半匿名でぼくが決めているルール

大変に不本意なことではあるが、先日、自分の名前と立場を明かしてネットで発言をするハメに陥った。

 

もちろん、これまでもメディアの取材として、自分の名前でネットに記事が掲載されることは何度もあったわけだが、メディアの取材で名前が出るのはもちろん公人として、また、仕事として出るわけだから、名前が出るのはむしろ当然だ。

しかしながら、ぼくがネットで自分の意見を発信する場合は、私人として個人の考えを自由に表明しているだけであって、会社の立場と紐付けられて解釈されるのは望まない。匿名というスタンスでの発言にこだわってきた理由のひとつでもある。

 

残念ながら、2018年のネットにおいて公的な立場と私的な立場を切り分けて発言するスタンスは、もはや維持することが難しい。ぼくの意見にケチをつけたいひとが、公的な立場と紐付けて解釈するということで攻撃するケースが増えてきたからだ。正直、ぼくにマイナスの印象操作を行いたいひとがあまりにぼくのアカウントの正体を宣伝してくれるので、もはや、ぼくのハンドル名は匿名としての意味を半ば失っている状態だ。

 

事実上ほぼバレている匿名をつかって意見を発信することを非難するひとたちは、ぼくのことを無責任であり、卑怯であるといいたいらしい。しかし、現実問題として、ぼくは発言に責任は取らされている。また、卑怯という非難が、損得勘定のことであるとするなら、ぼくは半匿名のスタンスを維持することで、まったく得をしていない。むしろ損をしている。意地で続けているだけだ。

 

今後もこのスタンスを自分の主義として貫いていく所存だが、ぼくに対する批判にも正当性は一部あることは認めざるをえない。匿名ではなく、自分の立場をはっきりさせたうえで発言すべきテーマというのはたしかに存在しているだろう。そういうことについては、別途、実名のブログを立ち上げることにした。

 

しかし、あくまでも実名での発言は例外とすることにして、ネットでは今後も匿名での情報発信を基本としたいと思っている。

 

この機会に、ぼくがどのようなルールで匿名アカウントを運用しているかを書き記したい。ついでになぜ、ぼくがいつも不毛な喧嘩ばかりネットで続けているかも書く。本来はこういう自分の中のポリシーというものは、自分の中で決めたルールであって、そのとおりに実行することが大事であって、禁煙宣言じゃあるまいし、まわりにわざわざ宣伝するものではない、というのが、ぼくの価値観だが、自分のスタンスを貫くには、そうもいってられないと判断した。

 

ネットでの発言における自主的なルールについて

 

・ 発言をおこなう場合のプラットフォームとしては他社のサービスを選択する。個人的な興味、なにかの実験をしたい場合など、特別の理由がない限り、自社のサービスを使った情報発信はおこなわない。

・ 個人アカウントでは会社や仕事の宣伝はおこなわない。ただし、個人的に本当に面白いと思っているものを紹介することは、仕事に関わりがあることであってもできるだけ自粛しない。(自粛することもある)

・ 本名で活動している場では、匿名アカウントの名前や、URLなどについては一切発言しないし、宣伝をしない。

・ 会社のサービスからアカウントへのリンク、宣伝はおこなわない。

・ 会社あるいは個人に対してメディアから、本人かどうかの問い合わせがあった場合は、「回答できない」または「個人でおこなっていることについては分からない」と回答する。

・ 会社のサービスのユーザーからの質問や苦情については回答しない。もしくは会社に連絡するようにアドバイスをおこなう。

・ ぼくの本名を名指ししての意見表明をせまるような人についても同様。

・ 自分が匿名で発言する以上、自分と面識があるひとについてはできるだけ発言しない。もし発言する場合には、自分と相手との個人的なエピソードを利用するような書き方はしない。あくまで一般論。せいぜい業界内での一般論として許容できそうな範囲内にとどめる。あるいは本人だとは分からないようにエピソードだけ書く。

・ 自分の知人と議論の場合は除いて、私的な会話はおこなわない。

・ ネットにおいては、社交辞令的な発言はおこなわない。うそは書かない。常に自分が本当に思っていることだけを書く。相手をバカ呼ばわりすることは本当にそう思っていない限り、おこなわない。(他にも条件があるが後述)

・ ネットの批判に対して、自分が間違っていると思っていないのに、表面だけ、頭を下げてみせる、いわゆる「大人の対応」は絶対にやらない。

・ ネットでクソリプ、粘着などつけてくるひとたちが現れた場合に、できるだけ無視はしないで返事をする。

・ 相手が失礼なクソリプをつけてくる相手の場合は、相手が使用しているのとできるだけ同じ手法を使って罵倒する。

・ twitterで議論する場合は、フォロワーに見せる価値があると思うもの以外は、原則として相手への返信を使う。

・ 同様に価値があると判断するものを例外として、自分のツイートのリツイートや、自分に賛同する意見のリツイートは行わない。

・ 要するに議論の際に、自分のフォロワーの多さを利用しない、自分の賛同者をけしかけような行為はおこわない、ということ。

・ フォロワー数が一定数以上増えた場合はアカウントを消す。

 

以上が、ぼくが9年前にいまのハンドル名でネットで書き込みをはじめたときから、多少の修正はあるものの、ぼくが自分に課しているルールだ。

 

現実問題として、上記のことを常に守れているかというと、妥協することもしばしばだし、判断を間違えることも多々ある。が、概ねは守っているつもりだ。

 

日本のネットでなぜ罵詈雑言が多いのか。

ぼくはネットの素晴らしいところはこれまで発言の機会のなかった

人間に発言できる場を与えたところだと思う。

いつの時代にも社会に馴染めない人間はいる。他人とコミュニケーションが苦手なひとがいる。

うまく喋る自信もないから、どもったり、無口になるひとがいる。

何十年も前の日本には、まったく会話ができないひとが結構いたそうだ。そういうひとをみかけたら、怯えるので目を合わさないようにしてくださいというような注意書きが街中に貼ってあったという。

さらに昔の日本ではそういう社会的不適合者は、世間様には見せていけないものとして、家の外には出さなかった、という。強制的なひきこもりであり、座敷童の起源だ。

いまの時代のひきこもりや社会的不適合者は、昔よりはずいぶんと幸せで、コミュニケーションがとれないといっても、まったく会話ができないまでの人間はそうそういないように思える。

ひとつはそういうひとたちが趣味の世界が居場所を見つけられる世の中になったこと。オタク万歳だ。

もうひとつは、そういうひとたちでもネットでは世の中と繋がることができるようになったこと。

社会から疎外されて居場所をなくしていて、ネットに救われた人は大勢いると思う。残念ながら秋葉原通り魔事件の加藤君のように救えなかったひとも多かっただろうが、でも、救われたひとはもっともっと大勢いたはずだ。

 

日本のネットで罵詈雑言が多いのは当然だ。

社会から疎外され、発言することを許されなかったひとたちが、やっと自分の考えを聞いて貰える場所を手に入れたのだ。おとぎ話なら、口々に感謝の言葉でも述べるところだろうが、実際に飛び出したのは、いままでの人生で積もり積もった呪詛の言葉だったというだけの話だ。それぐらい当然のことだろう。

 

ぼくたちは、いま彼らの呪詛の言葉を嫌悪して排除しようとしている。それは本当に正しいのか。自分たちが排除して見捨てたひとたちの言葉なのだ。

 

ぼくはリアルとネットは地続きとかいっているやつのことが本当に頭にきてしょうがない。リアルで居場所をなくしてネットに居場所をつくった人間に対して、ネットでもリアルの人間関係を持ち込もうというのか?

 

リアルはリアル、ネットはネットでいいじゃないか。なんなら、ネットとリアルは地続き、とかいうやつらの島をつくってもらって、そこはそこで勝手にやってもらってもいい。ただ、ネット全体にリアルの価値観を持ち込む必要がどこにある?

 

以上は、ぼくが信じている妄想の話だ。どれぐらい想像が真実なのかは分からない。ただ、ぼくが想像していることがあたっている世界は、それなりの広さで存在するとは思っている。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

 

子どもの頃に読んだ瀬島龍三さんの本に印象的なことが書いてあった。人間には本分というものがあって、本分を持たないとだめだ。そのひとにとっての本分はなにかというと、それは教えられるものではなく自分で見つけなければならない。そのようなことが書いてあって、ぶっちゃけ、よく理解できなかった。

ようするに自分の得意なことを見つけろ、そして世の中の役に立てという、よくある話なのかとも思うがどうやらそれとも違うらしい。

本の作者である瀬島龍三さん自身の本分とはなにかというと、太平洋戦争で亡くなったひとたちの遺骨を拾って慰霊をすることなのだという。

さらにさっぱり分からない。そんなことになんの意味があるのか。瀬島さんは太平洋戦争では参謀本部に所属する若手将校のひとりであった。おそらくは自分にも責任があると感じていたのだろう。ただ、それで本分が遺骨拾いとは、ただの自己満足ではないか。子どもの頃のぼくはそう思っていた。

 

今になって考えると、本分とは、本人にとって、人生の経験の中から生まれた、どうしても自分がそうせずにはいられないという妄想のようなものではないかと思う。

 

はたして、ぼくにとっての本分とはなんだろうか。人生の中で何度も考えたテーマだ。これについては、本来はみだりに他人に話すたぐいのものではないとは思うのだが、結構前に出した結論がある。それこそ9年前にブログをはじめて、そしていったん止めた。そのときに出した結論だ。

 

ぼくの本分とは、若いときのぼくを救ってくれたネットを守ることだ。そしてネットに居場所を得られたひとが居場所を奪われないようすることだ。そのための手段で、他のだれでもなく、ぼくにしかできないことをやる。そして必要だと思ったことは、当のネット民に嫌われてもやる、と決めた。

 

ぼくがネットの荒らしと、根気よく不毛に見える喧嘩を続けているのもその一環だ。ぼくは社会に対して、ネット民の口汚い呪いの言葉は自業自得なんだから、ちゃんと受け止めろ、とは心の中では思っているのだが、現実問題として、まあ、無理だろうなとも思っている。

ネット民が今後迫害されないためにも、ネットの誹謗中傷はなくさないとダメだ。

 

「どうやってネットの呪いを解き、将来的に起こるだろうネットへのリアルからの迫害を避けるか」

 

いちいち説明なんてしたくないが、ぼくがこれまでやってきた世間的には不合理に見えるだろう行動の多くの根本には、このテーマがある。

 

 

 

文系的なものと理系的なもの

文系と理系というテーマも炎上しやすい。

文系と理系なんて違いがそもそもナンセンスだとかいう、そもそもそんな区別は存在しないという神学者たちが湧いてくる。

日本の大学教育においての文系、理系の区別が無意味で必要ないという主張はともかくとして、世の中の人間の類型を考える尺度のひとつとして「文系的なもの」「理系的なもの」は確かに存在しているように思える。いわゆる理系的人間と文系的人間は、本人が理系の学部出身か、文系の学部出身かに関わらずに(たぶん相関関係はわりとあるものの)存在するように見える。

 

家庭内の話で恐縮だが、よく夫婦間の議論で対立するのが、まさに文系的な考え方、理系的な考え方の違いによる点だ。

 

ぼくは妻に「やっぱり文系は論理的な議論ができない」とためいきをついてみせ、妻はぼくに「理系は理想論ばかりで、ほんと現実では役に立たない。文系に支配されて当然」と嘆く、なんていったことは家庭内での日常光景になっている。

 

「文系的なもの」と「理系的なもの」とはどういう違いがあるのか。

 

ぼくが思う大きな違いは、文系にとって議論とは目的のための手段であるが、理系にとっては議論こそが目的であるということだ。理系は議論が正しいかどうかにしか興味が無い。文系にとっては結論が最初に決まっていて、議論はそのために必要な過程でしかない。

 

どちらが正しいとかいうことはなくてスタンスの違いであるように思う。理系的立場は、いいようにいえば、論理的であるが、悪く言えば、抽象的な空論であり、評論家的な無責任な立場ともいえる。文系的立場は逆に良く言えば、実際的であるが、悪く言うと・・・、いや、よく考えると、妻に悪いところなんてひとつもなかった。

 

意見の食い違いはこんなかんじだ。ある社会的課題を解決するためにどういうふうな方法があるかを議論するとする。ぼくが論理的に考えて、この方法しかないというと、それは政治的にとれない手段だと妻はいう。そうかもしれないけど、構造的にこういう問題があるので、さっき言った方法でしか問題の解決方法はないだろうとぼくが答える。ぼくとしてはそこでほとんど議論は終わっているのだが、いつもその後に妻がこういうセリフをいうのだ。「じゃあ、どうすればいいの?」

 

ある問題の構造が分かり、解決策も分かり、なぜ、その解決策が実際にはとれないかの構造も分かれば、ぼくとしては問題はほぼ解けたということで興味が終わるのだが、妻はそういう僕の態度を無責任だと罵り、あくまでなにかの選択肢を示すようにぼくに迫るのだ。

 

妻にいわせると現実社会においてはプロセスが80%で理想なんてプロセスを示さなければなんの意味もないのだそうだ。まあ、それなりに理解もできるので一緒に解決策を考えることになる。

 

しかし、これはぼくとしては非常に理不尽な要求でもあり、ぼくがそういう要求をされているときの気分はこんなかんじだという例え話を昨日考えたのでついでにここに書く。

 

時代は中世ヨーロッパ。ルネサンスの時代。

 

官僚A「天体の動きについて計算が大変すぎるし、どうも説明のつかない現象も起きている。なんとかならないか」

ガリレイ「それは地球のまわりを天体が回っているというモデルで考えているからそうなるのであって、太陽のまわりを地球をはじめとした天体が回っていると考えると、計算も簡単になるし、矛盾もなくなります」

官僚A「なにを馬鹿なことをいっているんだ。地球が宇宙の中心でないなんて考えが政治的に許されるわけがないじゃないか。他の方法で考えてくれ」

ガリレイ「いや、実際に太陽のまわりを天体はまわっているので、他の方法といわれても無理です。この計算をみてください。明らかに太陽のまわりを地球がまわっていると考えるほうが自然な考え方です。これを世の中にひとにちゃんと説明していけばいいんじゃないでしょうか?」

官僚A「君の話には論理的な矛盾がある。まず神が人間と世界をお作りになったという大原則を議論の出発点にする。なのになぜ地球が宇宙の中心でないのか、国民のだれも思うこの簡単な疑問に答えられない限り、そんな計算は無意味だ。」

ガリレイ「……。分かりました。一応、考えてみましょう」

 

こんなかんじ。

情報公開の議論が難しい理由

あらためていうが情報公開に反対する意見を表明するのは非常に難しい。昨日の記事のコメント

http://b.hatena.ne.jp/entry/kawango.hatenablog.com/entry/2018/04/04/143826

から引用してみる。

 

takuver4 気持ちは分かるが、それはオープンな場で言っちゃ駄目な内容な気がする。 

 

こういう空気はまず実際にあるということを指摘したい。他のコメントをみても、脊髄反射的にとにかくありえないと否定するひとが非常に多い。

 

反論というよりは、罵詈雑言のたぐいがいちばん多いのはネットの常としても、それをのぞいて、一番多くみられたのは、情報公開のコストがかかるのは民主主義のコストで受け入れるべきだというものだ。

いくつか抜き出してみる。

 

cript これは民主主義国家の普通に必要経費。しかもケチっちゃいけないところ。 

 

BigHopeClasic 確かにコストはかかるだろうし情報公開を衆愚が粗探しに利用することも否定しないが、しかしそれは我々が民主主義を維持する上で不可避のコストであり最初から民主主義が予定するコストだろうに。

 

motidukisigeru 「情報公開による不正を減らすという目的は、究極的には国民の税金の無駄遣いを減らすことが一番」全く違う。情報非公開による不正が許される場合のコストは「税金の無駄遣い」どころじゃない。それこそ国が滅ぶ。 

 

sika2 そもそも情報公開なんて民主主義の根幹なんだから、コストと比較衡量するべきもんでもないだろう。「投票はコストがかかり過ぎてデメリットが多いから廃止すべき」なんて言わないだろう。

 

 

どうも彼らのいっていることをまとめると

 

・ 情報公開のコストは必要経費である。なぜなら情報公開は民主主義の根幹であるからだ。そして膨大なコストがかかろうが、払うべき。なぜなら情報公開しないことによる不正の発生によるコストのほうがはるかに大きいから。

 

といったところになる。彼らの意見には暗黙の前提がいくつかある。まず根本としての民主主義が正しいという価値観はアプリオリなものとして受け入れるとする。そのつぎに民主主義に情報公開が必須のものというのはどの程度正しいのだろう?民主主義に情報公開が必須というのは一見正しいようにみえる。なぜなら民主主義とは字面上からも参加者個々の意志を基礎として組織の意志決定をおこなっていくということであり、参加者が自らの意志を決定するのに必要な情報は提供されないと正しい判断ができないからだ。また、民主主義は運用上、組織が大きくなると組織の意志を代表して執行する機関が必要になる。代表者達が正しく参加者の意志を実行しているかを確認する仕組みが必要だ。

 

まあ、結論として民主主義には情報公開は必須であり、理由は民衆の意志決定に必要な情報を提供するためと、権力の執行状況を監視するためのふたつだろう。

 

どちらも現実の日本では実現できていない。そしてその責任は正しい情報公開をサボタージュしている行政側だけでなく、せっかく国有財産の処分の実態のいいかげんさの証拠が出てきても、そこにメスをいれずに安部総理を失脚させるための口実として揚げ足取りに終始しているメディアやそれに反応している世の中にも大きな責任がある。情報公開を活かせてない。

 

反論のなかで安部政権を倒すことで、そういう不正がなくなるんだというトンデモ主張もあったが、まったく関係ない。実際に世論が騒いでいないものを別の政権ができたところで、わざわざ解決のために力を入れる訳がない。

 

現実問題として情報が公開されても、そんなものチェックできるヒマな国民はほぼいないので、だれかにチェックして要約してつたえてもらう仕組みが必要だ。だからメディアの役割が重要なわけだが、国民に正確な情報を提供する役割ではなく、なにか揚げ足とりのネタを見つけることしか考えてないメディアばかりだとバイアスのかかった情報しか国民には伝わらないことになる。もちろんメディアはひとつではない正しい情報を伝えるメディアがあればいいじゃないかという意見もあるだろう。しかし、自分が信じているのと違う情報を受け取る側はこんなかんじだ。

 

Gustav13 長すぎて1行すら読む気になれない。とりあえず、情報を隠して滅んだ国は知ってるが、公開して滅んだ国は知らないので、まず滅んでから言ってくれ。 

 

death6coin タイトルしか見ていないけど、情報統制で国が亡ぶの誤植ですよね? 

 

rissack だらだら書いてないで簡潔に。公文書同様。

 

 

多くの人は自分の意見と違う意見には頭ごなしに否定するし、聞く気がそもそもない。また、ちょっとでも長い話は理解しようとしない。これはある意味で、あたりまえで、いくら民主主義だ重要だかなんだかしらないが、他人のことよりも自分の生活や目の前のことのほうが大事なのがふつうの人間だ。正しい意志決定のためにそんなにコストはかけられない。ぼくのブログのことを愚民感だとか上から目線だとか批判しているコメントもあったが、民主主義で民衆個人個人の判断能力に限界があるのは、むしろあたりまえのことだ。ノーベル賞受賞者だろうが、自分の専門外で基本的に興味のないことには正確な判断はくだせなくてあたりまえであって、愚民かどうかの問題ではない。

 

結局、上記のようなコメントをするひとが世の中の多くであるためメディアの自制が働かないでPV競争とかに流されると、アジテーターみたいな行動をするひとが有利になる。

 

基本、この構造が現実だし、すくなくとも当分の間は、この状況は変わらないだろう。

この環境でどういう情報公開制度を設計するのがベストかということだ。

 

crowserpent 「粗探しが元凶」みたいな物言いだけど、「あからさまな汚職はほとんど姿を消している」が事実なら、粗探し凄い効果じゃん。この論理だと「どんどん文書の電子化を進めて情報公開しよう」って結論にしかならない。

 

粗探しが凄い効果はそのとおり。粗探しと書いたが、粗探しだろうがなんだろうかメディアの監視機構は必要だ。それはすでに十分働いている。いまの情報公開制度はマスコミの監視に必須ではないし、効果的でもない。

 

sugikota これって欧米の主要国よりも中国とか北朝鮮の方が統治機構として優れてる、ってことなんだけど、本当に同意できる? まあ韓国とかシンガポールみたいにその中間の開発独裁がいいっていうなら筋は通ってるか。 ここにさらなるコストを投入することが、なぜ

 

民主主義はイデオロギーとして正しいとしても、正しいから優れているということにはならない。むしろ正しさとは犠牲を払うものだ。正しいことをやっていればうまくいくというものではない。

 

民主主義とは決して効率のいい政体であるとは限らない。むしろ現状では中国の独裁のほうがすぐれていたという結果になり、100年後は民主主義国家は古代ギリシャ時代につづいて二度目の滅亡をするかもしれない。

 

民主主義を大切だ守りたいと本当に思っているのなら、たんに情報公開すればするほどよくなるなんて幻想をすてて、もっと合理的な民主主義の運用を真剣に考えるべきだ。

 

結局、情報公開の議論が難しいのは、人間の「知りたい」。他人やとくに権力者がなにをやっているの「知りたい」という欲求がかなり感情的なところから来ているからだと思う。サピエンス全史でハラリは、うわさ話をしたがるという能力を人間が獲得したことが社会の形成に役に立ったと論じている。

 

なぜ情報公開が大事か、どんな情報公開にすべきかの議論もせずに、盲目的に情報公開が正しいと信じる人間が多いのは理屈の裏付けがあるからではなく、自分になにか不利益なことが行われていないかを知りたいという本能的な人間の欲求が存在しているのではないか。

 

@otokita 最近、都政にも縁が深い方が書いたとされるブログだが、読んでて頭がクラクラする。行政情報は「原則公開、例外非公開」であり、その本質がまったく理解されていない。

 

これはもはや宗教だ。原則はなぜなのか?本質とはなぜなのか?おそらく彼はひとこともちゃんとした理由を説明できないだろう。でてくるのはおそらくなにかの経典から抜き出した決めつけだけだ。

 

別のひとの批判で情報公開をしなかったから日本は戦争に突入したんだというのがあった。もし正しい情報がでなかったから日本が戦争に突入したというのが本当であれば、それは情報公開をしなかったからというのが理由ではないだろう。自分たちの意見に都合の悪い日本が戦争に勝てないという情報が出ることを当時の世間が許さない空気があったからだ。情報公開が正しいというイデオロギーを否定する意見は頭から否定する、議論ではなくそれこそ人格から否定する、そういう態度こそ、日本を戦争に追いやった空気をつくった元凶とまったく同じではないか?

以上

 

情報公開で国が滅ぶ理由

検索用に残しておいたツイッターアカウントで、たまに呟くことがあるのだが、1ヶ月前のツイートをなにか別に気に入らないことがあったのか山本一郎氏に晒されて、プチ炎上した。ネットの炎上では、前後の文脈とかまったく読まず脊髄反射で書き込むひとが大半だ。それが拡散されて、誤解、曲解が事実としてまかりとおるという性質がある。

 

ぼくとしては自分が発言した内容を曲げるつもりはまったくないので、切りとられやすいツイッターではなく、ここであらためて考えをまとめて書こうと思う。

 

さて、情報公開というキーワードは基本ポジティブに受け取るひとが世の中の大半だろう。とくに権力をもっている組織に対して情報公開をしろという主張はまったくの正論に聞こえて、だれも表だって反対をできない。

ここが問題だ。実は日本の今の情報公開の制度には大きな問題があって、実際に関わっているひとは、これじゃだめだと思っていて文句をいっている。でも、情報公開は社会的な正義であるため、情報公開を後退させることにつながる議論はまったくできない状態で、情報公開制度の問題点も世の中にほとんどでてこない。

 

そもそもなぜ情報公開をするべきなのか、もちろんそれは社会の権力をもっている側が公平な運用をおこなっているか、不正を働いていないかを監視するためだ。

 

それはもちろんいいことだし、必要なことだとみんな思うだろう。じゃあ、情報公開は正義なうえに必要なことだから、いいことばかりかというと、そうではない。情報公開をおこなうデメリットも当然あるということを認識する必要がある。

 

先にぼくの主張の結論を書くと、現状の情報公開制度は本来目指したいメリットは、ほとんど得られない上に、デメリットだけはとても大きいということだ。

 

まずデメリットのほうを整理しよう。

ひとつは情報公開をする事務作業が非常に膨大になってしまっていることだ。とくに情報公開を要求する側のコストがほとんどないにも関わらず、情報公開請求に応える事務作業が大変すぎてコストのバランスがアンバランスになっていることが問題だ。情報公開制度を利用する側はどんなひとか?ひとつは野党であり、メディアでありジャーナリストだ。彼らが情報公開をおこなう動機は、まったく問題ないですと褒めることではあるわけがなく、当然、なにか騒ぎ立てられるような粗探しをすることだ。基本、粗探しをするネタを探して、とりあえずあらゆるすべての情報を出せと要求することになる。要求するの簡単だ。費用もかからない。そんなんだから、おそらくだが、とりあえず全部の資料を出せと要求するもののもらった資料の中でちゃんと分析しているのは一部じゃないかと思う。ほとんどの資料は見てないことが多いんじゃないか?しかし、そんなかんじでつくられる膨大な資料作成はすべて国民の税金で支払われることになる。ちゃんとした目的のある野党やメディアはまだましで、一般人も興味本位や趣味で情報開示請求ができる。くり返すが請求するのはコストはかからない。一週間かけて開示資料を完成させても、そのころには興味がなくなっていて、連絡しても取りに来ないこともあるという。

しかも、情報開示を求めることで不利益が生じないように匿名性も守られていて、だれでもできるし、だれが開示請求しているか、担当部署は基本的には分からない。外国人でもかまわない。情報公開する側が非常にモラルハザードを起こしやすい仕組みになっている。さらなる悪用を想像すると、日本の行政を麻痺させようと思ったら、原発テロなんて必要なくて、組織的に情報開示請求を連発すればいい。合法的だし、お金もかからない。

 

しかし情報開示を役所側がおこなうのはそんな大変なのかと思う人もいるだろう。資料を見せるだけじゃないか?実は開示対象になっている資料のほとんどは紙ベースで管理されていて、電子化がほとんどされていない。

 

したがって情報開示請求があるとなにがおこるかというと、膨大な資料を補完してある倉庫から該当する資料を探し出すということを人間がやることになる。いや、倉庫とかあればいいほうで、みんな保管場所に困っているので、資料用の部屋とかいくつも保管場所が分散していて、それを探すことになる。それがまず大変な仕事となる。

 

資料を探し出せたとする。そこからが本番の仕事のスタートだ。開示する資料は国民のプライバシーに関する部分は公開しなくてもいいというか、してはいけないというルールになっている。個人名、会社名が特定される文言はすべて塗りつぶすという重要な仕事をしなければいけない。これがなぜ重要なのかというと、基本、情報開示請求をしてくるひとは粗探しを目的としているからだ、もし塗りつぶすべき箇所を塗りつぶさなくて、それが国会などで問題になったら大変な責任になる。したがって、開示資料から個人名と会社名など特定できる情報を黒く塗りつぶすというきわめて重要な仕事は下っ端の人間には任せられない。役所の中でも責任有るポジションで優秀な人間がやるべき最優先の仕事になる。

そして優秀な人間が黒く塗りつぶしまくった開示資料は塗りつぶされた部分ばかりで、さっぱりなにが書いてあるか分からない。

 

つまり現行の情報公開制度は、請求する側がすごく気軽に国の最も優秀な人材にすごくくだらない無駄な仕事をさせることができるという仕組みになっている。

 

メリットが少ないという話をする。

まず現状、情報開示請求ででてくるのは時間がかかるわりには、黒く塗りつぶされて主語と目的語の多くが消えたどうやら日本語だということは分かる文章だ。そしていまは公開対象になる文書自体の作成には非常に慎重になっている。つまり、公開対象の文書は粗探しの余地が少ないようにつくられる。明らかにおかしい決定をおこなった文書を見つけるのは難しくなる。本当の問題があったとしてもなかなかでてこない。粗探ししたい側はしょうがないので、重箱の隅をつつき始める。どんどんくだらない問題が問題として発見できる世の中になるということだ。

 

情報公開とは話は変わるが、政治とカネの問題はなかなか解決しない、とか聞き飽きたフレーズ、みなさんも報道で記憶にあるだろう。実際には戦後から現在にいたるまでメディアの追求により、あからさまな汚職はほとんど姿を消している。かといってメディアは政治家を褒めたりはしないから、つねに粗探しを続けることになる。したがって、政治とカネの問題はなかなか解決できないとニュースではコメンテーターがしたり顔に感想をいうわけだが、問題となっているお金の金額はどんどん小さくなっていき、どんどんくだらない”事件”を発見されて政治家は失脚することになる。

 

いまの情報公開制度では国民の監視により、今後もよりくだらない”事件”が見付かるようになるだけだ。

 

いくつか当然にあるだろう反論についても応えておく。

 

まず情報公開をやめると結論になるのはおかしくて、むしろ問題は情報公開制度がまだまだ未熟だし、改善すべきという結論になるべきではないかという類の指摘だ。これについては同意できる部分もある。まあ、しかし改善は今の日本じゃ構造的に難しいじゃないのかというのが僕の意見だ。森友加計問題では、いろいろ明らかになったことがあった。ひとつは政治家を利用しようと近づく悪い人間はいるという事実。そしてもうひとつは国有地の売却が非常にいいかげんなプロセスでおこなわれているという事実。しかしながら、そういう事実が分かりながら、そっちのほうに議論はまったくいかなかった。世の中はある情報が明らかになったことにより不正や矛盾をなくすということを選ばず、それを安倍政権を倒す口実につかうことを選んだということだ。

 

現時点でも目的をもって現政権になんくせをつける口実にしか使われていないのに、情報公開をすすめても、同じことがもっと大規模におこるだけだというのが予想される現実ではないか?

 

もうひとつそもそも開示情報が電子化されていないのが問題ではないか、情報公開のコストを下げるべきだという観点だ。これはまったくもって正しい、いまのように開示請求が自由に制度を維持するなら、感じ対象にするべき情報は、電子化されていて開示の為のコストが0のものに限定すべきだと思う。

しかし、そのためには開示される側がみだりに粗探しをしない、できないようにならないと現実には機能しないだろう。現状だと、そのリスクが大きすぎて、むしろ情報公開制度が役所の文書の電子化を阻む大きな要因となっている。電子化されて簡単にみれる場所に、すぐに揚げ足をとられるような文書を置くわけがない。重要な情報は別の形で保存するか、もしくは保存して大丈夫な文書か、何度も会議をして内容を確認してから保存する。そんなことになるに決まっている。まあ、それならそれで無理矢理やらせろという意見もありそうだが、現実的には無理だと思う。

 

そもそも詳細な報告を文書に残して、世間に公開するということはどういうことか、これは一般の企業の場合でいうと、いってみればマイクロマネジメントをやるということだ。

 

つまりは世間が役人の上司となってマイクロマネジメントをやるということだろう。

一般にマイクロマネジメントをやるとどうなるか、部下は自分で考えなくなる。仕事をちゃんとやろうではなく、形式的な指示通りにやることを重視するようになる。したがってマイクロマネジメントをやるということは上司の負担が増える。上司がちゃんと指示をしないと仕事をしなくなる。情報公開制度を進めるということは、上司が指示しないで文句ばかりいうというマイクロマネジメントをやるということに等しい。

真面目に仕事をやろうとするひとほどやる気をなくす仕組みだ。

 

情報公開による不正を減らすという目的は、究極的には国民の税金の無駄遣いを減らすということが一番大事だろう。不公平をなくすということは大事だとしても、平等にお金を無駄遣いするというのが目的ではないはずだ。

 

いったい情報公開によって社会をどうしたいのか、現状の制度ではなにが起こっているのか、これからどうなるのか、情報公開=絶対的な善という思考停止に陥らず、冷静な議論が必要に思う。

 

以上

 

 

人間は他人の能力をどうやって評価しているか

ふと、思い立って、先週からダイエットを始めた。ちょうど初めて1週間だが、あっという間に効果がでている。

鏡を見ると心なしか顔のラインがすっきりしてきたような気がするし、昼間の会議でも明らかに頭の回転が鈍っていて、確実に血液中の糖分濃度が下がっている証拠だろう。

夜の会食でも、最近は年のせいか、なかなかコースで出てくる料理の全てを平らげるのが苦痛になってきていたのだが、ダイエットを始めてからすっかり食欲も回復し、先週あった3回の会食でも、大変美味しくいただけて、ほぼ完食することに成功した。

 

ダイエットすると寝付きが悪くなるらしい。朝早く目覚めたついでにひさびさにブログを書いてみようと思う。

しかし1年ぐらいブログを書いてなかったような気がするが、ネットをやめると本当に仕事が捗って素晴らしい。

というか、ネットをやると仕事にならない。

ネットサーフィンなど、ただでさえ無駄な情報ばっかり気がつくと読んでるものだが、ブログやツイッターで情報を発信すると、ネットの世界で最もくだらない情報検索として知られているエゴサーチの時間が大量に発生するので、マジで仕事にならない。

 

ほんと、ブログもツイッターもやめて、この1年ぐらいは僕の人生の中でも珍しく、比較的に真面目に仕事をしているのだ。

 

脱線した。いや、脱線というよりは、むしろ本題にまったく入ってない。

 

最近の話題というとやっぱりトランプ大統領の登場が衝撃だった。この事件についてのコメントでは三浦瑠璃さんのブログ記事が面白かったのだが、内容については彼女の記事を読んでいただくとして、ぼくが興味深かったのは彼女の記事の最後に唐突に現れた一文だ。

 

と思って、いま、確認したら、ちょっと表現が修正されているようだ。まあ、要するに彼女のような社会的にも認められ成功しているような女性でも、日本の社会は明らかに女性差別があり不利である(つまりトランプの女性蔑視発言を問題視する資格があるのか)という認識を持っていて、思わずそれを口にせずにはいられなかったということだ。

 

僕の会社の中でも女性社員の能力を男性上司が過小評価する傾向があることは何度も目にしてきた。女性を昇進させることにそんなに抵抗があるのかと思って、いろいろヒアリングすると、必ずしも本人にはそんな自覚はなく、本当にその有能に見える女性社員の能力を低いと信じていることが分かった。

 

まあ、もう何十年になるぼくの社会人経験に照らし合わせても、ほぼ確実に仕事において女性差別と女性の能力に対する過小評価は日本社会に存在するのは間違いない。

 

女性差別については、本人にそういう差別意識があるからだということで是非はともかくとして、とりあえずの理解はできる。女性差別意識をもつ人間がこの世界にはいて、実際に女性差別をしている、というだけの話で、現象としては不思議はない。

 

不思議なのは、女性の能力が低いという心から思っている「確信」が、いったいどういう根拠から来ているのかということである。

 

これについては結論からいうと、人間は他人の能力をパターン認識で見積もっているからだと、僕はおもっている。

 

エンジニアやある種の専門家によくいるのが、「話せば相手のレベルの分かる」というひとたちだ。

 

会話をしていれば、相手のある専門分野においての能力がどれくらいか、だいたいは見積もれるという主張だ。

 

こういった場合、なにを基準に判断しているかというと、相手がどのくらいの専門用語を知っているかと、その使い方が(主観的に)正しいか、である。

 

こういう専門家たちに、専門に関わる話を素人がする場合には、話の内容よりも、まず、この専門用語を知っているかというフィルターにかけられる。知っていないと、分かっていない素人と判断されて、話をちゃんと聞いて貰えない。

 

つまり、例え、ある問題の本質を専門家よりも深く理解をしていたとしても、専門家の使う専門用語とその意味に従って会話ができない限り、専門家には認められないということになる。

 

多くの場合に、専門家に限らず人間はこういう用語によるパターン認識で、話相手の能力を見積もるというフィルタリングを無意識のうちにおこなっている。

 

このフィルタリングは、”ある前提条件”の元では、だいたい正しい。ある前提とは、普遍的な知識体系が存在していて、相手がそれを学習している場合、もしくは、ひとりではできず他人と意思疎通をしながら協力して仕事をしなければならないケースだ。

 

こういった場合は専門用語を沢山知っていて、使い方も間違っていないという判断だけで相手の能力をだいたい正確に推量することができるだろう。

 

逆にいうと、それ以外のケースでは、この用語のパターン認識による能力の推定は、本当はあんまり役に立たないはずだ。

 

さて、そもそも、この人間が他人の能力を推定するときに使っている上記のようなパターン認識であるが、本来は自分の仲間とそれ以外を区別するためのものを転用していると、僕は考えている。

 

人間のような社会的生物の場合、自分の群れとそれ以外を区別することはとても重要であり、おそらくは本能に組み込まれいる行動だ。

 

アリの場合は、匂いで自分の巣のアリか、よその巣のアリかを区別するという。だから、自分の巣の匂いを十分にまぶしたよその巣のアリは区別できなくて攻撃しないらしい。

 

人間の場合は匂いもひょっとしたら少しはあるかもしれないが、もっと多彩であり、言語や仕草や行動様式などさまざまな要素でパターン認識していて、自分の仲間かそうでないかを区別しているのだと思われる。

 

組織に受け入れられるためには、能力だけでなく、その集団の”流儀”にもなじまないと仲間にいれてもらえないというのはよくある話だ。

 

人間はこういう本来は仲間かそうでないかを区別するためのパターン認識を、能力の推定のためにも援用しているというのがぼくの仮説だ。そのため能力とは本来は関係のない仲間と区別するための特徴も、能力の一部だと思い込みやすいバイアスがかかっているに違いない。

 

男性社会においては女性であるというだけで能力が低いと判断されてしまうのだ。

 

仲間であるかどうかで相手の能力を低く見積もる傾向は、初期の将棋電王戦においても観察された。コンピュータの指す将棋について、人間とは”やりかた”が違っている。プロ棋士はそう指さない。という言葉がコンピュータはそれほど強いとは思わないという文脈で、よく使われた。アルファ碁の解説でも同じような傾向があった。イ・セドルとの対戦で、アルファ碁がへんな手を打つとか、最初は馬鹿にしていたのが、強いと分かると逆に今度はそれが人智の及ばない神の一手だと、手のひらを返した。人間は自分のやりかたと違うだけで、相手の能力を低く見積もるのである。

 

この自分の仲間であるかどうかと、相手の能力を推量する、ということを同じ機構で判断していることによる混同は、ネット社会の争いを観察しても、すぐに発見できる。

 

原発推進派と反対派、ネトウヨとしばき隊。多くの場合、彼らがおこなっているのは議論ではなく、相手が仲間かそうでないかのパターン認識だ。それぞれ自分たちが信じる”真実”を相手が理解していないから、能力が低いと馬鹿にしている。

 

 

というようなふうに考えると、いろいろ世の中のことがスッキリ理解できるというようなことを先週は考えていた。

 

長く話が脱線したが、今回はダイエットの進捗報告でした。

 

インターネットの未来の正しい議論

今回は珍しく書評を書く。それもよく僕本人と間違えられるという設定でお馴染みの人が筆者である新刊だ。

鈴木さんにも分かるネットの未来

この本はスタジオジブリの機関誌「熱風」という一般には販売されていない雑誌で1年以上にわたって連載されたものを単行本化したものである。

この連載がどういう風に世間に受け止められるかをぼくはわりと注目していた。なぜかというと、これはネットは門外漢であるスタジオジブリ鈴木敏夫プロデューサーにネットの現在と未来を説明するという体でありながら、おそらくは当時はだれも指摘していなかったネットの実態と未来予想について筆者が本音を自分で執筆した本だからだ。

筆者のこれまでの本はすべてインタビューをまとめた本であり、喋っていることもわりと簡単なことばかりでそれほど難しい理屈も出てこない。

しかし、この本は聞き書きではなく、筆者がかなり時間をかけて自分で文章を書いた本であり、読者に対する手加減がわりとない。そしてIT業界では当事者たちからはあまり語らないようなこと、もしくは理解していないこと、ネットでの一般常識とは違うことを中心に、損得考えずにそのまま書いてあるのだ。

それがIT業界のひとはだれも読んでなさそうで、そもそもほとんどの書店には置いてないような雑誌に連載されるのである。

いったいなにが起こるのだろうか。とぼくは好奇心をもって観察していたのである。

どうなったのか?

じつは結果としてはなにも起こらなかった。

やはり本来のターゲットになるようなひとの手元にはほとんど届かなかったようだ。まあ、予想通りの話でもある。

しかし、連載終了からも、早くも1年がたったが、この本の内容はまったく古びていない。

むしろ一部は予言のように現実がこの本の内容に追いつき始めていて、より説得力のあるタイミングで出版されることになったのだと思う。

この本に書かれているテーマはいくつもあるが、もっとも重要なものは、世界中の国でインターネットという場が治外法権となり、国家の主権が及ばない場所になっているという指摘だ。

歴史の中で国家というものが解体され、消滅していくとすれば、それはインターネットの場から起こるだろう。

このことはインターネットの登場したときにそれこそ伊藤穰一氏などが予言していた話であり、新しい話ではない。しかし、それは遠い未来の予測として漠然として受け止められ、実感を伴う問題として世の中に受け止められていなかったというのが現実だろう。

しかし、インターネット上で国家の主権が通用しなくなり、かわってグーグル、アップル、アマゾンなどのグローバルプラットホームが、租税権、立法権行政権、裁判権などを行使しつつあるというのは、現在進行形で進んでいる事実だ。

歴史の中でいまは国家からグローバルプラットフォームに主権が移動しつつある過渡期であるという認識を、はっきりと持つべきではないかというのが、ぼくの主張だ。

こういう状況を、ネットで活躍する批評家たちですら、ちゃんと理解していないように見える。

数日前の東浩紀氏のツイートを見てみよう。

 

 

この東氏がやくざのみかじめ料みたいと切り捨てたEUの行動は、主権を奪われつつある国家権力のグローバルプラットフォームに対する反撃である。いままさにネット上の主権をめぐった争いが行われつつあり、どちらかというと劣勢なのは国家権力側だろう。

それを従来型の国家権力=悪、インターネット=自由という素朴な認識からくる善悪判断で判断したかのようなツイートで切り捨てるのが、日本のネットに詳しい有名批評家の現実である。

これからのインターネットでなにが起こるか、なにが本当の争点なのか。筆者がなにを考えているか知りたいひとは読んでほしい。鈴木さんにも分かると入門書を装っているが、鈴木さんにも分かってもらおうという手加減はまったくないガチの中身だ。

 

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ドワンゴの準エンジニア手当という制度が面白い

 ドワンゴにはエンジニア手当というものがあって、プログラマーの給与水準が全体的に高くなっている。要するに優遇されている。
 
 しかし、プログラミングの知識はエンジニアだけでなく企画者、あるいはデザイナーにとっても重要である。したがって、エンジニアから他の職種へのコンバートも積極的に進めるという方針がドワンゴにはあるのだが、このときにエンジニア手当というのが問題になる。要するにエンジニアをやめて他の職種にいくと給料が下がるのだ。
 
 そのため元エンジニア手当みたいなものを作ろうとかいうような話もあったのだが、それはそれで不公平ではないかという議論もあり、結果として準エンジニア手当というものを創設し、一定の技術スキルがあることが試験で認められれば、元エンジニアだろうが、元からの企画者やデザイナーだろうが、給料が上がるという仕組みを導入することにしたのだ。
 
 これがいまドワンゴ社内で盛り上がっているらしい、という話を聞いたので紹介する。
 
 盛り上がっているというのは準エンジニア手当を貰える資格を得るための試験に応募した受験者の数が、まず、とても多かったということだ。
 難易度によって手当の金額は変わり、レベル1とレベル2があるのだが、レベル1でも200人、レベル2でも70人と合計300人近くの応募者があったらしい。
 そしてどうも最近はみんな社員は昼飯でも仕事が終わったあとも試験の話題ばっかりで、自主的な勉強会が各所で開催され、参考書として指定された3冊は発表された瞬間にアマゾンで品切れになり、銀座周辺の本屋の店頭からも消え、秋葉原ヨドバシカメラですら見つけることはできなくなった。
 その三冊がなんなのかはリンクを貼るのが面倒なので紹介はしない。
 
 そして試験の結果はどうなったか。まだ、結果は発表されてはいないのだが、このまえの週末に試験があったらしい。
 非エンジニアも対象にしたプログラミングの知識の試験とはいっても、ドワンゴのエンジニアが出す問題のレベルがそんな生易しいわけがないのだが、相当、みんな勉強したらしく、レベル1については相当な合格者が出そうだとのことだ。
 レベル2についても、ドワンゴの現役エンジニアからも合格できるか自信がないというひとが続出するぐらいの難易度で、当然、合格率は50%は下回るそうだが、それでも、それなりの合格者はでそうとのことだ。
 
 まだ、はじまったばかりの試みだが、ぼくはすべての職種にプログラミングの知識は必須である時代は本当はもう来ていると思っている。
 今後、どういうことになるのか、どんな成果がでるのか、でなかったのか、また、機会があれば紹介したい。