人間は他人の能力をどうやって評価しているか

ふと、思い立って、先週からダイエットを始めた。ちょうど初めて1週間だが、あっという間に効果がでている。

鏡を見ると心なしか顔のラインがすっきりしてきたような気がするし、昼間の会議でも明らかに頭の回転が鈍っていて、確実に血液中の糖分濃度が下がっている証拠だろう。

夜の会食でも、最近は年のせいか、なかなかコースで出てくる料理の全てを平らげるのが苦痛になってきていたのだが、ダイエットを始めてからすっかり食欲も回復し、先週あった3回の会食でも、大変美味しくいただけて、ほぼ完食することに成功した。

 

ダイエットすると寝付きが悪くなるらしい。朝早く目覚めたついでにひさびさにブログを書いてみようと思う。

しかし1年ぐらいブログを書いてなかったような気がするが、ネットをやめると本当に仕事が捗って素晴らしい。

というか、ネットをやると仕事にならない。

ネットサーフィンなど、ただでさえ無駄な情報ばっかり気がつくと読んでるものだが、ブログやツイッターで情報を発信すると、ネットの世界で最もくだらない情報検索として知られているエゴサーチの時間が大量に発生するので、マジで仕事にならない。

 

ほんと、ブログもツイッターもやめて、この1年ぐらいは僕の人生の中でも珍しく、比較的に真面目に仕事をしているのだ。

 

脱線した。いや、脱線というよりは、むしろ本題にまったく入ってない。

 

最近の話題というとやっぱりトランプ大統領の登場が衝撃だった。この事件についてのコメントでは三浦瑠璃さんのブログ記事が面白かったのだが、内容については彼女の記事を読んでいただくとして、ぼくが興味深かったのは彼女の記事の最後に唐突に現れた一文だ。

 

と思って、いま、確認したら、ちょっと表現が修正されているようだ。まあ、要するに彼女のような社会的にも認められ成功しているような女性でも、日本の社会は明らかに女性差別があり不利である(つまりトランプの女性蔑視発言を問題視する資格があるのか)という認識を持っていて、思わずそれを口にせずにはいられなかったということだ。

 

僕の会社の中でも女性社員の能力を男性上司が過小評価する傾向があることは何度も目にしてきた。女性を昇進させることにそんなに抵抗があるのかと思って、いろいろヒアリングすると、必ずしも本人にはそんな自覚はなく、本当にその有能に見える女性社員の能力を低いと信じていることが分かった。

 

まあ、もう何十年になるぼくの社会人経験に照らし合わせても、ほぼ確実に仕事において女性差別と女性の能力に対する過小評価は日本社会に存在するのは間違いない。

 

女性差別については、本人にそういう差別意識があるからだということで是非はともかくとして、とりあえずの理解はできる。女性差別意識をもつ人間がこの世界にはいて、実際に女性差別をしている、というだけの話で、現象としては不思議はない。

 

不思議なのは、女性の能力が低いという心から思っている「確信」が、いったいどういう根拠から来ているのかということである。

 

これについては結論からいうと、人間は他人の能力をパターン認識で見積もっているからだと、僕はおもっている。

 

エンジニアやある種の専門家によくいるのが、「話せば相手のレベルの分かる」というひとたちだ。

 

会話をしていれば、相手のある専門分野においての能力がどれくらいか、だいたいは見積もれるという主張だ。

 

こういった場合、なにを基準に判断しているかというと、相手がどのくらいの専門用語を知っているかと、その使い方が(主観的に)正しいか、である。

 

こういう専門家たちに、専門に関わる話を素人がする場合には、話の内容よりも、まず、この専門用語を知っているかというフィルターにかけられる。知っていないと、分かっていない素人と判断されて、話をちゃんと聞いて貰えない。

 

つまり、例え、ある問題の本質を専門家よりも深く理解をしていたとしても、専門家の使う専門用語とその意味に従って会話ができない限り、専門家には認められないということになる。

 

多くの場合に、専門家に限らず人間はこういう用語によるパターン認識で、話相手の能力を見積もるというフィルタリングを無意識のうちにおこなっている。

 

このフィルタリングは、”ある前提条件”の元では、だいたい正しい。ある前提とは、普遍的な知識体系が存在していて、相手がそれを学習している場合、もしくは、ひとりではできず他人と意思疎通をしながら協力して仕事をしなければならないケースだ。

 

こういった場合は専門用語を沢山知っていて、使い方も間違っていないという判断だけで相手の能力をだいたい正確に推量することができるだろう。

 

逆にいうと、それ以外のケースでは、この用語のパターン認識による能力の推定は、本当はあんまり役に立たないはずだ。

 

さて、そもそも、この人間が他人の能力を推定するときに使っている上記のようなパターン認識であるが、本来は自分の仲間とそれ以外を区別するためのものを転用していると、僕は考えている。

 

人間のような社会的生物の場合、自分の群れとそれ以外を区別することはとても重要であり、おそらくは本能に組み込まれいる行動だ。

 

アリの場合は、匂いで自分の巣のアリか、よその巣のアリかを区別するという。だから、自分の巣の匂いを十分にまぶしたよその巣のアリは区別できなくて攻撃しないらしい。

 

人間の場合は匂いもひょっとしたら少しはあるかもしれないが、もっと多彩であり、言語や仕草や行動様式などさまざまな要素でパターン認識していて、自分の仲間かそうでないかを区別しているのだと思われる。

 

組織に受け入れられるためには、能力だけでなく、その集団の”流儀”にもなじまないと仲間にいれてもらえないというのはよくある話だ。

 

人間はこういう本来は仲間かそうでないかを区別するためのパターン認識を、能力の推定のためにも援用しているというのがぼくの仮説だ。そのため能力とは本来は関係のない仲間と区別するための特徴も、能力の一部だと思い込みやすいバイアスがかかっているに違いない。

 

男性社会においては女性であるというだけで能力が低いと判断されてしまうのだ。

 

仲間であるかどうかで相手の能力を低く見積もる傾向は、初期の将棋電王戦においても観察された。コンピュータの指す将棋について、人間とは”やりかた”が違っている。プロ棋士はそう指さない。という言葉がコンピュータはそれほど強いとは思わないという文脈で、よく使われた。アルファ碁の解説でも同じような傾向があった。イ・セドルとの対戦で、アルファ碁がへんな手を打つとか、最初は馬鹿にしていたのが、強いと分かると逆に今度はそれが人智の及ばない神の一手だと、手のひらを返した。人間は自分のやりかたと違うだけで、相手の能力を低く見積もるのである。

 

この自分の仲間であるかどうかと、相手の能力を推量する、ということを同じ機構で判断していることによる混同は、ネット社会の争いを観察しても、すぐに発見できる。

 

原発推進派と反対派、ネトウヨとしばき隊。多くの場合、彼らがおこなっているのは議論ではなく、相手が仲間かそうでないかのパターン認識だ。それぞれ自分たちが信じる”真実”を相手が理解していないから、能力が低いと馬鹿にしている。

 

 

というようなふうに考えると、いろいろ世の中のことがスッキリ理解できるというようなことを先週は考えていた。

 

長く話が脱線したが、今回はダイエットの進捗報告でした。

 

インターネットの未来の正しい議論

今回は珍しく書評を書く。それもよく僕本人と間違えられるという設定でお馴染みの人が筆者である新刊だ。

鈴木さんにも分かるネットの未来

この本はスタジオジブリの機関誌「熱風」という一般には販売されていない雑誌で1年以上にわたって連載されたものを単行本化したものである。

この連載がどういう風に世間に受け止められるかをぼくはわりと注目していた。なぜかというと、これはネットは門外漢であるスタジオジブリ鈴木敏夫プロデューサーにネットの現在と未来を説明するという体でありながら、おそらくは当時はだれも指摘していなかったネットの実態と未来予想について筆者が本音を自分で執筆した本だからだ。

筆者のこれまでの本はすべてインタビューをまとめた本であり、喋っていることもわりと簡単なことばかりでそれほど難しい理屈も出てこない。

しかし、この本は聞き書きではなく、筆者がかなり時間をかけて自分で文章を書いた本であり、読者に対する手加減がわりとない。そしてIT業界では当事者たちからはあまり語らないようなこと、もしくは理解していないこと、ネットでの一般常識とは違うことを中心に、損得考えずにそのまま書いてあるのだ。

それがIT業界のひとはだれも読んでなさそうで、そもそもほとんどの書店には置いてないような雑誌に連載されるのである。

いったいなにが起こるのだろうか。とぼくは好奇心をもって観察していたのである。

どうなったのか?

じつは結果としてはなにも起こらなかった。

やはり本来のターゲットになるようなひとの手元にはほとんど届かなかったようだ。まあ、予想通りの話でもある。

しかし、連載終了からも、早くも1年がたったが、この本の内容はまったく古びていない。

むしろ一部は予言のように現実がこの本の内容に追いつき始めていて、より説得力のあるタイミングで出版されることになったのだと思う。

この本に書かれているテーマはいくつもあるが、もっとも重要なものは、世界中の国でインターネットという場が治外法権となり、国家の主権が及ばない場所になっているという指摘だ。

歴史の中で国家というものが解体され、消滅していくとすれば、それはインターネットの場から起こるだろう。

このことはインターネットの登場したときにそれこそ伊藤穰一氏などが予言していた話であり、新しい話ではない。しかし、それは遠い未来の予測として漠然として受け止められ、実感を伴う問題として世の中に受け止められていなかったというのが現実だろう。

しかし、インターネット上で国家の主権が通用しなくなり、かわってグーグル、アップル、アマゾンなどのグローバルプラットホームが、租税権、立法権行政権、裁判権などを行使しつつあるというのは、現在進行形で進んでいる事実だ。

歴史の中でいまは国家からグローバルプラットフォームに主権が移動しつつある過渡期であるという認識を、はっきりと持つべきではないかというのが、ぼくの主張だ。

こういう状況を、ネットで活躍する批評家たちですら、ちゃんと理解していないように見える。

数日前の東浩紀氏のツイートを見てみよう。

 

 

この東氏がやくざのみかじめ料みたいと切り捨てたEUの行動は、主権を奪われつつある国家権力のグローバルプラットフォームに対する反撃である。いままさにネット上の主権をめぐった争いが行われつつあり、どちらかというと劣勢なのは国家権力側だろう。

それを従来型の国家権力=悪、インターネット=自由という素朴な認識からくる善悪判断で判断したかのようなツイートで切り捨てるのが、日本のネットに詳しい有名批評家の現実である。

これからのインターネットでなにが起こるか、なにが本当の争点なのか。筆者がなにを考えているか知りたいひとは読んでほしい。鈴木さんにも分かると入門書を装っているが、鈴木さんにも分かってもらおうという手加減はまったくないガチの中身だ。

 

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ドワンゴの準エンジニア手当という制度が面白い

 ドワンゴにはエンジニア手当というものがあって、プログラマーの給与水準が全体的に高くなっている。要するに優遇されている。
 
 しかし、プログラミングの知識はエンジニアだけでなく企画者、あるいはデザイナーにとっても重要である。したがって、エンジニアから他の職種へのコンバートも積極的に進めるという方針がドワンゴにはあるのだが、このときにエンジニア手当というのが問題になる。要するにエンジニアをやめて他の職種にいくと給料が下がるのだ。
 
 そのため元エンジニア手当みたいなものを作ろうとかいうような話もあったのだが、それはそれで不公平ではないかという議論もあり、結果として準エンジニア手当というものを創設し、一定の技術スキルがあることが試験で認められれば、元エンジニアだろうが、元からの企画者やデザイナーだろうが、給料が上がるという仕組みを導入することにしたのだ。
 
 これがいまドワンゴ社内で盛り上がっているらしい、という話を聞いたので紹介する。
 
 盛り上がっているというのは準エンジニア手当を貰える資格を得るための試験に応募した受験者の数が、まず、とても多かったということだ。
 難易度によって手当の金額は変わり、レベル1とレベル2があるのだが、レベル1でも200人、レベル2でも70人と合計300人近くの応募者があったらしい。
 そしてどうも最近はみんな社員は昼飯でも仕事が終わったあとも試験の話題ばっかりで、自主的な勉強会が各所で開催され、参考書として指定された3冊は発表された瞬間にアマゾンで品切れになり、銀座周辺の本屋の店頭からも消え、秋葉原ヨドバシカメラですら見つけることはできなくなった。
 その三冊がなんなのかはリンクを貼るのが面倒なので紹介はしない。
 
 そして試験の結果はどうなったか。まだ、結果は発表されてはいないのだが、このまえの週末に試験があったらしい。
 非エンジニアも対象にしたプログラミングの知識の試験とはいっても、ドワンゴのエンジニアが出す問題のレベルがそんな生易しいわけがないのだが、相当、みんな勉強したらしく、レベル1については相当な合格者が出そうだとのことだ。
 レベル2についても、ドワンゴの現役エンジニアからも合格できるか自信がないというひとが続出するぐらいの難易度で、当然、合格率は50%は下回るそうだが、それでも、それなりの合格者はでそうとのことだ。
 
 まだ、はじまったばかりの試みだが、ぼくはすべての職種にプログラミングの知識は必須である時代は本当はもう来ていると思っている。
 今後、どういうことになるのか、どんな成果がでるのか、でなかったのか、また、機会があれば紹介したい。
 

人生の賞味期限について

以下のブログで書かれていたことについて思ったことを書いてみる。

 

現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ、人生の「賞味期限」

 

筆者の佐藤航陽氏が書くところによると、人生には「賞味期限」があるという。人間が一生の間に持っているエネルギーには限度があり、そのエネルギーは人生の中で減っていく、 なにかに挑戦するにはエネルギーが必要で、エネルギーが枯渇してしまうと、いくら挑戦できる十分な知識と経験があっても、もはや挑戦は できなくなる。このエネルギーが残っている期間を「人生の賞味期限」と呼んでいるということらしい。

 

ぼくのあまり長くはない人生経験からしても、こういう人生の賞味期限といったものは

本当に存在すると思う。

 

人生の賞味期限がなぜあるのかは単純で、佐藤氏が書いているように現実を直視しながら

理想を持ち続けることが難しいからだ。

 

簡単にいうと、世の中を変えようと、ある理想を実現しようと頑張る人間というのは根本的に勘違いをしているからだ。

 

勘違いというのはなにか?みっつ挙げる。

 

・ 理想を実現する能力を自分が持っているという思い込み。人間ひとりの力なんてたかが知れていて、理想が実現するかどうかは自分とは関係なく決まるものである。

・ 理想が正しくて、現実が間違っているという思い込み。当然のことながら、世の中に存在するものは全て合理的であり、間違っているように見えるのは全部が見えてないだけだからだ。

・ 理想を実現するのが自分の使命であり生きる意味であるという思い込み。当然のことながら、勘違い。社会的使命の実現のためと個人の幸せがたまたま一致していれば問題はないが、本来は個人の幸せは自分の理想とは別のものである。

 

人間個人の幸せと理想の追求の両立は、根本的にいろいろ無理があるのだ。まあ、たまたま、うまくいく場合もあれば、さらに幸運だとそれが長く続く場合もあるだろうが、基本はそんなことは起こったとしても、そっちのほうが事故みたいなものである。人生の幸せとは他にもいろいろあるに決まっている。

 

なぜ、人生に賞味期限があるかは明快で、人間ある程度頭がよければ、なんのために自分は理想を追求しなければいけないのだろうと、いつかは自分の勘違いに気付いてしまうだけのことである。

 

このように、ぼくはこのブログの筆者のいう人生の賞味期限とは勘違いをしたままなにかに異常な努力を注げる期間だと思っているのだが、たとえ、人生の賞味期限が過ぎたからといって、人間が挑戦をできなくなるわけではないと思っている。

 

理想と現実の折り合いをつけて生きていこうとする人間が直面する問題をもうちょっと

分かりやすぐ理解するために、簡単な具体例で考えてみよう。

 

「選挙に投票にいくかどうか問題」というのがちょうどいい。

 

昨年末の衆院選だということにして、あなたの実現したい理想は、原子力発電所の全廃ということにしてみよう。

 

さあ、あなたはどう行動するべきだろうか。

 

各党の原発政策に関する公約は自民党が「依存度を可能な限り低減」であり、民主党は「2030年代の稼働ゼロ」。「新設は認めない」とするのが公明党だ。

 

人によっていろいろな判断があるだろうが、一番、ふつうの行動は、本音では原子力発電を続けたそうな自民党に投票することは避けて、一応は最大野党の民主党に投票することだろうか。

 

ここで、あなたが理想の実現のために投票にいくために、ぜひ信じたいことがいくつかある。

 

・ あなたの一票で民主党が勝利する。

・ 民主党が勝利すると原発が本当になくなる。

・ 選挙で投票することは国民の義務である。

 

現実問題として、これらの3つのすべては、かなり現実とは隔たりがある表現だ。

 

あなたの一票なんて選挙結果に影響は与えないし、選挙の結果で民主党がたとえ勝利したとしても原発が本当になくなるかは分からない。また、選挙の投票にいかないことは、別に犯罪でもなければ、とくに罰則があるわけではない。

 

理性的に考えると、わざわざ休日のある時間を費やして、選挙に投票にいくというのは、人間個人としては、まったくもって合理的な行動ではない。昨年の衆院選投票率は52.7%で史上最低だったが、投票に行かないひとが有権者の半分いることは、なにも不思議なことではない。

 

逆にいうと、衆院選挙においては、理想のために非合理的な行動をとる人間が52.7%もいたことになる。

 

この52.7%はどういうひとだろうか。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとが52.7%もいると解釈すればいいのだろうか。

おそらくは違う。投票率は、天候に左右されるといわれていて、雨だと下がる。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは雨が降ろうが、嵐がこようが、投票所の近くに山賊が待ち伏せていようが、投票にいくようなひとのことだろう。理想のためにすべてをなげうって努力するひとのことだ。52.7%の大半は、自分の投票があまり意味がないかもしれないと分かった上で、それでも投票にいくぐらいの努力はやろうと決断したひとたちだろう。

 

ぼくが指摘したいのは、佐藤航陽氏のいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは、要するになにも分かってない「馬鹿」のことだろう、ということだ。だいたい、起業家になろうとする人間なんて、根本的に頭が悪い奴らばかりに決まっている。ジョブズの有名なスピーチで「stay foolish」と言ったのは、まったくもって正しい。馬鹿にならないと起業家なんてやってられない。

 

現実を知って、なおも理想を追いかけるのも、また、これも馬鹿である。

なぜ、馬鹿な行動に人間は憧れ、また、それを貫くひとを貴ぶのか。

 

ひとついえるのは、馬鹿で非合理的な行動を取るのはそもそも人間とはそういうものであるということ。もし、それを否定したら、人間なんていらなくなって、それこそ人工知能でいいじゃんということに、いずれなるということだ。

 

不幸なことに人間とは多少の知性を持ってしまっているがゆえに、人生のどっかで自分の馬鹿さ加減にいずれ気づいてしまう。それに気づいてしまうまでが、「人生の賞味期限」ということだろう。そうなってしまうと、どうモチベーションを維持するかというのが大きな問題になる。

 

だが、それでなにかに挑戦するエネルギーが本当になくなってしまうのか、というと、それは違うのだと思う。本当に無駄と思った努力はできなくなるというだけだろう。ぼくの場合は、賞味期限が切れて仕事へのモチベーションを失ったのはちょうど20年前になる。会社をつくったのはその後だ。

 

理想を失わない現実主義者であろうとする宮崎駿監督が、やろうとしていたことをすべてやってしまったと感じたのはトトロの時だ。以降、苦しみながら創作を続けて、もののけ姫千と千尋の大ヒットで世の中を変えた。

 

佐藤氏も大馬鹿者の勘違い野郎だったのが、とうとう現実が見えてきたということだろう。

 

人間がモチベーションを持って仕事をする条件は、自分にしかできない仕事だと思い込めるかどうかがいちばん重要だろうと思う。

 

時代の一歩先を読んで、ビジネスを成功させるというのは、佐藤氏が気づいたように、じつは自分でなくてもできる話で、だれがやったっていいことだ。本当に自分しかできない仕事があるとすれば、むしろ、だれもやろうとしない時代に逆らったあだ花を咲かせることにあると思う。

 

実はこれは合理性もあるようにできる話で、なぜかというと、時代の先を読んで有利にできるのは時代の先取りだけではなく、時代の逆戻りも同じことだからだ。時代を変えようとする力、今の時代を守ろうとする力、そのせめぎ合いのバランスの中で時代は決まる。時代の先を読む人間は変える側に付きたがるのが常だが、逆のアプローチも成立しうるということだ。

 

こっちのほうがやる人間も少ないから競争もない。それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。

 

そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。

 

人類の歴史にはきっと終わりがあり、それが早くなるだけだと思っているからだ。紆余曲折あったほうが、楽しい歴史になると思っている。

 

人類の最後があるなら、それを自分の目で見てみたい気持ちはあるけど、それは自分のエゴだし、想像するのも、また、それはそれで現実よりも楽しい。

 

 

ま、とりあえず、賞味期限の切れた人間をなめるなということです。というより、挑戦をできるかできないかでいえば、人間は賞味期限が切れることはない。無駄な挑戦ができなくなるというだけの話です。

投票率だって、政権交代しそうな時は上昇するし、争点が明確なときもまたあがる。

 

無理なことに突撃はできなくなっても、この世を変える可能性が見えたとき、それはなかなか起こらないことだけれども、そのときはまた理想のためにひと肌ぬぐ。人間とはそういうものではないでしょうか。

 

給料なんてサイコロで決めればいい

今日、面白法人カヤックという会社が上場した。おめでとうございますというのは本人に直接いえばいい話であって、こんなところに書きたいのはそんな話ではない。

 

カヤックには面白い人事制度がいくつもあるのだが、そのなかでもぼくが本当に衝撃を受けたのはサイコロ給という制度で、今日はそれを紹介したい。

 

サイコロ給とは毎月1回サイコロを振って、サイコロの出目X1%が支給されるという制度である。1がでれば給料の1%がサイコロ給として追加で貰える。6がでると6%が貰えるわけで、最大5%の給与格差がサイコロの目によって決まるわけだ。

 

http://www.kayac.com/vision/style/dice

 

このサイコロ給のねらいについては↑上のカヤックのサイトの説明文が素晴らしいのだが、要するに人間が人間を評価して給与を決めているけど、それってもともといい加減だよね、ということをいいたいらしいのだ。その初心を忘れないために毎月サイコロを振っているらしいのだ。

 

そう。どんな会社だって人間を評価する能力なんて本当はない人間がたいした時間もかけずに他人を評価して、それで人生が決まっていく。本人にとってはとても重要なことが他人の気まぐれみたいなもので決められていく。人生とは本当に理不尽なものだ。

 

そのことを端的に表現したサイコロ給という制度って、これってすごく素敵だし、ちょっと哲学的でもあって 、この話に救われる気持ちになるひとも多いのだと思うし、他人の企画にはほとんど興味は持たない僕だけれども、この企画に関しては本当にすごいと思ったし、正直、嫉妬したぐらいにいい企画だと思った。

 

まあ、ある程度はカヤックのサイコロ給は有名な話だと思うのだけれども、もっともっと世の中に知られていい話だと思う。こんな素敵な制度を持つIT企業が日本にはある。

 

さて、この話がもっと広まるためにカヤックが超えなければならない課題がひとつある。

それは会社として成功することだ。人間が人間を評価する能力があるのかという問題は、人事に限らない。

 

カヤックカヤックのサイコロ給がいかに素晴らしいものであったとしても日本人も日本社会もそれを評価する能力なんてもってない。

 

正直、カヤックが本当に素晴らしい会社かどうかについても、ぼくは疑問を持っている。カヤックはだいたい極端すぎる会社だ。一時期はサービスを粗製濫造で乱発し、1年間でつくったサービスの数を自慢していた時代があった。まあ、似たようなことをいっていた会社はカヤック以外にもあったのでそういう時代だったということなのかもしれないが。あれは間違いだとぼくは思う。

 

柳澤大輔さんに会ったときに、うちは2年間で50%の社員が入れ替わるんですと社員の流動性の高さについて胸を張られて、開き直りすぎだろと、唖然とした記憶がある。

 

だいたい面白法人ってなんだ。自分で自分のことを面白いとかいう会社って面白いのか?と思ったりもする。

 

だが、そんなこともすべてどうでもいい。いや、いまいったすべてのことが肯定的に輝いて見える方法がひとつあって、それは会社が大成功することなのだ。

 

言っている内容、やっている内容、みんなそんなものは正しくは評価してくれない。そんなものだと諦めるしかない。

 

同じことを何十年言い続けてきても、無視されるか、それとも素晴らしいと賞賛されるかは、だれがいっているか、そのだれはどんな立場にあるひとなのか、それしか人間は判断材料にしない。そして経営者の場合は、それは会社がうまくいっているかどうかだ。

 

上場したカヤックが大成功することを祈っています。それは数字だけじゃないですけどね。

 

民主主義は本当は独裁よりもましなのか?

あんまりはっきりとした結論が出ないエントリであることをあらかじめお断りしておく。

↓のような記事を読んだ。


まあ、とくに内容についてはコメントすることはないのだが、民主主義について思っていることを書く。

この記事の中では民主主義は「ひとつの価値観が暴走することを防ぐための画期的な発明である」というようなことが書いてある。そしてそれは国家統治のためには優れていてもビジネスにおいては非効率であるということが書いてある。

民主主義について、こういう類の否定と肯定が入り混じった言説はよく見る。なかでも有名なものはチャーチルの演説の中での「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という一節だろう。

ぼくはこういうテーマを見ると、本当のところはどうなんだろうと、すぐに頭の中で民主主義を表す力学的な数理モデルを考えたくなるのだが、これがなかなか十分に納得できるものをつくるのが難しい。ただ、断片的なモデルからでも思うのは、権力の暴走を防ぐといった表現は、民主主義の特徴を示すにはちょっとニュアンスが違うんじゃないかということだ。

単純化した簡単なモデルを示す。

 

正しい決定をおこなう独裁者のいる組織をAとする。

間違った決定をおこなう独裁者のいる組織をBとする。

なにも決定できない消極的な独裁者のいる組織をCとする。

正しい決定をおこなう民主的組織をaとする。

間違った決定をおこなう民主的組織をbとする。

なにも決定できない民主的組織をcとする。

上に引用した記事で主張している内容をこの記号をつかって説明すると

・ 民主的組織はaあるいはbよりもcになる傾向がある。

・ 民主的組織a,b,cは独裁的組織ABCよりも決定に時間がかかり効率が悪い。

・ 独裁的組織がBになるリスクよりも、民主的組織がbになる確率のほうが低い。

という3点になるだろう。これについては概ね正しいといったん考えることにする。

そうすると、民主主義の独裁に対する利点が、もし権力の暴走であるBが起こらないことだとすると、その理由は正しい決定aをよりおこなうからではなく、なにも決定しないcになりやすいからだということになる。

つまり民主主義の本質は正しい決定をすることではなく、なにも決定しないことにあるということになってしまう。そして、ぼくはこの結論は案外と正しいんじゃないかと思っている。

民主主義か独裁かを問わず組織として決定しないほうがうまくいく場合とはどんなものが考えられるか。それはなにか決定すると正しい結論A/aではなく、間違った結論B/bになってしまう可能性が高いような場合だろう。どういうときにそういうことになるかというと、単純に問題が複雑で難しい場合と、トップが民主的あるいは独裁で判断するよりも現場が勝手に判断したほうが正しいような場合の2種類だろう。

特に巨大化した組織ではトップといえども分業化が進むので現場としての判断能力はどんどんなくなるから、なにも決めないでくれたほうが組織はうまく回ることが多い。そういう意味でなにも決めれない民主主義は巨大な組織の運営方法として向いている。つまりなにも決めないほうが現場への権限委譲が進んで効率がよくなるというのが民主主義の利点の本質ということになる。

さて、もし、そうだとすると上のモデルではCとなっている、なにも決定できない独裁者のいる組織というのもなにも決定できない民主主義と同じぐらいに権限委譲が進んで素晴らしいのではないかという推論もでてくる。これはこれで正しいのではないか。「神輿は軽くてパーがいい」とは小沢一郎がいったとされる言葉だ。

まあ、結局のところ引用記事でもあるように民主的組織なんて意志決定機構としては効率が悪く、正しい意志決定の能力がある人間が独裁したほうがうまくいくのは間違いない。でも、正しい意志決定ができない場合に、あえて意志決定をしないための手法として民主主義が機能する場合があるというのが、本当のところではないかと思う。でも、民主主義以外にも意志決定をしない手法は組織的に権限委譲をすることなども含めてたくさんある。権限委譲を正しく設計できる有能な独裁者がいるなら民主主義なんてまったく利点は見当たらない。ようするに民主主義はやはり最低の意志決定手法であるということだ。

なのにこんなに民主主義がはびこっているかについては、組織としての効率よりも、自由、平等、博愛のイデオロギーの影響が強い現代において組織の構成員がもっとも納得しやすい意志決定手法であるということが大きいだろう。まあ、みんなを説得できるなら、できれば民主主義じゃないほうが望ましいということだ。

 

さて、民主主義の特徴して、引用記事が指摘したこととして、民主主義は効率が悪い、具体的には決定に時間がかかることがあげられていた。これについても実はなんらかの利点があるというモデルが考えられないだろうか。

ということで方向性を示唆しているように見えるもうひとつの記事を引用する。

アイデアを出すことが企画だと思ってる奴は100万回死んでいい 島国大和のド畜生

これで指摘されているのは、企画者が5秒で考えたアイデアで開発チームが1年間拘束されることがあるという指摘である。

組織が大きくなるとこういうことが多発する。

思いつきで影響力の大きな決定を頻繁にされたらまったくもって迷惑である。せめて一定期間にやっていい決定について回数制限とかはなんらかの形でしてほしいところだ。その実質的な回数制限に民主主義は役立っている可能性があるのではないか。

 

このように、ある一定のリソース*時間を消費するプロジェクトの実行を決定するのにかけるべき時間を定量的に説明できるような数理モデルというのはどんなものが考えられるだろうか、そんなことをさっきから考えていたのである。もちろん答えはまだない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナベタくんの選挙・都知事編・大塚英志

ここんところ、すっかりナベタくんブログになっています・・・。

 

以下転載。

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みなさまへ

 

大塚英志です。

 

「ナベタくんの選挙」東京都知事編です。

ネット選挙の狂躁も醒め、淡々と彼の選挙は続いています。

ネットの住人はカスタマイズされたイベントにユーザーとしてのみ参加し、リア充型の若者は「繋がり」が社会参加の目的なのか、彼のように「自分一人で何かをやる」というスタイルはどちらの住人にも、「評価」はされても同じ事をするものは殆ど現れません。

 

前回、マスコミ関係の取材を通じてメディアのコネもできたのですが、それを通じて拡散することは彼のモラルに反するようです。

そんなわけで最初に彼の動画を見て下さい、とお願いした3人の個人と一つの出版社のかたに「勝手に」かれのメールの一部と動画サイトのアドレスをご紹介します。

このメールを含めよかったらどなたかにどこかでご紹介下さい。

 

以下「ナベタくん」のメールす。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

ご無沙汰しております。

都知事選で「やってみた」結果の動画をアップしました。

東京都知事選挙候補者に会って質問できるか やってみた」 
youtube→ 
http://www.youtube.com/watch?v=K7UpcCNfMWM 
ニコニコ動画→ 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22782198 

……
回答が得られたのは16人中3人。
回答得られた候補は、宇都宮候補、中川候補、五十嵐候補です。

回答率18.75%はこれまでで最も低いものになりました。
けど、それも「やっぱりか」という感じがしています。
ひとつは、選挙の規模が大きくなると「距離」も広がっているような気がすること。
これまでの回答率は――

衆院選5人中1人 20
参院選20人中6人 30
市長選2人中1人 50
都議選5人中3人(予定) 60
市議選21人中19人 約90

――
というピラミッドになっていたので。
たまたまなのかもしれないですが、でも出来すぎてるなあ、と。

もうひとつは、「当選する」という熱を感じる陣営がすくなかったこと。
告示日に事務所の届け出があったのが10人だったり。
会って回答を得られた候補のなかでも「福生市」を知らず
福生市民」という肩書きをみて「宗教?」と訊かれて
「フクオシミン」というふうに読まれてしまったり。