人の心を試してはいけないのはなぜか。

今朝、ラジオで荒井由美の昔の曲を紹介していたひとが、「人の心を試してはいけない」といっていた言葉が心に残った。「それはとても失礼だから」ということらしい。それは感覚的にはとても納得する言葉で、人生を長く生きた人間の重みを感じさせる言葉だったのだが、なにしろ、ぼくは理系人間なので、もうちょっと理路整然とした理屈はないものかが気になったので考えてみた。

「人の心を試してはいけない」

友人や恋人や恩人、はては肉親ですらも人間はつい試そうとする。彼らが本当に自分に抱いている気持ちを確かめたくなる。愛情を持ってくれているのか、本当は自分のことが嫌いじゃないのか、自分を裏切ったりしないかが気になってしょうがない。

気になるから試しちゃうことのなにがいけないのだろうか。

実利的に考えると、他人を試しているのが相手にばれると嫌われる、というのがわかりやすい。
あ、結論がでてしまった。身もふたもない。
付け加えていうと、相手だけじゃなく、自分のまわりからの評判もだいたい悪くなる。これは損だ。

もうちょっと高尚な説明はないだろうか。

類似の言い回しに「神を試してはいけない」というのがある。

これは神が本当にいるならばXXXするはずだ、という前提で行動することだ。神が本当にいるかどうかを試すわけだ。

では、この場合、「神を試してはいけない」というのはなぜだろう。

宗教側の立場からいうと、神を試されて困る理由は明白だ。神が本当はいないことがばれてしまうからだ。無神論をふりかざしたいわけじゃないので、もうちょい表現を変えると、”みんなが想像し期待するような”神はいない、ということが分かってしまう。

「人の心を試してはいけない」理由も同じだろう。みんなが想像し期待するような人の心なんて存在しないことがばれてしまうからだ。あなたが期待する愛情や信頼なんて、相手は本当は持っていない、ということが分かってしまうからに違いない。

まあ、だいたい、そういう疑いを他人にかけて試すようなひとのほうが、相手からみたら裏切りみたいなものだから、言わずもがなである。

人間は他人からは無条件かつ無限な愛情表現や信頼を与えられたいと願うのに、自分が他人に与える愛情や信頼は条件付きであって有限であるものだ。これは人間の心の本質であって、おそらくは本能的なものだから容易には変えられない。

みんな自分にできないことを他人の心に求めているんだから、「人の心を試してはいけない」ということにしないと社会的に都合が悪いのは当たり前だろう。

愛情あふれる肉親や恋人、信頼あふれる仲間なんていうものは自分の脳内のシナプスのパターン上にしか存在していない。神も同じだろう。現代科学の常識から一番矛盾のない神の存在場所を考えると、やはり自分の脳内であるという結論がいちばんしっくりくる。

神も(自分の理想とする)他人も自分の脳内にしか存在しないのである。

さて、そうすると、人間関係で他人を信頼するということは神を信じるのと同じであるという言い方もできるだろう。本当はたぶん存在しないものを信じるということであり、自分の内なる神であり他人を信じるということだ。

ここで人間としてはふたつの道がある。

神も他人も存在しないのだから信じないという道。現実はどうあれ自分の心の中にある神や他人を信じるという道。

少なくとも自分が潜在意識の中で他人に望んでいるのは後者の道だろう。現実のろくでもない自分なんか関係なく自分を受け入れてほしい、愛していてほしい、信用していてほしいと望む。そんな感情を人間は本能として持っている。

だったら、自分自身もまた現実の相手の心なんか、おかまいなしに、相手を受け入れて、愛して、信用すべきだろう。

自分が望んでいる人間関係ってそれでしょ?偽りかもしれないけど、それを本当のことにしたいんでしょ。自分もそして相手も。だったら、そういうことにすればいいじゃない。疑ったらすべてが台無しになる。

「人の心を試してはいけない」

よし、なんか、説明できた気がする。