文系的なものと理系的なもの

文系と理系というテーマも炎上しやすい。

文系と理系なんて違いがそもそもナンセンスだとかいう、そもそもそんな区別は存在しないという神学者たちが湧いてくる。

日本の大学教育においての文系、理系の区別が無意味で必要ないという主張はともかくとして、世の中の人間の類型を考える尺度のひとつとして「文系的なもの」「理系的なもの」は確かに存在しているように思える。いわゆる理系的人間と文系的人間は、本人が理系の学部出身か、文系の学部出身かに関わらずに(たぶん相関関係はわりとあるものの)存在するように見える。

 

家庭内の話で恐縮だが、よく夫婦間の議論で対立するのが、まさに文系的な考え方、理系的な考え方の違いによる点だ。

 

ぼくは妻に「やっぱり文系は論理的な議論ができない」とためいきをついてみせ、妻はぼくに「理系は理想論ばかりで、ほんと現実では役に立たない。文系に支配されて当然」と嘆く、なんていったことは家庭内での日常光景になっている。

 

「文系的なもの」と「理系的なもの」とはどういう違いがあるのか。

 

ぼくが思う大きな違いは、文系にとって議論とは目的のための手段であるが、理系にとっては議論こそが目的であるということだ。理系は議論が正しいかどうかにしか興味が無い。文系にとっては結論が最初に決まっていて、議論はそのために必要な過程でしかない。

 

どちらが正しいとかいうことはなくてスタンスの違いであるように思う。理系的立場は、いいようにいえば、論理的であるが、悪く言えば、抽象的な空論であり、評論家的な無責任な立場ともいえる。文系的立場は逆に良く言えば、実際的であるが、悪く言うと・・・、いや、よく考えると、妻に悪いところなんてひとつもなかった。

 

意見の食い違いはこんなかんじだ。ある社会的課題を解決するためにどういうふうな方法があるかを議論するとする。ぼくが論理的に考えて、この方法しかないというと、それは政治的にとれない手段だと妻はいう。そうかもしれないけど、構造的にこういう問題があるので、さっき言った方法でしか問題の解決方法はないだろうとぼくが答える。ぼくとしてはそこでほとんど議論は終わっているのだが、いつもその後に妻がこういうセリフをいうのだ。「じゃあ、どうすればいいの?」

 

ある問題の構造が分かり、解決策も分かり、なぜ、その解決策が実際にはとれないかの構造も分かれば、ぼくとしては問題はほぼ解けたということで興味が終わるのだが、妻はそういう僕の態度を無責任だと罵り、あくまでなにかの選択肢を示すようにぼくに迫るのだ。

 

妻にいわせると現実社会においてはプロセスが80%で理想なんてプロセスを示さなければなんの意味もないのだそうだ。まあ、それなりに理解もできるので一緒に解決策を考えることになる。

 

しかし、これはぼくとしては非常に理不尽な要求でもあり、ぼくがそういう要求をされているときの気分はこんなかんじだという例え話を昨日考えたのでついでにここに書く。

 

時代は中世ヨーロッパ。ルネサンスの時代。

 

官僚A「天体の動きについて計算が大変すぎるし、どうも説明のつかない現象も起きている。なんとかならないか」

ガリレイ「それは地球のまわりを天体が回っているというモデルで考えているからそうなるのであって、太陽のまわりを地球をはじめとした天体が回っていると考えると、計算も簡単になるし、矛盾もなくなります」

官僚A「なにを馬鹿なことをいっているんだ。地球が宇宙の中心でないなんて考えが政治的に許されるわけがないじゃないか。他の方法で考えてくれ」

ガリレイ「いや、実際に太陽のまわりを天体はまわっているので、他の方法といわれても無理です。この計算をみてください。明らかに太陽のまわりを地球がまわっていると考えるほうが自然な考え方です。これを世の中にひとにちゃんと説明していけばいいんじゃないでしょうか?」

官僚A「君の話には論理的な矛盾がある。まず神が人間と世界をお作りになったという大原則を議論の出発点にする。なのになぜ地球が宇宙の中心でないのか、国民のだれも思うこの簡単な疑問に答えられない限り、そんな計算は無意味だ。」

ガリレイ「……。分かりました。一応、考えてみましょう」

 

こんなかんじ。