この世は夢かうつつかを高校生みたいに考えてみた

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最近、ぼくのまわりでは養老孟司さんの「唯脳論」がブームである。ぼくのまわりというか正確には、ぼくともうひとり某Sさんとの間で唯脳論に関する話題が熱くて、もう2ヶ月ぐらい、思い出したように繰り返し議論している。なんだか、高校生のころみたいだなあ、となかなか楽しいのだ。

 

このブログはだいたい文章が長いし理屈っぽいので、きっと理屈っぽいのが嫌いではないひとが多く読んでいるのだと思う。

 

そして理屈っぽいのが嫌いじゃないひとは、きっと、高校生のころ、同じく理屈っぽいのが嫌いじゃないクラスメイトときっといろんなテーマを議論しあったに違いない。どうして、大人になったら、こういう熱い議論ができないのか?いくつか理由を考えみると、まず、恋愛論や友情論なんかが大人になるとできないのはわかりやすい。ひとことでいうと、大人になると、こっぱずかしくてできなくなる。人生とは人間の生きる意味はなにかというようなちょっと哲学的な話、相対論とか量子力学って本当に正しいの?とか人工知能は人間を超えられるかみたいな理系的な話はどうだろうか?やっぱ書いてて思ったけど、これもこっぱずかしいよね。でも、それ以前に大人になると話せる相手がだんだんいなくなるというのが大きいと思う。自分のまわりの人間だけだと飽きてもくるし、興味と知識のレベルがだんだんと合わなくなってくる。

 

さて、「唯脳論」の話に戻る。これは書いてあるテーマが難しいので読むのが大変だけど、実はものすごくわかりやすい本だ。ものすごく難しいテーマをとても簡単に書いてあるのが、すごい。でも、結局、読みやすいかといわれると、養老さん最大のベストセラー「バカの壁」よりは10倍以上は読みにくいだろう。でも、養老さんが数ある著書の中でもこれこそ読んで欲しいと思っている自信作である。

 

そして20年前の本である。でも、去年書かれたといわれても信じてしまうぐらいに今読んでも画期的な本に見える。実は今月、あることで養老さんと同席できる機会があり、5分ぐらいか会話させていただいた。チャンスと思って、いくつかの唯脳論の疑問をぶつけてみたのだ。ひとつは20年後のいまでも画期的に見えるということは唯脳論は結局日本の世の中には理解されなかったのではないか、養老さん自身がどう思っているかを聞いてみたのだ。もうひとつは本の中で明らかに養老さん自身がいくつかの結論を出していると思うのに、結論を断言するのを慎重に避けている。これはなぜか、ということである。養老さんはその場で明快に答えていただいてやっぱりこの人はすごいと感動したのだが、なんといったかについては、ここで書くのはフェアではないので、みなさんの想像にお任せしたい。

 

唯脳論はわかりやすいが奥が深い本だ。そういう意味で解説が面白い。澤口俊之さんという脳科学者が書いているのだが、なんと、唯脳論は難解でぼくには分からない、と弱音を吐いているのだ。しかも、どう読んでも、この澤口さんは自分は唯脳論を理解しているはずだと思っているのが文章から伝わってくる。実際、解説を読んでもとくに間違って唯脳論を読んでいるようにはまったくみえない。でも、本人は養老さんの思考は深くて自分には理解できないとも書いてあるのだ。きっと、これは養老さんと澤口さんが会って話したことがあって、そのときになんか養老さんに、わかってない、なんてことをいわれたんじゃないかと邪推してしまうのだ。では、じゃあ、だとすると、澤口さんが理解していないと養老さんが思ったポイントがあるとすると、いったいどこなんだろうと、想像するととても楽しい。

 

やっぱり無責任に偉そうに想像して断言するのは本当に楽しいよね。というわけで、ぼくの予想をどうしても書きたくなったのでちょっとだけ書く。読んでない人でも、わかりやすくするために、ここでぼくは唯脳論とは、ある同じことを三段論法で主張している本であると、勝手に断言することにしよう。

 

唯脳論 レベル1

 

まず、人間の思考そのものは当然ながら脳というハードウェアに大きく依存している、というのがある。だから、人間が世界を認識するとき、脳の外に”世界という現実”があるという前提で考えたがるが、実際には脳の中にある”世界という現実”を見ているだけなんだ、という主張である。これについては、まあ、こういう話が好きな理系人間だけでなく、アニメとかSFとかのサブカル好きにも納得できる内容だろう。

 

唯脳論 レベル2

 

そう考えると、人間が世界をどれだけ認識できるかで、次第に人間が世界を認識するために使っている脳が持つ思考方法自体の限界が問題となってくるのは自明である。ちなみに唯脳論では、人間の思考の基本には、視覚と聴覚があり、人間の自意識はこのふたつで世の中を理解するときに、「構造」と「機能」のふたつの切り口で考えるのはそれぞれ視覚と聴覚に対応しているのではないかと指摘している。構造とは時間軸のない3次元の情報のことであり、機能とはあるデータが時間軸にそってどういうように変化するかという情報である。それぞれ視覚と聴覚に対応して進化した脳の機能であるという推測である。視覚と聴覚の情報処理から人間の自我や言語が生まれたに違いないという話は面白いので、ぜひ、唯脳論そのものを読んでほしいのだが、とりあえず、ここでは、人間の脳があるアーキテクチャーのハードウェアに依存して動作している以上、可能な情報処理には当然ながら限界があるだろう、というところに着目したい。まあ、このことはゲーデルの不完全定理以降は結構議論されるテーマだから、異論も少ないと思う。別のいいかたをすると、”世界の情報”を脳内モデルで再構成しているというのが、人間がやっていることだから、データ圧縮という観点からみても、世界を理解するというのがいかに無謀な試みかがわかるというものだ。

 

唯脳論 レベル3

 

上記ふたつのことはあらためて説明されるとそうだよね。と、少なくとも唯脳論がでて20年後の現在であれば、頷くような話だが、実は世の中のほとんどの人間はちゃんとつきつめては理解していない、ということが養老さんがもっともいいたかったことじゃないかというのが、ぼくの推測だ。たとえば唯脳論のなかで養老さんが割とページを割いて批判しているのが進化論のとらえ方だ。いまの多くの進化論の理解の仕方は宗教と同じだと書いている。進化論という真理が現実にあるという思い込みについてを批判している。現実と同じレベルで真理が存在すると思っていることを批判している。真理とは実は脳の中にある回路なのだ。脳の中にある回路を現実と混同して真理だと思い込んでいる。なぜ、そう思いこみたがるかについては、脳はそういうものなのだということを認識すべきである。ということが唯脳論の主張の核じゃないかと思うのだ。そして、なるほどそういう風に理解すればいいのかとポンと手を打った読者へ、そう分かったと思っているおまえはいったいどこにいるんだ?ということをいいたい気持ちなんじゃないかと思う。陳腐なそれっぽい言葉で言い切ってみせると、自己言及のパラドックスが真理を求める人間の思考の根本にある。それは現代の一流の学者であってもそのことへの認識は甘い、そう養老さんはいいたいのではないか?

 

これらはぼくの勝手な解釈で有り、想像だ。実際のところはなにがどう唯脳論に書かれているのか。もっと面白い推論や実例がたくさんあるので、ぜひご自分で原書で読んで考えていただきたい。幸いなことに原書は日本語で書かれている。

 

閑話休題ということで、とにかく唯脳論は考えさせる本だ。書いてある内容もそうだし、それによって自分が持っていた常識や考え方、生き方についても、いったいなんだったんだろうと考えさせる奥が深い本だ。

 

人間の脳はあたりまえだが完全ではない。唯脳論で批判されている主客の転倒は日常生活の中でもいたるところで見られる。昨年、さすがにネットでも批判されていたが、原子力発電所の事故の確率は0.1%でも0.01%でもなく、0%でなければならない、とかいう主張もそうだ。人間の命は地球よりも重いとかいう言葉もある。そういうのはスローガンかなにかであって、この世の真理ではない。でも、世の中のひとはスローガンを善悪で判断し、善であれば真理にであると思い込みたがる。本当はスローガンは現実にはなにを意図するものなのか、はたして可能なのかを考えなければいけないのに、スローガンが善であれば、すべての個別案件の判断材料にしたがる。新聞やテレビは政治家が逮捕されたり事情聴取されたりすると、疑惑のある政治家が辞めないのはどういうことかとキャンペーンを貼る。実際になにをやったのか、どういう疑惑なのかについてはおざなりな報道しかされない。人間の脳の情報処理能力の不足につけこむかたちでいろいろな社会のシステムが進化しているのが現代だ。今後、ネット社会において、そういう現象はますます進むだろう。情報操作が民主化されて個人でもできるようなったのがメディアとしてのネットの本質だ。

 

人間とはなにか、人類の歴史はどこに向かうのか、個人はなにを目的として人生を生きればいいのか、これまでの時代の知識人にもなかなか結論がでにくい難しいテーマにも、なんだかんだいって納得いく説明に近づけるいい時代にぼくらは生きている。一方、思うのは養老さんが指摘しているように人間の脳はハードウェアとしては10万年間まったく変わっていない。有名な「我思う。ゆえに我有り」のカントデカルトの言葉も養老さんによればその時代における唯脳論である。東洋の仏教や老荘思想にも唯脳論らしい思想があるという。よく昔から、夢と現実は同じようなものだという考え方があるが、どっちも脳から見ると同じような情報だから、脳から見るとまったく正しい。無常観みたいなのも詩的な表現に捉えられがちだが、昔の賢人は相当練り込まれた論理的な帰結としてそういう思想にいたったに違いない。やたら余計な知識ばっかり増えた現代人のほうが、思考の深度は浅くなっているのではないか、そう思う。

 

夢と現実、虚構と現実、人工と自然、バーチャルとリアル。ぼくらはどちらに生きているのか?などなど分かっているようで分かっていないそんなことをつらつらと考えて、議論するのは本当に楽しいから、みんなやろうぜ。

 

ということでぼくが心底思うのは2点。①専門外だろうが、もっといろんなことについてみんな発言すべき。②専門家風邪をふかすやつは滅びろ。ということだ。だいたい大学生ぐらいになってから、そういう議論がいやになったのはたとえば物理学とか専攻している奴が量子力学とか俺は分かっているんだという雰囲気だけ出してトータルではなんなのか説明できないくせに細かい専門用語についてそれは違うとかいう揚げ足とりをして素人を見下す態度をとるやつらの出現だ。専門家だからといっても専門とする物事をちゃんと理解してわけでなく、多くの専門家は専門用語の使い方を知っているだけだろ、と思う。専門家としての行儀作法を知っている。まあ、考えてみれば、柔道や剣道もまず作法から入るから正しいといえば正しい。でも、それと戦ったときの強さとは別ものだよね。

 

もっとみんながいろんなことを語ればいいのにと思うけど、みんな専門家がいるところでの議論を避ける。これがなんとかならないのかなとずっと考えている。ああ、でも一方でどうしようもなレベルの議論をどうどうと展開するひともネットに多いなあ。どっちが大きな問題かわからないや。

  

そういえば究極に人間を客観的に観察した結果の唯脳論を著した養老孟司さんが雑誌の熱風の1月号で面白いことを書いていた。90歳になってまで死にたくないとわめいている老人について、その根本にあるのは90歳まで本気で生きてこなかったからだと断じているのだ。なるほど。生きてきたという実感をもつひとは確かに明日死んでもまあそれはそれでいいかなと、どこかで思っているような気がぼくにもします。

 

人間の脳なんてしょせんはただの物体だろというひとが、一方で本気で生きる、ということについて語っている。これって面白いとは思いませんか?

  

それが人間というものなんです。