シン・セカイ系への誘い

 「セカイ系」とよばれる物語の分類がある。おおまかにいうと主人公とヒロインの恋愛っぽいエピソードを中心にしながら、彼ら2人の行動が、なぜか世界の存亡にかかわる問題に直結するというようなッタイプの物語のことだ。まあ、わりと有名な言葉だ。

 

 セカイ系に対して、「新世界系」なる物語が近年誕生し、影響力を増してきたと主張する集団が、ネット上に存在する。

 

 集団といっても、新世界系でググってもらえば分かるが、でてくるのは、ペトロニウス、LD、海燕という3人ぐらいだ。彼らはAzukiaraiAkademiaというサークルを3人でつくっていて、ようするに彼らだけが、「新世界系」なるジャンルの存在を主張しているといっていい。

 

 ぼくは彼らの中のひとりである海燕さんのブログをずっとウォッチしているのだが、結論をいうと彼らの主張はめちゃくちゃ正しくて、ここ10年ぐらいの日本の世の中で支持されるアニメの類型とその移り変わりを見事に説明していると思っている。

 

 彼らが「新世界」という言葉を使い始めたのは2014年だ。2014年とは前年にアニメ「進撃の巨人」の第一期が放映されて、アニメを含むコンテンツ業界に空前の進撃の巨人ブームが始まった直後になる。

 

 彼らは進撃の巨人の「壁」とはなにか?という考察から、ざっとまとめると以下のことを結論した。

 

① 壁の外とは「現実世界」を象徴している。

② 「現実世界」とは言い換えると、「主人公が保護されていない世界」である。

③ 「壁」とは「主人公が保護されている世界」と「主人公が保護されていない世界」を隔てている。なぜ、「壁」が必要なのかというと、「主人公が保護されていない世界」では定義上、主人公がすぐ死んでしまうので、物語を成立させるための仕掛けとして存在している。

④ 進撃の巨人だけでなく、当時、新編がスタートしたワンピースの「新世界」、トリコの「グルメ界」、HUNTERxHUNTERの「暗黒大陸」すべて同じ構造をもっており、「現実世界」=「主人公が保護されていない世界」である。

⑤ 上記の「新世界」の物語と「セカイ系」の物語とは、まったく異なるものである。

 

 ①と②の「主人公が保護されていない世界」が「現実世界」であるというのはどういうことか?

逆にいうと、通常の物語では主人公が保護されているということを指摘している。敵があらわれるにしても、ちょうど主人公がギリギリ倒せるぐらいの敵が順番にあらわれるし、仮にどうみても倒せなさそうな敵がでてきたとしても、なんらかの不思議な力の働きで勝ててしまうというのが、「主人公が保護されている世界」だ。

 

 まあ、物語の都合としてはあたりまえだともいえる。そんなに簡単に主人公が死んだら、物語にならない。

 しかし、そういう主人公が必ず勝つような都合のいい世界は、現実の世界とは大きく違う。ふと我に返るとリアリティがない世界だといえる。

 もっとリアリティのある、本当に主人公だって、簡単に死んでしまいそうな世界というのが、「主人公が保護されない世界」である。

 

 ただ、「主人公が保護されていない世界」においては、なにしろ主人公がすぐに死んでしまうわけだから、そのままだと物語が成立しない。すぐに最終回になってしまう。そこで③にあるように「壁」のようなものを用意する必要がある。

 

 しかも、これは進撃の巨人だけでなく、ワンピースの「新世界」をはじめとして、同時代の人気作品に共通してあらわれている特徴であるというのが④の彼らの指摘である。

 

 そして、これはたんに作劇上のテクニックのひとつで最近、流行っているとかなんかじゃなくて、もっと大きい、世の中の状況の変化を反映させた消費者の嗜好の変化なんだというのが、⑤でいう彼らの結論となる主張だ。やがて、彼らは新世界の物語を「新世界系」と呼び始める。つまり、「セカイ系」のブームというのも、ある時期の世の中の大きな流れとなる空気を投影させたものであり、「新世界系」もまた同じであり、世の中は「セカイ系」の望む空気から、「新世界系」を望む空気に変わってきているんだ、ということだ。そして、「新世界系」を表現するための物語の演出方法とはどうあるべきか。

 

 彼らは2014年から、今日に至るまで、ずっと、このテーマを議論しつづけている。

 

 さて、ここで、ではセカイ系と新世界系を求める世の中の空気とはどのようなものだったか?ということを考えたいのだが、その前に、基本的なことではあるが、世の中の空気なるものが物語に本当に決定的な影響を与えるなんてことがあるのか、ということについて確認したい。

 

 どんな時代であれ、面白いものは面白いんじゃないか?流行はあるのかもしれないが、時代なんてものがそれを決めているのか?多少はあるかもしれないが、それが決定的な要因なのか?

 

 具体的な例として、ぼくの身近に帰国子女の子がいる。ずっと海外にいたので、日本に戻ってきても、頭はいいのだが、日本語でのコミュニケーションは慣れていなくて、ほぼ不登校になってしまった。彼女が好むのがゾンビ映画のようなグロテスクな物語だ。なぜ、そうなのか?

 

 ぼくが想像するのは、彼女には現実社会が、ゾンビ映画のようなグロテスクなものに見えているんじゃないか?なにを考えているか分からないし、自分の意志もまったく伝えられない、そういう怪物たちの住む世界が、自分に襲いかかってくるように見えているんじゃないかということである。

 

 そして、そのことが彼女の抱える悩みの核心なんだろう、だからこそ、似た構造があるように見える物語に大きく反応してしまう、興味をもってしまう、ということだろう、ということだ。けっしてグロテスクな現実世界なんて好きじゃないはずなのに惹きつけられてしまうのだろう。

 

 ヒットするコンテンツに与える時代の空気の影響というのも、基本、同じ構造だろう。だとすると時代の空気なんてものは、空気という言葉の持つ軽いイメージとは裏腹に、もっと切実な同時代の人々の最大の悩みを反映したものだろうというのが、ぼくの云いたいことだ。それぐらい切実な空気しか、ある人がどうしても惹きつけられるコンテンツなんてものは生みださないし、そういうひとが大量にいることでしか、コンテンツの大ヒットを生みだすほどの影響は与えられないと、ぼくは思う。

 

 では、「セカイ系」と「新世界系」が基盤としていた時代の切実な空気とはいったいなんだろうか?

 

 「セカイ系」の物語に対して、現実がどう見えている人たちが惹きつけられたのか?それは社会が同調圧力でもって自分を利用して生き方を支配しようとしていると反発しているひとたちだろう。端的な例でいえば、いい大学へ入って、いい会社に入るために、勉強しなさい。出世するためには、もっと仕事しなさい、一人前の大人としてきちんとしなさいなど、社会が持っている価値観を押しつけられて、それが自分の幸せにつながるかどうかがはっきりしない、もっというと自分を騙して利用しようとしているだけなんじゃないか。

 

 そういう現実のモデルを、コンテンツの消費者が物語として受け入れやすい、じつは本当に自分が重要な人間であり世界の命運を握っている、そしてまわりはそれを利用しようとしているという舞台設定として提示したのが、セカイ系の物語ではないか。

 

 そしてセカイ系の物語が通用しなくなるということはどういうことか。

 セカイ系とは世界の危機を救うより、目の前の恋愛が大切なんだというメッセージに帰着することが定番であり、そのことによって視聴者はカタルシスを感じる構造になっていることが多いのだが、これは要するに、自分を利用しようとする現実を拒否してやるということの気持ち良さである。これが成立するのは拒否したあとの逃げ場所が保証されていることが前提だ。逃げ場所がないのに拒否するというのは、ほぼ手首切ったりする自傷行為に近い。

 

 社会から押しつけられる価値観を拒否したとしても、案外、人生は楽しく暮らせるという余裕が社会にあることが、セカイ系の価値観を普遍的なものにすることを可能にする。別に勉強をして、いい大学にいかなくても、一生懸命働かなくても、オタクとしてコンテンツ消費者として楽しく暮らせるじゃないか、そう思える余裕があることが、当事者たちにとっての「最大の人生の悩みが社会からの価値観の押しつけである」というひとたちの大量発生を可能にする。

 

 それが長引く日本の低迷の中で、難しくなってきた。現実がいかに厳しくてもそれから逃避することができなくなってきた。厳しい現実の中で自分たちはどうやって生き延びていけばいいのかいいか、それがまったく分からないことが最大の悩みであり、ストレスになった。そういう現実認識が世の中の多数派になってきたときには、セカイ系が生ぬるいものになり、新世界系が台頭することになった。

 

 上記の説明は、だいぶ、ぼく風のアレンジはしているが、海燕氏たちが考える新世界系が登場してくる時代の背景とは、あまり未来に希望を持てない厳しい現実に向き合う同世代の”われわれ”という世界観が浮かび上がってくる。

 

 彼らの新世界系にかかわる議論には、いろいろ面白い話が多いのだが、まあ、多すぎてまとめるのは大変なので、直近の話題を2点ほどだけ紹介する。

 

 海燕氏の最近のブログでは、セカイ系ネオリベ新自由主義)が相性がいいというトピックについて議論されていて、なるほどと思った。ようするに社会がなにかを強制するのを嫌悪して、自分たちで勝手にやっていくよ、というスタンスにおいてほぼ同じであるということだ。(海燕氏自身のアイデアというよりは、彼が紹介した記事の中で指摘されていたことについての議論)

 

 もうひとつはペトロニウス氏のブログで、新世界系の特徴として、世界の秘密はどうでもよくて、そのなかで主人公たちがどう生きたのか、その生き様と仲間達のキズナを描くのが重要であるという推測が、連載を終了した鬼滅の刃でも実際、そのとおりになっていて、正しさが裏付けられた、という主張だ。

 

 詳しくは彼らのブログを見て欲しい。

 

海燕氏のブログ 

ch.nicovideo.jp

ペトロニウス氏のブログ

petronius.hatenablog.com

 

 というわけで今回の記事を終わるが、最後に今回の記事のタイトルについて説明する。セカイ系と呼ばれる作品はたくさんあるが、セカイ系の成功を世の中に印象づけたのは、なんといっても、エヴァンゲリオンの大ヒットだろう。当時、ぼくのまわりにも、何人もの「シンジ君とはぼくのことだ」という友達がいたことを覚えている。当時のエヴァンゲリオンは社会から逃げるシンジ君を肯定する物語として、世の中に受け止められていたということだろう。

 

 当の庵野監督はというとエヴァンゲリオンのそういう解釈のされかたには、必ずしも本意ではなかったように見える。実際のところ、いまになってエヴァンゲリオンを思い返してみると、海燕氏らが主張する新世界系の特徴の多くは、すでにテレビ版のエヴァンゲリオンの中に存在しているように思える。

 

 海燕氏らはセカイ系と新世界系はまったく違うものとして捉えているが、実際のところ変わったのは消費者側のマインドであって、作品そのものとしては、同じエヴァンゲリオン庵野監督が描いたものが、2,30年をかけて、違ったかたちで(おそらくは、より作者の意図に近いかたちで)世の中に受容されただけじゃないか、そんなこと考えて、あえて海燕氏たちが呼ぶ「新世界系」を、カタカナで「シン・セカイ系」と書いてみることにした。

 

 というわけで正しいのは「新世界系」だ。