インターネットの未来の正しい議論
今回は珍しく書評を書く。それもよく僕本人と間違えられるという設定でお馴染みの人が筆者である新刊だ。
鈴木さんにも分かるネットの未来
この本はスタジオジブリの機関誌「熱風」という一般には販売されていない雑誌で1年以上にわたって連載されたものを単行本化したものである。
この連載がどういう風に世間に受け止められるかをぼくはわりと注目していた。なぜかというと、これはネットは門外漢であるスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーにネットの現在と未来を説明するという体でありながら、おそらくは当時はだれも指摘していなかったネットの実態と未来予想について筆者が本音を自分で執筆した本だからだ。
筆者のこれまでの本はすべてインタビューをまとめた本であり、喋っていることもわりと簡単なことばかりでそれほど難しい理屈も出てこない。
しかし、この本は聞き書きではなく、筆者がかなり時間をかけて自分で文章を書いた本であり、読者に対する手加減がわりとない。そしてIT業界では当事者たちからはあまり語らないようなこと、もしくは理解していないこと、ネットでの一般常識とは違うことを中心に、損得考えずにそのまま書いてあるのだ。
それがIT業界のひとはだれも読んでなさそうで、そもそもほとんどの書店には置いてないような雑誌に連載されるのである。
いったいなにが起こるのだろうか。とぼくは好奇心をもって観察していたのである。
どうなったのか?
じつは結果としてはなにも起こらなかった。
やはり本来のターゲットになるようなひとの手元にはほとんど届かなかったようだ。まあ、予想通りの話でもある。
しかし、連載終了からも、早くも1年がたったが、この本の内容はまったく古びていない。
むしろ一部は予言のように現実がこの本の内容に追いつき始めていて、より説得力のあるタイミングで出版されることになったのだと思う。
この本に書かれているテーマはいくつもあるが、もっとも重要なものは、世界中の国でインターネットという場が治外法権となり、国家の主権が及ばない場所になっているという指摘だ。
歴史の中で国家というものが解体され、消滅していくとすれば、それはインターネットの場から起こるだろう。
このことはインターネットの登場したときにそれこそ伊藤穰一氏などが予言していた話であり、新しい話ではない。しかし、それは遠い未来の予測として漠然として受け止められ、実感を伴う問題として世の中に受け止められていなかったというのが現実だろう。
しかし、インターネット上で国家の主権が通用しなくなり、かわってグーグル、アップル、アマゾンなどのグローバルプラットホームが、租税権、立法権、行政権、裁判権などを行使しつつあるというのは、現在進行形で進んでいる事実だ。
歴史の中でいまは国家からグローバルプラットフォームに主権が移動しつつある過渡期であるという認識を、はっきりと持つべきではないかというのが、ぼくの主張だ。
こういう状況を、ネットで活躍する批評家たちですら、ちゃんと理解していないように見える。
数日前の東浩紀氏のツイートを見てみよう。
ヤクザのみかじめ料のようだ。。。→ 欧州委員会がアマゾンの電子書籍事業に警告 世界売上高の10%相当の罰金を科す可能性 | ロイター - 東洋経済オンライン http://t.co/ujyuJlSQzg @Toyokeizaiさんから
— 東浩紀 hiroki azuma (@hazuma) 2015, 6月 15
この東氏がやくざのみかじめ料みたいと切り捨てたEUの行動は、主権を奪われつつある国家権力のグローバルプラットフォームに対する反撃である。いままさにネット上の主権をめぐった争いが行われつつあり、どちらかというと劣勢なのは国家権力側だろう。
それを従来型の国家権力=悪、インターネット=自由という素朴な認識からくる善悪判断で判断したかのようなツイートで切り捨てるのが、日本のネットに詳しい有名批評家の現実である。
これからのインターネットでなにが起こるか、なにが本当の争点なのか。筆者がなにを考えているか知りたいひとは読んでほしい。鈴木さんにも分かると入門書を装っているが、鈴木さんにも分かってもらおうという手加減はまったくないガチの中身だ。
ドワンゴの準エンジニア手当という制度が面白い
人生の賞味期限について
以下のブログで書かれていたことについて思ったことを書いてみる。
現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ、人生の「賞味期限」
筆者の佐藤航陽氏が書くところによると、人生には「賞味期限」があるという。人間が一生の間に持っているエネルギーには限度があり、そのエネルギーは人生の中で減っていく、 なにかに挑戦するにはエネルギーが必要で、エネルギーが枯渇してしまうと、いくら挑戦できる十分な知識と経験があっても、もはや挑戦は できなくなる。このエネルギーが残っている期間を「人生の賞味期限」と呼んでいるということらしい。
ぼくのあまり長くはない人生経験からしても、こういう人生の賞味期限といったものは
本当に存在すると思う。
人生の賞味期限がなぜあるのかは単純で、佐藤氏が書いているように現実を直視しながら
理想を持ち続けることが難しいからだ。
簡単にいうと、世の中を変えようと、ある理想を実現しようと頑張る人間というのは根本的に勘違いをしているからだ。
勘違いというのはなにか?みっつ挙げる。
・ 理想を実現する能力を自分が持っているという思い込み。人間ひとりの力なんてたかが知れていて、理想が実現するかどうかは自分とは関係なく決まるものである。
・ 理想が正しくて、現実が間違っているという思い込み。当然のことながら、世の中に存在するものは全て合理的であり、間違っているように見えるのは全部が見えてないだけだからだ。
・ 理想を実現するのが自分の使命であり生きる意味であるという思い込み。当然のことながら、勘違い。社会的使命の実現のためと個人の幸せがたまたま一致していれば問題はないが、本来は個人の幸せは自分の理想とは別のものである。
人間個人の幸せと理想の追求の両立は、根本的にいろいろ無理があるのだ。まあ、たまたま、うまくいく場合もあれば、さらに幸運だとそれが長く続く場合もあるだろうが、基本はそんなことは起こったとしても、そっちのほうが事故みたいなものである。人生の幸せとは他にもいろいろあるに決まっている。
なぜ、人生に賞味期限があるかは明快で、人間ある程度頭がよければ、なんのために自分は理想を追求しなければいけないのだろうと、いつかは自分の勘違いに気付いてしまうだけのことである。
このように、ぼくはこのブログの筆者のいう人生の賞味期限とは勘違いをしたままなにかに異常な努力を注げる期間だと思っているのだが、たとえ、人生の賞味期限が過ぎたからといって、人間が挑戦をできなくなるわけではないと思っている。
理想と現実の折り合いをつけて生きていこうとする人間が直面する問題をもうちょっと
分かりやすぐ理解するために、簡単な具体例で考えてみよう。
「選挙に投票にいくかどうか問題」というのがちょうどいい。
昨年末の衆院選だということにして、あなたの実現したい理想は、原子力発電所の全廃ということにしてみよう。
さあ、あなたはどう行動するべきだろうか。
各党の原発政策に関する公約は自民党が「依存度を可能な限り低減」であり、民主党は「2030年代の稼働ゼロ」。「新設は認めない」とするのが公明党だ。
人によっていろいろな判断があるだろうが、一番、ふつうの行動は、本音では原子力発電を続けたそうな自民党に投票することは避けて、一応は最大野党の民主党に投票することだろうか。
ここで、あなたが理想の実現のために投票にいくために、ぜひ信じたいことがいくつかある。
・ あなたの一票で民主党が勝利する。
・ 選挙で投票することは国民の義務である。
現実問題として、これらの3つのすべては、かなり現実とは隔たりがある表現だ。
あなたの一票なんて選挙結果に影響は与えないし、選挙の結果で民主党がたとえ勝利したとしても原発が本当になくなるかは分からない。また、選挙の投票にいかないことは、別に犯罪でもなければ、とくに罰則があるわけではない。
理性的に考えると、わざわざ休日のある時間を費やして、選挙に投票にいくというのは、人間個人としては、まったくもって合理的な行動ではない。昨年の衆院選の投票率は52.7%で史上最低だったが、投票に行かないひとが有権者の半分いることは、なにも不思議なことではない。
逆にいうと、衆院選挙においては、理想のために非合理的な行動をとる人間が52.7%もいたことになる。
この52.7%はどういうひとだろうか。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとが52.7%もいると解釈すればいいのだろうか。
おそらくは違う。投票率は、天候に左右されるといわれていて、雨だと下がる。佐藤氏がいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは雨が降ろうが、嵐がこようが、投票所の近くに山賊が待ち伏せていようが、投票にいくようなひとのことだろう。理想のためにすべてをなげうって努力するひとのことだ。52.7%の大半は、自分の投票があまり意味がないかもしれないと分かった上で、それでも投票にいくぐらいの努力はやろうと決断したひとたちだろう。
ぼくが指摘したいのは、佐藤航陽氏のいう「人生の賞味期限」が切れてないひとというのは、要するになにも分かってない「馬鹿」のことだろう、ということだ。だいたい、起業家になろうとする人間なんて、根本的に頭が悪い奴らばかりに決まっている。ジョブズの有名なスピーチで「stay foolish」と言ったのは、まったくもって正しい。馬鹿にならないと起業家なんてやってられない。
現実を知って、なおも理想を追いかけるのも、また、これも馬鹿である。
なぜ、馬鹿な行動に人間は憧れ、また、それを貫くひとを貴ぶのか。
ひとついえるのは、馬鹿で非合理的な行動を取るのはそもそも人間とはそういうものであるということ。もし、それを否定したら、人間なんていらなくなって、それこそ人工知能でいいじゃんということに、いずれなるということだ。
不幸なことに人間とは多少の知性を持ってしまっているがゆえに、人生のどっかで自分の馬鹿さ加減にいずれ気づいてしまう。それに気づいてしまうまでが、「人生の賞味期限」ということだろう。そうなってしまうと、どうモチベーションを維持するかというのが大きな問題になる。
だが、それでなにかに挑戦するエネルギーが本当になくなってしまうのか、というと、それは違うのだと思う。本当に無駄と思った努力はできなくなるというだけだろう。ぼくの場合は、賞味期限が切れて仕事へのモチベーションを失ったのはちょうど20年前になる。会社をつくったのはその後だ。
理想を失わない現実主義者であろうとする宮崎駿監督が、やろうとしていたことをすべてやってしまったと感じたのはトトロの時だ。以降、苦しみながら創作を続けて、もののけ姫や千と千尋の大ヒットで世の中を変えた。
佐藤氏も大馬鹿者の勘違い野郎だったのが、とうとう現実が見えてきたということだろう。
人間がモチベーションを持って仕事をする条件は、自分にしかできない仕事だと思い込めるかどうかがいちばん重要だろうと思う。
時代の一歩先を読んで、ビジネスを成功させるというのは、佐藤氏が気づいたように、じつは自分でなくてもできる話で、だれがやったっていいことだ。本当に自分しかできない仕事があるとすれば、むしろ、だれもやろうとしない時代に逆らったあだ花を咲かせることにあると思う。
実はこれは合理性もあるようにできる話で、なぜかというと、時代の先を読んで有利にできるのは時代の先取りだけではなく、時代の逆戻りも同じことだからだ。時代を変えようとする力、今の時代を守ろうとする力、そのせめぎ合いのバランスの中で時代は決まる。時代の先を読む人間は変える側に付きたがるのが常だが、逆のアプローチも成立しうるということだ。
こっちのほうがやる人間も少ないから競争もない。それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。
そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。
人類の歴史にはきっと終わりがあり、それが早くなるだけだと思っているからだ。紆余曲折あったほうが、楽しい歴史になると思っている。
人類の最後があるなら、それを自分の目で見てみたい気持ちはあるけど、それは自分のエゴだし、想像するのも、また、それはそれで現実よりも楽しい。
ま、とりあえず、賞味期限の切れた人間をなめるなということです。というより、挑戦をできるかできないかでいえば、人間は賞味期限が切れることはない。無駄な挑戦ができなくなるというだけの話です。
投票率だって、政権交代しそうな時は上昇するし、争点が明確なときもまたあがる。
無理なことに突撃はできなくなっても、この世を変える可能性が見えたとき、それはなかなか起こらないことだけれども、そのときはまた理想のためにひと肌ぬぐ。人間とはそういうものではないでしょうか。
給料なんてサイコロで決めればいい
今日、面白法人カヤックという会社が上場した。おめでとうございますというのは本人に直接いえばいい話であって、こんなところに書きたいのはそんな話ではない。
カヤックには面白い人事制度がいくつもあるのだが、そのなかでもぼくが本当に衝撃を受けたのはサイコロ給という制度で、今日はそれを紹介したい。
サイコロ給とは毎月1回サイコロを振って、サイコロの出目X1%が支給されるという制度である。1がでれば給料の1%がサイコロ給として追加で貰える。6がでると6%が貰えるわけで、最大5%の給与格差がサイコロの目によって決まるわけだ。
http://www.kayac.com/vision/style/dice
このサイコロ給のねらいについては↑上のカヤックのサイトの説明文が素晴らしいのだが、要するに人間が人間を評価して給与を決めているけど、それってもともといい加減だよね、ということをいいたいらしいのだ。その初心を忘れないために毎月サイコロを振っているらしいのだ。
そう。どんな会社だって人間を評価する能力なんて本当はない人間がたいした時間もかけずに他人を評価して、それで人生が決まっていく。本人にとってはとても重要なことが他人の気まぐれみたいなもので決められていく。人生とは本当に理不尽なものだ。
そのことを端的に表現したサイコロ給という制度って、これってすごく素敵だし、ちょっと哲学的でもあって 、この話に救われる気持ちになるひとも多いのだと思うし、他人の企画にはほとんど興味は持たない僕だけれども、この企画に関しては本当にすごいと思ったし、正直、嫉妬したぐらいにいい企画だと思った。
まあ、ある程度はカヤックのサイコロ給は有名な話だと思うのだけれども、もっともっと世の中に知られていい話だと思う。こんな素敵な制度を持つIT企業が日本にはある。
さて、この話がもっと広まるためにカヤックが超えなければならない課題がひとつある。
それは会社として成功することだ。人間が人間を評価する能力があるのかという問題は、人事に限らない。
カヤックとカヤックのサイコロ給がいかに素晴らしいものであったとしても日本人も日本社会もそれを評価する能力なんてもってない。
正直、カヤックが本当に素晴らしい会社かどうかについても、ぼくは疑問を持っている。カヤックはだいたい極端すぎる会社だ。一時期はサービスを粗製濫造で乱発し、1年間でつくったサービスの数を自慢していた時代があった。まあ、似たようなことをいっていた会社はカヤック以外にもあったのでそういう時代だったということなのかもしれないが。あれは間違いだとぼくは思う。
柳澤大輔さんに会ったときに、うちは2年間で50%の社員が入れ替わるんですと社員の流動性の高さについて胸を張られて、開き直りすぎだろと、唖然とした記憶がある。
だいたい面白法人ってなんだ。自分で自分のことを面白いとかいう会社って面白いのか?と思ったりもする。
だが、そんなこともすべてどうでもいい。いや、いまいったすべてのことが肯定的に輝いて見える方法がひとつあって、それは会社が大成功することなのだ。
言っている内容、やっている内容、みんなそんなものは正しくは評価してくれない。そんなものだと諦めるしかない。
同じことを何十年言い続けてきても、無視されるか、それとも素晴らしいと賞賛されるかは、だれがいっているか、そのだれはどんな立場にあるひとなのか、それしか人間は判断材料にしない。そして経営者の場合は、それは会社がうまくいっているかどうかだ。
上場したカヤックが大成功することを祈っています。それは数字だけじゃないですけどね。
民主主義は本当は独裁よりもましなのか?
あんまりはっきりとした結論が出ないエントリであることをあらかじめお断りしておく。
↓のような記事を読んだ。
まあ、とくに内容についてはコメントすることはないのだが、民主主義について思っていることを書く。
この記事の中では民主主義は「ひとつの価値観が暴走することを防ぐための画期的な発明である」というようなことが書いてある。そしてそれは国家統治のためには優れていてもビジネスにおいては非効率であるということが書いてある。
民主主義について、こういう類の否定と肯定が入り混じった言説はよく見る。なかでも有名なものはチャーチルの演説の中での「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」という一節だろう。
ぼくはこういうテーマを見ると、本当のところはどうなんだろうと、すぐに頭の中で民主主義を表す力学的な数理モデルを考えたくなるのだが、これがなかなか十分に納得できるものをつくるのが難しい。ただ、断片的なモデルからでも思うのは、権力の暴走を防ぐといった表現は、民主主義の特徴を示すにはちょっとニュアンスが違うんじゃないかということだ。
単純化した簡単なモデルを示す。
正しい決定をおこなう独裁者のいる組織をAとする。
間違った決定をおこなう独裁者のいる組織をBとする。
なにも決定できない消極的な独裁者のいる組織をCとする。
正しい決定をおこなう民主的組織をaとする。
間違った決定をおこなう民主的組織をbとする。
なにも決定できない民主的組織をcとする。
上に引用した記事で主張している内容をこの記号をつかって説明すると
・ 民主的組織はaあるいはbよりもcになる傾向がある。
・ 民主的組織a,b,cは独裁的組織ABCよりも決定に時間がかかり効率が悪い。
・ 独裁的組織がBになるリスクよりも、民主的組織がbになる確率のほうが低い。
という3点になるだろう。これについては概ね正しいといったん考えることにする。
そうすると、民主主義の独裁に対する利点が、もし権力の暴走であるBが起こらないことだとすると、その理由は正しい決定aをよりおこなうからではなく、なにも決定しないcになりやすいからだということになる。
つまり民主主義の本質は正しい決定をすることではなく、なにも決定しないことにあるということになってしまう。そして、ぼくはこの結論は案外と正しいんじゃないかと思っている。
民主主義か独裁かを問わず組織として決定しないほうがうまくいく場合とはどんなものが考えられるか。それはなにか決定すると正しい結論A/aではなく、間違った結論B/bになってしまう可能性が高いような場合だろう。どういうときにそういうことになるかというと、単純に問題が複雑で難しい場合と、トップが民主的あるいは独裁で判断するよりも現場が勝手に判断したほうが正しいような場合の2種類だろう。
特に巨大化した組織ではトップといえども分業化が進むので現場としての判断能力はどんどんなくなるから、なにも決めないでくれたほうが組織はうまく回ることが多い。そういう意味でなにも決めれない民主主義は巨大な組織の運営方法として向いている。つまりなにも決めないほうが現場への権限委譲が進んで効率がよくなるというのが民主主義の利点の本質ということになる。
さて、もし、そうだとすると上のモデルではCとなっている、なにも決定できない独裁者のいる組織というのもなにも決定できない民主主義と同じぐらいに権限委譲が進んで素晴らしいのではないかという推論もでてくる。これはこれで正しいのではないか。「神輿は軽くてパーがいい」とは小沢一郎がいったとされる言葉だ。
まあ、結局のところ引用記事でもあるように民主的組織なんて意志決定機構としては効率が悪く、正しい意志決定の能力がある人間が独裁したほうがうまくいくのは間違いない。でも、正しい意志決定ができない場合に、あえて意志決定をしないための手法として民主主義が機能する場合があるというのが、本当のところではないかと思う。でも、民主主義以外にも意志決定をしない手法は組織的に権限委譲をすることなども含めてたくさんある。権限委譲を正しく設計できる有能な独裁者がいるなら民主主義なんてまったく利点は見当たらない。ようするに民主主義はやはり最低の意志決定手法であるということだ。
なのにこんなに民主主義がはびこっているかについては、組織としての効率よりも、自由、平等、博愛のイデオロギーの影響が強い現代において組織の構成員がもっとも納得しやすい意志決定手法であるということが大きいだろう。まあ、みんなを説得できるなら、できれば民主主義じゃないほうが望ましいということだ。
さて、民主主義の特徴して、引用記事が指摘したこととして、民主主義は効率が悪い、具体的には決定に時間がかかることがあげられていた。これについても実はなんらかの利点があるというモデルが考えられないだろうか。
ということで方向性を示唆しているように見えるもうひとつの記事を引用する。
アイデアを出すことが企画だと思ってる奴は100万回死んでいい 島国大和のド畜生
これで指摘されているのは、企画者が5秒で考えたアイデアで開発チームが1年間拘束されることがあるという指摘である。
組織が大きくなるとこういうことが多発する。
思いつきで影響力の大きな決定を頻繁にされたらまったくもって迷惑である。せめて一定期間にやっていい決定について回数制限とかはなんらかの形でしてほしいところだ。その実質的な回数制限に民主主義は役立っている可能性があるのではないか。
このように、ある一定のリソース*時間を消費するプロジェクトの実行を決定するのにかけるべき時間を定量的に説明できるような数理モデルというのはどんなものが考えられるだろうか、そんなことをさっきから考えていたのである。もちろん答えはまだない。
ナベタくんの選挙・都知事編・大塚英志
ここんところ、すっかりナベタくんブログになっています・・・。
以下転載。
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みなさまへ
大塚英志です。
「ナベタくんの選挙」東京都知事編です。
ネット選挙の狂躁も醒め、淡々と彼の選挙は続いています。
ネットの住人はカスタマイズされたイベントにユーザーとしてのみ参加し、リア充型の若者は「繋がり」が社会参加の目的なのか、彼のように「自分一人で何かをやる」というスタイルはどちらの住人にも、「評価」はされても同じ事をするものは殆ど現れません。
前回、マスコミ関係の取材を通じてメディアのコネもできたのですが、それを通じて拡散することは彼のモラルに反するようです。
そんなわけで最初に彼の動画を見て下さい、とお願いした3人の個人と一つの出版社のかたに「勝手に」かれのメールの一部と動画サイトのアドレスをご紹介します。
このメールを含めよかったらどなたかにどこかでご紹介下さい。
以下「ナベタくん」のメールす。
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ご無沙汰しております。
都知事選で「やってみた」結果の動画をアップしました。
「東京都知事選挙候補者に会って質問できるか やってみた」
youtube→
http://www.youtube.com/watch?v=K7UpcCNfMWM
ニコニコ動画→
http://www.nicovideo.jp/watch/sm22782198
……回答が得られたのは16人中3人。
回答得られた候補は、宇都宮候補、中川候補、五十嵐候補です。
回答率18.75%はこれまでで最も低いものになりました。
けど、それも「やっぱりか」という感じがしています。
ひとつは、選挙の規模が大きくなると「距離」も広がっているような気がすること。
これまでの回答率は――
衆院選5人中1人 20%
参院選20人中6人 30%
市長選2人中1人 50%
都議選5人中3人(予定) 60%
市議選21人中19人 約90%
――というピラミッドになっていたので。
たまたまなのかもしれないですが、でも出来すぎてるなあ、と。
もうひとつは、「当選する」という熱を感じる陣営がすくなかったこと。
告示日に事務所の届け出があったのが10人だったり。
会って回答を得られた候補のなかでも「福生市」を知らず
「福生市民」という肩書きをみて「宗教?」と訊かれて
「フクオシミン」というふうに読まれてしまったり。
ナベタ君とネット選挙について思うこと
昨年、大塚英志さんからのメールを転載したナベタくんの選挙は大きな反響があった。
とにかく候補者に個人があってどういう政策かを純粋に尋ねつづけて、その結果を動画にアップする。ジャーナリストではなく、個人としておこなう。そのひたむきな姿にネット時代の有権者の理想のありかたを見たひとは多かったと思う。
ところが今年になってまた送られてきた大塚さんからのメールによると、そのナベタ君のやっていることは公職選挙法にあたると警告を受けたらしい。それもその警告はナベタ君の活動に好意的な取材をしたいと申し入れたあるテレビ局のスタッフによるおこなわれ、結果、好意的な報道どころか、「ネット選挙運動、都議選で「フライング」行為」というような否定的な報道をされたということだ。そして調べてみると、どうもナベタのやっているような政治家にインタビューをしてその結果を世間に報せるという行為はメディアはやってもいいけど、個人でやると選挙違反とかになるのがルールみたいだという。
そうこうしているとこんなニュースもでてきた。
「RT、ダメですよ」――ネット選挙運動、未成年者は禁止 総務省が注意呼びかけ
未成年者はネットで選挙運動にあたるような情報をtwitterとかでつぶやいてはいけないらしい。ここまでくると、選挙違反とかいうより言論統制に近い。
まあ、総務省も(警察も?)おそらくは試行錯誤のネット選挙なのだろう。無制限というのもまずいような気がするから、とにかく、なんか、線を引いてコントロールしなきゃ、というような雰囲気が透けて見える。どう考えても本当に重要な線引きではない。意味があるとしたら、規制はなんらかするつもりですよ、という意思表示をしたいということだけだ。
最後に、ナベタくんの2回目のエントリをアップ後、大塚英志さんから追加でのせてくれという文章がきたので掲載する。やはりナベタくんみたいな存在は必要でそれで分かることもある、と思った。
※以下大塚英志さんのメールをママ転載。
大塚英志です。
もし、先日のメールをブログに掲載されるなら、以下も掲載して下さると嬉しいです。
ナベタ君の先ほど北メールです。
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今回の結果の報告動画をアップしました。
「都議選西多摩選挙区候補者に質問してみた、かったけれど……」
youtube→
http://www.youtube.com/watch?v=o03qARYZXKk
ニコニコ動画→
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21156698
……もう一度、都選管に電話をして、「これは問題になるのか?」といろいろ訊き。
「候補者名を出さず会おうとした顛末を記す」のは問題ないのではないか、といわれたので、
都選管の見解を受けて動くのやめた説明とともにそれをアップすることにしました。
実は、「ある候補者」の顛末は番号順そのままで。
背景にしている駅も、それぞれの事務所の最寄り駅だったりします。
都合良く事務所の場所がばらけていたので。
あとは、そこを指摘されてしまうのかどうか……。
選管について検索してみて。
もっとも意外だったのは、中央選管や都選管の委員の多くが元議員だったこと。
もっと独立した機関かと思っていたのに。
対戦チームの関係者が審判として試合を裁いているような感じがしてしまって。
委員のリコールも住民だけでは完結せず議会の同意が必要だったり。
いったい何なんだろうなと……。
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