情報公開の議論が難しい理由

あらためていうが情報公開に反対する意見を表明するのは非常に難しい。昨日の記事のコメント

http://b.hatena.ne.jp/entry/kawango.hatenablog.com/entry/2018/04/04/143826

から引用してみる。

 

takuver4 気持ちは分かるが、それはオープンな場で言っちゃ駄目な内容な気がする。 

 

こういう空気はまず実際にあるということを指摘したい。他のコメントをみても、脊髄反射的にとにかくありえないと否定するひとが非常に多い。

 

反論というよりは、罵詈雑言のたぐいがいちばん多いのはネットの常としても、それをのぞいて、一番多くみられたのは、情報公開のコストがかかるのは民主主義のコストで受け入れるべきだというものだ。

いくつか抜き出してみる。

 

cript これは民主主義国家の普通に必要経費。しかもケチっちゃいけないところ。 

 

BigHopeClasic 確かにコストはかかるだろうし情報公開を衆愚が粗探しに利用することも否定しないが、しかしそれは我々が民主主義を維持する上で不可避のコストであり最初から民主主義が予定するコストだろうに。

 

motidukisigeru 「情報公開による不正を減らすという目的は、究極的には国民の税金の無駄遣いを減らすことが一番」全く違う。情報非公開による不正が許される場合のコストは「税金の無駄遣い」どころじゃない。それこそ国が滅ぶ。 

 

sika2 そもそも情報公開なんて民主主義の根幹なんだから、コストと比較衡量するべきもんでもないだろう。「投票はコストがかかり過ぎてデメリットが多いから廃止すべき」なんて言わないだろう。

 

 

どうも彼らのいっていることをまとめると

 

・ 情報公開のコストは必要経費である。なぜなら情報公開は民主主義の根幹であるからだ。そして膨大なコストがかかろうが、払うべき。なぜなら情報公開しないことによる不正の発生によるコストのほうがはるかに大きいから。

 

といったところになる。彼らの意見には暗黙の前提がいくつかある。まず根本としての民主主義が正しいという価値観はアプリオリなものとして受け入れるとする。そのつぎに民主主義に情報公開が必須のものというのはどの程度正しいのだろう?民主主義に情報公開が必須というのは一見正しいようにみえる。なぜなら民主主義とは字面上からも参加者個々の意志を基礎として組織の意志決定をおこなっていくということであり、参加者が自らの意志を決定するのに必要な情報は提供されないと正しい判断ができないからだ。また、民主主義は運用上、組織が大きくなると組織の意志を代表して執行する機関が必要になる。代表者達が正しく参加者の意志を実行しているかを確認する仕組みが必要だ。

 

まあ、結論として民主主義には情報公開は必須であり、理由は民衆の意志決定に必要な情報を提供するためと、権力の執行状況を監視するためのふたつだろう。

 

どちらも現実の日本では実現できていない。そしてその責任は正しい情報公開をサボタージュしている行政側だけでなく、せっかく国有財産の処分の実態のいいかげんさの証拠が出てきても、そこにメスをいれずに安部総理を失脚させるための口実として揚げ足取りに終始しているメディアやそれに反応している世の中にも大きな責任がある。情報公開を活かせてない。

 

反論のなかで安部政権を倒すことで、そういう不正がなくなるんだというトンデモ主張もあったが、まったく関係ない。実際に世論が騒いでいないものを別の政権ができたところで、わざわざ解決のために力を入れる訳がない。

 

現実問題として情報が公開されても、そんなものチェックできるヒマな国民はほぼいないので、だれかにチェックして要約してつたえてもらう仕組みが必要だ。だからメディアの役割が重要なわけだが、国民に正確な情報を提供する役割ではなく、なにか揚げ足とりのネタを見つけることしか考えてないメディアばかりだとバイアスのかかった情報しか国民には伝わらないことになる。もちろんメディアはひとつではない正しい情報を伝えるメディアがあればいいじゃないかという意見もあるだろう。しかし、自分が信じているのと違う情報を受け取る側はこんなかんじだ。

 

Gustav13 長すぎて1行すら読む気になれない。とりあえず、情報を隠して滅んだ国は知ってるが、公開して滅んだ国は知らないので、まず滅んでから言ってくれ。 

 

death6coin タイトルしか見ていないけど、情報統制で国が亡ぶの誤植ですよね? 

 

rissack だらだら書いてないで簡潔に。公文書同様。

 

 

多くの人は自分の意見と違う意見には頭ごなしに否定するし、聞く気がそもそもない。また、ちょっとでも長い話は理解しようとしない。これはある意味で、あたりまえで、いくら民主主義だ重要だかなんだかしらないが、他人のことよりも自分の生活や目の前のことのほうが大事なのがふつうの人間だ。正しい意志決定のためにそんなにコストはかけられない。ぼくのブログのことを愚民感だとか上から目線だとか批判しているコメントもあったが、民主主義で民衆個人個人の判断能力に限界があるのは、むしろあたりまえのことだ。ノーベル賞受賞者だろうが、自分の専門外で基本的に興味のないことには正確な判断はくだせなくてあたりまえであって、愚民かどうかの問題ではない。

 

結局、上記のようなコメントをするひとが世の中の多くであるためメディアの自制が働かないでPV競争とかに流されると、アジテーターみたいな行動をするひとが有利になる。

 

基本、この構造が現実だし、すくなくとも当分の間は、この状況は変わらないだろう。

この環境でどういう情報公開制度を設計するのがベストかということだ。

 

crowserpent 「粗探しが元凶」みたいな物言いだけど、「あからさまな汚職はほとんど姿を消している」が事実なら、粗探し凄い効果じゃん。この論理だと「どんどん文書の電子化を進めて情報公開しよう」って結論にしかならない。

 

粗探しが凄い効果はそのとおり。粗探しと書いたが、粗探しだろうがなんだろうかメディアの監視機構は必要だ。それはすでに十分働いている。いまの情報公開制度はマスコミの監視に必須ではないし、効果的でもない。

 

sugikota これって欧米の主要国よりも中国とか北朝鮮の方が統治機構として優れてる、ってことなんだけど、本当に同意できる? まあ韓国とかシンガポールみたいにその中間の開発独裁がいいっていうなら筋は通ってるか。 ここにさらなるコストを投入することが、なぜ

 

民主主義はイデオロギーとして正しいとしても、正しいから優れているということにはならない。むしろ正しさとは犠牲を払うものだ。正しいことをやっていればうまくいくというものではない。

 

民主主義とは決して効率のいい政体であるとは限らない。むしろ現状では中国の独裁のほうがすぐれていたという結果になり、100年後は民主主義国家は古代ギリシャ時代につづいて二度目の滅亡をするかもしれない。

 

民主主義を大切だ守りたいと本当に思っているのなら、たんに情報公開すればするほどよくなるなんて幻想をすてて、もっと合理的な民主主義の運用を真剣に考えるべきだ。

 

結局、情報公開の議論が難しいのは、人間の「知りたい」。他人やとくに権力者がなにをやっているの「知りたい」という欲求がかなり感情的なところから来ているからだと思う。サピエンス全史でハラリは、うわさ話をしたがるという能力を人間が獲得したことが社会の形成に役に立ったと論じている。

 

なぜ情報公開が大事か、どんな情報公開にすべきかの議論もせずに、盲目的に情報公開が正しいと信じる人間が多いのは理屈の裏付けがあるからではなく、自分になにか不利益なことが行われていないかを知りたいという本能的な人間の欲求が存在しているのではないか。

 

@otokita 最近、都政にも縁が深い方が書いたとされるブログだが、読んでて頭がクラクラする。行政情報は「原則公開、例外非公開」であり、その本質がまったく理解されていない。

 

これはもはや宗教だ。原則はなぜなのか?本質とはなぜなのか?おそらく彼はひとこともちゃんとした理由を説明できないだろう。でてくるのはおそらくなにかの経典から抜き出した決めつけだけだ。

 

別のひとの批判で情報公開をしなかったから日本は戦争に突入したんだというのがあった。もし正しい情報がでなかったから日本が戦争に突入したというのが本当であれば、それは情報公開をしなかったからというのが理由ではないだろう。自分たちの意見に都合の悪い日本が戦争に勝てないという情報が出ることを当時の世間が許さない空気があったからだ。情報公開が正しいというイデオロギーを否定する意見は頭から否定する、議論ではなくそれこそ人格から否定する、そういう態度こそ、日本を戦争に追いやった空気をつくった元凶とまったく同じではないか?

以上

 

情報公開で国が滅ぶ理由

検索用に残しておいたツイッターアカウントで、たまに呟くことがあるのだが、1ヶ月前のツイートをなにか別に気に入らないことがあったのか山本一郎氏に晒されて、プチ炎上した。ネットの炎上では、前後の文脈とかまったく読まず脊髄反射で書き込むひとが大半だ。それが拡散されて、誤解、曲解が事実としてまかりとおるという性質がある。

 

ぼくとしては自分が発言した内容を曲げるつもりはまったくないので、切りとられやすいツイッターではなく、ここであらためて考えをまとめて書こうと思う。

 

さて、情報公開というキーワードは基本ポジティブに受け取るひとが世の中の大半だろう。とくに権力をもっている組織に対して情報公開をしろという主張はまったくの正論に聞こえて、だれも表だって反対をできない。

ここが問題だ。実は日本の今の情報公開の制度には大きな問題があって、実際に関わっているひとは、これじゃだめだと思っていて文句をいっている。でも、情報公開は社会的な正義であるため、情報公開を後退させることにつながる議論はまったくできない状態で、情報公開制度の問題点も世の中にほとんどでてこない。

 

そもそもなぜ情報公開をするべきなのか、もちろんそれは社会の権力をもっている側が公平な運用をおこなっているか、不正を働いていないかを監視するためだ。

 

それはもちろんいいことだし、必要なことだとみんな思うだろう。じゃあ、情報公開は正義なうえに必要なことだから、いいことばかりかというと、そうではない。情報公開をおこなうデメリットも当然あるということを認識する必要がある。

 

先にぼくの主張の結論を書くと、現状の情報公開制度は本来目指したいメリットは、ほとんど得られない上に、デメリットだけはとても大きいということだ。

 

まずデメリットのほうを整理しよう。

ひとつは情報公開をする事務作業が非常に膨大になってしまっていることだ。とくに情報公開を要求する側のコストがほとんどないにも関わらず、情報公開請求に応える事務作業が大変すぎてコストのバランスがアンバランスになっていることが問題だ。情報公開制度を利用する側はどんなひとか?ひとつは野党であり、メディアでありジャーナリストだ。彼らが情報公開をおこなう動機は、まったく問題ないですと褒めることではあるわけがなく、当然、なにか騒ぎ立てられるような粗探しをすることだ。基本、粗探しをするネタを探して、とりあえずあらゆるすべての情報を出せと要求することになる。要求するの簡単だ。費用もかからない。そんなんだから、おそらくだが、とりあえず全部の資料を出せと要求するもののもらった資料の中でちゃんと分析しているのは一部じゃないかと思う。ほとんどの資料は見てないことが多いんじゃないか?しかし、そんなかんじでつくられる膨大な資料作成はすべて国民の税金で支払われることになる。ちゃんとした目的のある野党やメディアはまだましで、一般人も興味本位や趣味で情報開示請求ができる。くり返すが請求するのはコストはかからない。一週間かけて開示資料を完成させても、そのころには興味がなくなっていて、連絡しても取りに来ないこともあるという。

しかも、情報開示を求めることで不利益が生じないように匿名性も守られていて、だれでもできるし、だれが開示請求しているか、担当部署は基本的には分からない。外国人でもかまわない。情報公開する側が非常にモラルハザードを起こしやすい仕組みになっている。さらなる悪用を想像すると、日本の行政を麻痺させようと思ったら、原発テロなんて必要なくて、組織的に情報開示請求を連発すればいい。合法的だし、お金もかからない。

 

しかし情報開示を役所側がおこなうのはそんな大変なのかと思う人もいるだろう。資料を見せるだけじゃないか?実は開示対象になっている資料のほとんどは紙ベースで管理されていて、電子化がほとんどされていない。

 

したがって情報開示請求があるとなにがおこるかというと、膨大な資料を補完してある倉庫から該当する資料を探し出すということを人間がやることになる。いや、倉庫とかあればいいほうで、みんな保管場所に困っているので、資料用の部屋とかいくつも保管場所が分散していて、それを探すことになる。それがまず大変な仕事となる。

 

資料を探し出せたとする。そこからが本番の仕事のスタートだ。開示する資料は国民のプライバシーに関する部分は公開しなくてもいいというか、してはいけないというルールになっている。個人名、会社名が特定される文言はすべて塗りつぶすという重要な仕事をしなければいけない。これがなぜ重要なのかというと、基本、情報開示請求をしてくるひとは粗探しを目的としているからだ、もし塗りつぶすべき箇所を塗りつぶさなくて、それが国会などで問題になったら大変な責任になる。したがって、開示資料から個人名と会社名など特定できる情報を黒く塗りつぶすというきわめて重要な仕事は下っ端の人間には任せられない。役所の中でも責任有るポジションで優秀な人間がやるべき最優先の仕事になる。

そして優秀な人間が黒く塗りつぶしまくった開示資料は塗りつぶされた部分ばかりで、さっぱりなにが書いてあるか分からない。

 

つまり現行の情報公開制度は、請求する側がすごく気軽に国の最も優秀な人材にすごくくだらない無駄な仕事をさせることができるという仕組みになっている。

 

メリットが少ないという話をする。

まず現状、情報開示請求ででてくるのは時間がかかるわりには、黒く塗りつぶされて主語と目的語の多くが消えたどうやら日本語だということは分かる文章だ。そしていまは公開対象になる文書自体の作成には非常に慎重になっている。つまり、公開対象の文書は粗探しの余地が少ないようにつくられる。明らかにおかしい決定をおこなった文書を見つけるのは難しくなる。本当の問題があったとしてもなかなかでてこない。粗探ししたい側はしょうがないので、重箱の隅をつつき始める。どんどんくだらない問題が問題として発見できる世の中になるということだ。

 

情報公開とは話は変わるが、政治とカネの問題はなかなか解決しない、とか聞き飽きたフレーズ、みなさんも報道で記憶にあるだろう。実際には戦後から現在にいたるまでメディアの追求により、あからさまな汚職はほとんど姿を消している。かといってメディアは政治家を褒めたりはしないから、つねに粗探しを続けることになる。したがって、政治とカネの問題はなかなか解決できないとニュースではコメンテーターがしたり顔に感想をいうわけだが、問題となっているお金の金額はどんどん小さくなっていき、どんどんくだらない”事件”を発見されて政治家は失脚することになる。

 

いまの情報公開制度では国民の監視により、今後もよりくだらない”事件”が見付かるようになるだけだ。

 

いくつか当然にあるだろう反論についても応えておく。

 

まず情報公開をやめると結論になるのはおかしくて、むしろ問題は情報公開制度がまだまだ未熟だし、改善すべきという結論になるべきではないかという類の指摘だ。これについては同意できる部分もある。まあ、しかし改善は今の日本じゃ構造的に難しいじゃないのかというのが僕の意見だ。森友加計問題では、いろいろ明らかになったことがあった。ひとつは政治家を利用しようと近づく悪い人間はいるという事実。そしてもうひとつは国有地の売却が非常にいいかげんなプロセスでおこなわれているという事実。しかしながら、そういう事実が分かりながら、そっちのほうに議論はまったくいかなかった。世の中はある情報が明らかになったことにより不正や矛盾をなくすということを選ばず、それを安倍政権を倒す口実につかうことを選んだということだ。

 

現時点でも目的をもって現政権になんくせをつける口実にしか使われていないのに、情報公開をすすめても、同じことがもっと大規模におこるだけだというのが予想される現実ではないか?

 

もうひとつそもそも開示情報が電子化されていないのが問題ではないか、情報公開のコストを下げるべきだという観点だ。これはまったくもって正しい、いまのように開示請求が自由に制度を維持するなら、感じ対象にするべき情報は、電子化されていて開示の為のコストが0のものに限定すべきだと思う。

しかし、そのためには開示される側がみだりに粗探しをしない、できないようにならないと現実には機能しないだろう。現状だと、そのリスクが大きすぎて、むしろ情報公開制度が役所の文書の電子化を阻む大きな要因となっている。電子化されて簡単にみれる場所に、すぐに揚げ足をとられるような文書を置くわけがない。重要な情報は別の形で保存するか、もしくは保存して大丈夫な文書か、何度も会議をして内容を確認してから保存する。そんなことになるに決まっている。まあ、それならそれで無理矢理やらせろという意見もありそうだが、現実的には無理だと思う。

 

そもそも詳細な報告を文書に残して、世間に公開するということはどういうことか、これは一般の企業の場合でいうと、いってみればマイクロマネジメントをやるということだ。

 

つまりは世間が役人の上司となってマイクロマネジメントをやるということだろう。

一般にマイクロマネジメントをやるとどうなるか、部下は自分で考えなくなる。仕事をちゃんとやろうではなく、形式的な指示通りにやることを重視するようになる。したがってマイクロマネジメントをやるということは上司の負担が増える。上司がちゃんと指示をしないと仕事をしなくなる。情報公開制度を進めるということは、上司が指示しないで文句ばかりいうというマイクロマネジメントをやるということに等しい。

真面目に仕事をやろうとするひとほどやる気をなくす仕組みだ。

 

情報公開による不正を減らすという目的は、究極的には国民の税金の無駄遣いを減らすということが一番大事だろう。不公平をなくすということは大事だとしても、平等にお金を無駄遣いするというのが目的ではないはずだ。

 

いったい情報公開によって社会をどうしたいのか、現状の制度ではなにが起こっているのか、これからどうなるのか、情報公開=絶対的な善という思考停止に陥らず、冷静な議論が必要に思う。

 

以上

 

 

人間は他人の能力をどうやって評価しているか

ふと、思い立って、先週からダイエットを始めた。ちょうど初めて1週間だが、あっという間に効果がでている。

鏡を見ると心なしか顔のラインがすっきりしてきたような気がするし、昼間の会議でも明らかに頭の回転が鈍っていて、確実に血液中の糖分濃度が下がっている証拠だろう。

夜の会食でも、最近は年のせいか、なかなかコースで出てくる料理の全てを平らげるのが苦痛になってきていたのだが、ダイエットを始めてからすっかり食欲も回復し、先週あった3回の会食でも、大変美味しくいただけて、ほぼ完食することに成功した。

 

ダイエットすると寝付きが悪くなるらしい。朝早く目覚めたついでにひさびさにブログを書いてみようと思う。

しかし1年ぐらいブログを書いてなかったような気がするが、ネットをやめると本当に仕事が捗って素晴らしい。

というか、ネットをやると仕事にならない。

ネットサーフィンなど、ただでさえ無駄な情報ばっかり気がつくと読んでるものだが、ブログやツイッターで情報を発信すると、ネットの世界で最もくだらない情報検索として知られているエゴサーチの時間が大量に発生するので、マジで仕事にならない。

 

ほんと、ブログもツイッターもやめて、この1年ぐらいは僕の人生の中でも珍しく、比較的に真面目に仕事をしているのだ。

 

脱線した。いや、脱線というよりは、むしろ本題にまったく入ってない。

 

最近の話題というとやっぱりトランプ大統領の登場が衝撃だった。この事件についてのコメントでは三浦瑠璃さんのブログ記事が面白かったのだが、内容については彼女の記事を読んでいただくとして、ぼくが興味深かったのは彼女の記事の最後に唐突に現れた一文だ。

 

と思って、いま、確認したら、ちょっと表現が修正されているようだ。まあ、要するに彼女のような社会的にも認められ成功しているような女性でも、日本の社会は明らかに女性差別があり不利である(つまりトランプの女性蔑視発言を問題視する資格があるのか)という認識を持っていて、思わずそれを口にせずにはいられなかったということだ。

 

僕の会社の中でも女性社員の能力を男性上司が過小評価する傾向があることは何度も目にしてきた。女性を昇進させることにそんなに抵抗があるのかと思って、いろいろヒアリングすると、必ずしも本人にはそんな自覚はなく、本当にその有能に見える女性社員の能力を低いと信じていることが分かった。

 

まあ、もう何十年になるぼくの社会人経験に照らし合わせても、ほぼ確実に仕事において女性差別と女性の能力に対する過小評価は日本社会に存在するのは間違いない。

 

女性差別については、本人にそういう差別意識があるからだということで是非はともかくとして、とりあえずの理解はできる。女性差別意識をもつ人間がこの世界にはいて、実際に女性差別をしている、というだけの話で、現象としては不思議はない。

 

不思議なのは、女性の能力が低いという心から思っている「確信」が、いったいどういう根拠から来ているのかということである。

 

これについては結論からいうと、人間は他人の能力をパターン認識で見積もっているからだと、僕はおもっている。

 

エンジニアやある種の専門家によくいるのが、「話せば相手のレベルの分かる」というひとたちだ。

 

会話をしていれば、相手のある専門分野においての能力がどれくらいか、だいたいは見積もれるという主張だ。

 

こういった場合、なにを基準に判断しているかというと、相手がどのくらいの専門用語を知っているかと、その使い方が(主観的に)正しいか、である。

 

こういう専門家たちに、専門に関わる話を素人がする場合には、話の内容よりも、まず、この専門用語を知っているかというフィルターにかけられる。知っていないと、分かっていない素人と判断されて、話をちゃんと聞いて貰えない。

 

つまり、例え、ある問題の本質を専門家よりも深く理解をしていたとしても、専門家の使う専門用語とその意味に従って会話ができない限り、専門家には認められないということになる。

 

多くの場合に、専門家に限らず人間はこういう用語によるパターン認識で、話相手の能力を見積もるというフィルタリングを無意識のうちにおこなっている。

 

このフィルタリングは、”ある前提条件”の元では、だいたい正しい。ある前提とは、普遍的な知識体系が存在していて、相手がそれを学習している場合、もしくは、ひとりではできず他人と意思疎通をしながら協力して仕事をしなければならないケースだ。

 

こういった場合は専門用語を沢山知っていて、使い方も間違っていないという判断だけで相手の能力をだいたい正確に推量することができるだろう。

 

逆にいうと、それ以外のケースでは、この用語のパターン認識による能力の推定は、本当はあんまり役に立たないはずだ。

 

さて、そもそも、この人間が他人の能力を推定するときに使っている上記のようなパターン認識であるが、本来は自分の仲間とそれ以外を区別するためのものを転用していると、僕は考えている。

 

人間のような社会的生物の場合、自分の群れとそれ以外を区別することはとても重要であり、おそらくは本能に組み込まれいる行動だ。

 

アリの場合は、匂いで自分の巣のアリか、よその巣のアリかを区別するという。だから、自分の巣の匂いを十分にまぶしたよその巣のアリは区別できなくて攻撃しないらしい。

 

人間の場合は匂いもひょっとしたら少しはあるかもしれないが、もっと多彩であり、言語や仕草や行動様式などさまざまな要素でパターン認識していて、自分の仲間かそうでないかを区別しているのだと思われる。

 

組織に受け入れられるためには、能力だけでなく、その集団の”流儀”にもなじまないと仲間にいれてもらえないというのはよくある話だ。

 

人間はこういう本来は仲間かそうでないかを区別するためのパターン認識を、能力の推定のためにも援用しているというのがぼくの仮説だ。そのため能力とは本来は関係のない仲間と区別するための特徴も、能力の一部だと思い込みやすいバイアスがかかっているに違いない。

 

男性社会においては女性であるというだけで能力が低いと判断されてしまうのだ。

 

仲間であるかどうかで相手の能力を低く見積もる傾向は、初期の将棋電王戦においても観察された。コンピュータの指す将棋について、人間とは”やりかた”が違っている。プロ棋士はそう指さない。という言葉がコンピュータはそれほど強いとは思わないという文脈で、よく使われた。アルファ碁の解説でも同じような傾向があった。イ・セドルとの対戦で、アルファ碁がへんな手を打つとか、最初は馬鹿にしていたのが、強いと分かると逆に今度はそれが人智の及ばない神の一手だと、手のひらを返した。人間は自分のやりかたと違うだけで、相手の能力を低く見積もるのである。

 

この自分の仲間であるかどうかと、相手の能力を推量する、ということを同じ機構で判断していることによる混同は、ネット社会の争いを観察しても、すぐに発見できる。

 

原発推進派と反対派、ネトウヨとしばき隊。多くの場合、彼らがおこなっているのは議論ではなく、相手が仲間かそうでないかのパターン認識だ。それぞれ自分たちが信じる”真実”を相手が理解していないから、能力が低いと馬鹿にしている。

 

 

というようなふうに考えると、いろいろ世の中のことがスッキリ理解できるというようなことを先週は考えていた。

 

長く話が脱線したが、今回はダイエットの進捗報告でした。

 

インターネットの未来の正しい議論

今回は珍しく書評を書く。それもよく僕本人と間違えられるという設定でお馴染みの人が筆者である新刊だ。

鈴木さんにも分かるネットの未来

この本はスタジオジブリの機関誌「熱風」という一般には販売されていない雑誌で1年以上にわたって連載されたものを単行本化したものである。

この連載がどういう風に世間に受け止められるかをぼくはわりと注目していた。なぜかというと、これはネットは門外漢であるスタジオジブリ鈴木敏夫プロデューサーにネットの現在と未来を説明するという体でありながら、おそらくは当時はだれも指摘していなかったネットの実態と未来予想について筆者が本音を自分で執筆した本だからだ。

筆者のこれまでの本はすべてインタビューをまとめた本であり、喋っていることもわりと簡単なことばかりでそれほど難しい理屈も出てこない。

しかし、この本は聞き書きではなく、筆者がかなり時間をかけて自分で文章を書いた本であり、読者に対する手加減がわりとない。そしてIT業界では当事者たちからはあまり語らないようなこと、もしくは理解していないこと、ネットでの一般常識とは違うことを中心に、損得考えずにそのまま書いてあるのだ。

それがIT業界のひとはだれも読んでなさそうで、そもそもほとんどの書店には置いてないような雑誌に連載されるのである。

いったいなにが起こるのだろうか。とぼくは好奇心をもって観察していたのである。

どうなったのか?

じつは結果としてはなにも起こらなかった。

やはり本来のターゲットになるようなひとの手元にはほとんど届かなかったようだ。まあ、予想通りの話でもある。

しかし、連載終了からも、早くも1年がたったが、この本の内容はまったく古びていない。

むしろ一部は予言のように現実がこの本の内容に追いつき始めていて、より説得力のあるタイミングで出版されることになったのだと思う。

この本に書かれているテーマはいくつもあるが、もっとも重要なものは、世界中の国でインターネットという場が治外法権となり、国家の主権が及ばない場所になっているという指摘だ。

歴史の中で国家というものが解体され、消滅していくとすれば、それはインターネットの場から起こるだろう。

このことはインターネットの登場したときにそれこそ伊藤穰一氏などが予言していた話であり、新しい話ではない。しかし、それは遠い未来の予測として漠然として受け止められ、実感を伴う問題として世の中に受け止められていなかったというのが現実だろう。

しかし、インターネット上で国家の主権が通用しなくなり、かわってグーグル、アップル、アマゾンなどのグローバルプラットホームが、租税権、立法権行政権、裁判権などを行使しつつあるというのは、現在進行形で進んでいる事実だ。

歴史の中でいまは国家からグローバルプラットフォームに主権が移動しつつある過渡期であるという認識を、はっきりと持つべきではないかというのが、ぼくの主張だ。

こういう状況を、ネットで活躍する批評家たちですら、ちゃんと理解していないように見える。

数日前の東浩紀氏のツイートを見てみよう。

 

 

この東氏がやくざのみかじめ料みたいと切り捨てたEUの行動は、主権を奪われつつある国家権力のグローバルプラットフォームに対する反撃である。いままさにネット上の主権をめぐった争いが行われつつあり、どちらかというと劣勢なのは国家権力側だろう。

それを従来型の国家権力=悪、インターネット=自由という素朴な認識からくる善悪判断で判断したかのようなツイートで切り捨てるのが、日本のネットに詳しい有名批評家の現実である。

これからのインターネットでなにが起こるか、なにが本当の争点なのか。筆者がなにを考えているか知りたいひとは読んでほしい。鈴木さんにも分かると入門書を装っているが、鈴木さんにも分かってもらおうという手加減はまったくないガチの中身だ。

 

www.amazon.co.jp

ドワンゴの準エンジニア手当という制度が面白い

 ドワンゴにはエンジニア手当というものがあって、プログラマーの給与水準が全体的に高くなっている。要するに優遇されている。
 
 しかし、プログラミングの知識はエンジニアだけでなく企画者、あるいはデザイナーにとっても重要である。したがって、エンジニアから他の職種へのコンバートも積極的に進めるという方針がドワンゴにはあるのだが、このときにエンジニア手当というのが問題になる。要するにエンジニアをやめて他の職種にいくと給料が下がるのだ。
 
 そのため元エンジニア手当みたいなものを作ろうとかいうような話もあったのだが、それはそれで不公平ではないかという議論もあり、結果として準エンジニア手当というものを創設し、一定の技術スキルがあることが試験で認められれば、元エンジニアだろうが、元からの企画者やデザイナーだろうが、給料が上がるという仕組みを導入することにしたのだ。
 
 これがいまドワンゴ社内で盛り上がっているらしい、という話を聞いたので紹介する。
 
 盛り上がっているというのは準エンジニア手当を貰える資格を得るための試験に応募した受験者の数が、まず、とても多かったということだ。
 難易度によって手当の金額は変わり、レベル1とレベル2があるのだが、レベル1でも200人、レベル2でも70人と合計300人近くの応募者があったらしい。
 そしてどうも最近はみんな社員は昼飯でも仕事が終わったあとも試験の話題ばっかりで、自主的な勉強会が各所で開催され、参考書として指定された3冊は発表された瞬間にアマゾンで品切れになり、銀座周辺の本屋の店頭からも消え、秋葉原ヨドバシカメラですら見つけることはできなくなった。
 その三冊がなんなのかはリンクを貼るのが面倒なので紹介はしない。
 
 そして試験の結果はどうなったか。まだ、結果は発表されてはいないのだが、このまえの週末に試験があったらしい。
 非エンジニアも対象にしたプログラミングの知識の試験とはいっても、ドワンゴのエンジニアが出す問題のレベルがそんな生易しいわけがないのだが、相当、みんな勉強したらしく、レベル1については相当な合格者が出そうだとのことだ。
 レベル2についても、ドワンゴの現役エンジニアからも合格できるか自信がないというひとが続出するぐらいの難易度で、当然、合格率は50%は下回るそうだが、それでも、それなりの合格者はでそうとのことだ。
 
 まだ、はじまったばかりの試みだが、ぼくはすべての職種にプログラミングの知識は必須である時代は本当はもう来ていると思っている。
 今後、どういうことになるのか、どんな成果がでるのか、でなかったのか、また、機会があれば紹介したい。
 

人生の賞味期限について

以下のブログで書かれていたことについて思ったことを書いてみる。

 

現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ、人生の「賞味期限」

 

筆者の佐藤航陽氏が書くところによると、人生には「賞味期限」があるという。人間が一生の間に持っているエネルギーには限度があり、そのエネルギーは人生の中で減っていく、 なにかに挑戦するにはエネルギーが必要で、エネルギーが枯渇してしまうと、いくら挑戦できる十分な知識と経験があっても、もはや挑戦は できなくなる。このエネルギーが残っている期間を「人生の賞味期限」と呼んでいるということらしい。

 

ぼくのあまり長くはない人生経験からしても、こういう人生の賞味期限といったものは

本当に存在すると思う。

 

人生の賞味期限がなぜあるのかは単純で、佐藤氏が書いているように現実を直視しながら

理想を持ち続けることが難しいからだ。

 

簡単にいうと、世の中を変えようと、ある理想を実現しようと頑張る人間というのは根本的に勘違いをしているからだ。

 

勘違いというのはなにか?みっつ挙げる。

 

・ 理想を実現する能力を自分が持っているという思い込み。人間ひとりの力なんてたかが知れていて、理想が実現するかどうかは自分とは関係なく決まるものである。

・ 理想が正しくて、現実が間違っているという思い込み。当然のことながら、世の中に存在するものは全て合理的であり、間違っているように見えるのは全部が見えてないだけだからだ。

・ 理想を実現するのが自分の使命であり生きる意味であるという思い込み。当然のことながら、勘違い。社会的使命の実現のためと個人の幸せがたまたま一致していれば問題はないが、本来は個人の幸せは自分の理想とは別のものである。

 

人間個人の幸せと理想の追求の両立は、根本的にいろいろ無理があるのだ。まあ、たまたま、うまくいく場合もあれば、さらに幸運だとそれが長く続く場合もあるだろうが、基本はそんなことは起こったとしても、そっちのほうが事故みたいなものである。人生の幸せとは他にもいろいろあるに決まっている。

 

なぜ、人生に賞味期限があるかは明快で、人間ある程度頭がよければ、なんのために自分は理想を追求しなければいけないのだろうと、いつかは自分の勘違いに気付いてしまうだけのことである。

 

このように、ぼくはこのブログの筆者のいう人生の賞味期限とは勘違いをしたままなにかに異常な努力を注げる期間だと思っているのだが、たとえ、人生の賞味期限が過ぎたからといって、人間が挑戦をできなくなるわけではないと思っている。

 

理想と現実の折り合いをつけて生きていこうとする人間が直面する問題をもうちょっと

分かりやすぐ理解するために、簡単な具体例で考えてみよう。

 

「選挙に投票にいくかどうか問題」というのがちょうどいい。

 

昨年末の衆院選だということにして、あなたの実現したい理想は、原子力発電所の全廃ということにしてみよう。

 

さあ、あなたはどう行動するべきだろうか。

 

各党の原発政策に関する公約は自民党が「依存度を可能な限り低減」であり、民主党は「2030年代の稼働ゼロ」。「新設は認めない」とするのが公明党だ。

 

人によっていろいろな判断があるだろうが、一番、ふつうの行動は、本音では原子力発電を続けたそうな自民党に投票することは避けて、一応は最大野党の民主党に投票することだろうか。

 

ここで、あなたが理想の実現のために投票にいくために、ぜひ信じたいことがいくつかある。

 

・ あなたの一票で民主党が勝利する。

・ 民主党が勝利すると原発が本当になくなる。

・ 選挙で投票することは国民の義務である。

 

現実問題として、これらの3つのすべては、かなり現実とは隔たりがある表現だ。

 

あなたの一票なんて選挙結果に影響は与えないし、選挙の結果で民主党がたとえ勝利したとしても原発が本当になくなるかは分からない。また、選挙の投票にいかないことは、別に犯罪でもなければ、とくに罰則があるわけではない。

 

理性的に考えると、わざわざ休日のある時間を費やして、選挙に投票にいくというのは、人間個人としては、まったくもって合理的な行動ではない。昨年の衆院選投票率は52.7%で史上最低だったが、投票に行かないひとが有権者の半分いることは、なにも不思議なことではない。

 

逆にいうと、衆院選挙においては、理想のために非合理的な行動をとる人間が52.7%もいたことになる。

 

この52.7%はどういうひとだろうか。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとが52.7%もいると解釈すればいいのだろうか。

おそらくは違う。投票率は、天候に左右されるといわれていて、雨だと下がる。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは雨が降ろうが、嵐がこようが、投票所の近くに山賊が待ち伏せていようが、投票にいくようなひとのことだろう。理想のためにすべてをなげうって努力するひとのことだ。52.7%の大半は、自分の投票があまり意味がないかもしれないと分かった上で、それでも投票にいくぐらいの努力はやろうと決断したひとたちだろう。

 

ぼくが指摘したいのは、佐藤航陽氏のいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは、要するになにも分かってない「馬鹿」のことだろう、ということだ。だいたい、起業家になろうとする人間なんて、根本的に頭が悪い奴らばかりに決まっている。ジョブズの有名なスピーチで「stay foolish」と言ったのは、まったくもって正しい。馬鹿にならないと起業家なんてやってられない。

 

現実を知って、なおも理想を追いかけるのも、また、これも馬鹿である。

なぜ、馬鹿な行動に人間は憧れ、また、それを貫くひとを貴ぶのか。

 

ひとついえるのは、馬鹿で非合理的な行動を取るのはそもそも人間とはそういうものであるということ。もし、それを否定したら、人間なんていらなくなって、それこそ人工知能でいいじゃんということに、いずれなるということだ。

 

不幸なことに人間とは多少の知性を持ってしまっているがゆえに、人生のどっかで自分の馬鹿さ加減にいずれ気づいてしまう。それに気づいてしまうまでが、「人生の賞味期限」ということだろう。そうなってしまうと、どうモチベーションを維持するかというのが大きな問題になる。

 

だが、それでなにかに挑戦するエネルギーが本当になくなってしまうのか、というと、それは違うのだと思う。本当に無駄と思った努力はできなくなるというだけだろう。ぼくの場合は、賞味期限が切れて仕事へのモチベーションを失ったのはちょうど20年前になる。会社をつくったのはその後だ。

 

理想を失わない現実主義者であろうとする宮崎駿監督が、やろうとしていたことをすべてやってしまったと感じたのはトトロの時だ。以降、苦しみながら創作を続けて、もののけ姫千と千尋の大ヒットで世の中を変えた。

 

佐藤氏も大馬鹿者の勘違い野郎だったのが、とうとう現実が見えてきたということだろう。

 

人間がモチベーションを持って仕事をする条件は、自分にしかできない仕事だと思い込めるかどうかがいちばん重要だろうと思う。

 

時代の一歩先を読んで、ビジネスを成功させるというのは、佐藤氏が気づいたように、じつは自分でなくてもできる話で、だれがやったっていいことだ。本当に自分しかできない仕事があるとすれば、むしろ、だれもやろうとしない時代に逆らったあだ花を咲かせることにあると思う。

 

実はこれは合理性もあるようにできる話で、なぜかというと、時代の先を読んで有利にできるのは時代の先取りだけではなく、時代の逆戻りも同じことだからだ。時代を変えようとする力、今の時代を守ろうとする力、そのせめぎ合いのバランスの中で時代は決まる。時代の先を読む人間は変える側に付きたがるのが常だが、逆のアプローチも成立しうるということだ。

 

こっちのほうがやる人間も少ないから競争もない。それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。

 

そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。

 

人類の歴史にはきっと終わりがあり、それが早くなるだけだと思っているからだ。紆余曲折あったほうが、楽しい歴史になると思っている。

 

人類の最後があるなら、それを自分の目で見てみたい気持ちはあるけど、それは自分のエゴだし、想像するのも、また、それはそれで現実よりも楽しい。

 

 

ま、とりあえず、賞味期限の切れた人間をなめるなということです。というより、挑戦をできるかできないかでいえば、人間は賞味期限が切れることはない。無駄な挑戦ができなくなるというだけの話です。

投票率だって、政権交代しそうな時は上昇するし、争点が明確なときもまたあがる。

 

無理なことに突撃はできなくなっても、この世を変える可能性が見えたとき、それはなかなか起こらないことだけれども、そのときはまた理想のためにひと肌ぬぐ。人間とはそういうものではないでしょうか。

 

給料なんてサイコロで決めればいい

今日、面白法人カヤックという会社が上場した。おめでとうございますというのは本人に直接いえばいい話であって、こんなところに書きたいのはそんな話ではない。

 

カヤックには面白い人事制度がいくつもあるのだが、そのなかでもぼくが本当に衝撃を受けたのはサイコロ給という制度で、今日はそれを紹介したい。

 

サイコロ給とは毎月1回サイコロを振って、サイコロの出目X1%が支給されるという制度である。1がでれば給料の1%がサイコロ給として追加で貰える。6がでると6%が貰えるわけで、最大5%の給与格差がサイコロの目によって決まるわけだ。

 

http://www.kayac.com/vision/style/dice

 

このサイコロ給のねらいについては↑上のカヤックのサイトの説明文が素晴らしいのだが、要するに人間が人間を評価して給与を決めているけど、それってもともといい加減だよね、ということをいいたいらしいのだ。その初心を忘れないために毎月サイコロを振っているらしいのだ。

 

そう。どんな会社だって人間を評価する能力なんて本当はない人間がたいした時間もかけずに他人を評価して、それで人生が決まっていく。本人にとってはとても重要なことが他人の気まぐれみたいなもので決められていく。人生とは本当に理不尽なものだ。

 

そのことを端的に表現したサイコロ給という制度って、これってすごく素敵だし、ちょっと哲学的でもあって 、この話に救われる気持ちになるひとも多いのだと思うし、他人の企画にはほとんど興味は持たない僕だけれども、この企画に関しては本当にすごいと思ったし、正直、嫉妬したぐらいにいい企画だと思った。

 

まあ、ある程度はカヤックのサイコロ給は有名な話だと思うのだけれども、もっともっと世の中に知られていい話だと思う。こんな素敵な制度を持つIT企業が日本にはある。

 

さて、この話がもっと広まるためにカヤックが超えなければならない課題がひとつある。

それは会社として成功することだ。人間が人間を評価する能力があるのかという問題は、人事に限らない。

 

カヤックカヤックのサイコロ給がいかに素晴らしいものであったとしても日本人も日本社会もそれを評価する能力なんてもってない。

 

正直、カヤックが本当に素晴らしい会社かどうかについても、ぼくは疑問を持っている。カヤックはだいたい極端すぎる会社だ。一時期はサービスを粗製濫造で乱発し、1年間でつくったサービスの数を自慢していた時代があった。まあ、似たようなことをいっていた会社はカヤック以外にもあったのでそういう時代だったということなのかもしれないが。あれは間違いだとぼくは思う。

 

柳澤大輔さんに会ったときに、うちは2年間で50%の社員が入れ替わるんですと社員の流動性の高さについて胸を張られて、開き直りすぎだろと、唖然とした記憶がある。

 

だいたい面白法人ってなんだ。自分で自分のことを面白いとかいう会社って面白いのか?と思ったりもする。

 

だが、そんなこともすべてどうでもいい。いや、いまいったすべてのことが肯定的に輝いて見える方法がひとつあって、それは会社が大成功することなのだ。

 

言っている内容、やっている内容、みんなそんなものは正しくは評価してくれない。そんなものだと諦めるしかない。

 

同じことを何十年言い続けてきても、無視されるか、それとも素晴らしいと賞賛されるかは、だれがいっているか、そのだれはどんな立場にあるひとなのか、それしか人間は判断材料にしない。そして経営者の場合は、それは会社がうまくいっているかどうかだ。

 

上場したカヤックが大成功することを祈っています。それは数字だけじゃないですけどね。