ナベタ君とネット選挙について思うこと

 

 昨年、大塚英志さんからのメールを転載したナベタくんの選挙は大きな反響があった。

 とにかく候補者に個人があってどういう政策かを純粋に尋ねつづけて、その結果を動画にアップする。ジャーナリストではなく、個人としておこなう。そのひたむきな姿にネット時代の有権者の理想のありかたを見たひとは多かったと思う。

 ところが今年になってまた送られてきた大塚さんからのメールによると、そのナベタ君のやっていることは公職選挙法にあたると警告を受けたらしい。それもその警告はナベタ君の活動に好意的な取材をしたいと申し入れたあるテレビ局のスタッフによるおこなわれ、結果、好意的な報道どころか、「ネット選挙運動、都議選で「フライング」行為」というような否定的な報道をされたということだ。そして調べてみると、どうもナベタのやっているような政治家にインタビューをしてその結果を世間に報せるという行為はメディアはやってもいいけど、個人でやると選挙違反とかになるのがルールみたいだという。

 そうこうしているとこんなニュースもでてきた。

「RT、ダメですよ」――ネット選挙運動、未成年者は禁止 総務省が注意呼びかけ

 未成年者はネットで選挙運動にあたるような情報をtwitterとかでつぶやいてはいけないらしい。ここまでくると、選挙違反とかいうより言論統制に近い。

 まあ、総務省も(警察も?)おそらくは試行錯誤のネット選挙なのだろう。無制限というのもまずいような気がするから、とにかく、なんか、線を引いてコントロールしなきゃ、というような雰囲気が透けて見える。どう考えても本当に重要な線引きではない。意味があるとしたら、規制はなんらかするつもりですよ、という意思表示をしたいということだけだ。

 

 最後に、ナベタくんの2回目のエントリをアップ後、大塚英志さんから追加でのせてくれという文章がきたので掲載する。やはりナベタくんみたいな存在は必要でそれで分かることもある、と思った。

 

※以下大塚英志さんのメールをママ転載。

 

大塚英志です。

もし、先日のメールをブログに掲載されるなら、以下も掲載して下さると嬉しいです。

ナベタ君の先ほど北メールです。

 

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今回の結果の報告動画をアップしました。


都議選西多摩選挙区候補者に質問してみた、かったけれど……
youtube
http://www.youtube.com/watch?v=o03qARYZXKk
ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21156698

……
もう一度、都選管に電話をして、「これは問題になるのか?」といろいろ訊き。
「候補者名を出さず会おうとした顛末を記す」のは問題ないのではないか、といわれたので、
都選管の見解を受けて動くのやめた説明とともにそれをアップすることにしました。

実は、「ある候補者」の顛末は番号順そのままで。
背景にしている駅も、それぞれの事務所の最寄り駅だったりします。
都合良く事務所の場所がばらけていたので。
あとは、そこを指摘されてしまうのかどうか……

選管について検索してみて。
もっとも意外だったのは、中央選管や都選管の委員の多くが元議員だったこと。
もっと独立した機関かと思っていたのに。
対戦チームの関係者が審判として試合を裁いているような感じがしてしまって。
委員のリコールも住民だけでは完結せず議会の同意が必要だったり。
いったい何なんだろうなと……

 

 

ナベタくん(仮)の選挙の続報 ※大塚英志さんのメールをそのまま転載

 

大塚英志です。

 

ナベタ君へのメディア、選管の対応です。

以前、「ナベタ君・・」についての文章をお送りした方にお送りしています。

彼のメールを勝手に、添付します。

 

 

1 ナベタ君に賛同するという言い方で取材を申し込んできたTBSが突然、「公職選挙法に触れるから」といい出し、取材半ばで以下のような報道の素材に使われたようです。

・・・・・・以下、その事情をかたるナベタくんメール添付。

 

検索してみたところ、TBSのNews iのページに
「ネット選挙運動、都議選で「フライング」行為」
というタイトルで一度は動画があげられていたようですが、
現在は削除されたのか、みることはできなくて。

ただ、テレビ番組の話題を紹介するサイトで、以下のような記事をみつけました。
検索ページでわすかに目にすることができた、
上記動画につけられていた文章とは重なるところがあるので、
たぶん、これなのだろう、と。

     *

去年インターネットに投稿された「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」という動画が注目を集めている。内容は都内の男性が自分の選挙区の候補者全員の事務所を訪問し、政策を聞けるかというもの。男性が会うことができたのは5人のうち1人だけだったが、ネット上には多くの反響が寄せられた。7月の参議院選挙以降 インターネットを使った選挙活動が解禁になると、政党や候補者だけではなく有権者もHPやブログでの宣伝、動画を投稿することなどが可能になる

この動画投稿者の行為は特定の候補への投票の呼びかけにつながるおそれがあるとして来月の参院選までは違法になるというのが選管の見解となっている。男性は今回の都議選でも自分の選挙区だけはやるつもりだと話した。立候補を届け出たある候補者は選挙期間中もツイッターなどで演説の日程や場所を告知したいとしている。東京都選挙管理委員会の三浦雄二指導係長はフライングへの注意を呼びかけた。選挙初日のきょうもすでに複数の陣営が演説の日時などをツイッターに投稿しているが、選管は注意を呼びかけていく方針。

     *

ちなみに、自分はまだ選管からは何もいわれてはいません。
明日、市の選管に行く予定ですが、そこで何かいわれるのか……。

記者の方からは
「識者に話を聞くと、 
「ナベタくんの選挙」は今回の都議選までは公職選挙法に 
ひっかかる可能性がありそうだということです。」
といわれて、
識者の方は具体的にどこが問題だといっているのか、とお訊きしたところ
「まず現在の公職選挙法で何が選挙運動に当たるかの条件が 
・選挙期間中、インターネットを利用して 
・特定の選挙について 
・特定の候補者の投票を促す 
という行為です。 
この条件を照らし合わせると、 
動画の構成上、やはり見え方としては 
・ユーチューブ・ニコ動で 
・2012年の衆院選で 
・井上候補の投票を促す 
となってしまう可能性があるということでした。」
という返信がきました。

記者の方からは
「我々が選挙期間中、「絶対のルール」としてやっている 
各候補者の露出時間を平等にする」
ともいわれましたが。
これについては、でも既存メディアは、泡沫とした候補に対しては平等に扱ってないやん、
と思ってしまいました。
さすがにそれをいったら印象悪くなるなと思って返信はしませんでしたが。
それでも、いう通りにやめようとしなかったことで、こういう伝えられ方になったのかな、と。

記者の方は、そのメールの末尾では「これからも応援させていただきます!!」
といっていたのですが……。
うーん、こういうテレビ(というかTBSは)こういうとこなんだなあ、と。 
ある程度予想はしていたつもりでしたが、実際あってみると、やっぱりショックです。

得難い経験をした、と思うようにして。
これからどうなるのか、動き続けてみます。

 

2 その後、候補から「公職法」を理由にインタビュー拒否が出ました。

そのメール。

 

 

・・・・・・・・・・・・・以下コピペ。

 

質問にいった際、いま自分の行動に対して問題視する見方もあることもいうと

「都選管に確認してみてから」という話になったので、

改めて都選管に電話で訊いてみました。

 

その結果「問題がある」との回答でした。

 

自分は、誰かを当選落選させようという意図はなく、

既存メディアが謳うのと同じ公正中立というスタンスで情報を伝える、

「選挙運動」ではないとはいったのですが。

それでもいけない、と。

動画でも文章でもネット上にアップするのは、文書図画の頒布になるからだめだと。

 

既存メディアも伝えるところをネット上にアップしていて、

それと同じスタンスでやっているのだけどいったところ、

「マスコミには選挙報道の自由がある。でも個人は問題」だと。

 

候補者の主張をまとめたものを記す、などもだめ。

現行の公職選挙法では、

個人が、ネット上で候補者氏名などを記すのもいけない、ということでした。

 

具体的には「142条1項」と「146条1項」に抵触すると。

「142条1項」は、選挙運動のために規定されたビラなど以外の頒布を禁じたもの。

「146条1項」は、候補者などの支援もしくは反対などを表示した文書図画の頒布を禁じたもの。

自分がこれを読み判断する限りでは「選挙運動」でなければ大丈夫だと思うのですが。

それでも選管は「問題」だと。

 

個人がネットでアップできるようになるのは、

投票日の24時を過ぎて翌日になってから、ということでした。

質問して動画も撮って、でも公開は投票日翌日に、というのも考えました。

でも、その情報は無意味ではないけれど、投票の参考にはならないもの。

投票の参考に、というのがかなわないのであれば、

その行動は、ただの自己満足に近いものになってしまう気もして。

 

個人がNGでマスコミがOKなら「ジャーナリスト」を名乗る手もあるけれど。

たんなるひとりの有権者として動きたかったので

そこで自分のことを「マスコミ」だと偽りたくはなくて。

 

だったら、今回はやめよう、と思いました。

 

なんだか、とてもやっつけられた感じです。

 

 

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と言うことです。

さて、

「ナベタ君の選挙」は現在の公職選挙法で本当に「違法」なのでしょうか。

選管の「マスコミには選挙報道の自由がある。でも個人は問題」という見解は、正しいのでしょうか。

彼はどうするべきでしょうか。

ナベタくん(仮)の選挙   ※大塚英志さんのメールの転載

※HPもフェイスブックもやっていないから、という大塚英志さんからメールで送られてきた文章をそのまま転載しました。

 

 ぼくの昔の教え子にナベタくん(仮名)、という子がいる。

 十年以上か、もう少し前、ぼくが専門学校で二年ほどラノベの書き方を教えていた時の生徒だ。真面目な子だから卒業後は書店でアルバイトをしつつ小説を書いている、という近況を聞いたのは七年か八年前だ。彼らと卒業後やっていた勉強会も、ぼくが神戸の大学に行くことになって止めてしまったので、この何年か何となく音信不通になっていた。

 ところが去年、ニコニコ動画の公式チャンネルで月イチのまんがの番組を公開録画で始めると、当時の教え子の姿がちらちらし出した。介護士をやっている奴や、中には誰でも知っている携帯ゲームを考案した奴もいたけど、ナベタくんは色々あって本屋のバイトも辞めて、ニートというか微妙に引きこもり状態だという話で、リハビリを兼ねて(?)会場に顔を出すようになった。昔から真面目すぎる奴だから本屋でのアルバイトで人間関係とか色々なことでちょっとだけ心療内科系のお世話になることになったらしく、なんていう彼のプロフィールは多分、今の時代、少しも珍しくはない。

 そのナベタくんが誰に言われるでもなく始めたのがブログで、そこまでは本当に普通なのだが、その内容がちょっと変わっていた。彼は東京郊外のとある市に住んでいて、住民票もそこにある。つまり選挙権もある。有権者のはしくれである。彼はその地元の市長選挙だか市議会選挙が始まると、候補一人一人の選挙事務所を訪ねていって、そこでの受け答えをブログに載せたのである。別にツテやコネがあったわけでもなく、直接選挙事務所に電話をしてアポをとり訪ねていく。大抵は門前払いだが、驚くのはそれでも会って話をしてくれる候補がいたことだ。質問はコンパクトにまとめ、それをブログに短く書き込む。

 ナベタくんには特定のイデオロギーや政治的背景はない。本当に見事にない。ぼくはその専門学校で政治の話は一切しなかったし、彼とそういう話をしたこともない。覚えているのは、いつも彼が四方を何かに囲まれた世界から主人公が何とか脱出しようというモチーフの小説を繰り返し書いていたことだけだ。仲々うまく描けなくて、それは今思えば何だかその後の彼の人生を象徴しているように思えるけれど。

 ナベタくんのブログは政治の話とはいえ、ネットでの政治の語り方と全く異質で「ネット右翼」でもないし、そもそも何か政治的主張が左右どちらかに対してあるわけでもない。ただ、選挙に出た人たちがどんなことを考えているか、特に地方選では少しもメディアは伝えてくれないから、それなら自分はヒマだし聞きにいってブログにでも書いたら誰かの役に立つかもしれない、ただ、それだけの動機で始めたのだ。だから「見たまま、聞いたまま」をそのまま書く。

 ぼくは去年、その話を聞いて、君の人生がそれでどう変わるわけでもないだろうけれど、とてもいいことをしているから次の選挙でもやるといいんじゃない、と夜中のマクドナルドで百円のコーヒーを奢って彼に話した記憶はある。

 さて、その「次の選挙」が実は去年末の衆議院選挙であった。ナベタくんは少し社会復帰したらバイトして安いカメラを買ってインタビューを動画でアップできたらいい、と考えていたようだ。そして選挙が近づき、本当に偶然だけど、ナベタくんは街中で彼の先輩とあった。先輩は社会人でナベタくんよりお金がある。何やってんのさ、オマエ、みたいな話の中で、この選挙のブログの話となった。先輩はその話を聞いて「とてもいいことだから」と、そのまま彼を家電量販店に連れていって一番安い動画の撮れるカメラを買ってくれたという。ナベタくんはとても恐縮したけれど、何だか背中を世の中に押された気がした。

 ナベタくんの暮らす市が含まれる選挙区には主だった政党が皆候補を立てていた。市議会選挙だったら数十票で結果がひっくり返ることだってあるから、ナベタくんのようなよくわからない青年だって一応「一票」なのだからと、相手をしてくれる候補もいたけれど、今度は国政選挙である。

 そもそも彼はアルバイト先で対人関係でのトラブルがあって以来、調子を崩していて、ぼくの教え子だけれどぼくとは正反対で全く押しの強いタイプではない。それでも勇気を出して一人一人の選挙事務所に電話をし、訪ねていった。結局、ちゃんと話してくれたのは日本共産党の候補だけだった。けれども断られ方も色々で、それもそのまま脚色せずに文章にして、候補者のポスターの上にテロップで載せた。生まれて初めて動画を編集し、ニコニコ動画YouTubeに自力でアップした。どうにも不格好な動画だけれど、とにかく全部自力でやった。

 各候補の対応の中で日本未来の党の事務所の対応は、どうもナベタくんの話を聞く限りやや心なかったようだ。もちろん一人一人の有権者のアポにいちいち対応できない、というのはその通りだけれど、彼に向かって指を差して怒ったことは、同じように昔、アルバイト先で指を差されてなじられた経験を持っていたナベタくんにはちょっとショックで、その後丸一日、足が震え、心が折れかけたみたいだ。逆に自民党などは断り方もソツがないな、と感心するし、ナベタくんに一時間近い時間を割いて真面目に話してくれた共産党の人は親切すぎる。ニコ動で「やべ、共産党の人、やさしすぎ」なんていうコメントがあったぐらいだ。

 ここまで読むと、何だかナベタくんのやっていることを昔のマイケル・ムーアのアポ無し取材のように感じる人もいるかもしれないが、全く違う。本当におそるおそる、思いっきり腰が引けている。そこが実はとてもいいし、共感できる。

 ナベタくんは優しく話してくれた人も、何となく足蹴にされた人もなるべくニュートラルにその経緯を書き、そしてインタビューに応じてくれた共産党の人の動画を含め、一本の動画にまとめた。そうすると直接候補の話を聞けなくても、やはりその候補なり政党の有権者への態度は伝わってくる。選挙演説や政見放送ではわからない生の情報がそこにある。少なくともそれは誰に一票を投じるか、とても大切な基準になる。

 結局、選挙当日までに動画を見てくれたのは、ニコ動とYouTube合わせて一〇〇〇人に満たない。何だ共産党の宣伝じゃない、というコメントもあったが、別に公明党でも未来でも話してくれればそのままナベタくんはネットに載せた。未来の党の人の対応に批判が集まったが、無論、未来の党を叩くことが目的ではない。全て「ありのまま」だ。質問がつまらない、というコメントもあったが、それは今後の課題だし、だったら「こういうことを訊くべきだ」と言ってほしい、とナベタくんは思う。ナベタくんも、もう少し勉強しなきゃいけないけどね。ヒマ人しかできない、という声もある。しかし、ニートだから時間だけはあるのだ。そう考えると、ニートも社会の役に立つ。時間以外は先輩に買ってもらったカメラだけが、今のところナベタくんが持っている全てだ。

 それでも書き込みの中には「とてもすごいことをしているのかもしれない」という声も少しだけあった。ぼくもそう思っている。

 ぼくはもうこれ以上、繰り返さないが、柳田國男が何故、日本人がちゃんと選挙がやれないのかを第一回目の普通選挙の時に憤った話をしたのか、と思う。柳田は自分の見たことや感じたことを正しく記録し、それを持ちよってみんなで考える仕組みを作るしかこの国の選挙は正しい形にならないと考え、彼は民俗学にそれを託した。けれど民俗学はただの「学問」になってしまった。

 でも柳田の考えたことはできないことなのか。

 ぼくには、ナベタくんがたった一人でやったことは柳田國男の考えたことの実践のように思う。一人一人の選挙民が「選挙群」として考えなしに空気を読んで投票する愚かしさを、昭和の初めからこの国はずっとしてきている。ナベタくんは自分の選挙区で誰に投票したらいいか判断する材料をニコ動を使ってニュートラルに提供しようとした。繰り返すが、彼にイデオロギーがあるわけではない。しかし「考えるため」の材料を人々に提供し、そして考えてもらう、という彼のスタンスはとても正しい。ニコ動で柳田の理想が形になった気がした。

 もちろん候補にしてみれば素性の知れないニート青年にいちいち対応していられない、というのは正論だ。ナベタくんを諫めた未来の人の対応にもその意味で一理ある。例えば「名刺もないのか」とその人に言われ、ナベタくんはそうか名刺か、と思い、生まれて初めて名刺を作った。彼は名刺をどこに注文していいかも知らなかったので、その時だけぼくは相談に乗ったのだが、「webジャーナリスト」とでも書いとけば少しは対応マシにならないかな、とぼくが言ったのに対して、ナベタくんはそれは違うと思いますと考え込んだ。そして結局「市民」という肩書きの名刺を作った。住所と携帯の番号とサイトのアドレスが書いてある。「市民」なんてすっかり死語か胡散臭いものになってしまったけど、ナベタくんの「市民」はカッコいい。ぼくは彼の話を聞いて、どこかで「物書き」という特権に甘えている自分が恥ずかしくなった。

 ここでもちょっといい話がある。生まれて初めて自分で名刺を作ろうとした彼は、ぼくにタウンページでも探せよ、と言われ、電話帳の広告を見て「格安」と書いてあった会社を訪ねていった。そこで「市民」という肩書きの名刺を作ろうとするナベタくんは、印刷会社の人にあれこれと聞かれた。まあ、怪しいし、不審に思う。ナベタくんは一時間ぐらい自分が何をしてどうしてこの名刺を作ろうとしているのかを真面目に話した。印刷会社の人は最後に「自分は実は在日なので選挙権がない。けれども君のやっていることは正しいよ」と言って名刺の印刷を引き受けてくれた、という。出来過ぎのようだが、本当の話だ。また、誰かが背中を押したのかもしれない。

 

 ぼくの周りのどちらかといえば左翼やリベラルの人たちは、今回の選挙の結果に本当に呆然としている。そして、実は「右」の人でもちょっとあり得ない、とことばを失っている印象がある。ぼくはというと去年の初めに散々「土人」だ「愚民」だと悪態をついたから、絶望することももうなかったが、けれども単にニヒリズムに陥らずに済んだのはナベタくんの行動のおかげだ。

 何だか自分が放り出した教え子に、いいかげん「土人」って言ってても仕方ないでしょ、と叱られた気さえした。ナベタくんはこの国の選挙に一つの可能性を示した。

 例えば、次の選挙でネットが解禁される可能性は高い。そうすると橋下徹のツイッターが象徴するように、有権者をいかに自分の優位な方に動員するか、プロパガンダ合戦になる。実際、ネットを使った選挙とは、候補者や政党がどうネットを使うか、にしか議論はなく、有権者がどうネットを使うか、ましてや特定の候補や政権のためでなく選挙をまともに行うにはどうネットを使えばいいのか、という発想は全くない。ニコ動だって、結局、小池百合子の「断髪式」を生中継するかしないか、レベルの対応しか今回だって出来ていない。この先もそうだろう。ぼくはその意味で半端にNHKにでもなろうとしてる「情報の送り手」としてのドワンゴに少しも期待していない。しかし、ナベタくんが使って見せたように、この国の選挙を少しだけマトモにするためにニコ動は使える。YouTubeもだ。

 例えば、だ。次の選挙で全ての選挙区にナベタくんみたいなニートくんがカメラを抱え、一人一人の候補にアポをとり、同じ質問をし、答えてくれた人はそのまま、断られた人はその経緯をなるべくニュートラルに平等に動画に挙げていく。質問もたくさんだと迷惑がかかるから、日本中同じものと地域に根ざしたもの三つぐらいがいいかもしれない。

 とにかくフェアに、ニュートラルに、がルールだ。

 そういう動画が全ての選挙区にアップされたとして、それでも次の選挙は少しも変わらないだろうか。この国の民主主義は相変わらずこのままだろうか。確かに何人もが同じことをしても仕方ないから調整も必要だし、特定の陣営の人が紛れ込むリスクもある。編集のちょっとしたニュアンスでバイアスをかけることだって出来なくはない。

 そういうリスクや問題点を一つ一つ挙げていったらキリがない。けれども、ぼくはナベタくんがこの国の選挙や民主主義についてwebを使って少なくともやってみる価値のある答えを出した、と思う。

 ぼくの友人でリベラルな人の中には「もう亡命したい」とか「有権者一人一人に訴えていくなんて、橋下や安倍相手にそんな正攻法はやってられない」という思いつめた声がけっこうある。しかし、ぼくは何だか少しも絶望していない。ナベタくんみたいな人が日本に現れることに、この国の民主主義の可能性を託してみたい気になってしまう。「それどころじゃない」のかもしれないけれど、でも、こういう足場を作っていくことでしか民主主義も選挙も変わってはいかない。

 そういうわけで、この文章は「全文をまとめて、かつ、修正とかは一切しないこと」を条件に、サイトや印刷物にいくらでも転載してかまわない。

 ナベタくんの動画は、

 

youtube「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.youtube.com/watch?v=iI6nOYOmXEE&feature=youtu.be

 

ニコニコ動画「衆議院選挙東京第25区の候補者に会って質問できるか やってみた」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm19560813?mypage_nicorepo

 

 で、見ることができる。ぼくが今、こういう文章を書いていること自体、ナベタくんは知らない(依頼された原稿ではないのだ)。ぼくもこっそり背中を押してみる。

 ぼくは『愚民社会』のあとがきで、どうしたらいいかなんて自分で考えろ、と書いた。ナベタくんは多分、ぼくの本なんか読んでさえいない。ぼくの本など読まない彼は、しかし自分で考えれば「答え」などいくらでも転がっていることをわかっている。

「ナベタくんの選挙」が、さて、どこまで広がるか。広がらないかもしれない。それでも少なくとも、次もまた彼は一人で候補者に電話をして、断られたりしながらカメラを回すと思う。

 

ネットに木霊する叫び

 どんな音楽が好きと他人に訊かれる経験はだれにでもあるだろう。ぼくはその場合に絶対に自分の好きな音楽を言わない。だいたい、なんでも聴く、とか、そのとき周りの友達とかが聴いている音楽を聴いているとか答える。まあ、嘘ではない。でも、周りの趣味とかに関係なく、いつも、ぼくが猛烈に惹かれてしまう、あるタイプの音楽もあるのだが、それについては滅多に口を開かない。 なぜかというと、大昔、好きだった子に馬鹿にされた経験があるからだ。どういう風にいわれたかというと、「汗くさい」「なんか貧乏くさい」というような形容詞のひとことで切り捨てられたのである。これはきつかった。

 具体的に名前を出してしまうと、そのときはTUBEというバンドだった。同じように猛烈に惹かれてしまうバンドにはACIDMANなんかもある。単発の曲とかでいうとD-51のサヴァイバーとかいう曲はとても好きだった。JAM Projectとかもぼくの中では同系統だ。

 別にぼくの音楽の趣味の話を今回したいわけではないし、だれかに共感してもらったり、薦めたいわけでもない。なぜ、これらの音楽に特別に自分が惹かれるかの理由を考えたのだ。

 ぼくが惹かれるポイントはなにかというと、ボーカルがとにかく叫んでいるということである。押さえきれないなにかを込めて叫ぶように歌っているのである。ここらへんが汗くさいイメージがつく理由だろう。ただし、ただ、絶叫すればいいってもんでもなく、ヘビメタなんかは、ぼくは嫌いだ。メロディがちゃんとある。メロディにのせて叫んでいるのである。

 これはぼくなりの表現でいうと、”上手く叫んでいる”ということである。上手く叫ぶとはどういうことか。ぼくの定義では他人にちゃんと聴いて貰えるように自分の思いを絶叫しているということだ。そういうものにぼくは惹かれる傾向がある。

 話は変わって、ぼくは最近、他人に話を聞いて貰えるようになった。話が面白いという賛辞を受けることが増えた。そういわれても、ぼくはいまいち喜ぶ気にはなれない。なぜなら、ぼくは昔から別にたいして変わってないからだ。ぼくは何十年も変わってないのに、ぼくの話なんて昔はだれも聞きたがらなかったじゃないか、とそう思うのである。

 この感覚は分かる人とそうでない人がいると思うが、ぼくは小学校の頃から1対1なら友達と喋れるが、友達の輪の中ではまったくひとことも喋れなくなることが多かった。ぼくが喋ってもだれも聞いてくれない、だれも望んでいないという恐怖から一言も喋れなくなるのだ。そうなると、だれかが気を遣って話を振ってくれても、もうなにも言葉がでてこない。

 当時のぼくのように、周りの人間関係の中で疎外感を感じながら、自分にはなにも喋る資格がないと思って、無口に暮らしているひとは、世の中にたくさんいると思う。この話をまったく理解できない人も多いだろうが、本当にそうだから、知っておいて欲しい。

 時々、電車で独り言をつぶやいているおばさんとかを見かける。街中で突然叫び出すおっさんとかもいる。そういうひともきっとずっとみんなの中で黙り続けて生きていたのだろう。ぼくもよくひとりきりになるとトイレや風呂場でひとりごとをいったり叫んだりする。言いたいことを聞いてもらいたいから無口になって生きるというのはそういうことだ。

 なので、最近はぼくの話も面白がってくれるひとが多いのだが、いまいち、嬉しくないのは、多少、恨みが残っているからだろう。だって、ぼくが一番だれかに話を聞いて時にあなたはなにも聞いてくれなかったじゃないか、と思うのだ。いや、もちろん、昔、そもそもあなたはぼくのまわりにはいなかったんだけれども。

 自分のいいたいことを聞いて貰えるように一生懸命工夫して話すのはぼくの原点だ。でも、その技術もぼくの記憶の中では大学生の時にはおおむね完成されていた。最近になってやっと話を聞いて貰えるのは、ぼくがかわったんじゃなく、まわりの環境、社会的な評価とかが変わったからにすぎない。ぼくは昔から同じだ。

 

 世の中にはだれかに話したい、叫びたい思いを抱えながら、現実世界では、ずっと黙って生きているひとがたくさんいる。そうひとの一部がネットで叫んでいる。5年前、ニコニコ動画が生まれたときの異様な熱気はそういうひとをポジティヴに救う場所がはじめてネットにできたからだろう。残念ながら、ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。

 ぼくはそういうのを見ると腹が立って本気で喧嘩をふっかけることがよくある。全力で叩きつぶそうとしたりする。だって間違っていると思うから。

 別に彼らの昔の自分を見て、まだ、そんなところにいるのか、こっちまでこいなんて偉そうなことを思っているわけではない。繰り返すが、ぼくは昔と変わっていない。環境が変わらないと人間は変わらない。

 ただ、思うのは、例え、ぼくの罵倒が、さらに彼らの頭に血を上らせカッカさせたとしても、ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか、ということだ。

 そう、信じることにして、時にぼくはネットで自分の抱える欲求不満を発散させるのだ。

 

ケイクス加藤さんに訊ねてほしいハックルさんのこと

今週の水曜日にこういう番組があるらしい。

 

cakes(ケイクス)VSブロマガ~どうなる? ネットとクリエイターの未来~加藤貞顕×川上量生×ハックル

 

雑誌形式の電子書籍ともいえるケイクスとブロマガの比較と、今後のネットとクリエイターの行方はどうなるか、みたいなのが番組のテーマらしいが、、そんなことはどうでもよくて問題は司会のハックルさんこと岩崎夏海氏である。

 

岩崎夏海氏といえば、はてなブックマークではファンとアンチを両方とも大量に獲得し、どっちかというとアンチあるいはややうさんくさい目で見ているひとのほうが多いかなという超有名ブロガーだ。

 

彼が数年前に、『もしドラ』こともし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』を出版し、大ベストセラーになったことはネットの一部、つまりはてな界隈では大きな驚きだった。

 

まさか彼がそんな世間的な大成功を収めるような人物だったとは、みんな思っていなかったのである。

 

今にいたるまでもネットの少なくともはてな界隈では『もしドラ』の評価もハックルさんの評価もとても低い。でも、売れた。とてつもなく売れた。この事実をどう解釈するべきかはネットの数多のハックルさんウォッチャーにとっても重要な問題であった。

 

事実はともかくとして、なにかの間違い、あるいは運が良かっただけ、と思いたいのがアンチハックルさん達の正直な気持ちだろう。

 

ぶっちゃけ僕自身も『もしドラ』を読んだとき、つまらないし、くだらない、と思ったし、まさかこんなに売れるとは予想だにしなかった。少なくともマーケティングに関わる人間としては『もしドラ』が売れることを予見できなかった僕は大いに恥じ入るべきだろう。それでもなお、いまだ未練がましくも、つい考えてしまうのだ。

 

もしドラ」って本当に面白いの?

 

ハックルさんて、本当に才能あるの?

 

これはハックルさんのファンあるいはアンチを問わず、ハックルさんに関する究極の疑問であり謎だといえよう。

 

そこで今回の放送に登場するケイクス加藤貞顕氏である。

 

加藤さんは、ピークオブケイク社を創業し電子雑誌ケイクスを立ち上げる前はダイヤモンド社の編集者をやっていて、なんと『もしドラ』も彼が担当していたのだ。

 

ハックルさんとはなにものか、もしドラとはいったいなんだったのか、という疑問をぶつけるのに彼より適任なひとはいないだろう。明日、対談するドワンゴ川上量生氏にはぜひ以下の質問を加藤さんにぶつけて欲しい。

 

(1)『もしドラ』という本の中身について加藤さんはどの程度かかわったのか?また、本のマーケティングプランを立てたのは加藤さんなのか岩崎さんなのか?

(2)ぶっちゃけ『もしドラ』を150万部も売った本当の功労者は作者岩崎夏海と編集者加藤貞顕のどっち?

(3)加藤さんは岩崎夏海氏には、A:才能がある or B:才能がない。どっちだと思っている?

(4)無難にAと答えるだろう加藤さんに尋ねます。ケイクスを立ち上げるときに才能もありパートナーとして大成功した仕事もしたことのある岩崎夏海氏に執筆者の一人として声をかけなかったのはどうしてなのでしょうか?

(5)人間岩崎夏海についてどう思いますか?ぶっちゃっけ人格的にどう評価していますか?

 

ほぼ毎日更新をしているハックルさんのブロマガを読むにつけ、あらためて、彼の実力は本物だと感じます。

 

ブロマガの発表会で月額840円は高いんじゃないかという指摘に対して、岩崎夏海氏は、それに見合う記事を書くように自分を奮い立たせるんだと主張していましたが、いまのところ彼のいうとおりのクオリティを実現できているようにみえます。数あるメルマガのなかでハックルさんのが今一番面白いし、いろいろ考えさせられる斬新な視点を与えてくれる、そういう記事を書いています。なぜ、彼をケイクスの看板にもっていかなかったのか?よほど付き合うのがめんどくさい人なのか?

 

多くのひとが感じているハックルさんの自己承認要求の強さ、自意識の過剰さ。それを彼自身は’わざと”演じていると主張しているが、おそらく、だれも信じてないだろう。彼は本当に天才なのかどうか?ただ、天才とはえてして人格面に偏りがでるものである。ネット以前は一般人が知ることのなかった天才の内面をたまたま、ぼくらは目撃しちゃっているだけなのかもしれない。

 

もうひとつハックルさんの人格形成に影響あったかもしれない重要な要素として、ハックルさんはもし天才だとしても、これまた別の天才秋元康の付き人として長く側にいたことがある。秋元康はハックルさんの才能を見いだしていたのかそうでないのか?『もしドラ』が大ヒットしたあとは、あいつは昔から見所あったとか過去が塗り替えられている可能性も高いように思うが、実際のところはどうだったのか?おそらくはもんもんとした思いを秋元康の側で抱えていたのではないだろうか?

 

とにかくハックルさんが、ネットでいま一番面白い。

 

オタクの恋愛というテーマのリアリティ(あの花編)

「モテキ」に引き続き「あの花」についてである。

「あの花」というのは昨年の4月ノイタミナ枠で放送されて人気を博した「あの日見た花の名前をぼくたちはまだ知らない」というアニメシリーズの略称である。同じく昨年の1月から放送された深夜アニメシリーズの「まどかマギカ」と並んで「あの花」は2011年を代表する傑作アニメ作品だ。ぼくがシリーズ最終話まで見た2011年のアニメもこのふたつだけになる。

 

もっとも「あの花」を見たのはつい最近だ。最初、BDの1巻だけ買って見て、あまりに面白く見終わってすぐ残りの巻を注文した。で、4日ほどかけてあっというまに全話見てしまったのだが、見終わってから、BDを買ったのは1巻だけで2巻以降は間違えてDVDを注文していたことに気づいた。見ている最中は途中からDVDに変わったことなにも気づかなかった。つまり映像的にはHDである必要はまったくなかったアニメ作品だったといえる。

 

ネットを見ていても「あの花」の評判は非常に高く、単に人気があったというだけでなく、ファンの作品への入れ込み方、感情移入の仕方も並外れて強い作品だったようだ。

 

また、深夜アニメファンだけが好む作品でなく、広く一般の人にも受け入れられる可能性のある普遍性も持った作品であると僕は感じた。

 

にもかかわらず、基本的にはこのアニメは、主人公「じんたん」のような引きこもり要素を持つ人のために作られた物語である。悲しいラブストーリの体裁をとっているのは表面だけで、本当は主人公みたいなひきこもり&ひきこもり予備軍のひとたちへ慎ましい現実逃避とともに現実への救いを与える物語だ。

 

まずは登場人物とストーリーの要約をしよう。

 

主人公:じんたん

ヒロイン:めんま

幼なじみ:あなる

イケメンの友人:ゆきあつ

優等生メガネ女:つるこ

三枚目の友人:ぽっぽ

 

主要登場人物はこの6人だ。この6人は子どもの頃は仲良しグループだったが、いまはお互い距離が離れている。

 

あと、重要な脇役として、主人公のお父さんと幼なじみ「あなる」の女友達二人組がいる。これらは世間の代表だ。したがって、この物語は基本は仲間内の6人の中でいろいろ事件が起こる話であって、世間との関わりはほとんどお父さんと「あなる」の女友達二人ぐらいしか存在しないというとても内向きな話になっている。ではストーリーを要約してみよう。なにしろテレビシリーズ1クールなのでどうしても外せない要点だけに絞っても結構長くなったがご容赦頂きたい。

 

 

ーーー あの花のあらすじ ーーー

主人公「じんたん」はひきこもりで学校にいっていないけど着ているTシャツだけはユニークな少年だ。母親はいなくて父親との二人暮らしだ。だから、父親が仕事にでかけると、本当は自宅にひとりきりになるはずだが、実は内緒の同居人(しかも女の子!)がいる。それがヒロインである「めんま」だ。でも、彼女は実はゆうれいで「じんたん」以外に姿は見えない。しかも彼女は主人公が小さい子どものときの仲良しで、大昔に事故で死んでしまった女の子だったのだ。主人公は、彼女の事故死には負い目もあって後悔している。だから、もし、「めんま」が死んだときの小さい子どもの頃の姿で化けてでたら、ほとんどホラー映画になるところだが、そこは深夜アニメ。なぜか、もし、生きていたらこうだっただろうという成長したかわいい年頃の女の子(多少ロリははいっているものの)の姿でめんまは幽霊としてあらわれる。だから、ちょっとエロい。ほとんど下着姿。主人公にしか見えない設定のはずなのに抱きついたり、いっしょに寝たりする描写はほとんど物理的実在があるようにしか見えない。本当はゆうれいという設定を思い出さなければ、突然、かわいい女の子が押しかけてきて同居するという美少女アニメの典型的なパターンが展開されている。

 

なぜ、死んだはずのめんまが今頃になってゆうれいとなって現れたのか、めんま本人もわからないが、たぶん、なにかねがいごとをかなえて欲しいからだという。めんまの願い事とはいったいなんだろう、主人公がいろいろ見つけようと努力するのがこの物語の中心となる目的になる。

 

さて、めんまが生きていた頃、めんまも含めて主人公たちは「超平和バスターズ」と名付けられた仲良し6人組を結成していた。めんまが死んだあと、「超平和バスターズ」は自然消滅してしまい、もはや残った5人も一緒に遊ぶことはなくなっていた。リーダー格だった主人公「じんたん」も昔の輝きはすでになく、ただの登校拒否生徒として、まわりから見下される存在になっていた。

 

めんまを助けるために昔の仲間をもういちど集めよう!とじんたんが努力をするわけではないが、勝手にみんなが集まっていく方向でストーリは展開される。最初に現れるのは幼なじみの「あなる」だ。幼なじみというと、超平和バスターズの6人組は全員幼なじみなわけだが、あえて幼なじみというにはワケがある。オタク的アニメにおいて幼なじみというと、要するに主人公とは腐れ縁で仲が良くていつも主人公のことを心配しているんだけど、別に恋愛対象じゃないよ、なんていいながら、実は主人公のことを好き、という女の子のことだ。しかもまったく女にもてない主人公にとって唯一の女っ気であるにも関わらず、主人公の本命のヒロインとの恋愛の過程で傷つき踏み台にされる運命をもった理不尽な役回りだ。

 

でも、最初に主人公じんたんの仲間になるのは、ぽっぽというデブだ。ぽっぽは超平和バスターズの6人の中では一番目立たないチビでずっとリーダーのじんたんに憧れていて、じんたんと再会するまでの間に世界中を旅してデブになった。そんなんだから、じんたん同様に学校はいっていない。

 

じんたんの呼びかけに超平和バスターズの6人は再びかっての秘密基地に集結する。集結したもののみんなの心は簡単に元通りのひとつにはならない。あなるはすぐに仲間になったものの、残るゆきあつとつるこの二人は冷めている。特にイケメンのゆきあつが冷たくて、めんまの幽霊なんているわけがないと言い放つ。そうこうしていたら、めんまの幽霊とは別にめんまらしき人影がちらちら現れる。めんまの幽霊はふたりいるのか?追いかけてみたら、それは実はめんまのことが忘れられなくて夜な夜なめんまの女装をして徘徊していたゆきあつの姿だった。女装という秘密を握られたゆきあつはやむなく仲間になる。ゆきあつが好きなつるこも一緒についてくる。

 

一応、多少のしこりは残しつつも再結成された超平和バスターズは本格的にめんまを成仏させるべく活動を開始するが、なかなかめんまの本当のおねがいがなんなのかわからない。そんな中、昔の自分を取り戻しつつあった、じんたんはもういちど学校へ登校しようとチャレンジするが、途中でくじけて帰ってしまう。めんまは、じんたんが学校にいくのがめんまのお願いかもしれないといってじんたんを励まそうとするが、じんたん逆ギレする。

 

そんなときじんたんの父親と、たしか、母親の墓参りにいく。じんたんは父親がどうして学校にいけと自分を怒らないで放任しているのかを疑問に思う。でも話してみると、父親はじつはじんたんの生活のことを細かいことまで把握してくれていた。そんなに自分のことを見てくれていたんだとじんたんは感動するが、でも、そんな主人公に、いや、じんたんのことは、なにも分からないんだと父親は悲しく言う。じんたんと父親がはじめて心を通わせたシーンである。じんたんの父親はちょっとアーティストっぽいかんじでいつもニット帽をかぶっているのだが、心を許した父親は、ここではじめてニット帽を脱ぐ。なんとニット帽の下はハゲだった。あの花の前半のクライマックスである。そしていつしかめんまは学校いきたくなければいかなくていいよとじんたんにいうようになるのだった。

 

こうして心の傷をひとつひとつ癒やされていったじんたんは次第に真面目にめんまを成仏させるという目標に向き合っていくというのが、後半のストーリーだ。その過程で超平和バスターズのみんなはめんまが成仏するというのはどういうことか、めんまを成仏させたいという自分の気持ちは果たして純粋なのか?いろいろ悩むことになり、感動的なエピソードがラストシーンまでいくつもあらわれるのだが、まあ、そこらへんは細かいところなので説明の必要はないだろう。

 

結局、じんたんは最後にめんまと好きだと告白する。めんまもその思いに答えるが、ほかの仲間のみんなも好きなのだといって成仏する。結局、ゆうれいになっためんますらじんたんとくっつく現実に、めんまへの思いを断ち切ろうとするイケメンゆきあつは同じくじんたんに振り向いてもらえない幼なじみあなるに付き合おうというが、それもうまくいかずに、結局、昔からゆきあつのことを好きだったつることくっつくのだった。

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あの花とはこういう話だ。見たことのないひとは実際に見て確認していただきたいが、見たことあるひとに対しては、もういちど繰り返そう。あの花はこういう話である。

 

そしてあの花はオタクの心を癒やすようにつくられた物語である。

 

オタクとはそもそもなにか?趣味にのめりこむ人たちという定義を好む人も多いだろう。が、とくに上の年代の一般人にとっては現実社会に背を向けて自分たちの世界に閉じこもっているひとたちというイメージをオタクという言葉に対して抱いている。若い世代においてはオタクというのはそういうネガティブなニュアンスはかなり消えているので違和感をもつひとも多いかも知れないが。

 

なぜオタクが現実社会に背を向けたのか?そして自分たちの世界に閉じこもったのか?趣味として好きだから自ら飛び込んだひとたちもいるだろうが、多くは現実社会に馴染めなかったがゆえに自分の世界に閉じこもらざるを得なかったひとたちが自然に肩寄せ合って集まったという一面がオタクのコミュニティには確実にある。「敵に回すと恐ろしいが、味方にすると頼りない」とか揶揄されるネットのオタクコミュニティの団結力の脆さの原因はこんなあたりにあるのだろう。

 

あの花の主人公のじんたんもテレビゲームはするもののそれほどのめりこんでいるようには全く見えない。ひきこもりでやることがないから、逃げ場のひとつにテレビゲームがなっているだけに見える。だが、一般世間からみたらオタクとしてひとくくりにみなされるようなそういう人間だろう。

 

友達をつくるコミュ力に欠けていた。いじめにあった。学校の勉強にまったくついていけない。家が貧乏で学校の友達との付き合いができない。現実社会でうまくやっていくのは大変なストレスだ。ひきこもりまでいかなくても、その予備軍まで含めると、主人公じんたんの境遇に何らかの共感を持つひとはとても多いのだろうと思う。そういうひとたちの悩みの逃げ場所として、アニメやゲームなどのオタク趣味が機能していることは間違いない。

 

そういうひとたちにどういう夢を与えてあげればいいか?どういう救いをアニメで見せることができるのだろうか?

 

映画モテキのような実写と違い、アニメの場合は現実とは異なる別世界をつくるのが比較的容易だ。実写だとどうしても現実の影が濃すぎて、ファンタジーな世界に入り込ませるのが難しい。実写だったら荒唐無稽な恋愛でもアニメだったら信じられる。

 

だから、三次元の女性なんて信用できないし不要、二次元の女性だけでいいという自分が見る世界を現実から完全にアニメ側に変えてしまうような入り込み方をしているひとも多く、また、そういうひとたちの需要を満たすことが商業的にも一定の成功を保証する安全な道である。そして、あの花にもそういう現実を置換するファンタジーを与えるという要素は存在する。ただし、あの花で見せるファンタジーは現実からそっぽを向いた荒唐無稽なものではなく、現実をある程度、直視したうえでのささやかなものだ。

 

まず、ヒロインがゆうれいであって現実にいる女の子でないというのが謙虚さの第一歩だ。また、幼なじみもあだ名がちょっとエロい「あなる」になっているというのがポイント高い。こういう設定だったら女の子と冗談いいあえるかもと思わせるあざとい小技になっている。さらには主人公はなにか特別な能力はもっていないただのひきこもりである。あるのは隠された能力ではなく、昔のオレはちがったという思い出だけである。たいていのひきこもりのひとも記憶を辿れば生まれてからずっと世間から疎外されていると感じているひとは少数だろう。ほとんどのひとには記憶の彼方にはもっとちがった過去があったはずだ。そして現実にいるという設定の幼なじみからの求愛すら受け入れずに幻覚のような死んだめんまの影にとらわれる道を選ぶというのは、もはや三次元の彼女なんて必要ないし、期待しないという態度に呼応する。つまり恋愛物語としてのあの花は、ヒロインはちゃんとした人間じゃないかも知れないけど、二次元の彼女で自分はかまわないんだという主人公が宣言をする非常にある意味リアリティのある謙虚な話になっているのだ。

 

また、主人公が恋人と同じぐらいに切望しているのは仲間である。あの花は恋人とともにともだち:仲間ができる物語だ。仲間との絆を描いたマンガとしては、リア充も大好きなワンピースというのがあるが、あの花と比較すると同じ仲間の大切さを確認するテーマがこうも違った形であらわれるのかということが興味深い。箇条書きで比較してみよう。

 

・ ワンピースの仲間は主人公と出会って仲間になる。あの花の仲間は主人公と出会うわけではない。もともと主人公の仲間だったけど離れていったのが戻ってくる。

・ ワンピースの仲間はそれぞれ自分の夢をもっているが主人公の夢のために命をかけて助けてくれる。あの花の仲間は主人公の夢が自分たちの夢と同じであるということに気づいてくれる。

・ ワンピースの仲間は主人公の敵として戦うこともある。戦いの中でもお互いを尊敬し友情を育んでいく。あの花の仲間が主人公と喧嘩することはない。主人公が一方的に傷つけられる。思いがけずに一方的に傷つけるかである。喧嘩で反省はしては相手を尊敬したりはしない。

 

ワンピースも過酷な現実で生きる読者に勇気を与えるマンガだが、きっと本当に信じられると思っている友達が現実にいるひとたちが共感しやすいのだろう。あの花のじんたんは人間関係において恋愛だけじゃなく友達すら期待していないぐらいに現実に絶望しているのだ。

 

実際にあの花は物語に構造とは裏腹に最後まで本当に超平和バスターズの固い友情が復活したという印象は与えない。基本はじんたんとめんまの物語であり、そのほかの仲間はふたりを見守ってくれるようになったというだけの話なのだ。

 

あなるは結局ほっとかれる。これは三次元の女性に対する復讐のあらわれにもなっている。そしてイケメンゆきあつの扱いがもっとも酷い。女装趣味という設定にされた上に、一番、好きなめんまはじんたんにとられた上、めんまに相手にされないあなるとすら付き合うことはできない。イケメンなのに二重にじんたんに敗北をさせられる役回りだ。そして結局くっつくのはずっとゆきあつを好きでいてくれたメガネ女つるこである。ようするにおまえは好きな女とつきあう資格はない。つるこがお似合いだということだ。これがリア充社会への復讐でなくてなんなのか。

 

また、多くのアニメで主人公はどうみても自分勝手なんだけど、ヒロインからはどうして他人のことばっかり考えて自分のことを考えないのとか説教されるシーンが多くある。あの花でもそうだ。これはなぜなのかをずっと不思議だったのだが、直接の理由は、そういう風にいわれたいと思っているアニメファンがいるということだろう。なぜなかを考えると、これは恋人も友達もいない人間の思考パターンじゃないかと思う。架空の理想化された恋人に対して自己犠牲の妄想を繰り返しているからではないだろうか。

 

まあ、このように、あの花はじんたんのように人生を諦めかかった人間の心にも届く作品なのだ。

 

しかし、一方、これは非常に深い心の闇にまで踏み込む作品でもあるということになる。

 

前半のクライマックスのじんたんのお父さんのハゲがなぜ必要だったか。登校拒否するじんたんを無理矢理登校させるわけでもなく、かといって無視するわけでもなく、ちゃんと見守っていてくれる。これはじんたんに共感するひとの共通の願いだ。きっと実体験においてもみんな思い当たる部分があるのだ。この部分に強く反応したひとは多いはずだ。こういう父親であってくれたら。ただ、ここは非常に危険な心の領域に踏み込むことだ。そんな単純な慰めを与えられてもそうそう簡単には心を開きたくない。そういう部分に立ち入る話なのだ。だから、深刻になる前にお父さんのハゲで空気を一挙に変えて笑い飛ばしてごまかす。それがおそらく見るひとの心を癒やす最高の手法だったのだろうと思う。

 

善意からじんたんに登校するように強くいうめんまも途中からはいわなくなる。いうのは簡単だし、自分のことを心配していってくれているのは分かるけど、どれだけその本人にとって登校するのが大変な苦痛かを他人は実際には知ることができない。めんまはそこまでも理解してくれる恋人なのだ。

 

あの花が素晴らしいのは、アニメとしてよくあるような現実逃避のうそだらけのファンタジーを与えるのではなく、ちゃんといまのアニメの枠組みの中で精一杯に現実と向き合う作品を作ったということだと思う。ファンタジーがないわけではない。それは救いでもあるから。そして他人事だからいえるような無理な説教をメッセージとして垂れ流すのではなく、たんに現実の苦労、悩みをさりげなく描写してみせた。そういうところではないかとぼくは思う。

 

・・・・・。

 

 

と、まあ、あの花を見て、こんなことをつらつらと考えてしまったのにはもうひとつ個人的な理由がある。

 

いま、スイスに住んでいる姪が3人日本に遊びに戻っている。7歳と5歳と4歳の全員女の子だ。妹は米国人と結婚したので、3人とも日本語と英語を話す。どちらかというと英語が母国語だ。ところが仕事の関係で2年前からスイスに引っ越したのである。スイスの中でドイツ語圏の地域である。母国語が2つあるというのは実は子どもにとってはかなり大変なことだ。どちらも中途半端になる。彼女たちは英語のほうが得意だが、同年代の英語圏の子どもほどは語学力はない。かといって日本語は字も読み書きできない。それがドイツ語しか話さないひとたちが住んでいるところに引っ越しをするというのはどういうことか。

おしゃべりで活発な長女はあっというまに暗くなった。友達がいっきょにいなくなったのだ。もともと人見知りだった次女はほとんど自閉症気味になった。2年たった今は、長女はやっと現地でも友達ができたようで明るさを取り戻したが、次女はいまだにドイツ語はひとこともしゃべらない。子どもながらに絶対にしゃべらないと固く決意しているのだ。そして2年間のうちの大きな変化がひとつ。みんな携帯ゲーム機をかたときも離そうとしない。おそらくあの使い古されたNintendo DSによって彼女たちの心はこの2年間どれだけ救われたことだろうか。でも、とりあえず日本にいる間はできるだけとりあげることにした。

もうひとつ思ったのは、彼女たちは、まだ姉妹3人でいたからこそ頑張っていけたのだと思う。

日本のひとりっこが社会に疎外されたらやっぱりきついよね。日本語が通じるからといっても、だれとも会話しないまま帰るんだったら、通じないのといっしょだ。そんなやつは、ぼくの同級生の中にもいた。ひとりっこだったら、家に帰っても逃げ場はない。

 

そんなことをあの花を見て思ったのだ。ぼくがここで書いたあの花のまわりにコーディングされた美しい物語もそれはそれで素晴らしいものだけれどもね。

 
 

オタクの恋愛というテーマのリアリティ(モテキ編)

いまさらではあるが、最近、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」(通称”あの花”)という去年のテレビアニメシリーズと、「モテキ」という、これも去年に公開されてヒットした映画を見て、いろいろ思うところがあったので書いてみる。

 

このふたつはアニメと実写という違いはあるが、オタクの男の子の恋愛という同じテーマを扱っている。違うという人もいるかもしれないが、そういう理解もできるんだから、しょうがない。

 

およそ古今東西の物語というものは所謂”お話”であり、とどのつまりは主人公が読者が羨ましがるような突然の幸運に出会う話だ。ストーリー自体が悲劇であってもこの場合は関係ない。読者が自分の暮らしている日常と比較して刺激的であり、物語の登場人物のだれかに感情移入できるのであれば、それは読者が心の中で望んでいる羨ましい世界なのだ。

 

だから、なんの努力をしなくても主人公に女の子がよってきてハーレム状態になったとしても、そのこと自体は非難には値しないだろう。裏の畑で犬が鳴くので掘ってみたら大判小判がざっくざく出てきたという話とおんなじだ。

 

むしろ、どういう幸運であれば、いまの時代の人々が感情移入できるようなリアリティを与えることができるのか、それを探り当てることが、それぞれの時代における物語の作り手の使命になるのだと思う。

 

翻って、「あの花」と「モテキ」のふたつはどちらも2011年に発表されたヒット作品である。だから、今の時代のある一定の人々にリアリティのある幸運を見せることに成功した作品だといえるだろう。

 

どちらの作品も多くのひとが感動して絶賛した物語だ。それはどのような人々にどのような幸運を見せたのか?

 

まずは物語の構造がわりあいに単純な「モテキ」から見ていこう。

 

実は、昨日、Playstation Storeでレンタル購入して見たばっかりなのだが、すでに登場人物の名前をまったく覚えていない。面白くなかったといっているわけではなく、むしろ逆なのだが、ぼくは人間を識別し、名前を覚える能力に激しく欠けるのだ。正確にいうと、登場人物の名前を忘れたのではなく、昨日みた2時間の間に覚えることができなかったのである。

 

ということで登場人物はすべて記号で説明する。

 

主人公:A君

ヒロイン:長澤まさみ

ヒロインの友達:B子

飲み屋のねーちゃん:C子

主人公の上司:社長

主人公の同僚:D子

ヒロインの彼氏:E君

 

主要登場人物はこの7人だ。簡単にいうと、モテキはつぎのような話だ。

 

ーーー モテキのあらすじ ーーー

 

ネットと音楽が趣味で童貞のA君の前に突然長澤まさみが現れる。彼女は彼氏がいるらしいにも関わらず、A君に気のあるそぶりをみせて、A君は動揺する。何度もエッチもできそうな雰囲気になるが寸前で邪魔がはいって果たせないのはお約束。長澤まさみが自分のことをどう思っているか気になってしょうがないA君は、長澤まさみの友達のB子とも仲良くなり、好きだと告白されて、まず、B子とやってしまう。でも、本当は長澤まさみのほうが好きなんだといって、B子を振る。ついでに気をひこうと、B子とやったことを長澤まさみに言う。そこで長澤まさみの彼氏E君が登場。イケメンで仕事もできるE君を見て、A君はとても敵わないと諦めかけるが、実はE君は妻子がいて長澤まさみとは不倫をしていたことが分かる。A君は長澤まさみを不幸せにするなとE君に一喝する。で、だったら、オレのほうがふさわしいじゃんと、再度、長澤まさみにアタックするが、A君とじゃ自分を高められないからダメだ、みたいなことをいわれて振られる。そこでラストのクライマックス。E君はA君にいわれたことを反省し、妻と話し合って別居することにしたから一緒に住もうと長澤まさみと告げる。問題解決じゃんと思っていたら、その場にA君が登場する。長澤まさみ逃げる。A君追いかける。逃げる。追いつく。E君もおっかけてくる。E君に見せつけるようにA君は長澤まさみと濃厚なキス。延々とキスシーンでそれがそのままラストシーン。めでたしめでたし。

 

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基本の筋は以上だ。あ、社長とC子とD子がでてこなかった。主要登場人物はA君と長澤まさみとB子とE君の4人でしたね。

 

さて、モテキがリアリティのある幸運として、視聴者に受け取られるためにはなにが必要だったのだろうか。

 

まず、ざっとあらすじを見て思うのは主人公のA君はかなりサイテ−な奴でありしかも格好悪いことだ。ポイントはこのかなりサイテ−で格好悪いA君に対して、視聴者が共感したということである。A君のことを自分自身と似ている部分があると思わせることに成功したということである。そしてそのためにはサイテーで格好悪いことが障害にはならなかったばかりでなく、むしろ必要だったのだ。

 

主人公A君のような女の子と縁の薄いオタクにとってのリアリティのある幸運な出会いの物語を設計するとはどういうことか。

 

まず、A君は女の子と話すことが苦手であり、女性経験が少ないので、会話もできなければエッチにも自信がない。これらの障害を解決しないとリアリティのある出会いにならないということだ。

 

どうするか。まず、女の子を自分から口説くというのは現実感がない。だから、女の子は向こうからやってこないといけない。そして出会っても、なにを話していいかわからないから、自分と趣味がたまたま同じでなければならないだろう。そして仲良くなっても、どうやってエッチに持ち込んでいいかが想像できないから、向こうから誘ってくることが望ましい。モテキの長澤まさみはまさにそういう風に設計されている。

 

ここで問題がひとつ生じる。この場合、たしかにA君にとっては長澤まさみは都合のいい女であるが、これって、物好きなビッチと出会ってエッチをさせてもらえただけという話にならないか、ということである。そうなると、物語にでてくる社長やD子のようなA君を童貞と馬鹿にするリア充たちのコミュニティにやっと最下層民として仲間入りさせていただいたというだけの話であり、まったく爽快感にかける。やはり社長やD子たちの価値観よりもA君のほうが優れていて一発逆転みたいなストーリが求められるのだろう。

 

そうすると物語に以下のことが必要になる。

 

・ 長澤まさみはビッチだとしても、一番好きなのはA君でなければいけない。

・ 長澤まさみのビッチに見える行動は、実は彼氏には奥さんも子どももいて不倫関係であり傷ついていたからだという言い訳を用意する。

 

これでヒロインとの恋愛を純粋なものにする基本条件が整った。

 

さて、次は、共感を得やすいようにダメな人間として設定された主人公はいったい魅力がある人物になるのかという大問題だ。

 

なにしろ基本もてない人でも共感できるように設計されている主人公だけに、そのままでは確かにもてないよね、みたいな人間にしか見えない。もてない人間を正直に描写してもてるように見せるというのはハードルが高いというか基本的には矛盾することだ。視聴者の理想の人間ではなく等身大の人間として主人公を設定した以上は解決が難しい問題だ。

 

だから、いや、魅力的に見えないのは気のせいです。みなさん、この主人公を魅力的だといっていますよ。と一般常識のほうを改変して、理由や根拠の説明はできるだけ避けるというのはやむをえない戦略になる。だから、次のような設定が必要になる。

 

・ 長澤まさみだけでなく、彼女の友達のB子もA君を好きになる。

・ 社長につれていかれた飲み屋のねーちゃんC子がA君のことを需要があると断定する。

 

A君がなぜもてるのかじゃなく、A君はもてるんだなと事実だけを見せつけるという作戦だ。

しかし、A君はそもそも女の子と縁がないから、どういう人間にもてさせれば説得力があるだろうか。

よくアニメだとB子は幼なじみという設定が使われる。また、アニメだと職場の同僚であるD子が実はひそかにA君のことを好きだったというのもありそうな設定だろう。でも、これはアニメだから通用する手法だ。アニメはやはり世界全体がファンタジーに見えるからだ。

 

実写だと、やはり、アニメほどファンタジーな設定に説得力を持たせるのは簡単ではない。現実との比較をどうしてもしてしまうからだ。現実にいるA君のようなひとはまわりにまったく女っ気がないことだろう。そして幼なじみや職場の同僚の女の子がたとえいたとして、彼女たちが実はオレのことを好きだ、なんていうのはありえないというのは皮膚感覚で理解しているはずだから、どちらの設定も説得力に欠けてしまう。だから、モテキにおいてB子がヒロインの友達として設定されているのは正しい選択だと思う。長澤まさみもB子もどちらも向こう側の人間でなければならないのだ。

 

長澤まさみがどこからともなくやってきて、自分に好意を持つ。それだけでも現実的にはありえない話であるが、彼女が来た世界にいるB子まで自分に好意を持つとしたら、話はちょっと変わってくる。自分を好きになってくれるかわいい女の子が突然変異的にどこかにいるというより、どこか知らない世界に自分を好きになってくれるような価値観のあるところが存在するという話である。こちらのほうがリアリティを持って、理解しやすいのだ。価値観自体が変わる世界があるというのではないと、現実には自分がかわいい女の子には持ててないという事実からくる常識を打ち砕くことが難しいからだ。

 

さらに主人公はもてていますよーという説得力を補強する方法としてC子の登場だ。たくさんの男を見てきたはずの水商売の女性に、君みたいな男って需要あるよ、と断定されれば、意外とそういうもんかなと思うだろう。それはきっとA君に共感する全国のもてないお琴が潜在的に思っているし願ってもいることだからだ。

 

こういうふうに理屈ではなく、状況証拠で主人公の魅力があることをまわりから証明していくしか、現実問題として説得力ある主人公の魅力を表現することは難しいだろう。ただし、間接的な状況証拠だけでは、説得力のある恋愛ドラマはつくれない。多くの恋愛もので主人公の最大の魅力であり武器となるのはやっぱり一途な恋心なのだ。むしろ一途な恋心が報われるという部分がないとほとんどの恋愛物語は成立しないだろう。だから、主人公は一途に長澤まさみを好きでありつづけなければならないのだ。

 

ここでもうひとつ問題が生じる。オタクが一途にだれかを好きになるというのを想像すると一般的にはキモイし、ストーカーみたいに見えてしまう恐れがあるという問題だ。これを解決するためにA君はもB子とやらなければならなかった。長澤まさみだけじゃないよというアリバイづくりである。こうしてA君は長澤まさみを想い続けているんだけど、他の女にももてるし、一回ぐらいは他の女ともエッチまでやってしまうという説得力があるんだかないんだかわからない設定が必要になる。

 

さて、こうして、一応、仮にA君が純粋に長澤まさみのことを想い続けているんだという設定で主人公の魅力を伝えた場合に、B子も純粋にA君のことを想い続けているんだから、彼女の扱いをどうすべきかという問題が生まれる。「つうか、A君はB子と付き合えばよくね?」問題である。

 

やはり恋愛物語としてA君の一発逆転ドラマにするためには本命の長澤まさみ以外と付き合うことはありえない。それはA君の長澤まさみへの純粋な思いに共感している視聴者の感情移入への否定にもなる。A君に共感するようなひとは、もし自分に彼女ができたら絶対に大切にするのにと脳内彼女への純愛を妄想して自分のアイデンティティを安定させていることが多いので、恋愛において妥協することは自分の普段の価値観の否定にもつながってしまうのだ。

 

ところが自分の秘めた一途な空想の彼女への愛情を大事にするという結論は、同様に、B子の一途なA君への気持ちは踏みにじってもいいのかという疑問に容易に転化してしまう。これは困った。A君がB子を振ってもかまわないということは、逆にA君も長澤まさみに振られてもしょうがないということだからだ。自分の気持ちのほうが他人のB子の気持ちよりも大事だよね、というのは説得力があるにしても、後味が悪いので、もうすこし別の理由が必要だ。

 

そのためにB子はA君に振られたあとに社長とエッチをするという役回りを演じさせられる。まず、そこでB子の純愛さに疑問符をつけさせられる。さらに振られたときにA君にくいさがる態度がいかにもめんどくさそうな女である。ただ、このあたりではA君も大概ひどいのでお互い引き分けにしかならない。むしろお似合いだ。そこでB子を振るための決定打となるのは、オタク的感性の違いである。つまり長澤まさみのほうがかわいいからでも本命だからでもなくオタク的感性の違いから、B子を選ばないんだというわけだ。主人公の務めるのは現実にも存在する音楽サイトのナタリーだ。ナタリーで紹介されているような音楽好きのひとが聴きそうな音楽の話題に興じるA君と長澤まさみに対して、B子の好きなのはB'zである。この理由でB子はA君に振られてしまうのだ。この映画の世界観において音楽をわかっていないひとの好きな音楽の象徴として楽曲の使用許諾をさせられたB'z側は怒っていいと思う。まあ、オタク的でない一般人のための音楽という解釈も可能だが。

 

さて、最後に残ったのは、長澤まさみのほうは本当にA君のことを好きなの?問題だ。

 

これについては理由はともかく本当に好きなんだということだけを状況証拠で証明して押し切るという基本方針はやはり等身大の主人公を使う以上はやむをえない。

 

そのために長澤まさみは妻とは別居するとまでいってくれた本命のはずの彼氏を振ってA君を選ぶ。その際に、長澤まさみがわがままな女とならないように彼氏は離婚まではせずに別居であり、子どももいるという設定が芸が細かい。

 

また、長澤まさみに、A君と付き合うのはメリットがないとはっきり言わせるのも最終的にA君を選んだのが愛情が理由であるということを強調するためだ。最後の彼氏の目の前のキスシーンも理屈じゃなくて感情的にA君を好きなんだということを表現するためだ。

 

このようにしてモテキはオタクにもリアリティのある恋愛物語として受け取ることができるように設計されている。

 

ただ、モテキは実写でもあり、オタクではないひとにも受け入れられたのだろう。また、そのようにも設計されている。長澤まさみが主演だし、オタク的趣味の題材として”音楽”が選ばれているのもその現れだ。

 

これがアニメとなるとどうなるか、というわけで本題の「あの花」に移ろうと思ったが、気力も尽きたので、箇条書きにて終わらせる。

 

・ 同じ仲間というテーマについて、ヤンキー文化の「ワンピース」とオタク文化の「あの花」との対称性が興味深い。

・ ワンピースではそれぞれの道を歩む仲間が主人公の元に集う。あの花ではそれぞれの道を歩んでいた仲間が、主人公の元に戻ってくる。

・ Fateでもそうだったが、なぜ、こういうアニメでは別に他人のことを気遣わずに自分のことしか考えていないようにしか見えない主人公に対して、女の子が、他人のことばっかりじゃなくて自分をもっと大切にしてよと、一見、意味不明の説教をするのか問題。

・ 結局、なにに感動するのか、どこに感情移入をしているのかについての推測

・ モテキもそうだけど、一途な気持ちの価値が高くなる構造について。

・ 一人っ子の問題。

 

気力が復活すれば、「あの花」編で。

 

以上