は裁かれるべきものだと思う。

 

 じゃあ、正義をふりかざすとはなにか、というと、しょせんは自己満足であり、リスクを負うという覚悟のもとにやる行為だと思う。いま、ぼくが書いているこの記事も同じだ。

 

 おそらくネットの多くは正義をふりかざすという行為を、安全な選択だと思ってやっている。それは幻想だ。正義をふりかざすという行為は、なにかしら自分とは違う他人になにかを強制しようとする攻撃であり、攻撃には常にリスクがともなう。だから賢いひとはなにも発言しない。

 

 リスクをとってまで他人を攻撃するのはなぜか。それは底流には相手に対する共感と、相手をよりよく変えたいという願望(まったくの余計なお世話!)がなければならないんじゃないかと思っている。

 

 Hagexさんのことはなにもしらない。だから、ぼくのまったくの無責任な想像だが、Hagexさんはだれもが無視していた「低脳先生」の相手をしてあげてたつもりだったんじゃないかと思う。低脳先生に自分のしているは間違っていることを分からせてあげたいという気持ちがあったんじゃなかったか。そして逆恨みをされた。

 

 リスクをとったという意味で賢くはなかった行動かもしれませんが、ぼくは立派だったと思います。

 

 Hagexさん、結愛ちゃんをはじめ、今回の記事で言及した事件において、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。