ひろゆきの賠償金未払いの真相について(追記あり)
ネットでは定期的に西村博之氏が、過去の賠償金を踏み倒したことと、それが理由でパリに逃亡しているという説が流れる。
このことについて現在もガーシーがひろゆきのことの同じ穴のむじなだと批判している。
またN国党の立花党首もひろゆきの賠償金を支払わないためにパリへ逃亡していると批判をおこなっている。
この件については、僕自身も実際のところを一番よく知っている人間の一人だと思うので、この機会に、ひろゆきの賠償金未払いとは本当は一体どういうことだったのかを書いてみようと思う。おそらく、世の中にまだ出てないことも書く。
まず、これはひろゆき自身も書いていることだが、パリに住んでいることと賠償金未払いというのは全く関係ない。
ひろゆきがパリへ移住したのは、賠償金の支払う義務が時効により消滅してから後だ。ひろゆきは現在も年に数回か日本に帰ってきている。もちろん日本に帰ったからといって賠償金の時効は既に成立しているので、支払う義務も発生しない。
だからひろゆきは賠償金の支払いから逃れるためにパリに逃げているわけではない。たんに移住しただけだ。
ここからは、まだ、公には話したことのないことを書く。
僕は、昔、そこそこ成功した動画サイトを作ったことがある。立ち上げの当初からひろゆきに手伝ってもらい子会社の取締役にも就任してもらった。一応、会社も上場企業だったし、僕はかなりコンプライアンスには気を配る性格なので、ひろゆきと一緒に動画サイトをやることの法的なリスク、社会的な評判リスクは、相当、慎重に検討した。
結果、ひろゆきに頼んだことがあって、要するに、これまではともかくとして今後は訴訟されたら、ちゃんと弁護士を立てて裁判に出てほしいということだ。
この件についてはひろゆきと何度も議論して、結果、ひろゆきも同意してくれた。
なので、某動画サイトの管理人になった後のある時期からは、ひろゆきは裁判に応じるようになったので、新しい賠償金は発生していない。なぜならひろゆきが受けていた訴訟というのは、裁判さえちゃんとすればひろゆきが勝つからだ。
したがって、ひろゆきが踏み倒したとされる賠償金も、裁判に出席しないから負けただけで、ちゃんと裁判をしてればそもそも支払う必要のないお金だということだ。
とはいえ、じゃあ、裁判に出席すればいいじゃん。出席しないで負けたんだから、結局、自業自得だという見方もあるだろう。これについては、ひろゆきに同情すべき事情もある。
ファクトとして、そもそもひろゆきは最初から裁判を無視していたわけではない。最初は裁判にちゃんと出廷していた。ところが2ちゃんねるに関わる訴訟の数が膨大になってきて、物理的に出廷が不可能になったのだ。2ちゃんねる全盛時代、まだ、ネットはそこまで一般的ではなかった。2ちゃんねるに悪口を書かれた人もネットの使い方を知らない人が多くて、2ちゃんねるにアクセスして、そこで削除要求をするなんてことはできない人が多かった。弁護士もそうだった。なので、2ちゃんねるが用意した削除要請のフォーマットは見てもらえず、いきなり訴訟をおこなうケースが全国で多発していた。
訴訟する方は簡単だ。本人訴訟ならほとんど切手代と最寄りの裁判所への交通費で済む。ところが訴訟されたひろゆきは全国の裁判所を飛び回らなければならない。いくら裁判をすれば勝てるといっても、ひろゆきの体は一つしかない。
あるとき同じ日に全国の別々の裁判所へ出廷するように命令がされて、事情を説明して片方の日程をずらしてほしいとひろゆきが裁判所にお願いしたのに裁判所から拒否をされたということがあった。これが、ひろゆきが裁判所に出廷しなくなった最初のきっかけだ。
弁護士を頼むという選択肢もある。お金がかかりすぎるという問題もあったのだが、それは置いといても、実は受けてくれる弁護士もいなかった。なぜかというと2ちゃんねるの訴訟は全国で発生していたので、全国規模でサポートできる大きい弁護士事務所じゃないと受けることができない。で、そういう大きい弁護士事務所は2ちゃんねるに関わることを嫌がった。
というわけで、ひろゆきの訴訟を受けてくれる弁護士事務所を探して紹介したのは、僕だ。
それでやっと、ひろゆきは2ちゃんねるに関わる訴訟に対応することが可能になったのだ。
さて、ひろゆきに批判されたガーシーとその取り巻きの人たちが、ひろゆきにそんなことをいう資格はないと反論しているが、全く的外れだ。
ひろゆきの賠償金は本来ちゃんと裁判をしていれば払う必要のなかった賠償金だ。ひろゆきは最初から裁判を無視したわけではなく、日本の法制度のある種の欠陥により、物理的に裁判に対応できない状況に追い込まれてやむをえず裁判にも出ない代わりに賠償金も支払わないという選択をとったに過ぎない。あまり褒められた選択ではなないにせよ、自分の利益のためでなく、防衛的な選択だ。
一方、ガーシーは著書にも自分で書いているように客から預かったお金に手をつけてギャンブルで溶かした。親友のFC2高橋氏は、日本では違法な無修正のポルノがじゃんじゃん見れるサイトを米国にダミー会社を作って日本の法律に従わずに日本でサービスをするということを行った。これらは意図的な犯罪、あるいは脱法行為だ。まあ、日本の社長は逮捕されたのだから、違法行為と結局、警察に認定された。
ひろゆきの賠償金未払いとは根本的に性質が異なることを指摘しておく。
以上
(追記)8月8日16:04
・ 出席をせずに負けて賠償金が発生した裁判が、出席していれば勝てたのかは分からないじゃないかというのは原理的にはその通り。ただ、ほとんどの裁判は勝てた。というかおそらく内容証明の段階で弁護士が対応していれば、そもそも裁判までも行かなかったケースが大半だったと考えている。
また、弁護士が対応するようになってからは賠償金は発生していないとひろゆきからは聞いている。
・ 絶対に勝てる裁判を弁護士が受けないわけがない。というコメントがいくつかあったが、現実を知らない人だと思う。そもそも裁判はそんなに弁護士が喜んでやってくれる仕事じゃない。あと当時2ちゃんねるとひろゆきは完全に法曹界の敵だった。
・ 全国レベルでサポートしてくれる弁護士事務所がなぜ必要か?各地で弁護士を雇えばいいじゃないか。という書き込みは、まあ、できなくもないがめちゃくちゃ大変。別々に1から説明が必要だし、訴訟の対応方針を全国で統一するのも大変。企業でちゃんとした法務部とかあれば別だろうが、個人でやるのはできなくはないせよ、現実的とは思えない。
・ いずれにせよ、ひろゆきの訴訟無視、賠償金支払い無視という戦略を、同情の余地はあるにせよ、僕として肯定しているわけではない。やはりまともな社会人としてはあり得ないと当時も今も思っているし、だから、受けてくれる弁護士事務所を探して紹介した。
ひろゆきとガーシーとFC2高橋氏について
ひろゆき氏がガーシーとFC高橋氏を批判したことが話題になっている。
これに対して、ガーシーと彼の親友のFC2高橋氏が、突然、ひろゆき氏が攻撃してきたのは、ドワンゴ川上とFC2高橋氏の交渉が決裂したので、川上側からの仕掛けであると主張している。
これはひろゆき氏の批判が的確な事実であるために、ダメージをできるだけ減らそうとガーシー側が言い張っているだけだと思うので、事実を書こうと思う。
まず、このブログの昔の趣旨からは外れるが、もう面倒くさいので書くが、ドワンゴ川上とは僕のことだ。
で、僕とひろゆきは盟友ではあるが、僕にはひろゆきのコントロールは不可能だ。頼んで誰かを叩いてくれるなんてことはやってくれるわけがない。だいたいニコ動の時も途中からひろゆきの露出が減って、それまで表に出てなかった僕が記者発表とかに出るようになったのは、ひろゆきが全くいうことを聞いてくれず新サービスのことを発表会でこき下ろしたりしたからだ。
ひろゆきはひろゆきの考えがあって、ガーシーを批判したに過ぎない。変なポジショントークの印象づけを一生懸命にするよりも、ひろゆきの批判に真正面から向き合うことをガーシーには望みたい。
とはいうものの、本当にガーシー及びFC2高橋氏が、ひろゆきの批判を僕の仕掛けだと信じている可能性もあると思っている。
なぜかというと、ガーシー、FC2高橋氏との会話、チャットは3日間ぐらいしかしてないのだが、若干、被害妄想、陰謀脳みたいな印象を2人から特に高橋氏からは感じたからだ。
現在、私は高橋氏と和解しなかったことを後悔させてやると、ガーシーから暴露宣言を受けている。ドワンゴとKADOKAWAに対するネタを提供するとFC2高橋氏が最大300万円を支払ってくれるそうだ。
では、僕が拒否した和解とは何か?高橋氏がどんな和解を望んでいたかを書こうと思う。決裂した理由がよく分かると思う。
一、警察に働きかけて、高橋氏が日本に帰国しても逮捕されないようにしてほしい。
一、先日、ドワンゴとFC2の特許訴訟について、知財高裁で判決が出てドワンゴが勝訴し、FC2が1億円の損害賠償をドワンゴに支払う命令がでた件につき、訴訟を取り下げるか、差押をしないでほしい(要するに1億円を支払わないことに合意してほしい)。
最初の件については、正直、絶句したのだが、僕はどんなフィクサーやねん。いや、僕でなくても、今の日本で警察に命令して誰かを逮捕しろとか逮捕するなとか指示できる人なんてどこにもいないだろう。これについては、無理だ、僕にそんな力はないということを何度も説明して、一応、最後は納得いただけたと思うが、その時、高橋氏は非常にショックを受けていた様子だった。
高橋氏は今年の参院選に出馬する時から、ドワンゴにハメられたという主張をあちこちで発信している。また、取材でも、ドワンゴが政治家や警察OBのルートを使って警察を動かしたと主張している。(もちろん、そんな事実はない)
どうやら、FC2が警察に捜査され、日本の社長が逮捕され、高橋氏自身も国際海空港手配されたことをドワンゴが警察を動かしてやったと本当に思い込んでいるようだ。そして自分には何の罪もないと本当に思いこんでいるらしい。
そもそもFC2がどういう会社かというと、日本の会社がやっているサービスだったら逮捕されるような無修正ポルノだったり、著作権侵害をしまくったサイトを、米国にダミー会社を作って、海外のサービスだということにすれば、自由に作れてユーザーも集まる。日本の法律の適用は受けない。そういうことを堂々とやった最大手の会社だ。
ドワンゴは無実の会社を謎の力?で警察を動かして逮捕させたんじゃなくて、たんにこんなひどいサービスがある、こんなことされたらまともに競争ができないと警察に相談したに過ぎない。そして、FC2について警察に相談した会社は別にドワンゴだけじゃなく、いろいろあった。だから、警察は動いてくれた。
いわばドワンゴはFC2を通報した会社の一つに過ぎない。ハメられたというのは一体どういう意味なのか?放火犯を目撃した通行人が警察に通報して逮捕されても、放火犯は「通報した通行人にハメられた」とか主張しないだろう。
海外にサーバーを置くだけで日本人向けのサービスなのに日本の法律の適用を受けないというのは、ひどい話だし、それを意図的に利用したFC2は悪質だが、とはいえ、従来の法解釈では確かにそういう解釈の方が自然だというのは、一方の事実としてある。
FC2にも顧問弁護士がいて、おそらくはこうすれば日本の法律の適用は受けないということまで、ちゃんと指南していたに違いないと、僕は考えている。警察の捜査と、その後の裁判でも明らかになったように、日本のホームページシステムと米国のFC2は一体となっており、実質的な支配権は高橋氏が持っていたことは判決文の中でも認定されている。その間もドワンゴとFC2は訴訟合戦をしていたが、FC2側の日本人の弁護士は自分たちは米国の会社だと主張し、ドキュメントをとにかく英語で要求し、米国人の社長に英語で聞かないとわからないとかいう小芝居による裁判の引き伸ばし工作を繰り返していた。弁護士の倫理として、これはいかがなものか?人権派弁護士として有名な方だが、こういう側面もあるというのは、もっと世の中に知られてもいいと思っている。
いずれにせよ、海外にサーバーを置くだけで日本の法律から逃れられるなんて小細工は、許すべきではない。
先月、ドワンゴがFC2に勝訴した裁判は、少なくとも特許権においては海外にサーバーがあろうが、実質的なサービスを提供する相手が日本の国内ならば日本の特許権が有効であることを認めた非常に画期的なものだ。知財界隈でも大変な話題になる判決で、確実に将来の弁理士試験に出題されるだろう重要な判例になると言われている。
ドワンゴは別にFC2への嫌がらせではなく、海外にサーバーがあっても利用者が日本人なら日本の法律が適用されるという判例を特許権を足がかりに作ろうというのが今回の裁判をやった目的だ。これは社会的に大きな意義のある裁判だ。
知財界での話題にもなっているそんな裁判を今更取り下げることは不可能だ。
そして差し押さえをするなというのはどういうことだ。要するに判決で命じられた賠償金を支払うつもりはないけど差し押さえはしないでほしいということだろう。
まだ、判決前なら多少は分からなくもないが、判決が出てからの要求としては無茶苦茶だ。要するに1億円寄越せと言っている話と変わらない。そんなことをする理由は一体どこにあるのか。そして和解を呑まないから攻撃すると高橋氏とガーシーは主張しているわけだが、これはただの恐喝だ。
これについても、なんで平然とこんな無茶苦茶な要求をするのか不思議だったが、高橋氏のツイッターを見ると、どうやら、特許訴訟で負けたのは信じられない不当判決だと思っているらしい。属地主義の件ではなく、そもそも特許侵害をしてないと思っているようだ。
いや、今回の特許訴訟の争点は海外サーバーでも日本の法律が適用されるかという属地主義の問題であって、特許侵害自身は、訴訟をやるからにはこれだったら仕留められるというものを見つけてやっているわけだから、あとは裁判官が認めるか認めないかは時の運があるけど、特許侵害が認められたからといって不当な判決だと怒るようなものではありえない。いや、特許侵害についてはかなりの確率で元々うちが勝つ部分だし。ちゃんとした説明を顧問弁護士からされていないんじゃないかと思っている。
そうすると平然と1億円を支払わないという要求をしてくるのは、おそらく高橋さんの脳内では、また、僕が謎の力?を使って裁判の結果を操作し、不当な判決で獲得した1億円だから、払わなくて当然というような考えがあるのだと、僕は推測している。
まあ、そういう感じなので最初に戻ると、僕がひろゆきを動かしてガーシーを攻撃させたと思いこんでいるのも、本気なのかも知れないという気もしなくはない。
でも、違うから。
以上
本日、勝訴した山本一郎氏との裁判について
本日、東京地裁において山本一郎氏から訴えられていた裁判の判決があり、無事、私が全面的に勝訴しました。
山本一郎氏との裁判は、そもそも私が情報法制研究所に対して、山本一郎氏のような他人に誹謗中傷をし、常習的に嘘をつく人間を、ネットの世論誘導のために上席研究員にしていることについて抗議をおこなったことがきっかけです。
この抗議に回答をしたくないために山本一郎氏が起こしたのが、本日、判決が下りた裁判であり、山本一郎氏との一連の訴訟はすべてここから始まりました。
情報法制研究所は山本一郎氏の言動は個人的なことであるとして関わりを否定している一方、今回の裁判においても補助参加という形で山本一郎氏側に加わっています。
私は山本一郎氏のような人物は好ましいとは思っていませんが、彼のような人間にも言論の自由はあり、存在を否定してはいけないとも思っています。
しかしながら、情報法制研究所のような政府の政策にも関与する団体が、山本一郎氏のような人物を利用してネットの世論誘導をおこなうようなことは決して許されるべきではないと考えます。
本日の裁判の勝訴を受けて、情報法制研究所には山本一郎氏をネット言論誘導における武力的存在として利用していることについて、あらためて抗議をしていく予定です。
ブロッキング騒動とはなんだったのか?
トランプ大統領のツイッターアカウントが永久BANされたというニュースが飛び込んでいた。ざっとみたところ、ネット世論ではわりと肯定的な意見も多いようだ。予想通りではあるが、残念ながら、世の中は言論のブロッキングは許容する方向に進んでいる。
漫画村の急激な拡大にはじまる海賊版サイトのブロッキングの大騒動から、もう、3年ほどたった。
多少はネットのみなさんも冷静な議論はできる・・・とはまったく思えないが、あらためてアリバイ活動の一環として、ぼくの主張をぼく自身の手によって書き留めておこうと思う。
3年前も最初に書いた、そしてみんなにはあまり注目してもらえなかった点だが、今後、ネットでの言論の自由を守るために重要なのは日本における「通信の秘密」を守ることではなく、ネット上の巨大プラットフォームをどうやって規制するか、ということだ。そっちが社会問題としては、はるかに大きなテーマだ。
「通信の秘密」というのは、もうちょっと分かりやすく正確に言い換えると、「通信の秘密という自然言語でのアナログ通信での概念を、(自然言語ではなく)機械にしか解釈できないものも含めたデジタル通信にも拡大解釈したもの」ということだろう。
もちろん、その拡大解釈にはそれなりの理由も議論の歴史もあるのだけれども、結果としては、海賊版サイトへのアクセスをブロッキングすると言論の自由が侵害されるという、よく分からない結論の根拠になっている。
どろぼうしても国を含めて第三者が罰するのは不当だと主張することも、ネットでは海賊版コンテンツでも自由にアクセスできるべきだと主張することも、言論の自由の範囲内では当然あるべきだろうが、実際にどろぼうしたり、海賊版コンテンツをダウンロードしたりしたら罰せられてもしょうがないだろう。
ところが、3年前は違法行為を取り締まることすら、「通信の秘密(の拡大解釈)」を守るためにはやってはいけない、という意見が溢れた。
その理由は、アリの一穴のように少しでも通信の秘密という大原則が破られると、ネットの自由が侵され、言論の自由がなくなり、中国のようなネット上の監視社会となるということらしい。
はっきりいって、それは宗教のようなもので想像力豊かですね、という感想になるが、それでも褒める点を無理矢理さがすとすれば、言論の自由だったり、ネットの自由をそれほどまでにして守ろうとしている気概は素晴らしいですね、ということに尽きるだろう。
そういうひとたちの多くが、今回のトランプ大統領の言論の自由に対するネットのプラットフォームによるブロッキングには賛成をしているようだから、人間というものは面白い。
守るべき「ネットの自由」があるとすればなにか?それは自分の意見を自由に発言すること、そしてだれかに強制されずに自分の意志で自由に行動できることだろう。このどちらもが、いま、目に見える形で危機に瀕している。
海賊版サイトをブロッキングすると、ぐるぐるまわりまわってネットで言論の自由がなくなったりすべてを監視社会になると想像できるひとが、なぜ、一国のトップであるトランプ大統領が自分の意見をいえなくなることをネットのプラットフォームを牛耳っている企業が束になっておこなっているのをみて、自分たちもそうなるかもしれないと想像できないのか?
当然、大統領の意見だってネットのプラットフォームの決めたルールに従わなければいけないのであれば、1ユーザーのあなただって同じだというのに。想像力を羽ばたかせる必要もないぐらいの当然の帰結だ。
5年前に岩波から出版した本にも書いたことだが、現代のグローバル社会においては、ローカル国家にとっての多国籍企業は、中世の荘園領主に例えられるだろう。中世の国家が、自分たちの支配が及ばない荘園の拡大につれて衰退したように、現代のローカル国家は、治外法権となっているネットのグローバルプラットフォームたちの支配力が増せば増すほど、ネットがリアル社会に占める割合が増えれば増えるほど、衰退する運命にある。
従って、国家権力とグローバルプラットフォームは必然的に競合関係にある。どちらが勝つかは共産主義国家においては明白だ。いずれ国家が自国のプラットフォームは接収し、国家がネットのプラットフォームを支配するかたちで一体化する。
民主主義国家の場合はどうか?国営化という可能性もあるが、逆にネットのプラットフォームが国家を飲み込みシナリオもありうる。そのための鍵となるのは、ネットのプラットフォームが世論操作をできる力を手に入れるかどうかだ。
民主主義とは国民の意見を反映させるための政体ではない。なぜなら個人個人の意見というのは、ひとりひとりの個人に与えられる情報で確率的に予測が可能であり、情報をコントロールすることで世論も選挙も結果が決まるからだ。
だから、民主主義とはある程度均質化した国民をつくれば、あとは情報を操作できる人間が支配できるという政体といえる。だから、メディアは第4の権力といわれるわけだが、ただ、従来のマスメディアはそれでも情報の一部をコントロールしていたにすぎない。一般的な人間の生活においては、よっぽどテレビと新聞が好きな人間であっても、口コミを代表とするマスメディアの外側にある情報に接している時間のほうが1日の中で長かったからだ。
ネットのプラットフォームは、この点で人間の情報をさらにコントロールできる能力をもつ。およそ1日に人間がやるコミュニケーションの大半をネットは補足し、コントロールできる能力を潜在的に持っている。
ネットのプラットフォームがメディア化することを完全に許されるのであれば、民主主義とは、ほぼ完全にメディアを支配するひとたちが世界を寡占するシステムとなるだろう。
いったいどういう理由でトランプ大統領の発言を封殺してもいいなんてことになるのか?トランプ大統領のいっていることが気に入らないから?そんなのは論外だろう。トランプ大統領はフェイクニュースを流して世の中を混乱させているから?それをだれが判断するのか?ネットのプラットフォームが判断していいなら、それはプラットフォームに情報コントロールする権限を認めるということだ。だいたいトランプぐらいになれば、フェイクニュースを流したんだとしても、そのことも含めて重要なニュースじゃないのか?
トランプは民主主義を破壊したという非難もある。トランプはなにかのルール違反を侵していて、無茶苦茶やっているということだ。それが無茶苦茶であると、みんなが信じている根拠はなにかというと、それは結局メディアが流している情報にもとづいて世の中の常識になっていることを基準にすると、無茶苦茶であるというにすぎない。実際、無茶苦茶かもしれないが、民主主義において、無茶苦茶な行動を否定するということはどういう意味を持つか?それはメディアによって流されている情報に対して適切な反応以外は許さないということでもある。
民主主義といいながらも、結局は予測できる大衆として振る舞え、それ以外は認めないということだ。
そういう世界のリーダーは自由な個人ではなく、たんなるアルゴリズムとして振る舞うことを要求されるということだろう。将来的にはAIがやったほうがいい、ということになる。
トランプ大統領の登場に、ぼくは安心したことがある。どうやら、まだ、ぼくたちの住む世界の一番偉いひとはアルゴリズムではなく、人間だということだ。習近平もプーチンも、まだまだ人間のリーダーは、人間らしく振る舞っている。
しかし、ひょっとすると最後の人間のあがきなのかもしれない。オバマとかはかなりアルゴリズムに近かった。正論を語るひとというのは、アルゴリズムになるということだ。語ることが予測できるということでもある。
予測できないことをやるトランプ大統領を異分子として排除が許される世界は、同じように、予測できない異分子を排除するだろう。情報をコントロールして、ビッグデータで予測可能な人間だけが住む世界、それがグローバルプラットフォームがメディアとして支配する世界における民主主義の終着駅になる。
そういう世界では人々が正しい判断力をもっているか否かはあまり関係ない。個人の反応が予測できることだけが重要だからだ。個人の反応が予測さえできれば、その反応を生みだした個人の判断が正しいか間違っているかに関係なく、メディアが望む結果になる方向に情報をコントロールすればいいからだ。
ちなみに海賊版サイトのブロッキングにあれだけ日本のネットは反対したのに、なぜ、トランプの言論の封殺に対しての反対がそんなに強くないのか?というのも民主主義のシステムで説明できる。反対だという情報を組織的にメディアに流そうという勢力がいないからだ。通信の秘密という宗教的な大教義を変えるのが許せないひとたちがいないからだ。
理屈で考えれば、トランプの件のほうがよっぽどネットの自由の大危機だ。いま、住んでいる社会の危機でもある。
じゃあ、どうすればいいのか?
これについては、よく妻とも喧嘩になるのだが、勝手にみなさんで考えて欲しい。ぼくの知ったことではない。
ぼくは政府の立場ではこうだろう。コンテンツホルダーの立場ではこうだろう、ネットの自由を守りたいひとの立場ではこうだろうということを考えた理屈を書いているだけで、ぼくの興味はそこまでだ。そして主張していることとやっていることが、全然、間違っているひとたちを目にすると、下手くそさに腹が立つだけだ。
あなたが本当にネットの自由を守りたいなら、いまが戦う時だろう。
ぼくは人類の未来に興味がある。この人類最後かもしれない歴史の転換点になにがあるのかを見届けたい。とだけ思っている。
これからの歴史の中でローカル国家がグローバルプラットフォームに駆逐されようが、生き残ろうがどっちだってかまわないが、どっちかは過程もふくめて知りたい。
ただ、自分やまわりの人間が不幸になるのはいやなので、多少、希望も述べさせてもらうと、歴史を参考にすると革命とか政体が大きく変わるときに同時代の人間はたいてい不幸になる。フランス革命とか最悪だったし、近年でもアラブの春とか現地は悲惨なことになっている。なので、ぼくが生きている間はローカル国家にもまだまだ頑張って貰ったほうがいいかなぐらいに思っている。逆にグローバルプラットフォームが世界を統一するならできるだけさっさとやっていただきたい。
さて、これだけ書いても、ぼくのことをポジショントークだ。ブロッキングをまだ狙っているのだろうとかいいたいひとがいるだろう。
今回はぼくの利害関係ではなく、ネットユーザーとしての意見を書きたかったので、ブロッキングの話題に触れてはいるが個人名を出したブログではなく、ここで書くことにした。
それでも文句をいうひとのために、よく見かけるいくつかの視点からみたぼくの立場を整理しておきたい。
(1)ぼくがブロッキングの法制化が実現しなかったことを悔しがっていて、なんとかブロッキングを実現しようとしていると思いたがっているひとに対して。
まず、政府の知財まわりの有識者として委員に名前は残ってはいるものの、現時点では、もはやぼくは出版業界の利害を代表する立場ではなくなっていると、(少なくとも)ぼくは考えている。で、3年前のブロッキング騒動の時の立場はどうだったかというと、当時のコンテンツ業界にとっては、ブロッキング法制化の議論がはじまる時点で問題となる大手海賊版サイトが世論に注目されたことでびびって自主的に閉鎖をしたので、すでに万々歳状態。しかも当時の最大の悲願だった、いっこうに進まないリーチサイト規制の法制化が一挙に具体化し、しかも予定外のダウンロード違法化の対象に書籍も含めた全著作物が加わった(今月からやっとですが)ので完勝。
ブロッキングに関しては法制化まで本当にいけば大ラッキーだけど、総務省等がまったく協力する気配がないのでたぶん無理じゃないか、と思っていたのが、(ぼくも含めて)コンテンツ業界の大体の空気だったと思う。
ちなみにフィルタリングの議論が最近あがっているが、コンテンツ業界はなんでもいいから、海賊版対策をしてくれと要望しているだけでフィルタリングをしてくれといっているわけではない。自分たちがやりたいフィルタリングに誘導しようとしているのは総務省だ。ちなみにネットの自由を守る派のひとたちは、法制化によるブロッキングにくらべて、法律の改正なしに総務省の判断でいくらでも範囲を拡大できるフィルタリングのほうがよっぽど危険なのでがんばれ。でも、とにかく憲法守りたいだけ派は、ちゃんと(たぶん読まない)規約書に書いてあってユーザーの同意をとっているから憲法違反にはならないので安心してほしい。
(2)ぼくが中国型の監視ネット社会をつくりたくて発言しているんだと思いたい人へ
そもそもそんなのをつくってなんのメリットがぼくに??ぼくは以前から中国のネット規制は国家としては合理的だと書いている。正義であるといっているわけではない。
国家にとっては合理的、つまりはある種の得をする判断だといっているにすぎないわけだが、だからといって、そうするべきといっていると解釈するひとというのは、ようするに得なことはするべきであるという価値観をもっているひとだということだろう。
そういうひとの価値観はとても危険でむしろネットの自由の敵であるとすら、ぼくは思っている。そういうひとはいったんネットの自由が国家のたとえば国際競争力が低下するという事実があったのだとしたら、きっとネットの自由を規制する側にまわるのだろう。
自由とは得をするから選ぶ選択肢ではなく、たとえ損だとしても受け入れて手に入れるものではないのか?
(3)国家と癒着して政商でも目指しているのか?
だったら、もっと目立たないようにやる。政府じゃなくて民間企業のほうが信用できると思っているひとが多いが、それが本当だったら独占禁止法なんてものはいらない。民間企業の本質は利益を上げることだ。そして国家と違い国民を養う義務はない。儲けさせてくれるユーザーだけを相手にして構わないのが民間企業だ。さらには選挙とかでユーザーの意思による経営陣を決めるような仕組みはない。ちなみにアカウントBANや、コンテンツを削除する場合に説明責任もない。そう利用規約に書いてあり、あなたは承諾していることになっている。そういう民間企業のほうが政府よりも信頼できると本気で主張するひとがいるというのは悲しい社会でもあり、悲しいおつむでもある。
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というあたりで今回の記事を終わろうと思ったが、そうだ、最後にポジショントークという批判が大好きなみなさんに、本当のポジショントークを紹介する。
今回、独仏の大統領がトランプ大統領の発言を封殺したネット企業を批判した。これはポジショントークとしては極めて正しい。なぜなら、ローカル国家とグローバルプラットフォームの対決において、グローバルプラットフォームのメディア化による影響をもっとも受けるのが、米国以外のすべての国家、つまり覇権国ではないローカル国家だからだ。どの民主主義国家も海外メディアに自国が占拠されるのは望まない。民主主義国家が自国の世論を他国にコントロールされるのは最悪だからだ。ネットのグローバルプラットフォームがトランプ大統領を含めて言論を支配してもいいということになると、同じことは米国以外の国に対しても可能になるということだ。外国メディアの巨大な抜け道が突然国内に誕生することになる。
なので独仏の大統領がトランプ大統領の言論の封殺に(おそらくトランプ大統領自体は嫌いだったろうに)反対したということは、ローカル国家の行動としてはきわめて正しい。そしてポジショントーク=嘘という単純な連想をする馬鹿が多いが、ポジショントークだということと言っていることが正しいかどうかはまったく関係がない。独仏大統領の発言はポジショントークとしても正しいし、内容もまったく真っ当な主張だ。そして短期間に国のトップがこの発言をする判断を下せたということに、独仏の知識層のレベルの高さ、層の厚さを感じる。日本においては国家が治外法権のネットに国権を取り戻せるチャンスが3年前に突然来たのに、おそらくは自称愛国者たち?が、よってたかって潰したのとえらい違いだ。
まあ、でも、どちらでもいい。とりあえず3年前も5年前も、そして今日も、ぼくは書いたというところまでが、ぼくのやりたいことだ。
業界人のための次世代ゲーム機ファーストインプレッション
最初にことわっておきますが、この記事はタイトルに「業界人のための」と書いてありますが、専門的で高度な内容はまったく含んでいません。業界向けの記事ではなく、業界人向けの記事です。
ゲーム業界じゃなくても、PS5のような時代の節目となるような新製品については、とりあえずちゃんと情報押さえてますよ、というスタンスで振る舞いたいという”業界”はたくさんあると思います。
この厳しいデジタル社会をサバイブするためには、PS5を買わなくても、もしくは買ってるけどやる時間なんかなくても、なにかもっともらしいことを語れることが必要とされます。そして、もっともらしいことを、まわりのだれよりも、いちはやく語ることが大切です。
私は、幸いなことにamazonとかオンラインショップの予約はすべて乗り遅れましたが、公式ページでの予約抽選には当選しましたので、昨日届きました。ざっと触ってみた結果、業界人としては、だいたいこんなことを言っていれば、いいんじゃないか、ということで感想をまとめてみました。ひとつの参考になれば幸いです。
そもそも業界人はPS5について、なにを語るべきか?
忙しい業界人としては、具体的なゲームの中身に踏み込んだ発言は控えるべきです。ろくに遊んでないことがばれてしまいます。ひまな学生ゲーマーよりも意味あることをゲームについて語るのは難易度が高いし、そもそも本記事はPS5を本当は触ってないひとが、うんちくを語ることを目的としています。
あたかも本当に触ったひとしか語れないような、簡単なことはなにか?
(1)「デカさ」について
最初は人間の五感にうったえかけるものでしょう。
そうすると、今回のPS5で最初に言及すべきポイントは、「デカさ」です。本当にでかい。ここを押さえないと、本当に持っているのかよと疑われるぐらいにインパクトのある特徴です。
といってもデカいことは前評判でも話題になっていましたから、ここでは実感のこもっている表現として成立しそうなものを以下に列挙したいと思います。
・ ゲーム機と比較する表現。
「初代プレイステーションを横に2台並べて、そのうえにさらに2台重ねたぐらいの大きさ」
「初代XBOXよりもでかいんじゃないか」
↑正確さという意味では少しオーバーな部分がありますが、購入者の実感をこめた表現ということでは、わりと的確に聞こえると思います。
・ PCと比較する表現
「ミニタワーPCよりは小さいけど。スリムPCとはいい勝負」
XBOXの参入以降、ゲーム機の内部のハードウェアのアーキテクチャーがPCと変わらなくなってきているという状況が実際にあります。
「だって、中身はほとんどPCと変わらないから、しょうがないよねえ」「PCと思ったらあれだけの性能で、あのサイズは小さいよね」みたいな会話をするとちゃんとそういう背景も押さえた会話に聞こえることでしょう。ちなみにNintendo Switchの中身はスマホとかなり似ています。
・ 家庭用AV機器と比較する表現
「BD付きHDD録画機とか、AVアンプと同じぐらい」←「もはや家庭用のAV機器のサイズだねえ」とかいうと、なんかゲーム機の家電化みたいな文脈を語ってるぽいかも。
(2) ○ボタンと×ボタンの意味が逆になったこと
おそらく日本のユーザーにとってのPS5の最大の特徴は、画質でもストレージの早さでもなく、これです。PS2もPS3もPS4も、とりあえず新機種の購入者は、「絵がちょー綺麗になった」とか言ってればよくて、実際にそれがもっとも強烈な印象に残るポイントだったと思いますが、PS5については違います。PS5の購入者の最大の共通体験は、(日本においてはですが)○ボタンと×ボタンが逆になって大混乱しちゃったよ、です。
これは背景を説明すると、日本のプレイステーションでは、なにかメニューに選択肢があったときに、決定ボタンが○で、キャンセルボタンが×になっていたのですが、もともと日本以外の海外のプレイステーションでは、その意味がずっと逆になっていたのを、PS5では日本も世界に合わせて統一したということです。
日本人的にはなんでやねん???と、さっぱり分かりませんが、海外では×のほうが押したくなるようなんですね。ぼくも大昔だれかに聞いたところによると、×というとたとえば銃での照準かなんかに見えるらしくって、撃つべし撃つべし撃つべし、というようなことらしいのです。逆に○は日本だと肯定的なイメージですが、海外では空白を意味する否定的なイメージがあるようです。
こういう○とか△とか×とかって、言語の壁を越えたシンボルみたいなイメージがありますが、そのシンボルのもつ意味が、じつは世界共通になっていなかったというのは面白いですね。「記号によるアフォーダンスが、国によって実は違っているってことなんだよ」とかいうと、ちょっとそれっぽく聞こえるんじゃないでしょうか。
とにかく、これは大変な苦痛で、最初のPS5の初期設定のときに警告してくれるのはとても親切なのですが、最初だけなので、2回目にPS5を起動するときに、ログインしようとして○ボタンを教えたら、PSボタンをおしてくださいというメッセージがでてPSボタンを押すと、また、ログイン画面がでてきて、以下、無限ループで、どうしてもログインすらできないという状況に昨日は陥って慌てました。たぶん、みんな1回はやると思います。
(3) 騒音がうるさい
PS4 Proも、やかんが沸騰したかのようなすごい音をたてます。事前の記事では、PS5ではデカイかわりにそこまでは騒音はうるさくなくて済んだというのを読んだ気がするのですが、ぜったいに嘘です。ひょっとすると測定するとPS4Proほどはでかくないという数値がでるのかもしれませんが、体感的には、まったく変わらないぐらいのけたたましいファンの音がします。しかも頻度が高い。基本、CPUとかGPUの処理が重くなると発熱してファンがまわるという構造のはずなんですが、PS5リメイク版のデモンズソウルを起動したら、最初のオープニングムービーがはじまって、すぐにファン音が最大になりました。なんでやねん。ムービー流しているだけだろ、と思いましたが、あ、ひょっとするとふつうのムービーじゃなくてリアルタイムレンダリングやってんのかな?
まあ、とにかくムービーみているときはひまだし、一応、ムービーで登場人物がしゃべっている台詞とか聞こうとするのですが、騒音がじゃましてうるさいです。
これまでのプレイステーションでは縦置きの場合用のスタンドが付属しました。PS5でもついているのですが、なんと横置きの場合でもスタンドを使えと説明賞に書いています。しかもPS5を横置きするときには、光ディスク付きバージョンの場合は光ディスクのせいで出っ張っている側を下にして置けとか直感に反することを書いています。それだと平におけないじゃん、となるわけですが、それをスタンドつけてなんとかするようです。
たぶん、そんなのがめんどくさくて直感通りに光ディスク側を上にして置いちゃうユーザー多いとおもうんですけど、PS5の騒音聞いていると、それだと熱暴走するリスクがあるのかもなと思いました。
(11/14追記)
※ 爆音ですが、そのあと再現しないので、ゲームを大量にダウンロード中にゲームを起動していたことが原因だったかもしれません。
(4) 画質についてなにを語るか
次世代機というとやはり画質がどれぐらいすごくなったかということが興味の対象です。これについては、まず、画質がすごくなったといいたいのか、それほどでもないよね、と言いたいのか、どっちのスタンスをとりたいのかを決めたほうがいいでしょう。
やっぱり、これまでみたいにPS5は画質すげえ、っっていいたいひとは、うんちくとして押さえておきたいポイントは3点です。4Kでゲームがぬるぬる動くようになったこと。リアルタイムレイトレーシングに対応できるようになった。8Kとか120fpsとかすげえけど表示できるテレビもってねえよ。この3つでしょう。
レイトレーシングだけ解説すると、これまでゲームのムービーは綺麗だけど、ゲームがはじまって操作できるようになると急に画質が落ちることはあったと思います。とくに出来のいいCGムービーは、まるで実写みたいにリアルに見えますが、実際のゲーム画面のCGが実写みたいにみえることはこれまではなかった。その質感の差を生みだす一番の大きなポイントは、レイトレーシングをやっているかどうかなのですが、大変に重い計算処理が必要なので、これまではリアルタイムでおこなうのが難しかったわけです。このリアルタイムレイトレーシングが、やっとゲーム機でできるようになったというのがPS5のCG進化の最大のポイントです。まあ、なんで、「まるで実写みたいにゲームができるなんて幸せ。しかも4K」とかなんとかを肯定派は言っていればいいです。
否定派がいうべきは、PS5とPS4って、画質の差ってそんなに分からないよね、とかですね。実際、AAAのゲームタイトルをやっても、そこまでの差はでない。4Kテレビ用プレイステーションとHDテレビ用プレイステーションぐらいの差だと思っても、そんなに違わないと思います。4Kテレビないと意味ないよねー。みたいなことをいうのも、それっぽいんじゃないでしょうか?
(5) 従来の機種との互換性について
業界人としては大所高所からPS5とはなにかということについて語りたいものです。ゲーム機の歴史の中でどう位置付けするか。そういうことでいうと、今回のゲーム機の世代交代の特徴は、前世代の機種とのシームレスな移行というのがもはや確立してしまったなということでしょう。
もともと任天堂がはじめたゲーム機の世代交代では、新しいゲーム機では新しい遊びの体験をさせる、というコンセプトがあったように思えて、基本、互換性とかそういうものは考慮されていませんでした。ゲームのハードウェアアーキテクチャーは一から変わるので、当然ソフトの互換性はない。それどころかコントローラまで全然違うのが任天堂のゲーム機の世代交代です。
プレイステーションの世代交代ではコントローラについてはあまり変わらない。でも、新しいハードウェアによる新しい体験を重視するということでは、SONYも似たようなもので、PS3までは、そもそもCPUから自前で設計していました。
それがマイクロソフトがXBOXでゲーム機市場に参入したことをきっかけで、PCのハードウェアアーキテクチャーの上にゲーム機を設計するようになりました。これはコスト面だけでなく、GPUの性能面、ソフトウェア開発の容易さという面で優位性がありました。
結果、PS4からほぼ内部のアーキテクチャーはPCと似たようなものになったわけで、PS5はその2代目です。つまり次世代機とはいっても、PS5はいってみれば、PCゲーマーが自分のゲームPCを最新のものに買い換えるのと、大きく違わないわけで、PS4のゲームもだいたいそのまま動くし、PS5のほうが性能がいいのでグラフィックも綺麗なだけ、という状態になりかねない危うさの上で、いまのゲーム機ビジネスはなりたっています。
今回、PS5起動したら、起動直後のメニュー画面のUIも、あんまりたいして変わっていないんですよね。
PS4の外部SSDドライブもケーブルつなぎかえればそのまま認識しました。
いままで、ゲーム機がふえるたびにテレビにつながるゲーム機は増えていたものですが、今回のPS5については、いまあるPS4は押し入れにしまったも、たいして問題なさそうです。また、今後はマイナーバージョンアップが増えるかもしれません。だってほとんどPCなんだから、ちょっと性能が向上したハードウェアも発売しやすいわけです。
このままPCの世界にどんどんゲーム機もさらに近づいていくのかもしれません。みたいな適当なことをいっていればいいでしょう。
(6) XBOXとの戦いはどうなるのか。
業界人ならグローバルな視野を持たなければなりません。XBOXもPS5のライバルとしてSeries XとSeries Sを日本でも出しています。日本においては今回もPS5にボロ負けは確実ですが、世界での戦いはどうでしょう?
まあ、今回もXBOXは日本じゃ全然ダメだよねーと、一刀両断に切り捨てるのは簡単ですので、ここはXBOXの台頭に日本のゲーム業界の未来を案じる憂国の士としては、なにをいえばいいのかを考えてみましょう。
日本ではたぶんPS5の10分の1でもXBOX Series X/Sが売れたら大事件だと思います。ぼくのまわりもだれもXBOXをやっていません。XBOXではプレイステーションの「トロフィー」に相当する仕組みとして、「実績」という点数制度があります。自分のフレンドの中で、今月だれが一番たくさん実績を稼いだか、ベスト3が表示されるのですが、ぼくは、ほとんど毎月1位をとっています。2位も3位もそれ以下もみんな0点で並んでいます。ひろゆきもフレンドに入っていますが、もう何年もXBOXを起動している様子はありません。
ですが、PS4とXBOXの両方を持っている僕からすると、XBOXも常に名機ですし、世代毎に完成度があがっているのを感じます。
海外でも下馬評では今回もPS5がXBOXよりも優位という予想が多いようですが、序盤はともかく今回はPS5はPS4の時よりも、だいぶ苦戦するんじゃないかと思いました。
今回もSeries XとPS5を比較して、ちょっとやばいなと思ったことがふたつあります。
ひとつめは、デザインの洗練度において、今回、はじめてプレイステーションが負けたなと思ったことです。プレイステーションがダメというよりはXBOXのデザインセンスが上がりました。とくに思ったのが梱包です。XBOXが入っている紙の箱は小さくてエレガント。プレイステーションは箱はだめですね。昔ながら感がもはやあります。
やっぱり世界の家電製品のデザインのハードルをあげたのはアップル製品だと思うのですが、マイクロソフトはその流れにキャッチアップしているのに、SONYはもちろん昔から悪くないのですが、とりのこされつつあるのかもしれない。そういう印象を持ちました。少なくともかっこいい家電製品といえば全部SONYみたいな状況ではない。
まあ、Series Xもそこまで格好良くはないのでPS5に勝ってるとしても、たいした差ではないですが、危機感を覚えました。
さらに、やばいと思ったのが騒音です。Series Xは相当に静かです。いまのゲームを映画並に世界観を映像で表現するものが多いわけですが、CGでゴリゴリに力のはいった映像が流れるとやかんが湧いたようなファンの効果音が入るというのは没入感を大きく妨げます。これだとPS5とXBOXを持っているユーザーはマルチタイトルはXBOXでプレイすることを選ぶんじゃないのかなあ。
あ、ひょっとすると、だから、なんかヘッドフォンを同時発売したのかな?騒音対策で。
なのでPS5は、はやくファンレスのマイナーチェンジ機を出すべきだと思いました。
最後に任天堂について思ったことを書きます。我が道を行き続ける任天堂ですが、このPCのように互換性を最優先というモデルはそれなりに強力です。影の次世代機のOculus Quest 2も、同じ路線ですよね。
だから、任天堂がまた新機種でうまくいかないと、MSやSONYと同じ戦略をするべきだと騒ぐひとたちがたくさんでるでしょう。ちょうどWindows全盛期でMacがシェアを毎年、落としていた時期にMac OSをWindowsみたいにラインセスするオープン戦略にしないからだと主張するひとが大量発生したように。
そういう雑音にまどわされることは、任天堂に限っては、よもやないとは思いますが、任天堂らしく独自に信じる道を突き進みつづけてほしいなと、それをひとりのファンとして応援していきたいと思いました。
おわり。
シン・セカイ系への誘い
「セカイ系」とよばれる物語の分類がある。おおまかにいうと主人公とヒロインの恋愛っぽいエピソードを中心にしながら、彼ら2人の行動が、なぜか世界の存亡にかかわる問題に直結するというようなッタイプの物語のことだ。まあ、わりと有名な言葉だ。
セカイ系に対して、「新世界系」なる物語が近年誕生し、影響力を増してきたと主張する集団が、ネット上に存在する。
集団といっても、新世界系でググってもらえば分かるが、でてくるのは、ペトロニウス、LD、海燕という3人ぐらいだ。彼らはAzukiaraiAkademiaというサークルを3人でつくっていて、ようするに彼らだけが、「新世界系」なるジャンルの存在を主張しているといっていい。
ぼくは彼らの中のひとりである海燕さんのブログをずっとウォッチしているのだが、結論をいうと彼らの主張はめちゃくちゃ正しくて、ここ10年ぐらいの日本の世の中で支持されるアニメの類型とその移り変わりを見事に説明していると思っている。
彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。
彼らは進撃の巨人の「壁」とはなにか?という考察から、ざっとまとめると以下のことを結論した。
① 壁の外とは「現実世界」を象徴している。
② 「現実世界」とは言い換えると、「主人公が保護されていない世界」である。
③ 「壁」とは「主人公が保護されている世界」と「主人公が保護されていない世界」を隔てている。なぜ、「壁」が必要なのかというと、「主人公が保護されていない世界」では定義上、主人公がすぐ死んでしまうので、物語を成立させるための仕掛けとして存在している。
④ 進撃の巨人だけでなく、当時、新編がスタートしたワンピースの「新世界」、トリコの「グルメ界」、HUNTERxHUNTERの「暗黒大陸」すべて同じ構造をもっており、「現実世界」=「主人公が保護されていない世界」である。
⑤ 上記の「新世界」の物語と「セカイ系」の物語とは、まったく異なるものである。
①と②の「主人公が保護されていない世界」が「現実世界」であるというのはどういうことか?
逆にいうと、通常の物語では主人公が保護されているということを指摘している。敵があらわれるにしても、ちょうど主人公がギリギリ倒せるぐらいの敵が順番にあらわれるし、仮にどうみても倒せなさそうな敵がでてきたとしても、なんらかの不思議な力の働きで勝ててしまうというのが、「主人公が保護されている世界」だ。
まあ、物語の都合としてはあたりまえだともいえる。そんなに簡単に主人公が死んだら、物語にならない。
しかし、そういう主人公が必ず勝つような都合のいい世界は、現実の世界とは大きく違う。ふと我に返るとリアリティがない世界だといえる。
もっとリアリティのある、本当に主人公だって、簡単に死んでしまいそうな世界というのが、「主人公が保護されない世界」である。
ただ、「主人公が保護されていない世界」においては、なにしろ主人公がすぐに死んでしまうわけだから、そのままだと物語が成立しない。すぐに最終回になってしまう。そこで③にあるように「壁」のようなものを用意する必要がある。
しかも、これは進撃の巨人だけでなく、ワンピースの「新世界」をはじめとして、同時代の人気作品に共通してあらわれている特徴であるというのが④の彼らの指摘である。
そして、これはたんに作劇上のテクニックのひとつで最近、流行っているとかなんかじゃなくて、もっと大きい、世の中の状況の変化を反映させた消費者の嗜好の変化なんだというのが、⑤でいう彼らの結論となる主張だ。やがて、彼らは新世界の物語を「新世界系」と呼び始める。つまり、「セカイ系」のブームというのも、ある時期の世の中の大きな流れとなる空気を投影させたものであり、「新世界系」もまた同じであり、世の中は「セカイ系」の望む空気から、「新世界系」を望む空気に変わってきているんだ、ということだ。そして、「新世界系」を表現するための物語の演出方法とはどうあるべきか。
彼らは2014年から、今日に至るまで、ずっと、このテーマを議論しつづけている。
さて、ここで、ではセカイ系と新世界系を求める世の中の空気とはどのようなものだったか?ということを考えたいのだが、その前に、基本的なことではあるが、世の中の空気なるものが物語に本当に決定的な影響を与えるなんてことがあるのか、ということについて確認したい。
どんな時代であれ、面白いものは面白いんじゃないか?流行はあるのかもしれないが、時代なんてものがそれを決めているのか?多少はあるかもしれないが、それが決定的な要因なのか?
具体的な例として、ぼくの身近に帰国子女の子がいる。ずっと海外にいたので、日本に戻ってきても、頭はいいのだが、日本語でのコミュニケーションは慣れていなくて、ほぼ不登校になってしまった。彼女が好むのがゾンビ映画のようなグロテスクな物語だ。なぜ、そうなのか?
ぼくが想像するのは、彼女には現実社会が、ゾンビ映画のようなグロテスクなものに見えているんじゃないか?なにを考えているか分からないし、自分の意志もまったく伝えられない、そういう怪物たちの住む世界が、自分に襲いかかってくるように見えているんじゃないかということである。
そして、そのことが彼女の抱える悩みの核心なんだろう、だからこそ、似た構造があるように見える物語に大きく反応してしまう、興味をもってしまう、ということだろう、ということだ。けっしてグロテスクな現実世界なんて好きじゃないはずなのに惹きつけられてしまうのだろう。
ヒットするコンテンツに与える時代の空気の影響というのも、基本、同じ構造だろう。だとすると時代の空気なんてものは、空気という言葉の持つ軽いイメージとは裏腹に、もっと切実な同時代の人々の最大の悩みを反映したものだろうというのが、ぼくの云いたいことだ。それぐらい切実な空気しか、ある人がどうしても惹きつけられるコンテンツなんてものは生みださないし、そういうひとが大量にいることでしか、コンテンツの大ヒットを生みだすほどの影響は与えられないと、ぼくは思う。
では、「セカイ系」と「新世界系」が基盤としていた時代の切実な空気とはいったいなんだろうか?
「セカイ系」の物語に対して、現実がどう見えている人たちが惹きつけられたのか?それは社会が同調圧力でもって自分を利用して生き方を支配しようとしていると反発しているひとたちだろう。端的な例でいえば、いい大学へ入って、いい会社に入るために、勉強しなさい。出世するためには、もっと仕事しなさい、一人前の大人としてきちんとしなさいなど、社会が持っている価値観を押しつけられて、それが自分の幸せにつながるかどうかがはっきりしない、もっというと自分を騙して利用しようとしているだけなんじゃないか。
そういう現実のモデルを、コンテンツの消費者が物語として受け入れやすい、じつは本当に自分が重要な人間であり世界の命運を握っている、そしてまわりはそれを利用しようとしているという舞台設定として提示したのが、セカイ系の物語ではないか。
そしてセカイ系の物語が通用しなくなるということはどういうことか。
セカイ系とは世界の危機を救うより、目の前の恋愛が大切なんだというメッセージに帰着することが定番であり、そのことによって視聴者はカタルシスを感じる構造になっていることが多いのだが、これは要するに、自分を利用しようとする現実を拒否してやるということの気持ち良さである。これが成立するのは拒否したあとの逃げ場所が保証されていることが前提だ。逃げ場所がないのに拒否するというのは、ほぼ手首切ったりする自傷行為に近い。
社会から押しつけられる価値観を拒否したとしても、案外、人生は楽しく暮らせるという余裕が社会にあることが、セカイ系の価値観を普遍的なものにすることを可能にする。別に勉強をして、いい大学にいかなくても、一生懸命働かなくても、オタクとしてコンテンツ消費者として楽しく暮らせるじゃないか、そう思える余裕があることが、当事者たちにとっての「最大の人生の悩みが社会からの価値観の押しつけである」というひとたちの大量発生を可能にする。
それが長引く日本の低迷の中で、難しくなってきた。現実がいかに厳しくてもそれから逃避することができなくなってきた。厳しい現実の中で自分たちはどうやって生き延びていけばいいのかいいか、それがまったく分からないことが最大の悩みであり、ストレスになった。そういう現実認識が世の中の多数派になってきたときには、セカイ系が生ぬるいものになり、新世界系が台頭することになった。
上記の説明は、だいぶ、ぼく風のアレンジはしているが、海燕氏たちが考える新世界系が登場してくる時代の背景とは、あまり未来に希望を持てない厳しい現実に向き合う同世代の”われわれ”という世界観が浮かび上がってくる。
彼らの新世界系にかかわる議論には、いろいろ面白い話が多いのだが、まあ、多すぎてまとめるのは大変なので、直近の話題を2点ほどだけ紹介する。
海燕氏の最近のブログでは、セカイ系とネオリベ(新自由主義)が相性がいいというトピックについて議論されていて、なるほどと思った。ようするに社会がなにかを強制するのを嫌悪して、自分たちで勝手にやっていくよ、というスタンスにおいてほぼ同じであるということだ。(海燕氏自身のアイデアというよりは、彼が紹介した記事の中で指摘されていたことについての議論)
もうひとつはペトロニウス氏のブログで、新世界系の特徴として、世界の秘密はどうでもよくて、そのなかで主人公たちがどう生きたのか、その生き様と仲間達のキズナを描くのが重要であるという推測が、連載を終了した鬼滅の刃でも実際、そのとおりになっていて、正しさが裏付けられた、という主張だ。
詳しくは彼らのブログを見て欲しい。
↓海燕氏のブログ
↓ペトロニウス氏のブログ
というわけで今回の記事を終わるが、最後に今回の記事のタイトルについて説明する。セカイ系と呼ばれる作品はたくさんあるが、セカイ系の成功を世の中に印象づけたのは、なんといっても、エヴァンゲリオンの大ヒットだろう。当時、ぼくのまわりにも、何人もの「シンジ君とはぼくのことだ」という友達がいたことを覚えている。当時のエヴァンゲリオンは社会から逃げるシンジ君を肯定する物語として、世の中に受け止められていたということだろう。
当の庵野監督はというとエヴァンゲリオンのそういう解釈のされかたには、必ずしも本意ではなかったように見える。実際のところ、いまになってエヴァンゲリオンを思い返してみると、海燕氏らが主張する新世界系の特徴の多くは、すでにテレビ版のエヴァンゲリオンの中に存在しているように思える。
海燕氏らはセカイ系と新世界系はまったく違うものとして捉えているが、実際のところ変わったのは消費者側のマインドであって、作品そのものとしては、同じエヴァンゲリオンで庵野監督が描いたものが、2,30年をかけて、違ったかたちで(おそらくは、より作者の意図に近いかたちで)世の中に受容されただけじゃないか、そんなこと考えて、あえて海燕氏たちが呼ぶ「新世界系」を、カタカナで「シン・セカイ系」と書いてみることにした。
というわけで正しいのは「新世界系」だ。
人間自身が知財になる時代が来る
ずっと考えているテーマがある。
ぼくは結論として人間の時代は終わり、AIが世の中を支配する時代が来ると信じているのだが、問題は、それがいつごろに起こるか、どのような過程を経て、そうなるのか、AIの時代が来るとして、そこで人間の影響はどこまで残せるか、といったところである。
人間がAIにのっとられる前段階として、決定的に重要なイベントはなにかというと、それはわりとはっきりしている。人間同士のコミュニケーションがデジタル化されることだ。
人間同士がリアルに出会って対面するという行為がなくなった時代は、モニターに映っている本人の映像や、スピーカーから聞こえてくる音声が、本物である必要はなくなる。AIで合成できるからだ。まして、メールやチャットなどの文字によるコミュニケーションはなおさらだ。
したがって人間からAIへの歴史の主導権の移行は、
① 人間同士のコミュニケーションがデジタル化
② 人間のデジタルコミュニケーションをAIがアシスト
③ 実質的なコミュニケーションの主体がAIになってくる。
④ 人間ってなんだっけ?
という分かりやすいプロセスを経る。ここまでは容易に想像がつく。
とはいえ、人間同士のコミュニケーション形式の主流がデジタル化されるというのは、あまりにも大きな変化であり、まだまだ社会全体がそうなるには20年ぐらいはかかるだろう、と思っていたのだが、状況が変わった。
もちろん、理由はコロナだ。
コロナで仕事も一挙にリモートワークが進み、打ち合わせもネットで済むようになった。本来はデジタル移行を拒む年長者の層まで、そうなった。人間が知識を得る手段も対面授業からオンライン学習に切り替わった。この流れは、もう、止まらない。
というわけで、人間のコミュニケーションのデジタル化が一挙に進み、AIと人間が置き換わる前段階としてのAIと人間の融合が開始できる素地が一挙に整うことになったのを記念して、ぼくが考えていた人間とAIとの融合のプロセスについて、もう少し書いてみようと思う。
人間のコミュニケーションにAIが介在すると、いいことはたくさんあるのだが、実現するには経済的な合理性が必要だ。儲かるかというよりは、継続的な開発費の出し手が存在しそうかどうかだ。
AI、あるいはその前段階としてのIT技術によってコミュニケーションをアシストしてもらうのに、直接的な恩恵を受けるのは、社会のリーダー層の人間だ。社会のリーダー層の仕事の大半は外部の人間、あるいは部下とのコミュニケーションが占めている。このコミュニケーションをIT技術に支援してもらうことで、より多くこなせるようになることは、そのまま自分の能力の拡大になる。さらにAIによってさらに強力な支援、どころか仕事を代替してもらうことができれば、仕事ができるといわれているひとが、きっと一度は考えたことがあるだろう「自分がもうひとり欲しい」がいくらでも実現するようになる。組織の力を代弁できるような強力な個人は、そういう自分の能力の拡張に費用は惜しみなく出すだろう。
また、AIにアシストしてもらうコミュニケーションをリーダー層の場合は、多忙と力関係を理由にして相手に応じてもらえやすいことも大きなポイントだ。社会のリーダー層がコミュニケーションをAIを使ってでも拡張する合理性は経済的にも社会的にもあるということになる。
したがって、人間のコミュニケーションをAIに代行させる動きが、最初におこなわれるのは社会のリーダー層になる。一般社会にまで、コミュニケーションのAIへの代行が広がるのは、それよりは後だ。
なので、いつ社会のリーダー層がコミュニケーションをAIにアシストさせるかが、人間の時代からAIの時代への変遷過程において、重要なメルクマールになるわけだが、その前に必要なキーステップはなにかということも気になる。
それも書いてしまうと、組織のメンバーのデジタル化されたコミュニケーションをモニターする機能をもった業界標準となる人事システムが普及すること、で十分だ。
このような業界標準となった人事システムは、AI時代において、AIビジネスにおけるOSのような役割を果たす。ビジネスにおけるAIの本質は人件費の削減にあるのだから、人事システムがOSになるのは極めて自然だ。業務の目的に応じてカスタマイズされたAIをOSにプラグインで組み込んで使うことになるだろう。
人事システムが有望なキーステップとなるもうひとつの理由は、別にAIがなくても成立するからだ。仕事がリモート化されてデジタル化された時代に、それを管理できるというだけで十分に実用的だ。将来的にはそこにAIが組み込まれる。
なんか、話が脱線してきたので、人事システムがAIビジネスの大本命だというのはどっか別に書くことにして、表題の「人間自身が知財になる時代がくる」について話す。
人間がAIを通じてコミュニケーションをおこなう時代とはなんなのか?ということを知財という観点から説明する。
知財の歴史をおおざっぱに考えると、最初に知的財産となったのは、人間がつくりだしたもの、そのものに対する権利だ。これが著作権だ。その次に知的財産となったのは、人間がどうやってつくりだしたのかというノウハウだ。特許権がそうだ。
AI時代になにが起こるか、AIがつくったものの著作権、特許権が認められるか、という議論があるのが、これは最終的にはAIの創作物が爆発的に増大しすぎて、そういう権利の保護、運用がそもそも不可能になるという結末しかみえない。そのときに残る知財は商標だけだ。自分が自分であるということを主張できる権利だ。人間がコミュニケーションをAIに委ねる未来には、自分とはなにかをどう決めるかというのが大事になる。
それは人間に最後まで残る権利だろう。人間自身が最後の知財となる。