情報公開で国が滅ぶ理由

検索用に残しておいたツイッターアカウントで、たまに呟くことがあるのだが、1ヶ月前のツイートをなにか別に気に入らないことがあったのか山本一郎氏に晒されて、プチ炎上した。ネットの炎上では、前後の文脈とかまったく読まず脊髄反射で書き込むひとが大半だ。それが拡散されて、誤解、曲解が事実としてまかりとおるという性質がある。

 

ぼくとしては自分が発言した内容を曲げるつもりはまったくないので、切りとられやすいツイッターではなく、ここであらためて考えをまとめて書こうと思う。

 

さて、情報公開というキーワードは基本ポジティブに受け取るひとが世の中の大半だろう。とくに権力をもっている組織に対して情報公開をしろという主張はまったくの正論に聞こえて、だれも表だって反対をできない。

ここが問題だ。実は日本の今の情報公開の制度には大きな問題があって、実際に関わっているひとは、これじゃだめだと思っていて文句をいっている。でも、情報公開は社会的な正義であるため、情報公開を後退させることにつながる議論はまったくできない状態で、情報公開制度の問題点も世の中にほとんどでてこない。

 

そもそもなぜ情報公開をするべきなのか、もちろんそれは社会の権力をもっている側が公平な運用をおこなっているか、不正を働いていないかを監視するためだ。

 

それはもちろんいいことだし、必要なことだとみんな思うだろう。じゃあ、情報公開は正義なうえに必要なことだから、いいことばかりかというと、そうではない。情報公開をおこなうデメリットも当然あるということを認識する必要がある。

 

先にぼくの主張の結論を書くと、現状の情報公開制度は本来目指したいメリットは、ほとんど得られない上に、デメリットだけはとても大きいということだ。

 

まずデメリットのほうを整理しよう。

ひとつは情報公開をする事務作業が非常に膨大になってしまっていることだ。とくに情報公開を要求する側のコストがほとんどないにも関わらず、情報公開請求に応える事務作業が大変すぎてコストのバランスがアンバランスになっていることが問題だ。情報公開制度を利用する側はどんなひとか?ひとつは野党であり、メディアでありジャーナリストだ。彼らが情報公開をおこなう動機は、まったく問題ないですと褒めることではあるわけがなく、当然、なにか騒ぎ立てられるような粗探しをすることだ。基本、粗探しをするネタを探して、とりあえずあらゆるすべての情報を出せと要求することになる。要求するの簡単だ。費用もかからない。そんなんだから、おそらくだが、とりあえず全部の資料を出せと要求するもののもらった資料の中でちゃんと分析しているのは一部じゃないかと思う。ほとんどの資料は見てないことが多いんじゃないか?しかし、そんなかんじでつくられる膨大な資料作成はすべて国民の税金で支払われることになる。ちゃんとした目的のある野党やメディアはまだましで、一般人も興味本位や趣味で情報開示請求ができる。くり返すが請求するのはコストはかからない。一週間かけて開示資料を完成させても、そのころには興味がなくなっていて、連絡しても取りに来ないこともあるという。

しかも、情報開示を求めることで不利益が生じないように匿名性も守られていて、だれでもできるし、だれが開示請求しているか、担当部署は基本的には分からない。外国人でもかまわない。情報公開する側が非常にモラルハザードを起こしやすい仕組みになっている。さらなる悪用を想像すると、日本の行政を麻痺させようと思ったら、原発テロなんて必要なくて、組織的に情報開示請求を連発すればいい。合法的だし、お金もかからない。

 

しかし情報開示を役所側がおこなうのはそんな大変なのかと思う人もいるだろう。資料を見せるだけじゃないか?実は開示対象になっている資料のほとんどは紙ベースで管理されていて、電子化がほとんどされていない。

 

したがって情報開示請求があるとなにがおこるかというと、膨大な資料を補完してある倉庫から該当する資料を探し出すということを人間がやることになる。いや、倉庫とかあればいいほうで、みんな保管場所に困っているので、資料用の部屋とかいくつも保管場所が分散していて、それを探すことになる。それがまず大変な仕事となる。

 

資料を探し出せたとする。そこからが本番の仕事のスタートだ。開示する資料は国民のプライバシーに関する部分は公開しなくてもいいというか、してはいけないというルールになっている。個人名、会社名が特定される文言はすべて塗りつぶすという重要な仕事をしなければいけない。これがなぜ重要なのかというと、基本、情報開示請求をしてくるひとは粗探しを目的としているからだ、もし塗りつぶすべき箇所を塗りつぶさなくて、それが国会などで問題になったら大変な責任になる。したがって、開示資料から個人名と会社名など特定できる情報を黒く塗りつぶすというきわめて重要な仕事は下っ端の人間には任せられない。役所の中でも責任有るポジションで優秀な人間がやるべき最優先の仕事になる。

そして優秀な人間が黒く塗りつぶしまくった開示資料は塗りつぶされた部分ばかりで、さっぱりなにが書いてあるか分からない。

 

つまり現行の情報公開制度は、請求する側がすごく気軽に国の最も優秀な人材にすごくくだらない無駄な仕事をさせることができるという仕組みになっている。

 

メリットが少ないという話をする。

まず現状、情報開示請求ででてくるのは時間がかかるわりには、黒く塗りつぶされて主語と目的語の多くが消えたどうやら日本語だということは分かる文章だ。そしていまは公開対象になる文書自体の作成には非常に慎重になっている。つまり、公開対象の文書は粗探しの余地が少ないようにつくられる。明らかにおかしい決定をおこなった文書を見つけるのは難しくなる。本当の問題があったとしてもなかなかでてこない。粗探ししたい側はしょうがないので、重箱の隅をつつき始める。どんどんくだらない問題が問題として発見できる世の中になるということだ。

 

情報公開とは話は変わるが、政治とカネの問題はなかなか解決しない、とか聞き飽きたフレーズ、みなさんも報道で記憶にあるだろう。実際には戦後から現在にいたるまでメディアの追求により、あからさまな汚職はほとんど姿を消している。かといってメディアは政治家を褒めたりはしないから、つねに粗探しを続けることになる。したがって、政治とカネの問題はなかなか解決できないとニュースではコメンテーターがしたり顔に感想をいうわけだが、問題となっているお金の金額はどんどん小さくなっていき、どんどんくだらない”事件”を発見されて政治家は失脚することになる。

 

いまの情報公開制度では国民の監視により、今後もよりくだらない”事件”が見付かるようになるだけだ。

 

いくつか当然にあるだろう反論についても応えておく。

 

まず情報公開をやめると結論になるのはおかしくて、むしろ問題は情報公開制度がまだまだ未熟だし、改善すべきという結論になるべきではないかという類の指摘だ。これについては同意できる部分もある。まあ、しかし改善は今の日本じゃ構造的に難しいじゃないのかというのが僕の意見だ。森友加計問題では、いろいろ明らかになったことがあった。ひとつは政治家を利用しようと近づく悪い人間はいるという事実。そしてもうひとつは国有地の売却が非常にいいかげんなプロセスでおこなわれているという事実。しかしながら、そういう事実が分かりながら、そっちのほうに議論はまったくいかなかった。世の中はある情報が明らかになったことにより不正や矛盾をなくすということを選ばず、それを安倍政権を倒す口実につかうことを選んだということだ。

 

現時点でも目的をもって現政権になんくせをつける口実にしか使われていないのに、情報公開をすすめても、同じことがもっと大規模におこるだけだというのが予想される現実ではないか?

 

もうひとつそもそも開示情報が電子化されていないのが問題ではないか、情報公開のコストを下げるべきだという観点だ。これはまったくもって正しい、いまのように開示請求が自由に制度を維持するなら、感じ対象にするべき情報は、電子化されていて開示の為のコストが0のものに限定すべきだと思う。

しかし、そのためには開示される側がみだりに粗探しをしない、できないようにならないと現実には機能しないだろう。現状だと、そのリスクが大きすぎて、むしろ情報公開制度が役所の文書の電子化を阻む大きな要因となっている。電子化されて簡単にみれる場所に、すぐに揚げ足をとられるような文書を置くわけがない。重要な情報は別の形で保存するか、もしくは保存して大丈夫な文書か、何度も会議をして内容を確認してから保存する。そんなことになるに決まっている。まあ、それならそれで無理矢理やらせろという意見もありそうだが、現実的には無理だと思う。

 

そもそも詳細な報告を文書に残して、世間に公開するということはどういうことか、これは一般の企業の場合でいうと、いってみればマイクロマネジメントをやるということだ。

 

つまりは世間が役人の上司となってマイクロマネジメントをやるということだろう。

一般にマイクロマネジメントをやるとどうなるか、部下は自分で考えなくなる。仕事をちゃんとやろうではなく、形式的な指示通りにやることを重視するようになる。したがってマイクロマネジメントをやるということは上司の負担が増える。上司がちゃんと指示をしないと仕事をしなくなる。情報公開制度を進めるということは、上司が指示しないで文句ばかりいうというマイクロマネジメントをやるということに等しい。

真面目に仕事をやろうとするひとほどやる気をなくす仕組みだ。

 

情報公開による不正を減らすという目的は、究極的には国民の税金の無駄遣いを減らすということが一番大事だろう。不公平をなくすということは大事だとしても、平等にお金を無駄遣いするというのが目的ではないはずだ。

 

いったい情報公開によって社会をどうしたいのか、現状の制度ではなにが起こっているのか、これからどうなるのか、情報公開=絶対的な善という思考停止に陥らず、冷静な議論が必要に思う。

 

以上