人間は他人の能力をどうやって評価しているか

ふと、思い立って、先週からダイエットを始めた。ちょうど初めて1週間だが、あっという間に効果がでている。

鏡を見ると心なしか顔のラインがすっきりしてきたような気がするし、昼間の会議でも明らかに頭の回転が鈍っていて、確実に血液中の糖分濃度が下がっている証拠だろう。

夜の会食でも、最近は年のせいか、なかなかコースで出てくる料理の全てを平らげるのが苦痛になってきていたのだが、ダイエットを始めてからすっかり食欲も回復し、先週あった3回の会食でも、大変美味しくいただけて、ほぼ完食することに成功した。

 

ダイエットすると寝付きが悪くなるらしい。朝早く目覚めたついでにひさびさにブログを書いてみようと思う。

しかし1年ぐらいブログを書いてなかったような気がするが、ネットをやめると本当に仕事が捗って素晴らしい。

というか、ネットをやると仕事にならない。

ネットサーフィンなど、ただでさえ無駄な情報ばっかり気がつくと読んでるものだが、ブログやツイッターで情報を発信すると、ネットの世界で最もくだらない情報検索として知られているエゴサーチの時間が大量に発生するので、マジで仕事にならない。

 

ほんと、ブログもツイッターもやめて、この1年ぐらいは僕の人生の中でも珍しく、比較的に真面目に仕事をしているのだ。

 

脱線した。いや、脱線というよりは、むしろ本題にまったく入ってない。

 

最近の話題というとやっぱりトランプ大統領の登場が衝撃だった。この事件についてのコメントでは三浦瑠璃さんのブログ記事が面白かったのだが、内容については彼女の記事を読んでいただくとして、ぼくが興味深かったのは彼女の記事の最後に唐突に現れた一文だ。

 

と思って、いま、確認したら、ちょっと表現が修正されているようだ。まあ、要するに彼女のような社会的にも認められ成功しているような女性でも、日本の社会は明らかに女性差別があり不利である(つまりトランプの女性蔑視発言を問題視する資格があるのか)という認識を持っていて、思わずそれを口にせずにはいられなかったということだ。

 

僕の会社の中でも女性社員の能力を男性上司が過小評価する傾向があることは何度も目にしてきた。女性を昇進させることにそんなに抵抗があるのかと思って、いろいろヒアリングすると、必ずしも本人にはそんな自覚はなく、本当にその有能に見える女性社員の能力を低いと信じていることが分かった。

 

まあ、もう何十年になるぼくの社会人経験に照らし合わせても、ほぼ確実に仕事において女性差別と女性の能力に対する過小評価は日本社会に存在するのは間違いない。

 

女性差別については、本人にそういう差別意識があるからだということで是非はともかくとして、とりあえずの理解はできる。女性差別意識をもつ人間がこの世界にはいて、実際に女性差別をしている、というだけの話で、現象としては不思議はない。

 

不思議なのは、女性の能力が低いという心から思っている「確信」が、いったいどういう根拠から来ているのかということである。

 

これについては結論からいうと、人間は他人の能力をパターン認識で見積もっているからだと、僕はおもっている。

 

エンジニアやある種の専門家によくいるのが、「話せば相手のレベルの分かる」というひとたちだ。

 

会話をしていれば、相手のある専門分野においての能力がどれくらいか、だいたいは見積もれるという主張だ。

 

こういった場合、なにを基準に判断しているかというと、相手がどのくらいの専門用語を知っているかと、その使い方が(主観的に)正しいか、である。

 

こういう専門家たちに、専門に関わる話を素人がする場合には、話の内容よりも、まず、この専門用語を知っているかというフィルターにかけられる。知っていないと、分かっていない素人と判断されて、話をちゃんと聞いて貰えない。

 

つまり、例え、ある問題の本質を専門家よりも深く理解をしていたとしても、専門家の使う専門用語とその意味に従って会話ができない限り、専門家には認められないということになる。

 

多くの場合に、専門家に限らず人間はこういう用語によるパターン認識で、話相手の能力を見積もるというフィルタリングを無意識のうちにおこなっている。

 

このフィルタリングは、”ある前提条件”の元では、だいたい正しい。ある前提とは、普遍的な知識体系が存在していて、相手がそれを学習している場合、もしくは、ひとりではできず他人と意思疎通をしながら協力して仕事をしなければならないケースだ。

 

こういった場合は専門用語を沢山知っていて、使い方も間違っていないという判断だけで相手の能力をだいたい正確に推量することができるだろう。

 

逆にいうと、それ以外のケースでは、この用語のパターン認識による能力の推定は、本当はあんまり役に立たないはずだ。

 

さて、そもそも、この人間が他人の能力を推定するときに使っている上記のようなパターン認識であるが、本来は自分の仲間とそれ以外を区別するためのものを転用していると、僕は考えている。

 

人間のような社会的生物の場合、自分の群れとそれ以外を区別することはとても重要であり、おそらくは本能に組み込まれいる行動だ。

 

アリの場合は、匂いで自分の巣のアリか、よその巣のアリかを区別するという。だから、自分の巣の匂いを十分にまぶしたよその巣のアリは区別できなくて攻撃しないらしい。

 

人間の場合は匂いもひょっとしたら少しはあるかもしれないが、もっと多彩であり、言語や仕草や行動様式などさまざまな要素でパターン認識していて、自分の仲間かそうでないかを区別しているのだと思われる。

 

組織に受け入れられるためには、能力だけでなく、その集団の”流儀”にもなじまないと仲間にいれてもらえないというのはよくある話だ。

 

人間はこういう本来は仲間かそうでないかを区別するためのパターン認識を、能力の推定のためにも援用しているというのがぼくの仮説だ。そのため能力とは本来は関係のない仲間と区別するための特徴も、能力の一部だと思い込みやすいバイアスがかかっているに違いない。

 

男性社会においては女性であるというだけで能力が低いと判断されてしまうのだ。

 

仲間であるかどうかで相手の能力を低く見積もる傾向は、初期の将棋電王戦においても観察された。コンピュータの指す将棋について、人間とは”やりかた”が違っている。プロ棋士はそう指さない。という言葉がコンピュータはそれほど強いとは思わないという文脈で、よく使われた。アルファ碁の解説でも同じような傾向があった。イ・セドルとの対戦で、アルファ碁がへんな手を打つとか、最初は馬鹿にしていたのが、強いと分かると逆に今度はそれが人智の及ばない神の一手だと、手のひらを返した。人間は自分のやりかたと違うだけで、相手の能力を低く見積もるのである。

 

この自分の仲間であるかどうかと、相手の能力を推量する、ということを同じ機構で判断していることによる混同は、ネット社会の争いを観察しても、すぐに発見できる。

 

原発推進派と反対派、ネトウヨとしばき隊。多くの場合、彼らがおこなっているのは議論ではなく、相手が仲間かそうでないかのパターン認識だ。それぞれ自分たちが信じる”真実”を相手が理解していないから、能力が低いと馬鹿にしている。

 

 

というようなふうに考えると、いろいろ世の中のことがスッキリ理解できるというようなことを先週は考えていた。

 

長く話が脱線したが、今回はダイエットの進捗報告でした。