人間の本体は心臓でもなければ脳でもないという価値観

AIとはなにかということを、真剣に考え始めたのは、6年前からだ。AIとはなにかというテーマを突き詰めていくと、そもそも人間の知性とはなにか、という疑問にぶちあたる。

 

人間の知性を将来はコンピュータに搭載された人工知能が超えてしまうという想像はコンピュータの登場とともに誕生していて、なにも新しいことではない。事実、コンピュータは発明された瞬間に、計算能力においては人間を軽く超えていた。

 

計算能力で劣っているにも関わらず知性において人間がコンピュータに負けてないと思うのは少し奇妙なことでもある。人間の脳の機能の進化において、数字を扱って、計算できるようになったのはかなり最近のことのようだ。人間の脳にとっては、足し算とかかけ算は、最新のバージョンアップで、やっと可能になった最先端の高度な情報処理能力であって、それでコンピュータに負けてしまったということだ。

 

人間がコンピュータには直感はないとか、心はないとか、意識はないとか、感情はないとかいって、コンピュータに知性では負けてないというのは、生物の進化として考えた場合に、より原始的な能力においては、まだ、負けてないと主張することを意味する。

 

そもそも知性とはなんなのか?人間が漠然と考えている知性にたいして持っているイメージが、そもそも正しくないのじゃないだろうか。

 

いろいろはしょって、ぼくが考えたひとつの結論を書くと、世間一般で思われている知性というものの実体のかなりの部分は、個々の人間は持っていなくて、社会が持っているものであるということだ。とくに人間が高度な知性の証だと考えるものほど、実体は社会にあって、ひとりひとりの人間は持っていない。

 

多くの人間が考えている知性なるものの実体は、ほぼ社会側にあり、個々の人間は、(たとえ優秀な人間であったとしても)そのほんの一部分をコピーしているだけで、なんとなく自分の脳が本当にもっているより、はるかに大きな知性があると思い込んでいるのが人間という存在だ。そう考えるべきだとぼくは思う。

 

そして、近年の機械学習の研究の爆発的な発展を眺めていて、(ここは専門の研究者でも異論があるひとは多いだろうが)、人間の直感や創造性、感情や意識にいたるまで、そこまで複雑なものではなく、どうやら、意外と簡単な原理でモデル化できそうだという予想を、ぼくは持っている。

 

このあたりの詳細や、知性と肉体としての人間との関係をどう考えるべきかとかについて書きたいことは、山ほどあるのだが長くなるのでやめて、今回は、今日書いた人間の知性は社会の知性の部分的なコピーであるという考え方が、近未来の社会に与える影響について書こうと思う。(社会の知性とはなにか。便宜上、そう呼ぶが、なにを指すかはこのあとの文章から適当に想像してほしい)

 

まず、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像は、今後、かなり一般的なものになると予想する。

 

理由の第一は、まず、事実として、より正しい見方であるだろうことだ。人間は個人としての人間全体の知性の集合が社会の知性であると思いたがる傾向があるが、社会の知性の起源がかりにすべて人間であったとしても、かなりの人間はすでに過去に死んでいる。また、個々の人間というよりは集団としての人間とそのときの社会の知性との相互作用によって、社会の知性は進化しているので、社会の知性は単純な人間の知性の合算ではありえない。さらに現在においては社会の知性のかなりの割合が、人間そのものではなく人間がつくった道具、コンピュータなどから生成されていると考えたほうが適当だろう。社会の知性というものを人間とは独立した存在として認識するのは正しい方向性であると考える。

 

理由の第二は、今後のAIによっておこなわれるだろう教育の発展だ。社会の知性のごく小さなコピーが人間の知性だというなら、コピーする手段の代表的な手法は教育だ。今後発展するだろうAIとさらにはVRの組み合わせは、人間になにかを教えた時に、相手が本当に理解しているか、どこまで理解しているかを正確に判断できる教育システムの開発を可能にする。そうなると、あるレベルの人間に何時間の教育をほどこせば、なにを覚えられるかが、およそシミュレートできるようになる。まさに知性を人間にインストールする時代がやってくる。もちろんAI+VR教育システムの進化は段階的にしか進まないだろうが、そういう世の中になっていく流れが明確になってくるなかで知性の本体の発明者が人間であるという考え方を維持するのは多くの人間にとっては次第に難しくなるだろう。

 

理由の第三は、人間の知性の外部化が、今後、なし崩し的に進むことだ。すでに知識は暗記するよりも検索したほうが早いと考える人間が増えている。ネットを通じて取得する情報は事前にAIによってフィルタリングされ、リコメンドされ、”外部の知性”によって加工されている。今後、その”外部の知性”の能力は拡大する一方だろう。もちろん人間はそういった外部の知性も自分の能力であると思い込む能力を発達させるだろうが、一方で自分の知性が自分の肉体と脳に完全に紐付いたものであるという認識は、やはり次第に難しくなっていくだろう。

 

理由の第四は、人間の遺伝子組み換え技術の普及だ。おそらく病気や障害の除去という大義名分をきっかけに自分の子どもの遺伝子をカスタマイズすることはあたりまえになる。はじまってしまえば、ついでに頭をよくしたりとか、プラスの遺伝子を追加することが容認されるようになるまでは一瞬だ。自由に子どもの遺伝子をカスタマイズできる世の中で、子どもは自分の遺伝子を受け継いだ生物であるという概念自体が成立しにくくなってくる。そうなると人間にとって生物学的な肉体は、たんなる知性の乗り物であるという見方が優勢になってくると予想する。じゃあ、知性はどこからうけつがれるかというと

 

 

さて、人間の知性は社会の知性の部分的なコピーにすぎないという描像が社会の中で一般化すると、なにが起こるのか。

 

ぼくはこれが人間社会の根本的な変化をもたらす原動力になる、ないしは変化の下地をつくることになる決定的な価値観の変化だと思っている。

 

人類という種が次に進化をするとすれば、生物学的な進化ではなく、工学的な進化である可能性が高い。主な可能性はつぎの3つぐらいであり、おそらくすべて実現する。

 

・遺伝子の組み替え。

・人体のサイボーグ化。

・脳の機能をコンピュータに置き換える

 

どれもやるメリットがあり、障害となるのはおもに人間の倫理と生理的嫌悪感だ。

 

 遺伝子の組み換えははじまってしまえばあっというまに普及する。まずは遺伝病や奇形などの遺伝子の欠陥を修正するためという大義名分ではじまる。そうなるとついでにちょっと頭をよくしたりとか、体の歪みを直した結果として体形が良くなったり、顔がよくなったりとか、とめどがなくなるのは目に見えている。

 人体のサイボーグ化を後押しするのは高齢化社会だ。技術的な問題が解決すれば、老化した体を置き換える心理的な抵抗はそれほど大きくはならないだろう。むしろ技術がどこまで発達するかのほうが重要なポイントになる。

 

 3つのうち人間が最後まで決断ができないのは脳の機能をコンピュータに置き換えるということだろう。はたして、それは人間なのか、自分自身なのかについては、さすがに乗り越えるのは大きすぎる心理的ハードルだ。しかしながら、いきなり脳をすべてコンピュータに置き換えるような技術はどうせ不可能だ。したがって、脳の機能の置換は、段階的に進むことになる。それは確実に起こる。段階的といったって、脳に電極を差したり、チップを埋め込んだりするのは嫌だろうと思うかもしれないが、実はそれは必要がない。まず、上に書いたように脳に電極を差すまでもなく、人間の知性の外部化はインターネット上のクラウドサービスを通じて、現在でもすでに進行中だ。そして次の決定的な変化の段階でも実は脳に電極を差す必要はない。次の段階とは人間社会の仮想化、つまりVR社会の到来だ。人間がVR社会でのアバター化をしたときに、事実上、脳の機能をAIに代行させることが容易になる。人間の分身であるアバターの操作をAIに自動運転させるわけだ。本人と見分けがつかない声で喋らせることも現状で完成している技術の延長線上で十分に可能だ。人間はVR社会では人間同士のコミュニケーションもAIに代行・媒介させることが可能になる。それは需要も実用性もあるので確実に技術が発展する。そして、それは実質的には人間の脳の機能をAIで置換することに他ならない。

 

 最終的に人間が脳も含めた肉体を捨てる決断を可能にするのは、自分の肉体、とくに脳と自分自身の意識が別に一体不可分のものではないと思えるかどうかにかかっている。自分自身の意識とは、たまたま人間の脳に寄生した情報的な生物であり、自分たちは遺伝子ではなくミームで繁殖している存在だ。自分たちの本体は社会にある知性だ。そう思えるかどうかだ。そういう価値観、認識の変化が起こりえるかどうか。それは現在の常識ではなさそうにみえるが、おそらく今世紀中には確実に起こるだろうというのが、ぼくの予想だ。

 

 ここに書いたことは歴史的な必然として起こると思っている。そして、それは不可逆な変化になる。しかしながら、人間が脳を捨てたら、それはもはや現在の意味での人間とは別の存在だろう。ある意味での人類の歴史の終わりだ。

 

 そういう未来が避けられないものだとしても、それは未来の人類にとっての幸せを意味するものだとしても、なにも生き急がなくてもいいんじゃないかとぼくは思っている。

 人類にとって、いちどしかない”人類生”なんだから、途中の風景を楽しみながら、もっとのんびり歩いたほうがいい。