私は、人間は進歩しないものだと思っています。

”私は、人間は進歩しないものだと思っています。”

そういう書き出しではじまるすごい文章が、壁に貼られていると、昨日、まわりのひとに教えてもらった。

どこに貼られているか?

現代美術館で昨日からはじまった特撮展のある一角の壁だ。

だれのことばか?

ウルトラマンなどのデザインをしたことで知られる彫刻家の成田享というひとだそうだ。ぼくは初めて知った名前だ。


最初の2行だけ引用する。


 私は、人類は進歩しないものだと思っています。進歩しないで変化してゆくものだと思っています。職を求める為に働き、恋に喜び、失恋に泣き、友と語り、嫌な奴と働き乍ら、一人一人は成長してゆきますが、人間そのものはメソポタミアの文明開化以来同じことをくり返しています。
 しかし科学は進歩します。日進月歩、昨日のものは無価値です。科学技術の進歩は生活を変えます。革新的な技術の発達の中で、人間は人間全体の発展進歩だと錯覚して、ボケてゆくのです。営々として生きる本来の人間の姿を忘れてゆくのです。


この檄文の全文は特撮展で読んで欲しいが、もともとは「みやこさろん」という都ホテルチェーンが出しているらしい小冊子に1990年に載った文章らしい。

なぜ、そんなところにこんな文章を載せたのか。なぜ、特撮展に展示されているのか。本人はとっくに亡くなっているから遺族の意志なのか特撮の関係者のそれか。

ただ、ウルトラマンのデザインをした成田享という人間が自らを芸術家であり、彫刻家であると考えていたひとであることは間違いない。そして人間の本質を考え、芸術の高みを目指した人間が人間は進歩しないと断じているのだ。

そして人類の進歩と人間自身の進歩を無邪気に信じるわれわれに警句を鳴らしている。

面白いではないか。

信頼関係を築けるひとと築けないひと

ぼくがどういうひとと付き合いたいか、付き合っているか、を考えてみた。

 

人間関係の基本はお互いの信用にある。どこまで相手が自分を信用しているか、逆に自分が信用するかを値踏みすることになる。

これは意識的、無意識的を問わずにすべての人間がやっていることだ。

 

ぼくが仲がよくなるひとには、なぜか世間的には信用できないひとである、とか思われていることが多い。

 

そういう一般的に”難しい”ひとと付き合えるのはひとえにぼくの優れた人格の賜物であるとか以前は思ったりもしてたのだが、そういうわけでもないなといつの頃からか考えるようになった。

 

世間で油断ならないとか、自分のことしか考えないとかいって非難されるタイプの人には共通項がある。他人を信用しないということと、もうひとつそれを態度に出しているひとであるということだ。

 

他人を信用しないだけならともかくそれを態度にわざわざ出してしまうというのはどういうことか。それはそのひとが本当は他人を信用したいひとであるからに他ならない。本当は他人を信用したいのに何度も騙された結果、人間不信に陥ったのだ。そして人間を信用したいのに信用できないことに不満をもっている。それが他人を信用するまいという態度をわざわざ外に出すというかたちであらわれるのだ。

 

そういうひととは最終的には仲良くなれることが多い。結局はだれかを信用したいとまだ思っているからだ。

 

本当にやばいひとはもっと人当たりがいい。他人は信用できないという”悟り”を開いたひとたちだ。もう、完全に割り切っていて他人を信用しないことが当然すぎて疑問をもっていない。他人を信用したいという気持ちはあるとしてもずっと深くに沈み込んでしまって届かない。

 

そうなるとどうやっても仲良くはなれない。

 

さて、人間関係でお互い信用するというのは2種類の違った切り口がある。それは自分が困ったときに助けてくれるというある種の運命共同体としての絆を信用するということと、利害関係的にお互い組んだほうが得であるという価値観の共有を信用するということのふたつである。ぼくが仲良くなれないひとでも利害関係での価値観の共有はできるし、信じることもできる。

 

感情的に人間が求めるのは当然、運命共同体的な絆のほうである。もうひとつの利害関係における価値観の共有を信じるというのは理性的なものだ。

 

この両者は切り口としてはほとんど正反対だが、実際にはこのふたつが入り組んで絡み合っているのが人間関係だ。感情が勝つこともあれば理性が勝つこともある。どちらが勝つかも一貫しておらず、都合のいいときに使い分けているのが人間だろう。

 

人間とはそういうものなのだ。感情だけで決めることにも理性だけでも決めるにしても、貫き通すのには大変なエネルギーが必要で、自然にはできない。ここを理解していないと無駄に他人に期待して裏切られたと感じて絶望することになる。

 

そして感情的なものはむしろなにしろ感情だから個人の勝手でありしょうがないもんはしょうがないのだが、理性的なもののほうが価値観が異なることが自分の理屈では納得いかずに感情的なものに転化したりしていろいろとめんどくさい。

 

さきほどいった他人を信用しないで自分のことばっかり考えていると非難されるようなひとたちの場合には、ぼくの経験則だが、非難している側にむしろ問題があることが多い。それは利用しようと思って利用できなかったひとに対して非難していることが多いからだ。多くの場合、自分のことばっかり考えていると非難されているひとのほうが自分の信念と価値観を持って行動していたりする。利用しようとする側はそういうのが自分の価値観では理解できないから、利用できないことに腹を立てる、そういう構図がよく見られる。

 

まとめると、世の中とは、自分の損得だけ考えて他人を信用していない態度をみせるひとが、感情的な信頼関係を本当は求めていたり、お互いの損得だけ考えて他人に近づくひとが感情的に怒ったりする面白い場所だということだ。

 
 

年を取るというのはどういうことか考えてみた

 ぼくは20歳のころから老化による自分の能力の低下に対する恐怖があった。

 

 たぶん、そういうひとはほかにも多いと思う。

 

 いったい何歳まで自分は働けるのだろう。年を取ったときにどれぐらい能力が現実問題として下がるのかということにずっと関心をもって、自分のまわりを観察してきたのだが、現時点での結論を簡単に書いてみようと思う。ぼくの主観的な感覚なので正しいかどうかはわからないし、どの程度、一般性があるのかどうかもさだかではないが、実際のところ、年をとるっていうのはどんなかんじなのという疑問への回答のサンプルにはなるだろう。

 

(1)記憶力

 

 子供の時分から他人よりも物覚えが得意なタイプのひとがいる。ぼくもそのタイプだった。特に努力をしなくてもいろんなことを覚えてしまう。

 テストの点数もそこそこいい。こういうタイプは20歳を過ぎるころから記憶力の低下に苦しむことになる。

 

 記憶力というのは分かりやすい指標なので、自分でも頭が悪くなったと思い始める。

 

 単純な記憶力はやはり年をとると低下していくのは間違いないだろう。気になるのは、これが年齢によってどんどん低下するのか、ある程度、断続的に低下するもので、いったん下がると、しばらくはそのままなのかだ。ぼくの感覚的には20歳を過ぎたどこかで記憶力に質的な変化がおこり大きく下がる。以後はそれほどは下がっていないというものだ。

 

 むしろ20歳以前が例外な期間であり、記憶力については特別なボーナスがあると考えた方がいいだろう。脳がまだ使われていない領域がたくさん残っていて、とても性能の高い部分に記憶を格納することができる。そんなイメージだ。外国語習得でネィティブ並になるためには25歳以前に覚えないと無理だとかいうような俗説があるが、同じような理由だろうと思う。人間が記憶に使うメモリには種類があり、高性能なものは若い自分に使われてしまう。

 

 さて、主観的な記憶力の低下については30歳ぐらいで止まる。30歳以降はエピソード記憶というらしいが、物事をすでに覚えている知識に関連づける記憶が得意になり、記憶力がむしろ再び上昇したような気にさえなる。まわりを見る限り、主観的な記憶力については少なくとも70歳ぐらいまでは問題は起こらないように思える。

 

(2)瞬間的な判断力

 

 ある状況においてなにをすればいいのかを瞬間的に判断する力は、ぼくの見解では年齢とともに上昇する。なぜかというと、しょせん瞬間的な判断というのは過去の経験にもとづくパターン認識によるものだからだ。当然、経験が多ければ多いほど正確な判断をおこなえるだろう。おそらく厳密には反射神経が年齢とともに衰えるように瞬間で判断する時間は年齢とともに増していると想像される。ただし、それこそ反射神経的な速度を要求される判断でなければ、0.1秒の判断に2,3病かかったところで、現実の多くの問題の解決には誤差みたいなものなので、過去の経験による判断能力は年齢とともに増していくと考えていいだろう。

 

(3)理解力

 

 これは、記憶力と関係があり、似たようなカーブを描くというのが僕の考えだ。ただし、単純な記憶力と違って、理解力というのは、物事を関連づけて覚えるということだから、ピークは三十代以降だ。但し、これはいままでの自分の経験からなる記憶に基づく能力だから、理解できるベースのないものは理解出来ない。全く新しい経験の体系を理解する力は二十代以降は急激に低下する。

 

(4)シミュレーション能力

 

 どこをどうしたらああなってこうなるみたいなことを予測する能力はやはり年齢と経験と共に向上する。

 特に人間関係におけるシミュレーション能力と人脈のコンボは老人たちの最大の武器だ。

 

(5)体力

 

 これは、間違いなく低下する。毎年低下する。際限なく低下していく。もう俺も若くないなと思い始めてから、数年ごとに何度も同じことを実感することになる。

 脳の能力とは関係なさそうに見えるが、そんなことなく集中力やどれだけ長い時間働けるかは体力で決まる。元気がなけりゃヤル気もでない。

 中年以降の再就職が難しいのは新しいしごとを覚えられないことと、体力がないから、仕事のアウトプットの量が絶対的に少ないからだ。

 

(6)感性

 

 年を取ると感性が鈍るという。感性が知らない物事に出会った時の新鮮な驚きと定義するならその通りだろう。

 若くて無知な方がなんにでもびっくりする=感性が鋭くなるのは自明だ。

 感性を時代の雰囲気を捉える力と定義するなら、感性は世代ごとにことなるだろうから、同世代を生きている人間の方が同世代の心を捉えることは得意だろう。

 鈍くなるとかそういうものではないと思うが、離れた世代の感性はだんだんと掴みにくくなるのはしょうがない。

 だから、若い感性を維持するというのは若い世代との接点を自分の生活の中にどう維持するかという問題におきかえられる。

 今の日本の文化の大きな流れとしては、おたく文化とヤンキー文化の二つがある。ここ数十年間、世の中の中心を形作ってきたのはヤンキー文化のほうである。

 なぜ、おたく文化が世の中の中心になれないのかについての僕の仮説がある。

 それは世の中で文化を作れる権力を持っている人の若い世代との接点が、キャバクラとかなんじゃないかということだ。

 AKBにせよEXILEにせよ夜の街の文化に強い影響をうけている。

 ヤンキー文化はそういう接点で上の世代のクリエイターに強い影響を与えて主流派になりえたのだと思う。

 

 ひるがえって考えるに、おたく文化の担い手たち側はそういう正のスパイラルが、世代間で働かなかったから、どんどん高齢化がすすみ先鋭化して行ったのではないか。

 

 この構造が正しいとするとおたく文化の昨今の興隆には、ヤンキーたちにもジブリ、ワンピース、モンハンに代表されるおたく文化の一部が浸透してきている点と、ネットを介した新しい世代間交流の仕組みが存在している点は非常に重要であり注目に値するだろう。余談になるが、ぼくはこれらのことから今後の若い世代のオタクがリア充化することは歴史的な必然であり、避けられないと思っている。日本の文化のメインストーリムの担い手が若い世代の感覚をネットを通じて吸収しはじめているからだ。

 

 マーケティングをやる人間にとってはいい時代だ。若い女の子と仲良くなって仕事のふりして「最近、何がはやっているの?」とか聞かなくてもネットを見ていれば若い世代の空気は調べられる。おそらくマーケティングやる人間のプロとしての寿命はネットによって伸びるだろう。

 

 

(7)人脈

 

 人間はひとりでできることには限界がある。そして自分ひとりでできることなんて年齢とともに少なくなる。

 およそ40歳を超えた人間の労働力としての価値はすでに習得した知識か、持っている人脈かの2種類ぐらいしかない。

 そして若くして活躍する経営者とかクリエイターはじじいキラーと呼ばれりして、なんらかの後ろ盾が存在することがほとんどだ。

 この人脈は傾向としては当然ながら年とともに強力になっていくものだが、減少する場合もある。

 ひとつは人脈も自分とともに年をとっていくということだ。自分の仲がいいひとがあまり偉くなっても現場への影響力は逆に下がっていったりする。また、サラリーマンであれば定年があり、そうでなくても一丁あがりとラインを外れていったりする。老いた権力者も最終的に影響力を失っていくのは自分の人脈が引退したり死んでしまうからだ。

 また、もうひとつの留意点としては、人脈とは相互扶助の仕組みだから自分自身が力を失うと自分の人脈も利用できなくなることが多いということだ。

 

 

(8)言語的な表現力

 

 人前でしゃべる能力は、場数で決まるので、場数を踏んだ人生の経験者のほうが一般的に話は面白くなる。ただ、会話において当意即妙な答えを返すという能力は、反射神経的な速度を要求されるので、ぼくの感覚では40歳以降はだんだんと自分の話すのは得意でも相手の話を聞いて適切な答えをリアルタイムで返すという能力はどんどん失われていく。老人はだいたい会話の反応が遅くて、相手の話を聞かないという特徴を共通して持つ。ただ、仕事を現役でやっているひととそうでないひとで結構差がつくというのが印象でひょっとしたら、それは自然淘汰で問題ないひとが残っているだけなのかもしれないが、60歳、70歳でもほとんど問題ないひとは多い。しかし、それでも、だいたい80歳超えると実務的な会話はかなり難しくなるというのがぼくの印象だ。

 だから、会話能力に問題がであると、いくら人脈があっても使えないから現役で仕事をするのは肉体的には80歳が限界かなと思っている。ひょっとするとネットがこの限界を超えさせるのであれば面白いと思っている。

 

 

(9)ギャグの面白さ

 

 それが面白いかどうは別にして、ある単語をなんの関係もない別の意味の文章に結びつけるという典型的なおやじギャクの能力は30歳を過ぎると開花する。これを笑ってもらえるかどうかは人間の能力というよりは偉さで決まる。偉いひとの冗談は人間は本能的に面白く感じるという性質を持っている。おやじギャグを笑ってもらえないことを気にする人はギャグを磨くよりも偉くなったほうが早い。

 

(10)人格

 

 ぼくが人生で出会ったさまざまなひとを観察した結論だが、人間の人格は環境で決定されるので年齢は関係ないというのが結論だ。

 なんとなく物語的には老人というのは賢者であり人格者であり、みんなを導いてくれるものだが、実際は老人でも性格悪いひとは悪いし、人間が円くなるとかよくいうが、それは周りと散々衝突した結果のある意味敗北だったり、体力、気力の低下が主原因で、人格が人生経験により、素晴らしくなるというのは例外的なケースだと思う。むしろ年をとるといまの日本の社会だとひがみっぽくなったりして、より性格は悪くなるという傾向があるように思える。

 

 

(11)客観性

 

 若さゆえのあやまちという。若いと自分を客観的に見ることができず感情のおもむくままに暴走してしまうことがよくある。これは年齢によってどうなるか。自分を客観的に見れるようになるのはだいたい30歳ぐらいからじゃないかというのがぼくの意見だ。

 

 基本は30歳を過ぎてからも向上していく能力に見えるが、老人の独善性をどう考えればいいのかが、まだ、未熟な僕としては判断がつかないところだ。客観性はあるけど、そのうえで、わがままなのかもしれない。

 

 

(12)好奇心

 

 好奇心が強いかどうかは性格に起因するようだが、好奇心の強いひとでも、どうも年を取るとだんだんと好奇心が弱くなって保守的になっていく。好奇心を維持し続けることは本当に大変なことのようだ。

 

 好奇心を年をとっても維持しつづけているひとの特徴は自分が好奇心を持つと決めたもの以外の情報をシャットアウトしていることだ。

年をとっても好奇心が旺盛なひとは同時に飽きっぽいし、興味ないと判断するのも早い。

 

(13)創作意欲

 

 いまのところ僕には創作意欲と年齢の関係はあまりないように思える。ただ、体力的な問題で集中力が衰えるので、ものづくりにかける根気のほうが足らなくなるという現象はあるかもしれない。それと本人がつくりたいものと時代とのマッチングの問題だろう。人間は年をとってもクリエイティブさは全然衰えないというのがぼくの見解だ。それよりも思うのは年齢を問わずに生活が満たされると、創作意欲はなくなるという現象をよく見聞きする。

 

(14)環境による能力の変化

 

 最後に能力の個人差について思うことを書く。まず、最初の就職は重要だ。20代に覚えた仕事のやりかたは一生ついてまわり抜け出せないものらしい。とりあえず僕の場合にも自分の年齢まではまったくそのとおりだ。

 そして仕事を覚える能力だけでなく意欲も20代は最高だ。最初の就職が重要なのは、そこで20代の間に意欲を失なうと、二度と同じような新鮮な気持ちで意欲をもてなくなることになる。若い時に純粋な意欲というものはかけがえがなく、かつ汚染されやすい。

 

 そして経営者でも管理職でもいいが自分の判断で物事を動かせる仕事をすることが非常に重要だ。よく、経営者は孤独だ、とかいう言葉を聞くが、それはたしかに真実の一面ではあるかもしれないが、業界を見ていると経営者は70過ぎても元気で、サラリーマンは60近くになると急激に老け込んでいるのが現実だ。やっぱり孤独だかなんだかしらないが総合的には経営者はストレスフリーであり、健康で長生きする傾向にあるように思う。

 

 経営者でなくても仕事が現役かどうかで人間の能力の低下具合は一変する。やっぱり一線で活躍することが大事なのだ。引退すると老ける。ハッピーリタイアなんて幻想を持っているひとは捨てましょう。

 

 人間は最後の瞬間まで働いていて、そのまま斃れるのが幸せだ。老害上等だよね。むしろほとんどの老人が老害になれずに消えていくのが、いまの競争社会の姿だろうと思う。

 

実際にやっぱり大変なことだよ。年をとってもなお一線でいつづけるのは。

 

 

実録:弥生さんの話

 

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 友達の家の近くにある公園に柵ができていたのです。かなり大きな柵なので公園の向こう半分が完全に覆われていました。

「なんか工事中なの?」

 ぼくは友達に聞いたのです。

「ああ、公園の中にある建物なにかしってる?」

「小屋みたいなの?」

 公園の中央には物置みたいな木造の小屋があります。

「あれ、古代遺跡なんだって。高床式の建物らしい」

 そうだったんだ。

「その割には新しくない?」

「もちろん、復元してるんだけどね」

「じゃあ、発掘作業かなんかの工事やってんの?」

「いや、工事はやってなくて立ち入り禁止にしてるだけなんだよね。人が住んじゃったの」

 おかしな話です。

「人が住んだってどういうこと」

「遺跡にひとがすんじゃったの。あの高床式の建物に」

 ぼくは笑いました。

「なにそれ、つまり、浮浪者かなんかが住みついたってこと?」

「浮浪者・・・まあ、そういうことになるかな」

 友達は考え込んでつけくわえました。

「でも、オレはそのひとのことを弥生さんと呼んでいたんだよね」

「なに、弥生さんって」

 ぼくは可笑しくてしかたがありません。

弥生時代っぽいから弥生さん」

「仲良かったの?」

「いや、話したことはなくて、勝手にそう名付けていただけ。でも、あいさつはしてたよ」

「あいさつしてたんだ」

「弥生さんはねえ、結構、あの遺跡の役に立っていたんだよ」

 友達は少しむきになって弥生さんのことを説明しはじめました。

 弥生さんは、毎朝、6時ぐらいから起きて、公園のまわりのそうじをはじめるのだそうです。だから、公園はいつもゴミがありませんでした。近所づきあいも良くて、いつも元気に通りかかる人とあいさつを交わしていたそうです。だから、このあたりでも人気は高かったはずだと友達は主張するのです。自分の住まいにしていた高床式の小屋もそれはそれは丁寧に使っていたそうです。

「なのに、きっと心ないひとがいたんだよ。だれかが通報したんだと思う」

「まあ、そりゃ、勝手に公園に住んでいたら、いつかは通報されるよね」

「区役所は弥生さんを追い出すんじゃなくて雇うべきだったんだよ。役に立っていたんだもん」

 柵は工事のためじゃなく、弥生さんを追い出して遺跡に入れなくするためだったのです。

「それで弥生さんはどうなったの?」

「追い出されて一週間ぐらいは公園の残った半分にあるベンチにずっと座っていたんだよね」

 自分が住んでいた高床式の小屋を眺めながら、弥生さんは一日中ベンチに座っていたんだそうです。

「もう、いなくなったの?」

「ここ2,3週間は見ないよね。きっと、どっかにいっちゃったんだよ」

「諦めて別の場所を見つけたのか。それともどこかに連れて行かれたのか」

 ぼくは少し悲しくなってためいきをついたのです。

「面倒をみてくれる施設とかにいれられたのかな」

「いや、浮浪者の面倒みてくれるような施設はないでしょ」

「そんなのないのかあ」

「ないだろうね」

 ぼくたちは弥生さんの身を案じましたが、しょうがありません。どうしようもありません。

 Facebookの日記に書きなよと、ぼくは友達に薦めました。もちろん、そんなことをしてもなんにもならないことは分かっていましたが、せめて弥生さんのことをネットの片隅にでも記録として残そうと思ったのです。

 

 それから1ヶ月立ちました。

 

 今日、公園を見ると、もう、柵はとりのぞかれていました。弥生さんが帰ってくることはもうないと区役所が判断したのでしょうか。

 友達はまだ日記を書いていません。

 しょうがないのでぼくがこのエントリを書くことにしたのです。

 

 

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人の心を試してはいけないのはなぜか。

今朝、ラジオで荒井由美の昔の曲を紹介していたひとが、「人の心を試してはいけない」といっていた言葉が心に残った。「それはとても失礼だから」ということらしい。それは感覚的にはとても納得する言葉で、人生を長く生きた人間の重みを感じさせる言葉だったのだが、なにしろ、ぼくは理系人間なので、もうちょっと理路整然とした理屈はないものかが気になったので考えてみた。

「人の心を試してはいけない」

友人や恋人や恩人、はては肉親ですらも人間はつい試そうとする。彼らが本当に自分に抱いている気持ちを確かめたくなる。愛情を持ってくれているのか、本当は自分のことが嫌いじゃないのか、自分を裏切ったりしないかが気になってしょうがない。

気になるから試しちゃうことのなにがいけないのだろうか。

実利的に考えると、他人を試しているのが相手にばれると嫌われる、というのがわかりやすい。
あ、結論がでてしまった。身もふたもない。
付け加えていうと、相手だけじゃなく、自分のまわりからの評判もだいたい悪くなる。これは損だ。

もうちょっと高尚な説明はないだろうか。

類似の言い回しに「神を試してはいけない」というのがある。

これは神が本当にいるならばXXXするはずだ、という前提で行動することだ。神が本当にいるかどうかを試すわけだ。

では、この場合、「神を試してはいけない」というのはなぜだろう。

宗教側の立場からいうと、神を試されて困る理由は明白だ。神が本当はいないことがばれてしまうからだ。無神論をふりかざしたいわけじゃないので、もうちょい表現を変えると、”みんなが想像し期待するような”神はいない、ということが分かってしまう。

「人の心を試してはいけない」理由も同じだろう。みんなが想像し期待するような人の心なんて存在しないことがばれてしまうからだ。あなたが期待する愛情や信頼なんて、相手は本当は持っていない、ということが分かってしまうからに違いない。

まあ、だいたい、そういう疑いを他人にかけて試すようなひとのほうが、相手からみたら裏切りみたいなものだから、言わずもがなである。

人間は他人からは無条件かつ無限な愛情表現や信頼を与えられたいと願うのに、自分が他人に与える愛情や信頼は条件付きであって有限であるものだ。これは人間の心の本質であって、おそらくは本能的なものだから容易には変えられない。

みんな自分にできないことを他人の心に求めているんだから、「人の心を試してはいけない」ということにしないと社会的に都合が悪いのは当たり前だろう。

愛情あふれる肉親や恋人、信頼あふれる仲間なんていうものは自分の脳内のシナプスのパターン上にしか存在していない。神も同じだろう。現代科学の常識から一番矛盾のない神の存在場所を考えると、やはり自分の脳内であるという結論がいちばんしっくりくる。

神も(自分の理想とする)他人も自分の脳内にしか存在しないのである。

さて、そうすると、人間関係で他人を信頼するということは神を信じるのと同じであるという言い方もできるだろう。本当はたぶん存在しないものを信じるということであり、自分の内なる神であり他人を信じるということだ。

ここで人間としてはふたつの道がある。

神も他人も存在しないのだから信じないという道。現実はどうあれ自分の心の中にある神や他人を信じるという道。

少なくとも自分が潜在意識の中で他人に望んでいるのは後者の道だろう。現実のろくでもない自分なんか関係なく自分を受け入れてほしい、愛していてほしい、信用していてほしいと望む。そんな感情を人間は本能として持っている。

だったら、自分自身もまた現実の相手の心なんか、おかまいなしに、相手を受け入れて、愛して、信用すべきだろう。

自分が望んでいる人間関係ってそれでしょ?偽りかもしれないけど、それを本当のことにしたいんでしょ。自分もそして相手も。だったら、そういうことにすればいいじゃない。疑ったらすべてが台無しになる。

「人の心を試してはいけない」

よし、なんか、説明できた気がする。

私を見て欲しい。だれに?

朝、寝ぼけながら考えた。というか、まだ、寝ぼけています。

 

たぶん、ぼくにしては短いブログになる。

 

なんでネットにメンヘラがいるのか。今朝もこの時間になっても寝れないメンヘラが自分を見て欲しいとつぶやいているのか。

 

まあ、だいたいメンヘラってそうだよね。自己承認要求がなんかこじらせているんだよね。

 

というか、クリエイターにそもそもメンヘラが多い。

 

なんでだろ。

 

人間が本能的に自己承認要求を持つのは群れをなす動物だからに違いない。だから、きっと、メンヘラは群れにいれてもらえない叫びを抱えていきているのだろう。

 

群れってこの場合なに?本人がはいりたい群れってどこにあるのか。

 

人間が孤独になるのは群れにいれてもらえないからか、自分が所属すべき群れがみつからないと感じているのかどちらだろう。どちらもあるだろうけど、どちらが先とかあるのだろうか。

 

なんとなく人間の心理状態の遷移を想像すると、順番的には

 

① 群れにいれてもらえない。

 ↓

② こいつらはそもそも仲間じゃない。ほかにぼくの本当の仲間がいるはずだ。

 

という順序のような気がする。

 

うーん。書いてて、やっぱりメンヘラって基本的には群れに所属したいっていう本能が満たされていない症状のような気がしてきた。

 

ネットというのがやばい。遠くはなれたところに自分につぶやきに反応してくれるひとがいて、そこに仲間がいるように感じる。でも、結局、身の回りにいるわけじゃない。ここが健康的じゃない部分だな。

 

クリエイターというのもそうだろう。基本、離れたところにファンがいる。そこが不安定の源になる。アーティストが自分のまわりをファンで固めたくなる心理もそこだろう。自分の群れをつくりたいのだと思う。

 

現代社会の群れはいりくんでいて、遠くにいて、あやふやな存在だから、きっと、みんなメンヘラになる。

 

だから、きっとメンヘラを治すには身近な仲間をつくることがいちばん精神衛生にはいいんだろう。でも、きっとクリエイターがそこを満たされたら、もう、作品なんてつくれなくなるよね。

 

・・・。

 

あんなたいしたこと書いてないな。

 

いいや。もっぺん、寝る。

来月復活するガールズケイリンがヤバすぎる件

このブログもちきりんさんの4倍ぐらい読みやすい文章を書けたらなと思う今日この頃です。

さて、来月、48年ぶりにガールズケイリンが復活する。


まあ、要するに女性選手が走る競輪なわけだが、これが思いのほか面白そうなのだ。

まずはどんな選手がいるのか一覧をみてほしい。


ひとり、なぜか、いや、これはどうみてもおっさんだろうという選手がまじっている。
加瀬 加奈子だ。

いや、まじでびっくりした。ぼくは、昨日、函館競輪の高松宮記念G1を見に行って、
そこでガールズケイリンのパンフレットをもらったのだが、そっちのプロフィール画像はもっと凄まじい。

最初、みたとき、こんな化け物みたいな女がいるのかと驚いたりは全くしなくて、たんに、なんでここに男の写真も載っているのだろうと不思議に思った。

明らかにわざとそういう写真を選んで載せているとしか思えないから、確信犯なのだろう。

なんでも、加瀬 加奈子はガールズケイリンの選手の中でも最強らしい。
女の戦いは見た目でほぼ勝負が決まるというのは競輪の世界でも変わらないということだ。

他にも後閑 百合亜という群馬の選手がいて、もしやと思って聞いたらやっぱり後閑信一いう有名競輪選手の娘らしい。他にもそういう選手は何人かいて、結論としてはガールズケイリンは見た目と血筋が重要ということになる。

さて、このガールズケイリンはルールの上でも普通の競輪とは異なっている。

なんと、他の選手とチームを組んではいけないのだ。どういうことか?

知らない人のために説明すると競輪というのは特殊なレースで、あくまで個人単位で競争するレースなのにも関わらず、他の選手と組むことが許されているのだ。

そこが、同じほ乳類のレースでも人間様よりは知能に劣る動物が走る競馬との違いだ。

どういう選手と組むのかも含めて予想するのが、ギャンブルとしての競輪の楽しみでもある。

このレースごとに臨時にできるチームのことをラインという。通常は南関東ラインとか九州ラインとか出身地ごとにラインを組む。近い地域がいない場合はだれか他の孤独な選手同士で組んだりとか、同期で組んだりだとかする。これはもはや公然とおこなわれていて、スポーツ新聞の予想でも事前に選手のインタビューでだれと組むかというコメントが載っているし、競輪中継でも解説者は当然のように今回のレースのラインを説明する。

ちなみに競輪でラインを組む理由は単純で先頭を走ると空気抵抗があってエネルギーを消耗するからだ。カーレースのマンガでよく出てくるスリップストリームである。だから、みんなだれかの後ろを本当は走りたい。それも早く走ってくれるひとのうしろを走りたい。

そういうわけでスタミナがあって早く走る選手の後ろに背後霊のようにひっつき、寄生だけするのもなんなので、後ろから追い抜いてこようとする別のラインがいたら、邪魔をしてあげて先頭選手を助ける、これが競輪のラインの基本なのだ。

というわけでラインというのは選手同士のある種の談合なのだが、とはいっても本来は競争相手なので、最後はラインにいる選手同士も一着を目指して騙しあうことになる。だから、ラインの後ろの選手は先頭の選手ができるだけ長い間速度を出して先導してくれて、最後はバテテくれるのが嬉しいし、先頭の選手はそうはさせまいと力を温存しようとする。

そういう駆け引きに前回のレースでの選手間の貸し借りや、先輩後輩の人間関係、個人の性格なんかも絡んでくるわけで、そこをふくめてギャンブルとして予想するのがケイリン醍醐味だ。

ところがガールズケイリンではこういったラインを組んだチーム戦みたいな行為が、基本的には認められていないのだ。あからさまにチームを組んだり、相手のチームを妨害したりすると失格になるというのが従来の競輪との大きな違いだ。

というか、国際ルールのケイリンはそうらしい。オリンピックなどのスポーツとしての自転車競技では選手同士が組んじゃだめなのだ。ガールズケイリンは国際ルールでやるということだ。

えーーーー。なんでだよ。国際ルールつまんない。ヨーロッパライン対アジアラインとか、キリスト教ライン対イスラム教ラインとか見てみたいじゃん!米国選手なんだけど今回はヒスパニックラインとか。

ちなみに国際戦ということだと、日韓で年に一回交流レースをやっているらしい。
これがすごくてなにしろ韓国は反日の国。日本に勝つのが生き甲斐みたいなところだから、韓国ラインの団結力はすさまじい。先頭の選手がスタミナ切れになることを覚悟で全力で走って使い捨て、つぎに2番目の選手が同じことやって使い捨てられる。そのつぎ、みたいに2段ロケット、3段ロケットみたいな方法で最後の選手で日本を破って優勝させるみたいな作戦をとってくる。

競輪ファンもわかっているからそれ前提でレースの予想をするからギャンブルとしても問題ないらしい。

そんなんじゃ韓国が有利すぎるだろうと思ったら、まだ、日本の競輪選手のほうが地力で勝っているので、それでも優勝選手は日本からでるそうだ。

・・・・。

やっぱ、国際ルールはあんまり憎しみとか生まないようにラインは禁止が正しいかもね。
 
ガールズケイリンもねー、女同士の談合って怖そうだしね。
    


んじゃーね。